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登録リスト(該当:44件)
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1
北向観音堂
平安時代初期に比叡山延暦寺座主慈覚大師円仁が開いた 霊場。北向きの本堂(本所は千手観音菩離像)は全国でも珍しく、南向きの善光寺本堂と相対しているとされる。「極楽往生」を願う善光寺と「両参り」し、ここで「現世利益」を祈ることで、より御利益があるとされる。かつて参道脇に長楽寺(常楽寺、交楽寺とともに天台宗の「別所三楽寺」のひとつ)があったが、現在は常楽寺を本坊とする。昭和36(1961)年に善光寺本堂と同じく、「撞木造り」の建物として増改築された。なお、手水舎には境内から湧出している温泉が使われている。 北向観音は『「極楽往生」を願う善光寺と「両参り」』というのをキーワードに、観光業に活かせると感じた。北向観音は、実際に自分で現地に行かないと感じないようなパワーがあると私は考えている。よって
2024-02-13
2
長福寺銅造菩薩立像
長福寺「信州夢殿」の本尊として安置されている。アルカイックスマイルを特徴とする、像高36.7㎝の小金銅仏で、7世紀後半の白鳳時代の作品と考えられる。もとは上高井郡小布施町の旧家に伝わるものだったが、昭和13(1938)年に長福寺に移された。 長福寺はこの講義を受講するまで名前も聞いたことがなかった。ここは生島足島神社の前に訪れたが、休日であるにも関わらず、訪ねている人は私一人だった。正直なことを言うと、日本遺産に登録されているにしては、閑散としていると感じた。観光客を呼び込むためには、もっと情報発信に努めるべきだと感じた。
2024-02-13
3
生島足島神社
平安初期にまとめられた「延喜式」に載る古社で、生きとし生けるもの万物に生命力を与える「生島大神」と生きとし生けるもの万物に満足を与える「足島大神」を祭神とする。摂社(下社・下宮)には諏訪大神が祀られる。御神体は「大地」である。太陽が夏至には東の鳥居の真ん中から上がり冬至には西の鳥居の真ん中に沈むよう鳥居が太陽の至点と一致するように配置されており、まさに「太陽」と「大地」を結ぶ神社である。 晴れた土曜日の11時頃に行ったこともあり、多くの人が訪れていた。特に家族で七五三のお宮参りに訪れている人が多かった。文書も拝見した。撮影禁止で写真は撮れなかったが、非常に多くの文書が保存されていた。文書を拝見した。古文書からも、400年前の生島足島神社への信仰と長年にわたり守られてきたことがうかがえ
2024-02-13
4
安楽寺八角三重塔
中国から伝わった「禅宗様」で造られた、現存する日本唯一の木造八角三重塔。かつては「四重塔」とされたが、現在は一番下の屋根は裳階(ひさし)と解釈されている。創建は1290年代とされ、八角形のどっしりとした落ち着きがある塔で、頂上には相輪が青天高くそびえている。屋根の下の華やかな木組みも相まって、安定感と崇高美、華麗さを兼ね備えた名塔である。 ここはこれまでに二回訪れたが、何回行っても感動する場所であると私は思う。何段も階段を上ったあとに、姿をあらわす木造の塔は実際に足を運んで見るからこそ感じられるものが多くあると改めて思った。自然との調和もとても趣がある。しかし、この魅力はまだ多くの人に伝わり切っていないと感じている。よって、まずは魅力を伝えるために、信州上田の日本遺産のストーリーを
2023-10-24
5
海野町レトロ写真館 活動報告
2019年度から2022年度にかけて、信州上田デジタルマップを活用のもと、上田市の海野町商店街に焦点を当てて、研究を行ってきました。
2023-01-28
6
長野伝統のお菓子 みすゞ飴
引用元:https://misuzuame.com/sp/ame/ みすゞ飴は、国産果実を寒天・グラニュー糖・水飴で固めた、長野県の伝統的な乾燥ゼリー菓子です。 その歴史は長く、100年も前から信州上田のちでも愛され続けています。 上田土産の代表格のような存在であるこの製品のデザインは、製品同様オレンジを基調とした色彩豊かなデザインで、また習字調のような少々独特な字体で印刷された商品名は、伝統を重んじ、歴史ある信州地域の名産らしさをある意味表しているようでなんともしっくりくるように感じます。パッケージデザインには製品に使用されている果実も印刷されており、一目見て商品の要素が伝わることも良さの一つでしょう。
2023-01-27
7
交通機関を使って上田観光を!
