取材報告 第3幕~上田わっしょい誕生の秘密~
前回は第52回上田わっしょいまで多大な貢献をしていた「Clubわっしょい」について調べたことを綴りました。生演奏、聞いてみたかったなって思います。
さてさて、今回はかなり昔の話。この上田わっしょいが始まった昭和47年の話を中心に色々話をまとめていこうと思います。
この祭りが始まった背景には、上田市の合併がありました。今から55年前の昭和45(1970)年、現在の長野大学や別所温泉がある塩田町が上田市(ただし、川西・丸子・真田・武石は含まない)と合併をしました。この合併により、上田市の範囲は大幅に広がることになりました。その中で市民の声からこんな声が上がるようになりました
「全市民が1つになるような、心が1つになるような祭り行事が欲しいな...。」
「伝統的なものを活かした新しい祭りが欲しいなあ...。」
この声を広い、昭和46(1971)年12月、「市民の祭り研究会」が発足しスタート。伝統を活かした祭りの結論として、「上田祇園祭」との調和をもたらす祭りを企画、それが上田わっしょいでした。
そして、この上田わっしょいの作詞作曲をした人についてはかなり凄い人でした。作詞は伊藤アキラ氏、山口百恵や西田敏行といった昭和を代表する歌手の歌を作詞した人でした。そして作曲は佐藤勝(さとうまさる)氏、昭和を代表する映画「幸福の黄色いハンカチ」の音楽を作曲した人でした。(双方参照:ウィキペディアより)そして、この振り付けを担当したのはヤング101と呼ばれるNHKのスタップ、歌って踊れる精鋭たちが作った振り付けでした。(参照:NHKアーカイブス ステージ101より)今でいう秋元康くらい有名な人だったと思われます。とんでもないですね...。
そして、日にちは7月29日と決められました。その理由としては、上田の天気が最も安定する傾向があるから、という理由でした。
このような背景で始まった上田わっしょい。1973~1977年までの「広報うえだ」の資料を確認したところ、道路封鎖の範囲が徐々に広がっていることが分かりました。最初の頃は昨年と同じくらいの範囲でしたが、その後上田駅前まで貸し切って行うようになりました。
歴史的に見ても、あっという間に参加する人が増えた祭りはなかなかないんじゃないかなって思います。市民の思いを乗っけたからこそ、ここまで広げることが出来たんじゃないかなと思います。
そして、当時の貴重な資料が図書館にありました。それが写真の「上田わっしょいマニアル」でした。この資料は運営に関することそのの流れ、踊る人や太鼓の叩き手、さらには演奏部隊の心構え等を記載した資料になってました。このマニアルが残っているということは、すなわち後世にも残そうとする動きがあったといいきれるでぢょう。
ここまで初期の話をしていきましたが、いかがでしょうか...?上田わっしょい、凄すぎるなって感じたのではないでしょうか???
さて、次回の投稿は、上田市において超有名な映画がありますよね?「サマーウォーズ」、知ってますよね?次回は上田わっしょいとサマーウォーズとの関係について綴っていこうと思います!!
(写真の掲載については承諾済み、上田市立上田図書館所蔵のものである。)
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| 投稿者 | Seven |
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