「糸の町」丸子の製糸工場と用水堰
丸子は明治半ばから昭和初期まで製糸工場が立ち並び、諏訪・上伊那・松本地方に次ぐ生糸の生産地で「糸の町」と呼ばれていた。大正9年には工場数33、釜数4,751、工男515人、工女4,951人、生糸製造高88,710貫を上げた。製糸工場が立ち並び、数多の煙突の上げる黒煙が空を覆う写真が残っている。
丸子のどこに、どのように製糸場が分布していたのか。消長の激しさから生死業とも言われた製糸業ゆえ時期によって異なるため上田小県郡誌、丸子町史等により整理した。
写真の分布図は、上田小県郡誌第三巻社会編395ページから。
製糸工場の立地は、依田川の東岸を南北につなぐ諏訪街道を中心に分布しているが、用水路に沿って立地してことがわかる。その理由について郡誌では「各堰とも水量は極めて豊富であり、水質は鉄分、硅酸、硫酸、塩素などの含有量が少なく、硬度0.65という軟水で、製糸染色等にはきわめて適していて、技術が幼稚な時代でも機関もいたまず、良質なものができたといわれる。」(395P)と書いている。また、初期の段階では堰水に水車をかけ、動力としていたことも知られている。
また、依田社を作り、丸子の製糸業をけん引した下村亀三郎について郡誌では、「当時、諏訪の製糸家が、東信、または関東地方から多量の繭を購入し、大屋から馬の背または荷馬車で丸子を通って昼夜兼行で和田峠を運搬し、更にそれを生糸として丸子の県道を経て横浜に出し、その利益のなかなか多くあるのを知り、諏訪に成立する機械製糸なら丸子でもきっと成立すると考えた」(837P)とその立地の優位性について説明している。
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| 投稿者 | やまさん |
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