はじめての方へ
|
新規ユーザー登録
ログイン
諏訪大社
神社・仏閣・史跡
文化・町並み
温泉・観光・食
諏訪湖・漁業
自然
工業・機械・電気
産業・製糸
防災・災害
スポーツ
資料・文書
御柱祭
博物館企画展
すべての年代
~明治
大正初期
大正後期
昭和初期
昭和10年代
昭和20年代
昭和30年代
昭和40年代
昭和50年代
昭和60年代
平成
令和
並び替え:
最新順
管理番号順
タイトル順
登録日順
登録リスト(該当:17件)
≪
1
≫
写真
タイトル
説明
登録日
1
隠岐のあごなし地蔵・愛宕地蔵尊
昔、神殿(ごうどの)【大祝居館(おおほうりやかた)、現下諏訪中学校地籍】の西つづきに、犬射馬場(いぬいばば)と呼ばれた練武場があり、武士たちが日々練武に励んでいた。ある日、武士の流矢が隣の空き地で遊んでいた子どもたちの中に飛び込んだ。子どもの泣き声があがり、武士が顔色を変えて駈け寄ると、子どもたちに囲まれて下あごに矢を受けられたお地蔵様が横たわっていた。抱き起こすとお地蔵様の下あごが削れ落ちたという。 村人は、子どもたちの身代わりになられたお地蔵様の功徳に感謝し、馬場に隣接して祠(ほこら)を設け、懇(ねんご)ろにおまつりして「隠岐(おき)のあごなし地蔵」と呼んだ。なぜ「隠岐」とつけたかは明らかではない。
2023-12-03
2
みそなめ地蔵
東山田にある地蔵。地元の人は「みそなめ地蔵」「庄塚のばばあ」と呼んでいる。歯が痛いとき、生みそをお供えすると歯の痛みを抑えてくれるというお地蔵さまで、痛みが落ち着くと地蔵にお茶を備えてお礼参りをしたという。また、咳き込むときには焼き味噌を供えたという。東山田権殿林(ごんどのばやし)墓地上野古田家墓地内に、形の小さい横穴式石槨の一部が露出おり、その開口部に地蔵が半ば土に埋まっている。個人の墓地敷地内につき、参拝には配慮が必要である。
2023-11-26
3
徳本上人名号塔(髙木薬師堂跡)
下諏訪町に4カ所ある名号塔の一つ。 「諏訪藩一村限村地図」にも記されている諏訪百番の西25番札所。明治6(1873)年に念仏堂は、高木学校になりその後下諏訪学校に合併。現在は取り壊されている。 薬師堂にあった石造物(庚申塔・三十三夜供養塔・地蔵尊)は道路わきに移し並べられている。
2022-03-19
4
六地蔵尊
昭和の初め頃まで葬式は野辺の送りなどと言われ、り行列新仏を神輿で担ぎ行列をそろえ上の段の「おまわり場」で旦那寺(だんなでら)の和尚様から引導(いんどう)してもらった。この地蔵様はそこに祀られていたが、葬儀の様式が変わり使われなくなり、若宮墓地への登り口へ移された。
2021-12-23
5
峯見薬師堂
東山田草分けの家が招聘した薬師といわれている。御詠歌に「はるばるとのぼりて拝む峯御堂、朝日なくなく夕日輝く」とある。またお堂の前の石仏には切られ地蔵の伝説も残る。堂の中には「め」という文字が天井や柱のあちこちに書かれてあるという。目の病気が治るよう願を込めたものと考えられている。
2022-03-24
6
かなやき地蔵・来迎寺
来迎寺境内にある銕鐃(かなやき)地蔵にちなむかねと銕鐃地蔵の伝説を大和作内がブロンズ像にしたもの。 かねという奉公娘が弁当を地蔵に備えていたのを主人の妻に叱られ火箸で額にやけどを負わされたが、地蔵が身代わりとなったことで女主人は改心。やがてかねは都に出、和泉式部となったという伝承。境内には地蔵尊が祀られているお堂があり、一年に一度御開帳されている。
2022-03-19
7
法泉寺
福沢山清泰院法泉寺、浄土宗の寺。室町時代に開山されたと伝えられているが、文政年間の火災のため資料を欠き詳細は不明。江戸時代から明治維新までは寺子屋として、明治7年から明治23年までは東山田学校(郷学)として使用された。門前には東山田学校跡、六地蔵菩薩を祀ってある石碑や石佛がある。前を通る道は塩尻道と呼ばれ、中山道の近道として利用されていた。道を挟んで東側を福沢川が流れている。
2022-03-19
8
いいなり地蔵
誰の願いもかなえてくれるというので言成地蔵尊(いいなりじぞうそん)。かつて下社の神宮寺の境内に安置され、善男善女の信仰熱く参詣する人が絶えなかったというが、明治元(1868)年に神仏分離令が公布され、神宮寺が廃寺になったとき、萩倉に移されたが、毎日少しずつ前にあった方に移動するので信者たちは驚き、元の位置に(現在地)に安置しなおしたと伝えられる。
