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2719諏訪神社諏訪神社JA信州うえだ営農部塩田営農センター近くにある諏訪神社です。諏訪神社は,長野県の諏訪湖にある諏訪大社が総本社となっています。全国におよそ25000社ほどあります。諏訪大社に関係する施設が上田市にもあるとは思いませんでした。2021-05-05
2712龍光院龍光院鎌倉時代に建立された曹洞宗のお寺である。 ここら辺一帯を支配していた塩田北条氏は鎌倉幕府執権の北条氏の血筋であった。 また、山菜料理を提供している。 門には武田氏の御札が貼られているのを見つけた2021-05-05
2677塩田城跡の石碑塩田城跡の石碑塩田城は北条義政が建てたと言われている。 また、戦国時代には武田氏の重要な拠点としても使われていた。その後、上田城が築城されたため廃城となったが攻めづらく守りやすい城である。この石碑は実際の塩田城の少し下に建てられている2021-05-05
2674残照館残照館ここは「信濃デッサン館」という私設美術館を閉館してから出来た場所である。 この残照館という名前は日暮れのせまった道を歩く男の感傷から生まれた館名である。 ここも素晴らしい作品が多いと感じたのでぜひ見に行ってほしい。2021-05-05
2673前山寺の三重塔前山寺の三重塔この三重塔は国の重要文化財である。また、この塔は「未完成の塔」と呼ばれています。 この建物は元々は塩田城の安全を祈る寺としての役割もあったらしいと言われています。2021-05-05
2668無言館無言館太平洋戦争などで戦死した画学生の遺作、遺品が展示されている美術館である。 作品を見ているとなんとも言えない悲しい気持ちになってくるが、ぜひ一回は見る価値はあると感じた。2021-05-05
2622中塩田小学校 盈進学校・本郷学校跡中塩田小学校 盈進学校・本郷学校跡現在の上田市立中塩田小学校の敷地内にある盈進学校・本郷学校跡です。盈進学校は1873年に開校し,1886年から本郷学校になりました。 ぱっと見ただけでは学校の歴史がわからない中,思っていたよりも歴史が長いことに驚きました。 【参考】 上田市立中塩田小学校 「中塩田小学校のあゆみ」 (2009) http://www.school.umic.jp/nakashioda/syoukai/cat19/20090730-114954.php2021-05-04
2604保野公民館保野公民館地域にある公民館であり、通常であればその地域に生む住民の方々に向けたイベントや子供たちを集めてイベントを行っている。コロナ禍前は人が集まっており、じっくり調べてみたいと思い選んだ。このような公民館を見るとどこか懐かしい気持ちになった。掲示板もあり、更新されていればその地域特有の情報が入ってくると思った。2021-05-03
2603保野の市神保野の市神今回の街歩きで初めて発見したが、上田に住んで以来の疑問を解決できる発端になった。保野という地域では、昔に市場が開かれておりその市場ががあった跡である。市神とは市場が安全に開かれるために見守る神様のことである。夏場にこの地域にお神輿があるが、地域の伝統的なお祭りが開かれていることに関連していると思った。2021-05-03
2602上田警察署保野分署跡上田警察署保野分署跡塩田郵便局近くの細い道にある跡である。以前から存じていたが、じっくり見ることはなかったため選んだ。明治時代にこの場所に分署があり、非常に短い期間ではあったものの現在でも跡が残っていることに関心を持った。かなり広い範囲の分署であったことから、地域の住民の方々に密接にかかわっていたのではないかと推測した。2021-05-03
2517上田市 手塚地区について上田市 手塚地区について手塚(てづか)は上田市の西塩田に位置する地区である。付近には独鈷山があり、ため池も多く、別所温泉も近い。 手塚の地名の由来は、伝承によると、奈良時代に塩焼王が反乱を起こして当地に流罪となったが、再び勢力を挙げて反乱を企てたため、最終的に坂上田村麻呂によって討伐され、その塩焼王の怨霊を恐れた当地の人々によって両手を埋葬された事に由来するとされる。なお、この塩焼王の両手を埋葬した場所が、現在も「王子塚古墳」として残っている。 平安時代にはこの地より手塚氏が出て、手塚光盛が源義仲の家臣として活躍した。後に、この手塚氏からは江戸時代に水戸藩に仕えた手塚良仙光照という蘭方医 がおり、さらに、日本漫画界の巨匠である手塚治虫もこの手塚氏の系統だとされる。 手塚の地名の由来にこれほど偉大な歴2021-02-27
2444上田市と岡谷市における蚕業の比較 まとめ上田市と岡谷市における蚕業の比較 まとめ 私は、上田市と岡谷市の蚕糸業の比較として、蚕糸業における様々な施設についてまとめた。その中で理解した相違点や共通点、蚕の今後の展望についてまとめる。 ・相違点  同じ蚕糸業で栄えた上田市と岡谷市だが、上田市は「上田蚕種協業組合事務棟」や「常田館製糸場」の現存から養蚕業や製糸業を行っていたことがわかる。一方で岡谷は、「岡谷蚕糸博物館」に展示されている多数の繰糸機や「宮坂製糸所」の現存から製糸業で栄えたといえる。 ・共通点  岡谷市の工女さんは、1910年には岡谷の人口2万3000人に対して、工女さん1万5000人と65%を占めていた。その後、1930年には岡谷の人口7万6500人に対して、工女さん3万4500人と45%を占めており、工女さん達は岡谷市の支えとなっていた。工女さんは10代半ばから20代前半の若い女性で、重要な2021-02-10
2433第二次農地改革に就て(『西塩田青年団報』第4号(1946年11月25日)1頁)第二次農地改革に就て(『西塩田青年団報』第4号(1946年11月25日)1頁)農地改革に関する記事。 戦後日本で行われた政策のひとつである農地改革の実際の内容を見て取れる。 これにより土地を得た人と取り上げられた人がいることが良くわかる。 農地委員か地方長官の許可がないと取得・取り上げが行えず行政の管理下に置かれている。 ▼この記事は以下から参照できます。 #963 『西塩田青年団報』第4号(1946年11月25日)1頁2021-02-10
2432本秋の麥作に就て(『西塩田青年団報』第2号(1946年9月20日)1頁)本秋の麥作に就て(『西塩田青年団報』第2号(1946年9月20日)1頁)麥作に関する記事。 各農家へのお願いが書かれている。 食糧危機ながらも乗り越え、稲作も順調に進んだとあり、食糧不足に光明をもった様子。 肥料不足は続いている模様。 ▼この記事は以下から参照できます。 #955 『西塩田青年団報』第2号(1946年9月20日)1頁2021-02-10
2431事業部の構想(『西塩田青年団報』第1号(1946年8月25日)2頁)事業部の構想(『西塩田青年団報』第1号(1946年8月25日)2頁)戦後、西塩田青年団報となった。 「事業部の構想」の記事。 終戦後の復興に向けた心構えや意気込みが見て取れる。 食糧不足も続いており、遊休土地の利用や未利用資源の活用などぎりぎりの状況である。 ▼この記事は以下から参照できます。 #952 『西塩田青年団報』第1号(1946年8月25日)2頁2021-02-10
2430農會欄(『西塩田村公報』第11号(1943年11月10日1頁)農會欄(『西塩田村公報』第11号(1943年11月10日1頁)農會欄の記事。 戦況の激化に伴い、輸送船や国内外の食糧が不足していること。増産のための肥料・資材がなくそれでも増産をしなければならないという苦しさが見て取れる。 ▼この記事は以下から参照できます。 #949 『西塩田村公報』第11号(1943年11月10日)1頁2021-02-10
2331昭和二年度西塩田青年団歳入予算(『西塩田時報』第190号(1927年6月1日 4項)))昭和二年度西塩田青年団歳入予算(『西塩田時報』第190号(1927年6月1日 4項)))昭和2年度の青年団の予算が書いてある。 当時はまだ円の価値が低いために、現在よりも格段に小さい数だが、計算方法は現在と一緒である。2021-01-28
2320翼賛壮年圑・青少年圑(『西塩田村公報』第10号(1943年8月25日)3頁)翼賛壮年圑・青少年圑(『西塩田村公報』第10号(1943年8月25日)3頁)翼賛壮年圑:緊急食糧增産確保並労力対策協議会の記事。食糧増産のために中学校から動員するなどの内容。 青少年圑:食糧增産運動の記事。 緊急と名付けられるほどのひっ迫している状態であると考えられ、荒廃地を改善し生産しているがそれでも不足しているのが伝わる。 ▼この記事は以下から参照できます。 #947 『西塩田村公報』第10号(1943年8月25日)3頁2021-01-27
2305九月の增産暦(『西塩田村公報』第10号(1943年8月25日)2頁)九月の增産暦(『西塩田村公報』第10号(1943年8月25日)2頁)農會欄の記事。 以前の記事にも記載されていた気象状況の悪さが影響している。作物の病気が発生しており食糧不足の中でとても厳しい状況になっていると考えられる。 また肥料の不足も起きておりやるべき事が多くなっていると思われる。 ▼この記事は以下から参照できます。 #946 『西塩田村公報』第10号(1943年8月25日)2頁2021-01-27
2302增産の暦(『西塩田村公報』第9号(1943年6月15日)2頁)增産の暦(『西塩田村公報』第9号(1943年6月15日)2頁)生産に関する水利や代作などについての記事。 植付不能地があれば代作の作付や潅水せず抑制はなしにするなどひたすら食糧を作ることをしなければないような状況になっていることが見て取れる。 ▼この記事は以下から参照できます。 #942 『西塩田村公報』第9号(1943年6月15日)2頁2021-01-27
2299六月の常會(『西塩田村公報』第9号(1943年6月15日)1頁)六月の常會(『西塩田村公報』第9号(1943年6月15日)1頁)食糧增産國民皆働ノ件の記事。 中学校や市街地、工場などからも食糧増産のために人が集められていることが分かる。 ▼この記事は以下から参照できます。 #941 『西塩田村公報』第9号(1943年6月15日)1頁2021-01-27
2298農會欄(『西塩田村公報』第8号(1943年5月5日)2頁)農會欄(『西塩田村公報』第8号(1943年5月5日)2頁)食糧増産のための優良種苗の育成などについての記事。 “本年の不順な氣候は全く未曾有のこと…”とあり気候が悪く食糧生産に懸念があることが示唆されている。 ▼この記事は以下から参照できます。 #938 『西塩田村公報』第8号(1943年5月5日)2頁2021-01-27
