田中忠七 その4
明治7年、横浜で大量の蚕種が焼却される事件が起こりました。忠七さんは上小地域の損害を最小限に食い止めることに力を尽くしました。そして松平家から褒賞を受けています。
事件発生までの経緯を記した論文があります。その一部をそのまま引用します。
「蚕種製造組合会議局の活動 ー 全国的な同業組
織の起源 ー」 栗田敦 より
「明治3年に蚕種製造の規則を目的として制定された蚕種製造規則は4年の改正を経て、5年に各地方に蚕種製造業者の代表である蚕種製造方大総代(政府が給料・旅費を負担)が設置されたことに伴い、再び改正された。また、明治5年11月には蚕種原紙規則が公布され、6年から蚕種に用いる原紙は専売制となった。続いて、明治6年に蚕種製造規則にかわり蚕種取締規則が制定され、「国内用蚕種を不足と見積もったときは、輸出用のものも国内用に振りかえられる」など蚕種貿易に対する規制が強化された。
こうした動きに対してイタリア代理公使のリッタは外務卿の寺島宗則に向けて抗議を行い、明治7年6月に蚕種取締規則の輸出制限に関わる部分は全廃されることになった。その結果、明治7年の横浜には大量の蚕種が集まり、価格は暴落した。この状況を受けて、10~11月に渋沢栄一の提案に基づき、原善三郎ら横浜の売込商を中心とする6人の発起人が44万8413枚の蚕種を買収し、そのほぼ全てを焼き捨てた。」
引用はここまでです。
論文中にある蚕種製造方大総代は上田では藤本善右衛門が務めました。また、蚕種製造規則には世話役、検査人という役割がありますが、こちらは忠七さんが務めています。蚕種焼却が行われた現場は、現在の横浜スタジアムがある横浜公園になります。
参照した論文、文献は以下の通りです。
「蚕種製造組合会議局の活動 ー 全国的な同業組織の起源 ー」 栗田敦
「蚕都上田を築き支えた人びと」
「上田市史下巻」 「信濃蚕糸業史 中巻」
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| 投稿者 | 長十郎 |
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