上田市での交通手段は主に車、電車やバスなどの交通機関、タクシーなどがあります。その中でも特に、電車やバスといった交通機関は、たくさんの人々が利用し、日常生活に必要不可欠となっています。 上田市の主な電車には、しなの鉄道と上田電鉄別所線があり、上田電鉄別所線は大学前にも通っているため、長野大学の皆さんも普段から利用しているのではないかと思います。上田電鉄別所線は上田駅から別所温泉駅まで続いており、上田市屈指の観光地である別所温泉に気軽に行くことができます。上田電鉄別所線の車両には、1月1日~30日限定の車両「謹賀新年 HM」、「れいんどりーむ号 HM」、「真田傍陽線開業95周年 HM」「真田傍陽線廃止50周年 HM」、「さなだどりーむ号 HM」などのラッピングが施された特殊車両があり、外見でも楽しむ
2023-01-19
8
喜光堂の桑の葉ほうじ
喜光堂さんで信州上田のお茶『桑の葉ほうじ』を買いました。養蚕業が盛んだった頃、桑の葉は蚕の餌とされていました。その桑の葉を喜光堂さんの技術で焙煎されたのが桑の葉ほうじです。 実際に飲んでみると、甘いものにもしょっぱいものにもよく合い、美味しかったです。 桑の葉ほうじは健康に良く、便秘や高血糖に効果があるそうです。 お茶の他にも、抹茶ソフトクリームやほうじ茶ソフトクリームも美味しいのでぜひ食べてみてください。
2022-05-10
9
蕎麦でつながる地域の輪
但馬には出石という場所があり、出石そばが有名です。 実は、この出石そばは上田と深いつながりがあります。 江戸時代中期のお国替えにより、出石藩主松平氏と信州上田藩仙石氏が入れ替わりとなりました。 その際、仙石氏とともに来たそば職人の技法が在来のそば打ちの技術に加えられ、出石そばができました。 このことがきっかけで、出石が所属する豊岡市と上田市は姉妹都市として交流しています。 いつか出石そばと信州そばを食べくらべしてみたいです。
2022-05-05
10
まとめ
ため池のつくられた歴史や、民話などを調べることで、ため池自体ができた経緯は降水量の関係で同じだったことがわかった。しかし、そのため池一つ一つには違ったエピソードが存在することがわかりおもしろかった。 現実離れした民話が多く残っており、特に、舌喰池に残っている伝説は印象的で、このように残酷な話が残っていることが衝撃だった。 面白い話を知ることができたし、知らなかった歴史を学ぶことはできたが、ネット上では思うように深掘りをして調べことができなかったように感じる。そのため、受け売りとなる二次情報ではなく自ら調べる一次情報の重要さを実感した。 〈参照した資料〉 Googleマップ 信州上田 塩田の里 http://www.shiodanosato.jp/ 長野県上田市塩田地域におけるため池群の維持管理と存続https://www.geoenv.tsukuba
2022-02-12
11
塩野池(しおのいけ)
塩野池は、西前山境東前山の小字「市来」にある。池のある市来が、西前山の小字「塩野間」「塩野」に隣接していることや、独鈷山から流れ出す「塩野川」などの塩野と関係して「塩野池」と名付けられたと考えられる。 塩田平の多くのため池は、山麓または平地にあるが、塩野池は標高約560mとやや高く、山の傾斜に造られている。また、塩野池は、雨乞いの山・独鈷山の水だけを純粋に集めて成り立っているため池である。 〈参考文献〉 信州上田 塩田の里 http://www.shiodanosato.jp/tameike/mukashi.php
2022-02-12
12
「美味だれ焼き鳥」として成立
画像:https://www.facebook.com/oidare/ 2010年頃、市民有志が上田市のご当地グルメを発掘する調査を行った結果、信州上田の「焼き鳥」の食べ方は他とはなんだか違うということが発覚した。 上田市ではこのたれで食べることが定着しており、特別な呼び名は存在しなかった。2011年2月、市民有志により実行委員会が発足され「美味だれ」と命名された 2012年には、上田市を商標権者として、『美味だれ焼き鳥』『美味だれ』が商標登録された 参考文献:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E5%91%B3%E3%81%A0%E3%82%8C%E7%84%BC%E3%81%8D%E9%B3%A5
2022-02-09
13
舌喰池(したくいけ)