2297五月の常會(『西塩田村公報』第8号(1943年5月5日)1頁)五月の常會(『西塩田村公報』第8号(1943年5月5日)1頁)農繁期の食糧生産についての記事。 麥(むぎ)や甘藷(かんしょ=さつまいも)の生産量を増やし、農家だけでなく皆で協力して食糧戦に勝とうという内容。 ▼この記事は以下から参照できます。 #937 『西塩田村公報』第8号(1943年5月5日)1頁2021-01-27
2296本村供米-九割-(『西塩田村公報』第7号(1943年3月30日)4頁)本村供米-九割-(『西塩田村公報』第7号(1943年3月30日)4頁)公報左下にあった呼びかけ。 3月であるため米の生産はあまりなく切り詰めて供米していると考えられる。 また呼びかけの内容から国のためと戦争協力していたことが窺える。 ▼この記事は以下から参照できます。 #934 『西塩田村公報』第7号(1943年3月30日)4頁2021-01-27
2295農會欄(『西塩田村公報』第7号(1943年3月30日)2頁)農會欄(『西塩田村公報』第7号(1943年3月30日)2頁)農會欄の記事。 太平洋戦争の開戦から二年三か月ほど経過し、日中戦争からのワード“増産”は変わらないが“決戦”というワードが出始めてきた。 「全村民國民學校を總動員して…」とい内容もあり人手不足も見られる。 ▼この記事は以下から参照できます。 #932 『西塩田村公報』第7号(1943年3月30日)2頁2021-01-27
2291農會欄(『西塩田村公報』第3号(1942年2月15日)2頁)農會欄(『西塩田村公報』第3号(1942年2月15日)2頁)農會欄での“昭和十七年度農業增産に就て”という太平洋戦争の始まりによる食糧確保についての記事。 アメリカとの戦争がはじまり農民には食糧自給から国家食糧の確保という立場に変わり今後の生活が厳しくなっていくことを思わせる記事となっている。 ▼この記事は以下から参照できます。 #924 『西塩田村公報』第3号(1942年2月15日)2頁2021-01-27
2289農會欄(『西塩田村公報』第1号(1941年3月30日)2頁)農會欄(『西塩田村公報』第1号(1941年3月30日)2頁)農會欄における食糧增産推進講習會開催などの記事。 中国との戦争による物資不足が見え始めてきたと考えられる。 ▼この記事は以下から参照できます。 #920 『西塩田村公報』第1号(1941年3月30日)2頁2021-01-27
2236ため池とは?何故塩田にため池が作られたのか?ため池とは?何故塩田にため池が作られたのか?画像は上田市の「舌喰池」 ため池とは、雨量が少なく河川がない地域などで、灌漑用水を確保するために人の手によって作られた池である。また、ため池の多くは江戸時代以前に築造されたものである。 塩田に数多のため池が作られた理由も、降水量の少なさが原因である。しかし、降水量が少ないという事は、晴天の日が多いという事でもある。塩田は気温や肥沃が良好で、用水さえ確保できれば水田農業に適している土地であった。従って、農民達は塩田にため池を造成したのである。 参考文献 ため池のれきし - 信州上田|塩田の里|とっこ ため池:農林水産省2021-01-25
2154「信州上田学」学びの成果発表会(2021/01/24オンライン実施)「信州上田学」学びの成果発表会(2021/01/24オンライン実施)「信州上田学」学びの成果発表会 配布/印刷用PDF 日時 2021年1月24日(日) 9:30~12:00 会場 オンラインライブ配信にて一般公開(メイン会場は長野大学リブロホール) 主催 長野大学地域づくり総合センター 来賓 上田市長(予定)、特別講師 オンラインURL 追ってお知らせします。 プログラム 9:30 開会 はじめに 来賓紹介 9:40 第1部 教員による地域協働型研究紹介 「塩田平のため池群における水資源管理の変遷と新たな利用価値の創出」 報 告 者 高橋大輔 環境ツーリズム学部教授 10:00 第2部 学生発表会 10:05 「信州上田学 A」履修生・市民受講生発表 テーマ 地域探検 信州上田デジタルマップ 10:20 「信州上田学 B」履修生発表 テーマ1.福祉の源流を知る、源流に触れる/農2021-01-16
2119私の『西塩田時報』面白記事ピックアップ②私の『西塩田時報』面白記事ピックアップ②『ムシ歯予防デー(昭和12年6月1日)』通しp732 『ムシ歯予防デー(昭和12年6月1日)』についての私の意見を述べる。『歯の衛生と農村保健運動とは重大な関係を持つて居ります。』という書き出しにインパクトを感じ選んだ。現在の「歯と口の健康習慣」(6月4日~10日)はこの虫歯予防デーが元である。私は予防医療が浸透した時代に生まれたが、予防医療の発達以前はどのような取組み・姿勢だったのか興味がある。当該記事では『病は口より入る』の諺や『私達の病気は口から入つていくと言つてもいい位で、言はば病気の通路みたいなものと言へる』と、概念的に理解しやすいような記述が見られる。2021-01-10
2118私の『西塩田時報』面白記事ピックアップ①私の『西塩田時報』面白記事ピックアップ①『部落ニュース(昭和12年5月7日)』通しp727~728 私が面白いと思ったのは『部落ニュース(昭和12年5月7日)』だ。部落ごとのあらゆる事柄が記録されている。現在でいう町内会単位での出来事が書かれていることにたいへん驚いた。というのも、決定事項や行事に関する事柄についての記録は現在であれば町内会・自治会で共有される枠を超えることは少ないからである。そういった比較的クローズドな記録が西塩田全域で共有されていることに、地域ネットワークとしての西塩田時報の範囲の広さを感じた。また、昭和12年(1937年)当時は戦時下ということで、女性の連帯組織の活動がたいへん多かったのだと分かる。「倉野」の欄には、「女子消防組」や「パン講習」の記録がある。いずれも戦時下での空襲対策や食糧確保の一環としての講習会であろ2021-01-10
2102HOWTO本(『西塩田時報』第31号(1926年6月1日)1頁)HOWTO本(『西塩田時報』第31号(1926年6月1日)1頁)「乳児の育て方」と言うタイトルで、小さい赤ちゃんの様子から、どの様にお世話したら良いのかが細かく書いてあります。 離乳食のレシピや、外出についてのアドバイスなど、 読んでいてとても面白かったです。 「地域の記録」と言うイメージが強かった為、この様な内容の記事もあるのだなと驚きました。2020-12-22
2100驚くべき不正肥料(『西塩田時報』第33号(1926年8月1日)4頁)驚くべき不正肥料(『西塩田時報』第33号(1926年8月1日)4頁)数多くある記事の中でも、タイトルが目についたのでつい読んでしまいました。 「とんでもない成分が入っていて、ぐんぐん育っちゃう肥料なのだろうか」と想像しながら読んだのですが、 書いてあるのは、 「表示されている成分量と、実際に入っている成分量が違う」という「不正肥料」でした。 今も昔も問題になる事は同じですね…2020-12-22
2086太平洋戦争における上田地域の状況太平洋戦争における上田地域の状況上田地域は上田合戦や太平洋戦争など数々の戦いに関わっているが、とりわけ日本の総力を挙げて戦った太平洋戦争では様々なモノ・事・人に影響が出ている。そのような状況を上田地域ではどのようであったのか調査したいと思う。どんな生活だったのか、行政は何をしていたのかなど見ていき当時の戦争を考えていきたい。ネット情報や「西塩田時報」のような資料、国会図書館デジタルコレクション、上田市立公文書館などで戦争に関する資料(農業や徴兵、訓示など)を調べる予定。 「西塩田時報」を中心に調べた結果。 農會欄(『西塩田村公報』第1号(1941年3月30日)2頁) 農會欄(『西塩田村公報』第3号(1942年2月15日)2頁) 2020-12-21
2080上田市の活動について上田市の活動について上田市は、これまで地域のために様々な活動をしてきた十思う。それらの活動を切り取ってひとつひとつ紹介していきたいと考えた。 西塩田時報や市のホームページを参照していきたい。2020-12-21
2072『西塩田時報』第20号(1925年7月1日)2頁『西塩田時報』第20号(1925年7月1日)2頁犬に鑑礼をすることを記事にしており、納税人の便宜上各町村長より交付されることが書かれている。少しクスっと笑ってしまった記事であった。 https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0088.jpg2020-12-20
2071西塩田時報第4号 大正13年4月1日西塩田時報第4号 大正13年4月1日村役場の、土木に関する調査の結果や、小学校で入学した生徒の人数などが記載されている。これにより、この時の西塩田の様子や、どれだけの学生が存在していたかを知ることができてとても興味深いと思う。 https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0022.jpg2020-12-19
2059卒業生の名簿(『西塩田公報』第47号(1951年3月10日)2頁)卒業生の名簿(『西塩田公報』第47号(1951年3月10日)2頁)この記事は西塩田時報に載っていた当時昭和26年3月の卒業生の名前が書かれています。 この記事の面白いところは今では恐らくあり得ないということです。 卒業生の名簿は顔写真が載っていないとしても名前は立派な個人情報です。 今の世の中で例えるならば、新聞にどこの学校を卒業した何組の誰さんと載る訳で様々な親御さんがいる中、このようなことになれば当然のごとくクレームが入るのではないかと思います。 誰でも読むことができる時報に公に個人情報を載せられるのはこの時代だからこそだと思うので、今とは異なるという意味で面白いなと感じました。 ▼この記事は以下から参照できます。 #1124 『西塩田公報』第47号(1951年3月10日)2頁2020-12-16
2058思い浮かぶまで『西塩田時報』第109号(1932年12月1日)4頁思い浮かぶまで『西塩田時報』第109号(1932年12月1日)4頁この記事はどこか悲しい冬の思いを語られています。 幼いときからの思い出など、冬になると思い出し春が訪れるのを待っています。 ▼この記事は以下から参照できます。 #480 『西塩田時報』第109号(1932年12月1日)4頁2020-12-15