2021-06-23
9
土田墓地の六地蔵
土田墓地の六地蔵。お彼岸の墓参りの前に六地蔵に線香を手向ける人たち。この墓地には鷹や葡萄の画人天竜道人が眠っている。またこの墓地の北側の甲州道中側には石仏(弥勒菩薩像)がある。
2020-03-06
10
樋橋延命地蔵
樋橋地区の入口に建つお堂に延命地蔵が祭られている。この地蔵は昔、和田峠を越えてきた一人の六部(ろくぶ:行者僧)が背負ってきたといわれているが、六部は脇本陣の大黒屋で急に亡くなってしまった。村人は哀れに思い、お堂をつくりお地蔵様をその中に祀りその霊を慰めたといわれている。写真は樋橋延命地蔵の縁日。
2020-03-06
11
かなやき地蔵御開帳
「かなやき地蔵」御開帳。信心深い下女おかねが地蔵尊に救われ、都に上って和泉式部になったという説話が伝えられている。この日一年に一度かなやき地蔵が御開帳になる。
2020-03-06
12
児湯と子宝地蔵
遊泉ハウス児湯。児湯は古くは小湯と書かれ、子宝に恵まれるというので児湯とも書かれた、他の温泉に比べ湯量が少なかったが、よく温まると湯効は早くから認められていた。高島藩主忠虎などもこの湯に入りに来たと伝えられている。綿の湯が閉湯となった時、遊泉ハウス児湯としてリニューアルし温泉の前に昭和63(1988)年4月子宝地蔵が祭られ、パワースポットの一つとして紹介されたりしている。
2020-03-06
13
来迎寺
知恩院を本山とする浄土宗寺院で引接山聖聚院来迎寺という。寺の由緒によれば天文10(1541)年草創という。 来迎寺は明治40(1907)年10月7日の火災で本堂、庫裡を失ったので、翌年東筑摩洗馬村の廃寺を移して庫裡として、昭和11(1936)年本堂を再建(棟梁立石初三郎)、同32(1957)年鐘楼、梵鐘をつくる。同寺の鉄焼(かなやき)地蔵尊とお堂は町の文化財に指定されている。 山門左手前の道路は明治29(1957)年に開さくされた中山道の新道(お花見新道・国道)である。
2020-03-06
14
若宮
富部若宮下の六地蔵様.
2020-03-06
15
下社神宮寺方丈跡の石垣
かつて下社秋宮の東側には下社神宮寺が16200坪とも言われた境内に仏殿千手堂や三重塔、仁王門、弥勒堂、方丈が建立され、たくさんの院坊が付属していた。 明治維新の時、太政官布告明治元(1968)年大政奉還で「神仏判然令」により仏教が排撃を受け、仏像の一部は他の寺に逃れたものもあったが、下社神宮寺は破却されてしまった。 写真は高台にあった下社神宮寺大坊方丈の石垣の跡である。(現言成地蔵尊横の石垣)
2020-03-06
16
金桃の碑と小井川校生徒の延命地蔵
写真左の碑には「名月や虫のひげふる草の上、紫金桃」とある。この右手にあるのは、大正11(1922)年6月22日小井川小学校生徒が水泳中に遭難したため、昭和9(1934)年にその霊を慰めるために建てられた延命地蔵。尚、紫金桃(小口正衛、二代村長、3代町長)の碑は現在赤砂公会所の前に移された。
2020-03-06
17
来迎寺御詠歌講のお年寄り
来迎寺の鉄焼地蔵の前にあった松の木の下で御詠歌講のお年寄り方60人で取った写真。この立派な松も枯れてしまった。(昭和53年記事より)
2020-03-06
≪
1
≫
来迎寺(3)
六地蔵(3)
延命地蔵(2)
いいなり地蔵(2)
若宮(2)
和泉式部(2)
薬師堂(2)
記念写真(1)
御詠歌(1)
鉄焼地蔵(1)
松(1)
小井川小学校(1)
遭難(1)
碑(1)
砥川先(1)
神宮寺(1)
方丈(1)
大政奉還(1)
石垣(1)
富部(1)
若宮下(1)
若宮神社(1)
火災(1)
再建(1)
山門(1)
花見新道(1)
児湯(1)
小湯(1)
綿の湯(1)
子宝地蔵(1)
おかね(1)
地蔵尊(1)
御開帳(1)
来迎寺境内(1)
樋橋(1)
お堂(1)
六部(1)
大黒屋(1)
彼岸(1)
墓参り(1)
線香(1)
天竜道人(1)
神宮寺跡(1)
法泉寺(1)
福沢川(1)
東山田学校(1)
寺子屋(1)
中山道(1)
浄土宗(1)
銕鐃地蔵(1)
地蔵菩薩(1)
峯見薬師堂(1)
念仏堂(1)
高木(1)
石造物(1)
名号碑(1)
みそなめ地蔵(1)
庄塚のばばあ(1)
地蔵(1)
あごなし地蔵(1)
犬射馬場(1)
ログイン
トップページへ