舌喰池は塩田の里交流館(とっこ館)の近くに位置するため池であり、手塚自治会によって管理されている。貯水量は13万㎥もある。 耐震のための改修工事や、田園空間整備事業による水辺景観の整備が行われている。また、百八手という千駄焚きを行って雨乞いをする祭りや、舌喰池付近の芝生でコンサートの開催を行うなど、文化遺産やレクリエーションの取り組みを行っている。 舌喰池には悲しい伝説が伝えられているので紹介したいと思う。 昔この池がつくられた頃、土手から水が漏れて十分に水をためることができなかった。そこで池の改修をするに当たり、土手に「人柱」を入れなければ水がたまらないという話が出回った。悩んだ結果くじ引きで決めることになり、美しい娘が人柱に選ばれた。 娘は日夜悲しみに明け暮れたが、人柱に
2022-02-09
14
はじめに
信州上田の名物の歴史をたどってみたいと思い 一番最初に思いついた『おいだれ焼き鳥』について今回調べてみようと思った。 余裕があれば、実際に取り扱っているお店に出向いてみたいと思う。
2022-02-09
15
甲田池(こうだいけ)
甲田池は塩田平の中でも大きなため池で、水源は一級河川産川からの導水に依存する典型的な中継的ため池である。一般に皿池と呼ばれ、景観が良い。水抜き用の底樋は岸から5m程沖にあるため、橋が渡されている。 また、この池にはカッパにまつわる民話が残されているので紹介したい。 昔、十人村の甲田池に一匹のカッパが住んでいた。 ある日、村のお百姓さんが池の土手に馬をつないでおいたところ、いたずら好きのカッパは馬を池の中へ引っ張った。ところが馬は驚いてカッパを引きずってお百姓さんの家の馬屋に帰ってしまった。お皿の水がなくなって動けなくなったカッパは「助けてくれれば、この家にお祝いごとがあるときにはお膳を用意してさしあげます。」と言った。優しいお百姓さんはその言葉を信じてカッパを放してあげた。それ
2022-02-09
16
上窪池(かみくぼいけ)
上窪池は1645年に池を改修するまで「泥池」と呼ばれていた。 1957年の新農村建設で、ため池を使って養鯉を計画した際、その先頭に立ったのが上窪池である。これが成功し、塩田平の他のため池にも広がった。そして、1975年頃には生産量が1千トンを上回り、「塩田鯉」として全国に名をとどろかせた。 現在、上窪池のほとりにある泥宮の境内に「塩田鯉」と刻まれた石碑が建っている。 山田池でも養鯉が行われていたが、この上窪池が始まりであったことが分かる。 〈参考文献〉 信州上田 塩田の里 http://www.shiodanosato.jp/tameike/mukashi.php
2022-02-09
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6.若者に蚕を知ってもらうには
これまで蚕について様々なトピックを紹介してきましたが、蚕糸業の衰退を止めるためには若者の力が必要不可欠です。 若者に蚕を知ってもらうための策を幾つか考えました。 5の記事で紹介した蚕糸を使ったアートを通して蚕を知ってもらう策。 近年、SNSの普及に伴い若者の影響力が絶大的な権限を得ています。日本の世の中の流行は若者のスマホの中から始まっていて、何気ない投稿がその年の流行を決めるとも言われています。 SNSに蚕を使ったアートを載せたり、アリオやサントミューゼなどの大型施設で展示会をするなど人の目に触れさせるようにしなければならないと感じました。 蚕の飼育を流行にする案。 蚕という虫は品種改良されたため、人の管理がないと生きられません。そのデメリットを逆手にとって若い人が蚕を飼育しや
2022-02-03
18
4.蚕糸業が衰退している原因
江戸時代から明治時代まで信州上田を支えてきた蚕糸業はなぜここまで衰退してしまったのでしょうか。 衰退した原因は幾つもあるので紹介していきます 原因①和装の需要が低下 日本は古くから和装が常識でした。特に江戸時代から明治時代は和装の市場も大きく、それに伴って原料である生糸はとても需要がありました。 しかし、明治時代を越えると次第に洋服の需要が増えていき、和服の需要は一気に低下しました。和服の低下と共に蚕糸業も衰退していきました。 原因②海外の生糸を輸入※絹糸・・生糸を加工した糸 日本が近代化していくにつれ、海外、特に東南アジアで大量生産された安い生糸を加工し、絹糸にする方が国内の蚕糸を使うよりも安く大量に仕入れられるため、海外の生糸の方が需要が高くなってしまいました。 そ
2022-02-03
19
まとめ