2057雑草 (『西塩田時報[戦前]』第30号(大正13年12月1日)4頁)雑草 (『西塩田時報[戦前]』第30号(大正13年12月1日)4頁)この記事は大正13年12月1日に書かれた記事です。 雑草という題名と季節に惹かれて選びました。12月のはじめという冬の寒さを表しており、水槽の水の色も草の色も変わり冬本番を表した記事になっています。 冬の様子や景色など書かれていてとうじの冬を感じられます。 ▼この記事は以下から参照できます。 #62 『西塩田時報』第13号(1924年12月1日)4頁2020-12-15
2055家庭心得帖 (『西塩田公報』第69号(1953年6月5日)4頁)家庭心得帖 (『西塩田公報』第69号(1953年6月5日)4頁)古くなった鏡の手入れや油ビンの洗い方など、日常生活において役立つ様々な情報が書かれている。 また、「ごま汁かけうどん」や「ゆでキャベツのカラシみそ」という美味しそうな料理の作り方まで書かれており、実際に作って食べてみたくなった。非常に読みやすく、家庭に寄り添った記事に興味を持ち採り上げた。 ▼この記事は以下から参照できます。 #1206 『西塩田公報』第69号(1953年6月5日)4頁2020-12-14
2054ビタミンの話(『西塩田時報』第5号(1946年12月25日)3頁)ビタミンの話(『西塩田時報』第5号(1946年12月25日)3頁)ビタミンについて説明している記事である。(一)ビタミンの人体内に於ける役割、(二)ビタミンの種類、(三)主なるビタミンの分布並に缺乏性という3つの小見出しがある。昭和21年12月25日までに見つかっていた主なビタミンの種類や効果が文章や表形式で分かりやすく説明されている。 ビタミンをVと略していることや、昭和21年12月25日までのビタミンについての情報が分かりやすく書かれていて面白いと思ったため、この記事を採り上げた。 ▼この記事は以下から参照できます。 #973 『西塩田青年団報』第5号(1946年12月25日)3頁2020-12-14
2053夏の料理『西塩田時報[戦後]』第16号(1948年6月25日)2頁夏の料理『西塩田時報[戦後]』第16号(1948年6月25日)2頁家庭で作る夏の料理のレシピを紹介した記事。 「いかの桃和え」や「れんこん飯」「エッグのプラントサラダ茄子のサラド」など馴染みのないレシピが紹介されている。 文字を追って工程を想像するだけでも楽しい。 これを参考にすれば昭和の料理を味わうことができるかもしれない。 名前の間違いがペンで直されているのもレアではないだろうか。 ▼この記事は以下から参照できます。 『西塩田時報[戦後]』第16号(1948年6月25日)2頁2020-12-14
2052入学前の家庭教育に就て(『西塩田時報[戦後]』第1号(1947年1月25日)2頁)入学前の家庭教育に就て(『西塩田時報[戦後]』第1号(1947年1月25日)2頁)この記事は、親御さん宛に、小学校入学前の子どもに教育しておいてほしいことが書かれている。 親であれば教えているような基本的な内容ではあるが、箇条書きで、マナーから、友達や先生との接し方、家庭での生活に関わることまで、とても細かく書かれていて驚いた。 わたしが小学校に入学するときに「これはできていないとだめ」「せんせいやともだちとはなかよくしなさい」などと教育された覚えがない。当時西塩田地域では記事のように徹底して教育されていたのだろうか。この記事を読んでから、この時代の教育に興味が湧いた。 ▼この記事は以下から参照できます。 #976 『西塩田時報[戦後]』第1号(1947年1月25日)2頁2020-12-14
2051吾が村の養蠶業を探る(『西塩田公報』第81号(1954年6月5日)3頁)吾が村の養蠶業を探る(『西塩田公報』第81号(1954年6月5日)3頁)私の地元である岡谷市でも蚕業が盛んだったため、この記事に興味を持った。 桑芽が予想外の晩霜のため凍害となったことや、広報部員が飼育所を訪問した際に給桑室から楽しそうな合唱の歌声が流れて来たことなどが書かれており、当時の養蚕業の様子を事細かに知ることができる。 ▼この記事は以下から参照できます。 #1251 『西塩田公報』第81号(1954年6月5日)3頁2020-12-14
2050禁酒(『西塩田時報』第1号(1923年7月1日)4頁)禁酒(『西塩田時報』第1号(1923年7月1日)4頁)禁酒を勧めている記事である。酒を飲むことで起こる影響が多く書かれている。 一文の終わりが「~ない。」と書かれている文章が多いため、韻を踏んでいるラップ調に見えることと、酒を飲んでだらしなくなった人の様子が想像できるほど、酒による影響が直接的で分かりやすく表現されていて面白いと思ったため、この記事を採り上げた。 ▼この記事は以下から参照できます。 #4 『西塩田時報』第1号(1923年7月1日)4頁2020-12-14
2048緑化運動に寄せて『西塩田時報[戦後]』第14号(1948年4月25日)1頁緑化運動に寄せて『西塩田時報[戦後]』第14号(1948年4月25日)1頁緑化運動についての意見が書かれた記事。戦争によって失われた信州の情景の美しさ心の豊かさを説き、気持ちを奮い起こさせている。 『戦いは破壊のみに終つた。』 戦後の景色と人々の思いが伝わってくる最初の一文。 戦後まだ間もない人たちの、緑を、信州を愛する思いに触れ、私たちも今一度、森林問題について関心を向けるべきであると思わせられる。 ▼この記事は以下から参照できます。 『西塩田時報[戦後]』第14号(1948年4月25日)1頁2020-12-14
2047第一回女性討論會開かる(『西塩田時報[戦後]』第13号(1948年3月25日)3頁)第一回女性討論會開かる(『西塩田時報[戦後]』第13号(1948年3月25日)3頁)この記事は、昭和23年3月11日に女性のみが集まって行われた討論会の内容について書かれている。 この記事の面白いところは、当時の女性たちの抱えていた問題や、彼女たちの考えを知ることができるという点である。 特に「結婚上の問題について」という項目から、当時らしい寵愛結婚か見合結婚かという議論や、現代でも増えている結婚の簡略化や結婚費用の問題などについて討論されていたことに対して、興味深く感じられた。 ▼この記事は以下から参照できます。 #1009 『西塩田時報[戦後]』第13号(1948年3月25日)3頁2020-12-14
2046広告(『西塩田時報』第193号(1939年12月1日)2頁)広告(『西塩田時報』第193号(1939年12月1日)2頁)1941年に太平洋戦争が開戦することを考えると、まだ随分豊かな広告が流れていたと思い、気になった。誰に向けた広告なのだろうか。 地主が居たことを考えると、その富裕層に向けたものであるかもしれない。戦地の兵隊のためにこれを購入し送るものもいたかもしれない。2020-12-14
2045皆様と共に(『西塩田青年時報』第1号(1946年8月25日)1頁)皆様と共に(『西塩田青年時報』第1号(1946年8月25日)1頁)私が気になったのは、この投稿の内容ではなく、この投稿自体に関してである。左下に原稿募集の文字がある。つまり、これは市民投稿によって成り立つ地域誌であるということがわかる。住んでいる人に寄り添った記事作りもさることながら、一緒に作り上げるという意味でこれは非常に有益であると考える。2020-12-14
2044『西塩田時報』第3号(1923年11月30日)1頁『西塩田時報』第3号(1923年11月30日)1頁『弱きものよ、汝の名は農民なり』という題名の、秀三という人の詩のようなものが載せられている。 この詩は、サブタイトルに「~わが農村の人たちへ送る~」とあるように、西塩田の農民の人たちを鼓舞し励ましつつも政府を風刺している。 この記事は、西塩田時報が西塩田の人々に寄り添ったものであることがよくわかる記事で、詩の内容もとてもいい詩だなと感じられるものだった。 ▼この記事は以下から参照できます。 #9『西塩田時報』第3号(1923年11月30日)1頁2020-12-14
2043人間のくひもの(『西塩田時報』第67号(1929年6月1日)4頁)人間のくひもの(『西塩田時報』第67号(1929年6月1日)4頁)この記事は「人間のくひもの」という見出しで、恐らく川邊時報を見た人が書いたと思われるものです。 人が食べるものを6つの項目に分けてその特徴と共に書かれています。 この記事では、今で言う五大栄養素のようなものだと思いますが、5番目に「液体をあたへるもの」と書かれているのを見た時に、急に項目の毛色が変わったように感じ面白いなと思いました。 また、最後のそれぞれの項目に当てはめた6つのアドバイスのようなものを見た時には思わずクスッと笑ってしまいました。 ▼この記事は以下から参照できます。 #294 『西塩田時報』第67号(1929年6月1日)4頁2020-12-14
2042『西塩田時報』第15号(1925年2月1日)1頁『西塩田時報』第15号(1925年2月1日)1頁この記事の主な内容は、補習教育についてである。 現代より前から補習というものがあったことがわかる。 「人間の改良こそ、凡ての改良案の出発点で到着点であらねばなりません。」という文章があり、補習教育がどのような目的であるのか改めて理解できる。 ▼この記事は以下から参照できます。 #67『西塩田時報』第15号(1925年2月1日)1頁2020-12-14
2039西塩田時報西塩田時報戦後初の創刊。2020-12-14
2038西塩田時報西塩田時報配給の欄が存在する。2020-12-14
2037「西塩田時報」第104号(1956年5月5日)「西塩田時報」第104号(1956年5月5日)西塩田時報が廃刊になる最後の刊の、最後のページである。 筆者目線から時報や広報が残ることの意味を考えていて、興味深いものだと思う。2020-12-14
2036「西塩田時報」戦後 第10号・11号 (1947年11月30日)「西塩田時報」戦後 第10号・11号 (1947年11月30日)日本の敗戦後の復興について語っている。 過ちを認め、反省することで先の未来が待っていると言っていて、マスメディアとして素晴らしいと思った。2020-12-14
2034『西塩田時報』第3号(1923年11月30日)1頁『西塩田時報』第3号(1923年11月30日)1頁『弱きものよ、汝の名は農民なり』という題名の、秀三という人の詩のようなものが載せられている。 この詩は、サブタイトルに「~わが農村の人たちへ送る~」とあるように、西塩田の農民の人たちを鼓舞し励ましつつも政府を風刺している。 この記事は、西塩田時報が西塩田の人々に寄り添ったものであることがよくわかる記事で、詩の内容もとてもいい詩だなと感じられるものだった。 ▼この記事は以下から参照できます。 #9『西塩田時報』第3号(1923年11月30日)1頁2020-12-14
2033祝 成人(『西塩田時報』第78号(1954年2月5日)1貢)祝 成人(『西塩田時報』第78号(1954年2月5日)1貢)モノクロではあるが成人式の様子として写真が載っていて目にとまった。 日本文化を継承し創造、発展させる責任があることを自覚するように書かれていたり、若い人の元気や良さを失わないようにと書かれている。 今年成人になるので成人としての自覚を持って行動するべきだと感じた。 ▼この記事は以下から参照できます。 #1231 『西塩田公報』第78号(1954年2月5日)1頁2020-12-14
2032桑樹栽培法(『西塩田時報』第48号(1927年11月1日)1貢)桑樹栽培法(『西塩田時報』第48号(1927年11月1日)1貢)蚕都上田と呼ばれるほど蚕業が盛んであった上田であるが、餌となる桑の品質管理の大変さや飼育の苦労さが書かれている。 長野県は春は掃立と呼ばれる附加した蚕を蚕座に移して飼育する作業が遅く、秋は早く寒くなってしまうため成長期間が短い。長ければ長いほど良いため改正する必要がある。 小学校の時に蚕を飼育したことがあるのでこの記事に興味を持った。 ▼この記事は以下から参照できます。 #207 『西塩田時報』第48号(1927年11月1日)1頁2020-12-14
2031「西塩田時報」第4号(1946年11月25日)1項「西塩田時報」第4号(1946年11月25日)1項日本国憲法が掲載されている。記事の日付からも確認できるだろうが、日本国憲法の公布日は1946年11月3日であるのに対しこの記事は25日の記事だ。つまり当時としてはまだ交付されたばかりの憲法は非常に重要でタイムリーな情報だったのであろうことがわかる。2020-12-14
2030「西塩田時報」第119号(1933年10月1日)4項「西塩田時報」第119号(1933年10月1日)4項西塩田時報」第119号(1933年10月1日)4項に掲載された記事。中でも「野尻湖遊覧の今昔」という記事は私たちにとっての昔の記事が、その私たちにとっての昔という時系列的な地点から見た昔を考察するという点において非常に面白いものである。2020-12-14
2029村のトピック (『西塩田公報』第95号(1955年8月5日)4頁)村のトピック (『西塩田公報』第95号(1955年8月5日)4頁)村のどこで何が行われていたのか、ということはあまり知らないこともあるのではないだろうか。この記事では、村のどこでどんなことがあったのかトピックにまとめられており、分かりやすく知ることができる。 かねてより懸案中だった新型モーターを買ったというトピックもあれば、映画会を行なったり労組県大会に出場といったりした様々な村の様子を知ることができる。中にはユーモアにあふれたトピックもあり、見てみるだけでも面白いのではないかと思う。 ▼この記事は以下から参照できます。 #1310 『西塩田公報』第95号(1955年8月5日)4頁2020-12-14
2028民主々義と現代青年の任務(『西塩田時報』第1号(1946年8月25日)3頁)民主々義と現代青年の任務(『西塩田時報』第1号(1946年8月25日)3頁)戦後日本が民主主義を採用することは必然であり、日本独自のデモクラシーを建設して日本の存在意義や世界への貢献としようという記事。 終戦後日本は民主主義国家へとなっていくがアメリカやイギリスの真似ではなく日本独自の天皇を戴く民主主義を建設しなければならないといったような内容が書かれており、国家のアイデンティティというものを考える面白い記事である。 ▼この記事は以下から参照できます。 #953 『西塩田青年団報』第1号(1946年8月25日)3頁2020-12-14
2027タバコ被害を無くすために(「西塩田時報」第98号(1955年11年5日)1項)タバコ被害を無くすために(「西塩田時報」第98号(1955年11年5日)1項)この記事は、タバコの被害に関した記事なのだ。私は、この記事を見て、この時代にもタバコ被害があったということに驚いたからだ。 しかし、このタバコ被害は現代とは少し違く、タバコ栽培と養蚕経営者との問題であった。 時代背景が良くわかる記事でとても面白いと思う。 この記事は以下から参照できます。 #1319 『西塩田公報』第98号(1955年11月5日)1頁2020-12-14
2026虫牙虫発生と防除法(「西塩田時報」第4号(1946年11月25日)1項虫牙虫発生と防除法(「西塩田時報」第4号(1946年11月25日)1項私は、この記事が面白いと思った。この記事には、この時代の農作物情報も載っており、豆牙虫の防除方法まで書いてある。 また、この時代にこの虫のせいで大きな損をしたことも書いてあり、時代背景が良くわかる記事だなと思った。 この記事は以下から参照できます。 #963 『西塩田青年団報』第4号(1946年11月25日)1頁2020-12-14
2025麥の増産に就て(『西塩田時報』第11号(1943年11月10日)1頁)麥の増産に就て(『西塩田時報』第11号(1943年11月10日)1頁)農會欄での記事。 戦争の影響による食糧不足となっているため、増産させようという内容。 戦争の影響の他に“大東亜戦を勝ち抜く爲にとどんな苦痛も御互に忍んで行きませう。”といった戦争に対する国民の精神をも見て取れる記事であり、大東亜戦争の歴史の一端を知ることができる。 ▼この記事は以下から参照できます。 #949 『西塩田村公報』第11号(1943年11月10日)1頁2020-12-14
2024家庭メモ (『西塩田公報』第83号(1954年8月5日)4頁)家庭メモ (『西塩田公報』第83号(1954年8月5日)4頁)今では衣服にしみを付けてしまったらしみ取りで簡単に取ることができます。しかし、昔の人たちはどうしていたのでしょうか。そのようなことを知ることができるのかこの記事です。 身近にあるもので工夫してどのように生活してきたのか、という家庭の工夫が詰まっています。今の便利になった世の中から見たら、こんなものでこんなことをしていたのかという過去の新たな発見をできる面白い記事なのではないでしょうか。 この家庭メモはしみ取りのほかにも、おいしいイモの食べ方や秋の漬物のレシピなど先人たちの知恵が詰まった記事になっています。いまでも役立つ知恵がたくさん出てくるので、気になるものを探してみるのもいいかもしれません。 ▼この記事は以下から参照できます。 #1260 『西塩田公報』第83号(1954年8月5日)4頁2020-12-14
2022火鉢を圍んで(西塩田時報第4号(1924年4月1日)4頁)火鉢を圍んで(西塩田時報第4号(1924年4月1日)4頁)冷 泉という方の「火鉢を圍んで」という作品だと思うが、「幸福な生活・文化生活」について話す二人の会話を記事にしたようなものである。 甲が「幸福な生活・文化生活」についての自分の考えを一方的に話しているようなものであったが、内容も興味深いものであった。また、乙の返答や、最後の会話の終わり部分が面白いなと思った。 ▼この記事は以下から参照できます。 #18 『西塩田時報』第4号(1924年1月1日)4頁2020-12-14
2021トタン箱育注意要項(『西塩田時報』第127号(1934年6月1日)2頁)トタン箱育注意要項(『西塩田時報』第127号(1934年6月1日)2頁)長野県蚕業試験場の試験成績を抜粋し、箱育のメリットやデメリットについてまとめている。 今回選択したものは、蚕の箱育についての記事だが、西塩田時報には、この他にも多くの蚕関連の記事が掲載されており、上田の人々にとって養蚕がいかに大切であったかを感じることができる。 ▼この記事は以下から参照できます。#562 『西塩田時報』第127号(1934年6月1日)2頁2020-12-14
2020禁酒(西塩田時報第1号(1923年7月1日)4頁)禁酒(西塩田時報第1号(1923年7月1日)4頁)飲酒している人に対して、飲酒することのデメリット・飲酒している人の特徴などをいくつも挙げ、禁酒をするよう言っているところが面白い。飲酒に対しては、昔も今もあまり変化なく、この記事は現代でも通用すると感じた。 ▼この記事は以下から参照できます。 #4 『西塩田時報』第1号(1923年7月1日)4頁2020-12-14
2019養狸の将来性と品種の選択について(『西塩田時報』第184号(1939年3月1日)2頁)養狸の将来性と品種の選択について(『西塩田時報』第184号(1939年3月1日)2頁)養狸という言葉が目に留まった。 毛皮獣の飼育を奨励する記事で、事業を成功させるためには、品種の選択に最も注意を払わなければならないということが書かれている。 毛皮獣飼育が普及した社会的・文化的背景やその終息など、さらに深く掘り下げたくなる記事であると感じた。 ▼この記事は以下から参照できます。#820 『西塩田時報』第184号(1939年3月1日)2頁2020-12-14
2018謹んで諸兄の御冥福を祈る(『西塩田時報』第17号(1948年7月25日)3頁)謹んで諸兄の御冥福を祈る(『西塩田時報』第17号(1948年7月25日)3頁)第二次世界大戦で亡くなった方々の冥福を祈る内容と、国が行った侵略戦争の悔い嘆くと共に平和への道を築くと誓う内容の記事である。また、戦死した上田市に住む人々の名前や死因などが記載されている。 敗北した日本で生き残り、そして戦争の実態を知って悔恨の念を感じながら平和を実現すると心に誓うという凄絶な内容に心を打たれた。 ▼この記事は以下から参照できます。(戦死した方々のリストも以下URLで閲覧可能) #1021 『西塩田時報[戦後]』第17号(1948年7月25日)3頁2020-12-13
2017君たちは幸福だ(『西塩田時報』第2号(1923年9月1日)4頁)君たちは幸福だ(『西塩田時報』第2号(1923年9月1日)4頁)ヒコーキという作家か匿名住民が、同年に愛人と心中した有島武郎に影響されて自殺していく若者について語っている。 概要は「信じる人に命まで捧げられる君たちは幸福だ。今まで古い考えを壊していくのが若者であり、文化というやつなのだろう。」という感じなのだが、私には「信じる人に後先考えずに命まで捧げちゃう君たち若者はオメデタイ奴らだな」と皮肉っているように見えた。 このヒコーキという人は様々な記事でこのような皮肉を込めたような記事を書いているので、他の号でも探してみたい。 ▼この記事は以下から確認できます 『西塩田時報』第2号(1923年9月1日)4頁2020-12-13