戦後の生活を見る事例の一つとして今回調査を行ったが、歴史の教科書には載っていないような、終戦後立ち直っていく住民の姿がありありとみることができた。 具体的には、GHQが取り組んだ民主化が地方にも広がっていたことや、政治参加への意欲が現代よりかなり高かったことがわかり、良い学びになったと思う。 [参考資料] 『西塩田時報』Vol.2(戦後編1946~1956)ページごとの画像(https://d-commons.net/uedagaku/detail.php?id=3622) みんなでつくる信州上田デジタルマップ 信州上田学アーカイブ
2022-02-02
20
2.上田市の蚕の歴史
信州上田では江戸時代から蚕の卵の生産で栄え、その後も養蚕、製糸業などさまざまな発展を遂げていき全国から「蚕都上田」と呼ばれるようになりました。 しかし、現在は様々な理由から蚕糸業は全国で衰退し、風前の灯火となっています。 衰退している蚕糸業ですが、上田地域でもまだ蚕糸業は残っています。 上田地域で有名な蚕関連の会社は常田館製糸場という会社。明治33年(1900年)に創業された製糸工場です。 蚕糸業は大きく分けて蚕種業、養蚕業、製糸業の3つに分けられ、蚕の卵を生産し、質を高める「蚕種業」、蚕を成虫まで育ててそれを管理する「養蚕業」、蚕の繭から糸を取り生糸に加工する「製糸業」に分かれます。 次の記事では蚕という虫について解説していきます。 今の若い人は蚕という虫に接点が全くないので少
2022-02-02
21
1.上田の蚕糸業を選んだ理由
皆さんは信州上田の蚕糸業についてどのぐらいご存知でしょうか? 私は正直、1年生の前川ゼミで常田館製糸場を見学するまでは具体的に蚕という虫を知らず、むしろ虫は苦手なので興味は全くありませんでした。 しかし、常田館製糸場を訪れてからは蚕にとても興味を持ち、蚕の製造方法や蚕の糸を使ったアートなど、蚕を知らない方にも興味を持ってもらうために上田の蚕糸業を選びました。 現在、蚕関連の産業は上田のみならず、全国で衰退しています。 この記事を通して蚕について知ってもらい、全国で衰退している蚕糸業を守っていきたいです。
2022-01-30
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ため池の工事
江戸時代の塩田のため池の工事は、元は小さな池を広げることから始まったそうです。「塩沼という小さな池だったのを、村人が殿様(仙石忠政)に願い出て、元禄12年(1702年)に大きな池にする工事が行われ、塩吹池は東西194メートル、南北212メートルの大きなため池になりました。このような大きな工事の費用は上田藩が出しました。」引用
ため池のれきし-信州上田|塩田の里|とっこ館
(2022/01/26閲覧)とあるように大規模な工事であったことがうかがえます。このような大規模な工事を経て、今私たちが住んでいる塩田平の風景が形成され、この土地に住む人々を助けています。 参考:
ため池のれきし-信州上田|塩田の里|とっこ館
2022-01-26
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ため池がもたらしたもの
塩田平のため池は、平安時代の条里制の地割りが残っているため、平安時代からため池があったことが推測されますが、史料が残っていません。そこから、江戸時代から盛んに開発がされました。すると、ため池を得た塩田平の農地は、生産量を伸ばし、結果として、上田藩の約半分を占める石高を残し、「塩田3万石」ともいわれるようになりました。それらは今でも塩田を潤しています。 参考:
ため池のれきし-信州上田|塩田の里|とっこ館
2022-01-26
24
ため池の必要性
そもそもなぜ塩田平にはため池が必要だったのでしょうか。それは、全国でも有数の寡雨地域であったからです。雨が少なく年間の降水量は890mmであり、稲作をするときに必要と言われる降水量である1000mmを下回ります。そのため、稲作をするためには厳しい土地でした。幸い、土壌は元々塩田平は湖であったことなどから肥沃だったため、水が足りないという課題を灌漑で解決すれば稲作ができました。用水路を使った灌漑などが長野では多いですが、塩田平を流れる川は、どれもたくさんの農地を潤すほどの水量はありませんでした。そこで、塩田平ではため池灌漑という長野県では珍しい灌漑方法がとられています。 参考:
ため池のれきし-信州上田|塩田の里|とっこ館
2022-01-26
25
小島大池(こじまおおいけ)