2016禁酒(『西塩田時報』第1号(1923年7月1日)4頁)禁酒(『西塩田時報』第1号(1923年7月1日)4頁)全体がラップ調に感じられるほどテンポが良く、酒を飲むことで起こる様々な弊害を語っていた。最後には禁酒をして、貯金をしよう、と締めくくられるのだが、授業内であったように若者がこのような文章を書いていると思うと、いかに酒で壊れる部分が多く、いかに金銭的余裕がなかったかを伺わせる。 個人的パンチラインは、「ホントに仕様がない仕方がない。一生出世の望みがない。望みがないからやけが出る。~四百四病の其の本も、貧の病の原因も、酒でないとは言はせない。」のあたり。 ▼この記事は以下から確認できます 『西塩田時報』第1号(1923年7月1日)4頁2020-12-13
2015産業組合欄(『西塩田時報』第181号(1938年12月12日)2頁)産業組合欄(『西塩田時報』第181号(1938年12月12日)2頁)産業組合からの物価高騰による消費節約を進めるお知らせと、鳥の飼育についてのお知らせが記載された記事である。 記事の中には産卵能力を向上させることのできる餌について書かれており、そんな餌の存在を初めて知ったため、何故産卵能力を向上させることが出来るのか、そのメカニズムについて知りたいと大変興味を持った。 戦前からそんなものがあるということは、現在の養鶏場もこういった特別な餌を用いているかどうか気になったため調べてみたいと思う。 ▼この記事は以下から参照できます。 #806 『西塩田時報』第181号(1938年12月12日)2頁2020-12-11
2014學校たより(『西塩田時報』第2号(1923年9月1日)3頁)學校たより(『西塩田時報』第2号(1923年9月1日)3頁)保護者の方から小学校児童の体格が良くないといわれたらしく、それに対し学校側が全国平均と比較することで問題ないと回答している記事である。 ここで掲載されている身長・体重・胸囲ともに数字の単位が現在私たちが用いるメートル法とは異なり尺貫法を用いているようだ。以下が私なりに調べて出した数値と現在の全国平均との比較である。 ・身長の単位:分(1分=3.0303㎜) -当時7年生:106㎝(男)105㎝(女) -現在(令和元年)小学1年生:116㎝(男)115㎝(女) ・体重の単位:匁(1匁=3.74g) -当時7年生:17㎏(男)16㎏(女) -現在(令和元年)小学1年生:21㎏(男)20㎏(女) ▼この記事は以下から参照できます。 #7 『西塩田時報』第2号(1923年9月1日)3頁2020-12-11
2013皆さん!!風邪に気をつけましょう(『西塩田公報』第102号(1956年3月5日)4頁)皆さん!!風邪に気をつけましょう(『西塩田公報』第102号(1956年3月5日)4頁)インフルエンザに感染しないように注意を呼び掛ける記事である。当時(昭和31年3月)はまだインフルエンザにかかった人は少ないが寒暖差が激しい春先が危険な時期と明記されている他、インフルエンザ予防について簡単に記されている。 現在は新型コロナウィルスの感染防止のため、日本以外の各国でもマスクを着用する人が増えたが、日本ではマスク着用の習慣が根付いており、感染防止策として以前から広く知られている。当時の西塩田も現在と変わらず、マスク着用が風邪の防止策になると認識されていることに興味を引かれたので、この記事を選んだ。 ▼この記事は以下から参照できます。 #1338 『西塩田公報』第102号(1956年3月5日)4頁2020-12-11
2012西塩田時報 第113号西塩田時報 第113号私が二番目に面白いと思ったのはこの記事です。 いもち病について書かれていて、内容としてはイネなどがなってしまう病気とのことでした。 お米は貴重な食料資源だったので当時は新聞の一面を飾るほどの出来事だったのではないかと考えます。2020-12-10
2011西塩田時報 第107号西塩田時報 第107号私が一番面白いと感じた点は歌のような俳句のようなものが描かれていく事です。秋から冬に移り変わる寒さや機械の力が人間を大きく上回ってしまったことなどその時の感情が手に取るように分かりやすく書かれています。 言い方は違えど現代と思うことはあまり変わらないのだなと感じました。2020-12-10
2009部落ニュース(『西塩田時報』第132号(1934年11月1日)3頁)部落ニュース(『西塩田時報』第132号(1934年11月1日)3頁)まず目を引いたのは、「部落ニュース」というタイトルである。現代においては差別問題が想起される「部落」という言葉。その言葉が日常の中に生きていた時代の記事ということだ。 タイトルは現代人からすると少し驚くようなものであるが、その中身は今もよく見る、ご近所ニュースといったところである。「○○で工事が行われた」「池に飛び込み人命救助をしたものが表彰された」という内容が続く。 我々を取り巻く社会が変わり、時代が移ろうとも、その中に生きる人々は今も昔も変わらないのだということが感じられた。 ▼この記事は以下から参照できます。 #585 『西塩田時報』第132号(1934年11月1日)3頁2020-12-09
2008産業組合で今こそ更正(『西塩田時報』第110号(1933年1月1日)7頁)産業組合で今こそ更正(『西塩田時報』第110号(1933年1月1日)7頁)産業組合の推進を、非常に強い語気で訴えている記事である。 「信頼し、協同し、助け合つて前進せよ!」と最初から情熱を感じられる書き出しであるが、産業組合がどのように優れているのか、これまでの社会がどのように不条理であったかということが熱弁されている。強く否定すること、考えを断じてしまうことは現在は「炎上」を恐れ控えられているが、気持ちよく言い切ってしまっている部分にも時代を感じることが出来ると思う。 今では中々見ることの出来ない、執筆者のオピニオンが前面に押し出された記事であったため、興味深く感じた。 ▼この記事は以下から参照できます。 #487 『西塩田時報』第110号(1933年1月1日)7頁2020-12-09
2007何を意識して暮らすべきか (『西塩田時報』第94号(1931年9月1日)4頁)何を意識して暮らすべきか (『西塩田時報』第94号(1931年9月1日)4頁)この記事では戦前の日本における善良的な意思や美徳について記されている。この記事の面白さは、現代の意識との認識のずれだ。 国家に対しての強い愛国心や服従、また、宗教に対する現代にも通じるであろう考え方など、今との相似点や考えられないような相違といった様相が窺え、非常に興味深い。 この記事から現代思想と戦前の思想を比較してその実態を観察してみると、そこからより深い学習につながるかもしれない。 ▼この記事は以下から参照できます。 #412 『西塩田時報』第94号(1931年9月1日)4頁2020-12-09
2006抜け切れぬ弊習 村議戦を顧みて (『西塩田時報[戦後]』第5号(1947年5月20日)1頁)抜け切れぬ弊習 村議戦を顧みて (『西塩田時報[戦後]』第5号(1947年5月20日)1頁)この記事は、地方村初めての民主選挙の不完全性や不足点を列挙しているというものだ。この記事の面白い点は、歴史的な変遷の形を地方の目線から見ているということだ。 選挙制度の整備や選挙運動の問題といった改革直後の甘さを感じさせている点は面白く、また歴史的な目線でも学習になる。女性の候補者の問題も今にも名残を感じる課題として歴史を感じた。 こういった戦後の不安定な状況からいかにして立ち上がっていったのかここからの興味が尽きない素敵な記事である。 ▼この記事は以下から参照できます。 #989 『西塩田時報[戦後]』第5号(1947年5月20日)1頁2020-12-09
2005農村の若人に捧ぐ(『西塩田時報』第26号(1926年1月1日)4頁)農村の若人に捧ぐ(『西塩田時報』第26号(1926年1月1日)4頁)この記事は、農村の若人に対して捧げたいことが書かれており、それぞれの段落が「若人よ、」という詩のような始まり方で、若人に投げかけるように書かれている。 今でも若者が重要視されることが多いが、この記事が書かれた当時もやはり若人が注目されているように感じ、そして、若者は村や地域にとっては今も昔もとても大きな存在であると感じられる。 ▼この記事は以下から参照できます。 #118 『西塩田時報』第26号(1926年1月1日)4頁2020-12-09
2004公設電話開設に就て(『西塩田時報』第28号(1926年3月1日)1頁)公設電話開設に就て(『西塩田時報』第28号(1926年3月1日)1頁)今では当たり前のように公衆電話がある中で、それもあまり使われなくなり、現代は個々が持つ携帯電話を使用することが多くなった。 しかし、昔は公設電話でさえなく、生活に不便を感じていた村人もいたのではないかということが分かる。 本文には、そんな公設電話開設までの流れや設置してみて思ったことなどが書かれている。 改めて、このような開設があったからこそ今につながっていると思うと、今公衆電話があることは当たり前ではないのではないかと感じる。 ▼この記事は以下から参照できます。 #123 『西塩田時報』第28号(1926年3月1日)1頁2020-12-09
2000発刊の辞 (『西塩田時報』第1号(1923年7月1日)1頁)発刊の辞 (『西塩田時報』第1号(1923年7月1日)1頁)『西塩田時報』は西塩田青年団が発行した情報紙である。第1号冒頭の「発刊の辞」で発刊のねらいが述べられている。青年団が年1回発行していた「鉄城」を発展させ、年数回発行の「時報」に発展させたことがわかる。 地域の課題を「深く考え」ること、村民が政治的無関心を脱却し、村の自治にコミットすることの大切さを血気盛んに説いている。 政治的無関心、解決されない課題の山積などは現代と変わりなく、温故知新。むしろここで提起している課題こそ現代の課題であると気づかされる。 ▼この記事は以下から参照できます。 #1 『西塩田時報』第1号(1923年7月1日)1頁2020-12-07
1999『西塩田時報』Vol.2(戦後編1946~1956)ページごとの画像『西塩田時報』Vol.2(戦後編1946~1956)ページごとの画像それぞれはJPG画像です。ダウンロードしてお使いください。 (『西塩田時報』全ての号のページごとの画像リンクHTML記述データはコチラ。) #951 『西塩田青年団報』第1号(1946年8月25日)1頁 #952 『西塩田青年団報』第1号(1946年8月25日)2頁 #953 『西塩田青年団報』第1号(1946年8月25日)3頁 #954 『西塩田青年団報』第1号(1946年8月25日)4頁 #955 『西塩田青年団報』第2号(1946年9月20日)1頁 #956 『西塩田青年団報』第2020-12-06
1998『西塩田時報』Vol.1(2)(戦前編1933~1943)ページごとの画像『西塩田時報』Vol.1(2)(戦前編1933~1943)ページごとの画像それぞれはJPG画像です。ダウンロードしてお使いください。 (『西塩田時報』全ての号のページごとの画像リンクHTML記述データはコチラ。) #481 『西塩田時報』第110号(1933年1月1日)1頁 #482 『西塩田時報』第110号(1933年1月1日)2頁 #483 『西塩田時報』第110号(1933年1月1日)3頁 #484 『西塩田時報』第110号(1933年1月1日)4頁 #485 『西塩田時報』第110号(1933年1月1日)5頁 #486 『西塩田時報』第110号(1933年1月1日)6頁2020-12-06
1997『西塩田時報』Vol.1(1)(戦前編1923~1932)ページごとの画像『西塩田時報』Vol.1(1)(戦前編1923~1932)ページごとの画像それぞれはJPG画像です。ダウンロードしてお使いください。 (『西塩田時報』全ての号のページごとの画像リンクHTML記述データはコチラ。) #1 『西塩田時報』第1号(1923年7月1日)1頁 #2 『西塩田時報』第1号(1923年7月1日)2頁 #3 『西塩田時報』第1号(1923年7月1日)3頁 #4 『西塩田時報』第1号(1923年7月1日)4頁 #5 『西塩田時報』第2号(1923年9月1日)1頁 #6 『西塩田時報』第2号(1923年9月1日)2頁 #7 2020-12-06
1993『西塩田時報』Vol.2(戦後編1946~1956年)『西塩田時報』Vol.2(戦後編1946~1956年)

西塩田時報Vol.2』(戦後編1946~1956年)

398頁/容量 252MB ダウンロード表示には時間がかかります。 目次からは分割したPDFをダウンロードしていただけます。
<目次>  西塩田村青年団報(1946)第1号~第5号[LINK] 11MB  西塩田時報(1947~1948)第1号~第20号[LINK] 23MB  西塩田時報/公報(1948~1950)第21号~第40号(公報34号~)
2020-11-30
1990『西塩田時報』Vol.1(戦前編1923~1943年)『西塩田時報』Vol.1(戦前編1923~1943年)

西塩田時報Vol.1』(戦前編1923~1943年)

918頁/容量 371MB ダウンロード表示には時間がかかります。 目次からは分割したPDFをダウンロードしていただけます。
<目次>  縮刷版・巻頭頁[LINK] 7MB  西塩田時報(1923~)第1号~第20号[LINK] 41MB  西塩田時報(1925~)第21号~第40号[LINK]
2020-11-23
1858観光まちづくり講座第3回「レイラインを活かす地域ブランディングと観光」2020/11/15観光まちづくり講座第3回「レイラインを活かす地域ブランディングと観光」2020/11/15チラシPDFダウンロードはここをタップorクリック 観光まちづくり講座第3回「レイラインを活かす地域ブランディングと観光」 日時:2020/11/15(日)13:00~16:00 会場:あいそめの湯ホール(長野県上田市別所温泉58) 主催:地域活性化・若者ラボ設立準備会 第1部 講演「聖地研究から見た塩田・別所温泉の魅力」  講師:内田一成(聖地観光研究所主催、レイラインハンター) 第2部 トーク&トーク「レイラインを活かす地域ブランディングと観光」  コーディネーター:長谷川光(東急エージェンシー) 第3部 ディスカッション「日本遺産を活かすには」 会場:あいそめの湯ホール 先着50名 Zoomによるリモート配信 先着100名2020-11-13
1824赤色の存在感!赤色の存在感!いつもインスタでこの場所から景色を撮影している人がいるのを見ていた! 季節ごとに変わる山と里の景色がいつも楽しみ。 上田に引っ越してきて、近くを通ると見える大鳥居の下にいつか写真を撮りに行きたいと思っていたので、 やっと念願のインスタの景色に会えた。 塩田平が広がるこの景色に、赤の鳥居はとっても映えて、 やっぱり存在感がすごい。 鳥居の向こうに見える東山というところから、 御柱に使われる赤松を切り出しているらしい。2020-11-06
1809くるみおはぎ そば羊羹くるみおはぎ そば羊羹上田城に行って見つけた 「上田名物 くるみおはぎ」 創業120年の老舗 名取製餡所が作る名物のようだ 塩田平で採れるもち米を使ったおはぎ。 外で食べてもふっくらしていて 作られてから時間が経っているとは思わないくらい ふっくらしていて柔らかい。 くるみも上田の名産らしい。 そのくるみを使った餡は しっかりとしたクルミの風味と程良い甘さだった。 一緒に売られていたそば羊羹。 「上田にしかない餡を作ろう!」 という思いで作ったらしい。 羊羹に使われているそばは上田で採れたもので トッピングの韃靼そばは長和で採れたものらしい。 まさに 上田にしかない名物 でした。 上田城だけでなく 北国街道上田宿柳町の販売所 でも売っていました。2020-11-06
1678中華料理店 華新中華料理店 華新中塩田駅から徒歩5分ほどで行ける中華料理店です。 日本人向けの味付けや本格的な辛さの料理まで揃っています。値段も手頃で、たくさん食べたい人も満足できるセットがあります。週末は宴会場として賑わっています。 昼11時~14時 夜17時~23時 不定休2020-11-02
1644信州上田学B2020①ガイダンス+上田ってどんなまち信州上田学B2020①ガイダンス+上田ってどんなまち

講座記録

▼第1回10/01講座(市民開放講座第1回) 講師:市川正夫教授(長野大学環境ツーリズム学部) 80分

講義資料

上田ってどんなまち
上田の歴史、塩田平の歴史
2020-10-28
1574モンテリアモンテリア塩田のデザートとして昔から好きだったモンテリアのジェラートを食べてきました! お手頃な価格で食べ応えのある量を堪能できます。 冬に食べるときは寒さへのそれなりの覚悟が必要みたいです!2020-10-20
1571別所温泉遊歩道展望台別所温泉遊歩道展望台別所までなんと自転車で来たのだが、道中長い坂が印象に残っているが登ってきただけにとても見晴らしが良いところが多い! 写真の右側に写る少し低い山地は僕の実家の上田駅方面と塩田方面を見事に遠回りさせているものである。 あれがなければもっとはやく学校に行けるのに・・・!と思った一枚です。2020-10-20
1553上田探検Ⅰ 別所線 丸窓電車上田探検Ⅰ 別所線 丸窓電車この電車は最初の新造車両として、昭和2年日本車両会社で3両製造されました。ドアの戸袋の窓が縦長楕円形であり、その形から「丸窓電車」の愛称で親しまれ別所線の主力電車として塩田平を走り続けました。別所温泉駅に展示されているので、いつでも見ることができます。2020-10-18
1462信州の学海 秋の前山寺信州の学海 秋の前山寺信州上田には素晴らしい歴史と観光資源があるものです。とりわけここ塩田平は中世において「信州の学海」とも呼ばれたように、この地の寺院が学問の場となっていました。 秋のある日、気持ちよい気候に誘われて、塩田平を少し回ってきました。前山寺にも久しぶりに立ち寄ってきました。さらに秋が深まり、紅葉の前山寺はさぞかし美しいことでしょう。三重の塔のたたずまいの端正なこと。信州上田を代表する名勝地です。観光資源化した「前山寺のくるみお萩」についても改めて考察してみたいものです。2020-09-12
1461信州の学海 龍光院信州の学海 龍光院信州の学海と言われた塩田平の名刹群の一つ、龍光院を訪れてみました。塩田北条氏菩提処と記されています。龍光院は塩田北条二代国時が父義政の菩提を弔うために建立されたと伝えられています。塩田北条氏は、1333年、新田義貞が鎌倉を攻めた際に一族が応援に馳せ参じて滅びたという悲しい話で終わっています。2020-09-12
1460「信州の学海」碑「信州の学海」碑かつて塩田を「信州の学海」と呼んだのは、鎌倉時代の高僧・無関普門。遠地へのアクセスも困難であった当時、遠方から学問を修めに塩田の地まで人々がやってきたことを象徴する呼称です。「学びの海」、なんとまた意味深い言語化かと思います。 塩田中学校に「信州の学海」碑があります。 「信州に却回して塩田に館す乃ち信州の学海なり」 確かに碑にその謂れが刻まれています。 cf.塩田中学校のホームページにも紹介されています。 http://www.school.umic.jp/shioda/2008/0603-104114.php2020-09-12
1354日露戦役忠魂碑日露戦役忠魂碑田市立中塩田小学校の横に日露戦役忠魂碑がありました。 日本のために戦った人達と新しい世代の子供たち。考え深いものがあります。2020-08-07
1321天台宗別格本山 北向観音天台宗別格本山 北向観音北向観音堂は、平安時代初期の天長2年(825年)、比叡山延暦寺座主の慈覚大師円仁により開創された霊場です。安和2年(969年)、平維茂は一山を修理し、三楽寺、四院、六十坊を増築したと伝えられています。寿永元年(1182年)には源平争乱の中、木曾義仲の手により八角三重塔と石造多宝塔を残して全て焼失してしまいますが、源頼朝の命のもと伽藍復興がおこなわれ、建長4年(1252年)、塩田陸奥守北条国時により再興されました。堂が北に向いているのは、わが国でもほとんど例がありません。 選んだ理由としては北向観音堂は全国的に珍しい建物で面白さがあると思ったからです。2020-08-06
1320前山塩野神社拝殿及び本殿前山塩野神社拝殿及び本殿独鈷山〔とっこざん〕の北の山麓に位置し、その古さを物語る大きく深い森につつまれた神社が前山の塩野神社です。神社の前には太鼓橋がかかっていますが、その下には独鈷山の清らかな湧き水が滝となって流れ、それがやがて本流の産川と合流して塩田平を潤〔うるお〕しています。 この建築物を選んだ理由としてはこの神社には建物の歴史と言える棟札が、文明年間より今日まで30枚そろっていることや「甲子〔きのえね〕大祭」といって60年毎の神事が継続され、盛大に行われているため、いつか行ってみたいと思ったからです。2020-08-06
1300畑の中を走る上田電鉄別所線畑の中を走る上田電鉄別所線上田電鉄別所線が畑の中を走っている。これは、下之郷から中塩田に向かっている最中であろうか。 車さえ通らない畑の中を電車が走っている様子は、あの「千と千尋の神隠し」のワンシーンを彷彿とさせた(もっとも、あっちは水の上であったが)。また、緑と夕焼けの組み合わせが、夏を感じさせた。2020-08-06
1294ため池:吉池ため池:吉池道を歩いていると、ため池が見えました。あの池は吉池という名前らしいです。ちなみにすぐ近くには宝池というため池もありました。それぞれのため池に名前があるのは面白いですね。2020-08-05