小島大池は塩田平の中でも大きなため池であり、1618年に造られたものである。そんな小島大池の1689年に起きた事件についての民話を紹介していきたい。 下之郷山から降りてきた沢山の猪によって田んぼが荒らされ、田んぼの稲を守ろうと玉の入っていない鉄砲を一発打った。驚いた猪は小島大池に飛び込んでしまい、22匹のうち5匹が溺死してしまった。 騒ぎが大きくなり上田藩に届け出たところ、役人から「入念に猪の死骸を埋め、猪が死んだ理由を書いた木札を立て、周りを竹矢来で囲みなさい」といった処置が命じられた。 なぜ猪のためにこれほど大騒ぎになったのか。それは、当時徳川幕府の将軍綱吉が「生類憐みの令」を出しており、動物に危害を加えた場合重い罰が与えられたからである。 なお、小島大池に実際に行ったところ、現在工
2022-01-26
26
空池(からいけ)
空池は、1734年5月に西前山の庄屋児玉伝兵衛がため池を造る許可を上田藩に願い出たことで作られた。1737年2月14日から毎日5~600人、延べ10,167名もの人足が動員され、1ヶ月後の3月15日に完成し、翌3月16日に完成届(目録書)が上田藩に差し出された。 しかし、水が思うようにたまらず1736年4月14日から6日間、約600人の人足をかけ、1737年には2,240人の人足をかけて池の修繕をしたが、漏水が多く2~3年後には空池となってしまった。 現在は公民館と付近の畑が池の跡地である。 〈参考文献〉 信州上田 塩田の里 http://www.shiodanosato.jp/tameike/mukashi.php
2022-01-26
27
手洗池(てあらいけ)
手洗池には二つの名前の由来がある。こららを紹介したいと思う。 昔、柳沢村(現上田市古安曽)に幹が6メートルもある大きなけやきの木がありました。ある秋、このけやきの木の枝が折れてしまい、村人は何か変わったことが起きるのではないかと心配していました。すると翌年の夏、すさまじい嵐が起こりました。このため山のほとんどの木が風や落雷のために倒れてしまい、村人は途方に暮れました。さらにこの年も大きなけやきの木の枝が折れてしまい、その翌年もまた大荒れに見舞われました。村人たちは、大きなけやきのせいではないかと考えるようになり、どのようにしたらよいか考えていました。 ちょうどその時、木曽義仲に仕えていた手塚太郎金刺光盛という人が、丸子のお城から手塚へ帰る途中、柳沢を通られましたので、相談した
2022-01-26
28
山田池(やまだいけ)
山田池は1938年に沢山池が造られるまで塩田平一の大きなため池だった。 池の歴史は古いため増築年は不詳だが、1650年にそれまで並んでいた2つの池を1つにまとめ現在の池ができた。 この池では、1840年頃に養鯉を試みたり、上田藩の事業として薬草の栽培をしたりしていた。古くから農業用水の確保としてだけでなく、様々なことに利用されていたことが分かる。 〈参考文献〉 信州上田 塩田の里 http://www.shiodanosato.jp/tameike/rekishi.php
2022-01-26
29
ため池の歴史③
この資料から、塩田のため池がいつ頃造られたものなのか読み取ることが出来る。 真田氏の時代(1622年まで)には、山田池、舌喰池、小島池、甲田池などの広大な池が修造築または新築された。 そして、仙石氏の時代(1706年まで)には、手洗池、上原池、上窪池、山田新池などが造られた。この時代は、どの大名も領内の新田開発に力を入れた時代であるため、仙石氏もため池の築造・修造に力を入れたことが分かる。 松平氏の時代(1867年まで)に造られたため池は小さいことが見受けられるが、この時代のため池政策は、従来のため池の堤塘の高さを増し、貯蓄量を増大させるものであったからである。 〈参考文献〉 信州上田 塩田の里 http://www.shiodanosato.jp/tameike/rekishi.php
2022-01-26
30
ため池の数
塩田平のため池数は、個人利用の小池まで含めると200余りあり、これらが拡大または新たに構築されたことで、しだいに大規模な池に統合された。 昭和50年代の「溜池施設台帳」には、東塩田112、富士山5、中塩田10、西塩田10、別所1の141池が登録されている。 塩田は地元よりもため池が多い印象だったが、141ものため池があるのは予想外だった。雨量の少ない地域であるため、多くのため池が塩田の農業には必要なのだろう。 〈参考文献〉 信州上田 塩田の里 http://www.shiodanosato.jp/tameike/mukashi.php
2022-01-26
31
ため池の歴史①