1293レンコン畑レンコン畑道を歩いていると大きな白い花が沢山咲いていました。近くで見てみると蓮の花であることがわかりました。蓮ということは、ここでは蓮根(レンコン)を育てているようです。レンコン畑は初めて見たので写真を撮りました。2020-08-05
1292こんな所に忠魂碑がこんな所に忠魂碑が中塩田小学校のすぐ隣に鳥居が立っているのが気になって寄ってみました。どうやら日露戦争で亡くなった方々を祀っているようでした。長野県では慰霊碑を見たことがなかったので、こんなに身近にあるのは驚きでした。2020-08-05
1291ため池:男池ため池:男池塩田平は降水量の少ない地域で、農業用水のために水を貯めた「ため池」が多く存在しています。その中の一つの「男池」を見つけました。2020-08-05
1290屋根の上に屋根?屋根の上に屋根?屋根の上に小さな屋根が乗っている家を見つけました。あの小さな屋根は越屋根というもので、室内の熱を排出したり、光を取り込む役割があるそうです。2020-08-05
1253六文銭六文銭塩田町駅から徒歩2分ほどで行けるとんかつ店です。 老舗の自家製ソースと揚げ物の相性がとてもよく、甘めのソースに薬味のからしをつけるとソースのうまみがより一層引き立ちます。 昼11時30~13時30 夜17時30~20時 休日18時~20時 木曜定休2020-08-02
1248上田市シティプロモーション映像・長野大生編2020上田市シティプロモーション映像・長野大生編2020デジタル映像表現⑭2020/07/23まとめの記録(前川道博@長野大学) 学生目線と感性で上田市シティプロモーション映像「ようこそ上田」を制作。教員の学生との一種の講評的対話。構えてもいいものは作れないはず。みんなが楽しんでいるのだけれど極意はその辺にあるのかな? コロナ禍のため上田以外の地元をPRした映像もあります。 <担当教員との講評的対談> <学生によるセレクション> シティプロモーション映像は2ラウンド制作しました。第1集は1ラウンド目の制作、第2集は2ラウンド目の制作。学生による投票数の多かった第1位~第3位を学生の評価コメントを添えて紹介します。 1 <2020-07-31
1247塩田平のため池:舌喰池と里山の秋塩田平のため池:舌喰池と里山の秋2012年10月の記録。この時期、ため池は池干しされて地面が丸見えになっています。さらに塩田平の遙か彼方に広がる浅間山から烏帽子岳の山々の美しいこと。独鈷山の山麓に緩やかに広がる棚田の景観、里のたたずまいなど風情があります。いつもの見慣れた風景とは感じられるものが違っていました。2020-07-31
1246新緑が映える瓢箪池新緑が映える瓢箪池長野大学から歩いて5分ほどのところに上田市自然運動公園があります。そのメイン施設の一つが、長野大学新入生歓迎スポーツ大会の会場でもある体育館です。自然運動公園と称する理由のひとつには自然公園もあるということです。その最たる環境の一つが瓢箪池です。「ため池百選」に選定された「塩田平のため池群」の一つです。 しかしながら、この池は、ため池というよりも、バードウォッチングのスポットとして愛好者にはよく知られています。ちょうど新緑が芽生えて濃くなろうとしている時で、新緑がまぶしいばかりです。それとともに鳥のさえずりがよく聞えています。双眼鏡があれば、ここでしばらく足止めしても時間が惜しくないぐらいです。2020-07-31
1245昭和のため池「沢山池」昭和のため池「沢山池」「ため池百選」に選ばれた「塩田平のため池群」の中でも最大のため池が沢山(さやま)池です。沢山池はため池群の中では群を抜いて新しく、1938年の竣工です。 ため池の多くは江戸時代以来のものです。その中にあって昭和という時代には、問題をより根本的に解決する対策として地域の最上流にダム湖を作り、大容量の用水を蓄えることができるようになりました。このため池が現在も使われていることも感動的です。この時期、田んぼの収穫も済んで農閑期に入ります。その間、ため池は池干しをするようです。沢山湖の湖底がむき出しになった風景は私も初めて見ました。 このような大規模なため池が果たす効果も大きい一方で、維持管理などの問題もあるようです。湖の底に泥が溜まり続け、その浚渫に多額の費用がかかるようです。その昔2020-07-30
1190おうちでおいしく上田飯!おうちでおいしく上田飯! おうちでおいしく上田飯! 今回は塩田地域にある「隠れキッチン」さんのオムライスと「ニコニコ亭」さんのオムレツナポリタンを食レポしました。コロナウイルスの中頑張っている飲食店さんを応援したいという気持ちで上田飯をおいしくいただきましょう!2020-07-23
1180あじさい小道あじさい小道前山寺から塩田神社へと続く鎌倉街道には、約1.5キロメートルにわたり紫陽花が咲いています。東前山自治会の方々によって、植栽や手入れなど、整備がすすめられてきたようです。塩田城跡から歩いていくと、紫陽花が綺麗に咲き渡っている景色が広がりました。親が紫陽花を背景に子どもの写真を撮ったり、夫婦で一緒に写真を撮る姿だったり、多くの人でにぎわっている印象でした。丁度雨上がりでしたが、この季節ならではの紫陽花をゆっくりと散歩して、たまには座りながら堪能できる時間を過ごすことができました。2020-07-22
1144ようこそ上田 塩田平の神社仏閣紹介ようこそ上田 塩田平の神社仏閣紹介 最近日本遺産に登録された塩田平の神社仏閣を紹介していきます!2020-07-20
1132季節を楽しむ あじさい小道季節を楽しむ あじさい小道 信州上田塩田平にある遊歩道「あじさい小道」の紹介動画です。 例年、梅雨が明けた7月中旬から下旬にかけて満開を迎えます。 塩田平へ訪れ、この時期ならではの景色を楽しんでください!2020-07-20
1113人物41 竹内善吾人物41 竹内善吾山田村(現在西塩田村の字)竹内友吉の二男にして天明2年生る。 『上田市史・下巻(1940)』1239~1241頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌  人物篇2020-07-20
1034ハレterrceハレterrce今回はグリーンパーク塩田野店にあるハレテラスさんのアイスを食べました。とにかく種類が多かったです。とてもおいしくて、また新しい味を食べてみたくなりました。別所のほうにも店舗があるそうです。2020-07-16
899豆cafe enju /残照館豆cafe enju /残照館塩田平の前山寺近くにある旧信濃デッサン館は、今年6月6日に「KAITA EPITAPH 残照館」と名前を変えて再オープンしました。 そこに併設しているのが、今回ご紹介するカフェ「豆cafe enju」です。 美術館併設だけあって、とてもセンスの良い空間で、テラス席も十分あり、オープンな雰囲気なので、天気のいい晴れた日にピッタリのカフェです。テラス席からは、広大な塩田平が一望できます。 調理を担当しているのは、上田市在住のおうち料理研究家、王鷲美穂さん。発酵文化を中心に、心と体に優しい料理の研究をされている王鷲さんの作る料理は、味はもちろん美味しいだけでなく、手作りの味噌が使われていたり、栄養も満点。見た目も雰囲気に合っていておしゃれな雰囲気です。 わたしは、この日は、味噌リゾットと自家製ジンジャエール2020-06-29
833信州味噌の魅力と味わい信州味噌の魅力と味わい武田味噌の店内の様子です。味噌の生産が全国1位の長野県では、主に信州味噌の生産に力を入れています。店内には様々な味噌が陳列されており、味噌に使用されている大豆は全て北海道や塩田などでとれた国産のものです。長野県の寒い気候を生かした1月に行う寒仕込みという伝統的な手法が用いられています。大豆や塩麹、そして熟成期間の違いで多様な味に変化する味噌をぜひ、味わってみて下さい。2020-06-23
826上田の伝統を学ぶ(上田探検1)上田の伝統を学ぶ(上田探検1)ねらい 探検を通して、まだ知らない上田の街を知る。特に、伝統に関わりのあるものを見つける。 今回は下之郷~塩田あたりを歩いて探した。 いきなり伝統に結び付けるのは困難だと判断したため、歴史的建造物を中心に探求を行った。2020-06-23
821【バリアフリー】赤い車道【バリアフリー】赤い車道車道が赤く塗装されている部分があった。 これは注意喚起という意味だそうだ。 なぜこの周りだけ赤く塗装されているのか、地図で確認したところ、上田市立東塩田小学校や甲田クリニック近くの車道だけが赤くなっていた。 小学校は子供が多いため注意、クリニックは高齢者や子供、病人が集まるため注意してくださいという意味だと考えられる。2020-06-23
792武高国神社 要石武高国神社 要石弘化4(1847)年の善光寺地震が起こった際、鹿島神宮の分霊を合祀するとともに、地震を鎮めるためにこの「要石」が境内に据えられました。 塩田を探索していた際、偶然発見しました。2020-06-22
681他田塚古墳他田塚古墳 塩田平を望む下之郷の東山山麓の南西斜面にある、下之郷古墳群の中心的な古墳。この古墳には、信濃の古代豪族である他田氏に関係した古墳との言い伝えがある。古墳の平面の形は円墳で、南西部に入り口がある横穴式石室をもった大きな古墳である。2020-06-12
647塩田バッティングセンター塩田バッティングセンター古くからありそうなバッティングセンター。 なんとも言えない雰囲気がある。2020-06-07
629塩田地域を一望できる・山王山公園塩田地域を一望できる・山王山公園塩田の山に構える前山寺(ぜんさんじ)。お寺から少し下ったところにあるのが山王山(さんのうやま)公園です。 公園からは塩田地域全体を見渡すことができます。特に夜や早朝に訪れると、普段とは違った塩田の景色を見ることができます。 園内は芝生が広がり、遊具もあるので家族で訪れても楽しむことができる公園です。2020-06-04
628上田市塩田地域の無人駅・中野駅上田市塩田地域の無人駅・中野駅長野県上田市は塩田地域の町中野。この町から上田市街、別所温泉街へと伸びる唯一の駅がこの中野駅です。 駅の待合所からは田んぼや別所地域の山々が広がり、のどかな風景を楽しめます。 自然だけでなく、駅周辺にはバッティングセンターや定食屋さんがありますので、塩田地域を訪れた際はぜひ一度利用してみてください。 ※写真2枚目は降雪時の風景です。2020-06-04
532遮断機のない踏切(中塩田駅塩田町駅間)遮断機のない踏切(中塩田駅塩田町駅間)中塩田駅と塩田町駅の間にある踏切で車が通れないようになっています。 遮断機がないためとても危ないと思いました。 横断するときは左右を良く確認してからの利用を心掛けましょう。2020-05-26
530小島大池(ため池)小島大池(ため池)塩田平にある、ため池100選にも選ばれた塩田平のため池群のひとつです。 10万2千トン貯水でき、堤頂は555mあります。 近所の方々が周りの道をウォーキングロードとして利用しています。 鴨が泳ぐ姿などが自然を感じさせてくれます。2020-05-26
523中華料理店 華新中華料理店 華新中塩田駅から徒歩で五分ほどで行ける中華料理店です。 値段も手頃でたくさん食べたい人も満足できるセットもあります。 昼と夜に営業しています。夜は23時まで営業しているので仕事が遅くなってしまった時も安心です。2020-05-26
520少し危険を感じる橋少し危険を感じる橋町中を歩いていたら木の小さな橋を見つけました。危険性からか入口が鎖で封鎖されています。2020-05-26
474大きな鳥居の正体は?大きな鳥居の正体は?塩田平にそびえ立つ大きな鳥居。 この鳥居は生島足島神社のものらしく、鳥居が立っている道を真っ直ぐ進むと生島足島神社にたどり着きます。つまりは看板みたいなものですね。 鳥居から続く道を少し行くと、神社仕様の朱色の橋もありました。2020-05-26
471上田にストーンヘンジ?上田にストーンヘンジ?塩田平を散歩中に写真のような巨石群を見つけました。 この岩たちを見て、真っ先にイギリスのストーンヘンジを思い浮かべました。 塩田平のストーンヘンジは、本家のように美しく並べられてる訳ではありませんが、不思議さでは本家に劣らないと思います。2020-05-26
470田んぼの特徴的な構造田んぼの特徴的な構造塩田平を散歩していると、とても広い田んぼの風景が目の前に広がっていました。 その風景を眺めていて気づいたのですが、山側から川側へ向かって、田んぼが薄い棚田になっているのに気づきました。 雨の少ないこの地域で、効率よく水を行き渡らせる農民の知恵ですね。2020-05-26
468上田なのに鎌倉・・・?上田なのに鎌倉・・・?生島足島神社からすぐ西側の道にこんな看板が立っていました。 「鎌倉道遊歩道?上田なのに?」と思い写真を撮りました。 後に調べてわかったことなのですが、ここ塩田平は鎌倉時代に塩田北条氏が統治したことから「信州の鎌倉」と呼ばれているそうです。2020-05-26
371落合橋落合橋上田電鉄別所線の大学前駅のすぐ近くにある小さな橋です。 昭和51年3月20日竣工で古めの橋です。 名前も知らない橋だったのですが、普段よく通っているので少し気になり、写真を撮ってみました。2020-05-26
354上田警察署保野分署跡上田警察署保野分署跡明治11年からこの場所にあった警察分署跡。塩田平のほぼ全域を管轄していた。 標柱には「明治一十一年まで」と記載があるが、不自然な表記であるため、字が消えてしまった可能性がある。本来は明治21年か31年までと記されていたのではないか。 消火栓の「長野縣」という文字からも歴史のある一角であることが読み取れる。今でこそ閑静な住宅街だが、かつては警察が置かれるほどの主要な場所であったことが興味深い。 ただの民家が地域の治安維持のための拠点だったとは想像もつかないだろう。「え?こんなところに?」と思わずにはいられない。2020-05-26
285下之郷駅下之郷駅上田電鉄別所線の有人駅。 2020年5月時点台風の影響で電車が通っているのは城下駅~別所温泉駅までですが(上田駅城下駅間はバスで中継しています)、ちょうど中間地点に存在する駅です。 有人駅は上田駅と別所温泉駅と当駅のみですので、各種運賃券の購入の際には知っておくと便利です。 駅を背にして右側には生島足島神社があります。駅ホームも神社を思わせるデザインの外装となっているんだとよく車内から見てはいましたが、駅に赴いてはじめて気付きました。2020-05-25
270中華料理店 華新中華料理店 華新塩田にある安くてボリュームあるで人気の中華料理屋「華新(かしん)」600円のランチセットを目当てに平日ランチ時は店内が満員になってしまうほど人気のお店です。 学生の無い私にとって安く、多く食べれるため行きつけということで選ばせてもらいました。2020-05-25
267前山寺前山寺前山寺は、塩田平の札所のひとつ。真言宗智山派のお寺で、弘法大師が修行の場として創ったとも言われる由緒あるところです。特に有名なのが「未完成の完成塔」と呼ばれる三重塔。室町時代に建てられたという塔を見に、多くのお客さんが訪れます。 未完成の完成塔と表現されているだけとても趣のある建物のため、選ばせてもらいました。2020-05-25
266信州塩田のこだわりみそ信州塩田のこだわりみそ塩田には「こうじいらず」という「在来種」が昔からあって、これで味噌を手作りしているグループが活躍しています。「中塩田地区営農活性化推進組合」の一つの班の皆さんで、塩田産の「こうじいらず」と天日塩と長野県産の米から使った麹だけを使い、「信州塩田のこだわり味噌」という名前の味噌を作っています。 地元とはまた違うおいしいみそのため、選ばせてもらいました。2020-05-25
259中塩田駅中塩田駅中塩田駅は、長野県上田市五加にある上田電鉄別所線の駅です。上田丸子電鉄時代からの駅舎が使用されていて、当時の社紋が残っています。1980年代まで当駅終着・始発のダイヤが一日数本設定されており、電車は別所温泉方の本線上で折り返していました。開業時以来駅員が配置されていましたが、現在は無人駅となっています。 開業当時からあるものであり、一番馴染みのある駅のため選ばせてもらいました。2020-05-25
247別所街道の道標(上田市本郷)別所街道の道標(上田市本郷)別所方面、上田方面、塩田方面へ行く道の交差点であったことを示す道標。 現在の県道はこの交差点を東西に貫くが、別所方面の旧道はここから北西方向へ分岐する。かつての塩田平の交通の要衝であったのだろう。 道際の草むらに飲み込まれつつあるが、道路拡張時にも撤去されずに残された道標である。2020-05-25
193小島大池小島大池農林水産省のため池百選に選定されている「塩田平のため池群」の一つである。この小島大池にはイノシシと鉄砲の民話(猪溺死事件)があり、ため池の歴史や時代背景などを知ることができる。他のため池にも民話があり、「信州上田塩田の里」http://www.shiodanosato.jp/tameike/mukashi.phpで見ることができる。 かなり大きいため池であり、鳥もよく見かける。近くに神社もあり春には桜とため池できれいな景色が見ることができる。2020-05-25
189日露戦後忠魂碑(上田市)日露戦後忠魂碑(上田市)日露戦争に出征し戦死した兵士の記念のために制作された記念碑。上田市からも戦争に出征し戦った人がいることが分かるものである。一人一人の名前が記されており、地域の記録として存在している。戦争と平和について考えさせられるものである。2020-05-25
185武高國神社武高國神社塩田地域自治センター近くにある神社。普段は静かな雰囲気で落ち着く場所。そばには遊具があり、学校終わりや休日では子供たちがよく遊んでいる。祭りの時期には多くの人が訪れにぎやかである。2020-05-25
180道祖神(上田市塩田町駅周辺)道祖神(上田市塩田町駅周辺)守り神として道の辻に祀られている石仏。甲信越地方や関東地方で多く見られ、上田市にも点在する。様々な形状をしており、ここの道祖神は双体である。要所においてあるのか目に留まりやすい。塩田町駅近くにある道祖神は川のすぐそばにあるため特に目に留まりやすいが、草木に覆われているため近づきにくい。2020-05-25
174道祖神(上田市塩田町駅周辺)道祖神(上田市塩田町駅周辺)守り神として道の辻に祀られている石仏。甲信越地方や関東地方に多く、上田市でも各地に点在している。形状も様々であり、ここの道祖神は双体である。ふと目に留まるような場所や形にある。2020-05-25
126蚕都上田まちあるき2009(1)~西塩田・別所編~蚕都上田まちあるき2009(1)~西塩田・別所編~ 【日時】 2009年9月19日(土) 【ルート】  上田駅温泉口→飯沼(高札場跡、郷蔵、飯沼公民館、古文書保管庫)→カネタの煙突→近代工業百年記念公園→丸子郷土博物館→丸子公園(依水館で昼食)→大屋駅(石碑)→上田駅温泉口 〈内容〉 かつて製糸業のまちとして活況を呈した旧丸子町を中心にまちあるきを行った。飯沼では、幕末・明治期に横浜貿易で活躍した生糸商人の足跡をたどる。その後、器械製糸工場で発展した丸子の史跡・歴史をめぐる。 〈案内人〉 阿部勇氏(上田歴史研究会代表、上田飯沼史学会会員、上田教育委員会) 奥村栄邦氏(上田飯沼史学会会長) 〈制作〉 企画・制2020-05-24
72塩田平の野焼き塩田平の野焼き21世紀に入ってもなお続いている野焼きの文化。塩田平を一望するとそこかしこに野焼きの煙が立ち上がっています。2019/11/16は好天に恵まれ、いつもより一際多く煙が立っていました。信州上田に移り住んで以来、秋になると日々立ち上がる煙の風景に日本の原風景を感じ、現代に生きる地域の無形文化として22世紀に残してもらいたいと心惹かれてきました。以来、ずっと変わることなくその思いを持ち続けています。 野焼きは稲作という営みから派生しています。農業をする方が高齢化する中、これから20年後、30年後は、この地域の風景がどう変わっていくのだろうかという思いで、毎年、あるがままの野焼きの煙の光景を眺め続けています。2020-05-23
62塩田の憩いの場 ふくろく塩田の憩いの場 ふくろく別所線塩田町駅から徒歩三分。おいしい炭火焼き鳥が食べたければだんぜんここ!安くておいしいうえに、自分で七輪の上で焼くことができます!お酒も飲めるため、お酒好きの人にはぴったりの場所!たまに友人と行きますが最高ですね!とてもおススメです。2020-05-23
55おうちにちかい華新おうちにちかい華新華新は、ぼくの借りているアパートから徒歩三分のところにある中華料理屋です。とても安い上に、ボリューム満点!第二の華龍飯店として通っています。ぼくがよく食べるのはラーメンセット!これおすすめですね2020-05-23
5西塩田小、新旧西塩田小、新旧旧西塩田小学校は現在、さくら国際高校に。今はめずらしい木造校舎の佇まいが実にいい。かつて小津安二郎の映画『一人息子』(1936年)に挿入されたのがこの学校の風景です。その面影は今もあります。 手塚の集落の奥まったところに「日就学校跡」「西塩田小学校跡」を発見。石垣があり、その上が平坦な広い敷地。学校だった面影があります。 西塩田小は最初はこの跡地にあり、後にさくら国際高校の敷地に移り、さらに塩田小学校に移りました。2020-04-22
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