塩田には多くのため池がみられる。その理由は降水量と土地が関係している。上田市は年間降水量が全国で最も少なく、その中でも塩田平は最少の地域であった。しかし、気温も低すぎず肥沃な土地で、水田農業に最適の地域だった。そこで農民は農業用水を確保するためにため池を作ることにしたのだ。この地域の土壌が粘土質で、ため池の土地を作るのに好都合だったことも影響していたのだろう。 〈参考文献〉 信州上田の里 塩田の里 http://www.shiodanosato.jp/tameike/rekishi.php
2022-01-26
32
私の地域探求テーマ一覧(情報通信文化論2020)
長野大学の講義科目「情報通信文化論2020」(講義担当:前川道博)では、情報通信文化の根幹をなす文化伝承・知識伝承を概念的に学ぶだけではなく、受講生たちに自ら文化伝承・知識伝承による「キュレーション型」の学びを実践してもらいました。地域循環型社会にシフトしつつ現代においては、自ら問いを立て、一次資料に当たったり、地域に赴いて自ら得たデータを新たな一次資料とし、主体的に探求していくことが求められます。その学習プロセスが文化伝承・知識伝承に他なりません。 それらの課題探求テーマと成果を以下のマイサイトからカテゴリ「私の地域探求」を選んで御参照ください。 <私の地域探求テーマ一覧> 1
舌喰池の名前の由来(LGTMのサイト)
2
2021-01-28
33
現在の海野町商店街(2021年)
2021年1月27日に撮影した海野町商店街の写真である。 海野町商店街がある場所は海野町通りとも呼ばれている。 また、お茶所喜光堂という看板が見える。喜光堂は1882年から操業している、歴史のある店である。 喜光堂の少し先には高市神社がある。 昔(1913年)の喜光堂 URL「
http://www.d-commons.net/uedagaku/detail.php?id=3875
」 海野町通り(1913年) りらっくすさんのサイト みんなで作る信州上田デジタルマップ
2021-01-27
34
クイズラリー ~数字を集めて 解除コードを解き明かせ~
市内8ヶ所に隠された数字を集めて『解除コード』を導き出し、応募用紙に解除コードを記入して報告すると限定グッズがゲットできた。 さらに正解者の中から抽選で30名様に信州上田の特産品が当る企画であった。
2021-01-27
35
2010サマーウォーズの里『信州上田』 ~リアルサマーウォーズデイズ~
劇中の時間軸2010年7月29日から8月1日までを市内にリアルに再現した。
2021-01-27
36
信州上田サマーウォーズ特別試写会
2009年7月20日に8月1日の全国公開に先駆けて、旧市民会館にて先行上映会が開催された。 先行上映会には市民1200人が参加した。
2021-01-27
37
信州上田名物 美味だれ焼き鳥
美味だれ焼き鳥とは、上田市の登録商標であり、2010年に発見した信州上田独特の食文化を表現するために市民有志が命名した、すりおろしたニンニクの入った醤油ベースのたれを使用した焼き鳥のことである。 美味だれの定義は、すりおろしのニンニクが入った醤油ベースのたれや、風味・香り共にニンニク>しょうがであることのみであり、多くの店にこだわりが見られる。 また、おいだれとは上田地域の方言であり、「おまえたち」という意味がある。さらに、「美味しいタレ」というゴロを合わせ、後から追ってかけるという現在の食べ方を表現した「追いかけるタレ」という3つの要素を取り入れ、「美味だれ」という名前となっている。 【参考文献】 美味だれで委員会 https://oidareyakitori.jp
2021-01-26
38
海野町通り(1913年)
1913年(大正2年)に撮影された海野町通りの写真である。 海野町商店街がある場所は海野町通りとも呼ばれている。1913年の海野町通りは海野宿を思わせる町並みをしている。 この写真は、西側から東側に向けて撮られており、荷車や着物姿の子供が多く見られる。 また、左側に「喜光堂茶舗」という名前が見える。これは、現在もあるお茶屋喜光堂の店舗である。 画像は海野町通り,「写真集上田いまむかし:上田市・丸子町・真田町/郷土出版社編」,郷土出版(1980年2月18日),P50より引用 現在の喜光堂 URL「
http://www.d-commons.net/uedagaku/detail.php?id=3954
」 現在の海野町商店街(2021年) りらっくすさんのサイト みんなで作る信州上田デジタルマップ
2021-01-26
39
信州上田デジタルマップのキーワード数
使われている記事数が1桁のキーワード数をグラフにしました。サイトや記事自体がまだ積み重なっていないということで、新しいキーワードがたくさんできていると考えられます。 しかし、なかには2つ以上の記事に使われているキーワードと似たものもありました。それらは僅かな表記の違いや、多少省略されたもの、逆に正式名称を書いたものなど、様々な違いでしたが、実際に検索してみて出てこないものもあったため、ある程度同じ表記にして、まとめる必要があると思います。 また、あるテーマを持って常に探索をしている人も多く、キーワードを一人が複数回使っているということも多く見受けられます。これらはキーワードという埋もれがちなもので区切るのではなく、カテゴリーやマイテーマを見えるようにすることでキーワードの使わ
2021-01-25
40
信州上田デジタルマップのUIと今後の使われ方について(考察)
※これは、キーワードが増えてしまう原因を個人にではなく、全体のルールに求めているので、具体的な例やキーワード名はできるだけ避けています。これに関する投稿についても同じにする予定です。
2021-01-25
41
ため池とは?何故塩田にため池が作られたのか?
画像は上田市の「舌喰池」 ため池とは、雨量が少なく河川がない地域などで、灌漑用水を確保するために人の手によって作られた池である。また、ため池の多くは江戸時代以前に築造されたものである。 塩田に数多のため池が作られた理由も、降水量の少なさが原因である。しかし、降水量が少ないという事は、晴天の日が多いという事でもある。塩田は気温や肥沃が良好で、用水さえ確保できれば水田農業に適している土地であった。従って、農民達は塩田にため池を造成したのである。 参考文献
ため池のれきし - 信州上田|塩田の里|とっこ
ため池:農林水産省
2021-01-25
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ネット展示:藤本善右衛門が残したもの
日本一の蚕種製造の地・信州上田を知る上で欠かせない最も重要な人物の一人が藤本善右衛門縄葛(ふじもと ぜんえもん つなね)です。蚕種製造の中心地であった上塩尻村(現在の上田市上塩尻)にはそれぞれの家々が蚕種製造を営み、その中でも佐藤本家は代々が優れた蚕種製造家となり、当主は藤本善右衛門を名乗ってきました。 いったい縄葛(1815~1890)とはどのような人物だったのか、資料からその実像をさぐってみたい。
2021-01-20
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上田市と岡谷市における蚕業の比較
・地域探求テーマ 「上田市と岡谷市における蚕業の比較」 ・この探求テーマを選んだ理由 私の地元では、小学校の地域学習として岡谷蚕糸博物館や宮坂製糸所の見学を行っており、蚕業を身近に感じる機会が多くあった。また、上田市と岡谷市は蚕業が盛んであったことが共通しており、それぞれの蚕業の歴史の仔細や、そこに共通点があるかどうかについて興味があるから。 ・探求しアウトプット化すること 上田市と岡谷市の蚕業の歴史や当時の様子について探求するとともに、そこから共通点や相違点等を見つけ出し、記事にまとめて投稿したい。 ・具体的に調べる資料 信州上田デジタルマップ 信州デジタルコモンズ 長野大学附属図書館の地域資料室 岡谷蚕糸博物館 など ・調査記事一覧
2020-12-21
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信州上田デジタルマップのUIと今後の使われ方について
私は、以前から興味があったUI,UXの視点から市民によるデジタルアーカイブ化を促す方法を考えてみたいと思う。 今まで信州上田デジタルマップを使ってみて、課題や使いにくさを感じたことが何度もある。そういった点が放置されていると、ただの「授業教材」になってしまうと考えた。 デジタルマップを使うことで、知識循環社会への変革を促すとしたら、まずこのサイトが使いやすく、マイサイトへ投稿することが自分にとって意義のあることであると感じてもらわなければならないだろう。 そのために、まず仮設として「UI,UXが市民にとって使いやすいものではないのではないか」ということを、他のサイトや実際に使ってみての感想などから考察していきたいと思う。
2020-12-19
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