| 写真 | タイトル | 説明 | 登録日 |
---|
1 | | 太郎山神社(1) | 太郎山の山頂付近には太郎山神社が建っている。写真は太郎山神社の本殿である。
棟札によると、明治6年3月15日に再建され、大工棟梁の山崎正是、金井為久、彫工棟梁の竹内八十吉など、大勢の人々によってつくられたとある。
https://jpsearch.go.jp/item/u001-UMS_001_022 | 2023-01-30 |
2 | | 表参道(2) | 表参道を山頂付近まで登ると、大きな石の鳥居がある。
明治10年4月に建立された。
https://jpsearch.go.jp/item/u001-UMS_008_0534 | 2023-01-30 |
3 | | 表参道(1) | 表参道は、太郎山の頂上への参道として、昔から親しまれてきた登山道である。
写真の小さな石のほこらは、表参道に約100m毎の距離で置かれている。ふもとの白山神社を起点に太郎山神社まで36個設置されている。
https://jpsearch.go.jp/item/u001-UMS_008_0531 | 2023-01-30 |
4 | | 太郎山とは | 太郎山は上田市の北部に位置し、標高は1164mである。
山頂までは2時間ほどで登ることができ、老若男女問わず気軽に登ることができる山として上田市民や登山好きに親しまれている。
https://jpsearch.go.jp/item/u001-UMS_008_0843 | 2023-01-30 |
5 | | 記事2 | これらの記事から、満州事変後に、満洲国の移民の宣伝である、東京以外の地方ではそういう宣伝があれば全方位で、特にあの時代で影響力が高いの新聞で宣伝が多ければ、全面戦争の始まりのサインではないかと思う。
参考資料:西塩田時報(1937~)第161号~第180号 昭和十二年四月号 昭和十二年七月号 | 2023-01-30 |
6 | | 記事1 | 昭和六年一月号
この記事は徴兵制度を示したものである、全面戦争前の1931年に戦争の準備をはじめと見える様子。
参考資料:西塩田時報(1930~)第81号~第100号 昭和六年一月号 | 2023-01-30 |
7 | | 野沢菜 | 野沢菜は、県の北東にある野沢温泉村の住職が宝暦6年に京都から天王寺かぶを持ち帰り植えたのが始まりといわれている。温暖な地域の天王寺かぶは、標高600メートル近くもある高冷地の野沢温泉村の気候風土により突然変異を起こし、根が育たず葉と茎だけが大きくなり地域独特のものとなった。味は美味しいと好評で、地名の付いた「野沢菜」として広まっていった。
野沢菜食べたことがあったが画像のツルヤの野沢菜油炒めが特別美味しかった。漬物に香ばしさが追加されるだけでこんなにうまいかという感じだった。
参考文献
https://nozawakanko.jp/about/nozawana/
https://d-commons.net/uedagaku?c=28&p=4078 | 2023-01-30 |
8 | | やたら漬け | やたら漬けの名前は、なすやきゅうり、しその実やみょうがなど、「やたら野菜を使って、やたらおいしい」ことが由来だという。半年かけて漬ける冬の保存食で、何種類もの野菜を使う。通常、漬け物の野菜は全部同時に漬け込むが、やたら漬けはそれぞれの野菜の収穫時期が異なるので、季節別に漬け物桶に塩漬けにしておく。その後11月頃に、塩抜きした野菜を粗く刻み、唐辛子や調味液に数日ほど漬け込んで完成する。
由来にもある通り、様々な野菜を使われていて食感が非常に楽しい漬物だと感じた。山形県のだしに通ずるものがあるような食べ物だという印象を受けた。ご飯が進む味付けでくどさがなくたくさん食べれるものだと感じた。
参考文献
https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/40_30_hyogo.html
https://d-commons.net/uedagaku/j22 | 2023-01-30 |
9 | | 鯉こく | 佐久市に伝わる「鯉こく」は、大胆に筒切りにして味噌で煮た汁もので、佐久地域の正月には欠かせないものとなっている。佐久ホテルの篠澤社長の八代前の先祖の篠澤佐五右衛門滋野包道が延享3年(1746)の正月6日に伊勢神宮の福島鳥羽大夫神官を邸宅に招き、「鯉こく」を食べさせたことがきっかけで正月に「鯉こく」を食べるようになった。
実際に鯉の切り身を買ってきて作ってみた。汁気をかなり飛ばす料理で非常に時間と手間がかかる料理という印象を受けた。凝縮された味付けで鯖味噌が一番近い味付けだと感じた。
https://d-commons.net/uedagaku?c=28&p=7106
https://life.ja-group.jp/recipe/detail?id=8279 | 2023-01-30 |
10 | | 別所温泉の活性化 まとめ | 「別所温泉を活性化」をテーマで探求をした。
私が別所温泉に行って感じたことは「物足りない」と感じた。ただ温泉があり、ただ旅館がある。それぞれはいいものなのだが、温泉地として何か足りない感じがした。そこで、別所温泉のような小さな温泉地で何ができるのかを調べた。
1黒川温泉
黒川温泉は熊本の温泉で、かなり山奥にあるにもかかわらず人気の温泉だ。入浴手形で有名だ。入浴手形とは、温泉のマークが書いてある木の板で、それを買うと3か所の温泉に入ることができます。手形は、思い出としても残るのでいいのではないかと思う。
2四万温泉
四万温泉は群馬県の温泉で、ここも小規模で山奥の温泉だが、ヘルシーな料理で有名なタニタとのコラボで有名になった。旅館でタニタの料理を出すというシンプルなものだが、珍しさ | 2023-01-30 |
11 | | 前川ゼミレポート | 私の探求テーマは、「別所=上田を広める」だ。
私がこのテーマにした理由は、別所という地名は聞いたことがあっても、長野県上田市にあると知っている人は少ないのではないかと考えたからだ。また、別所の魅力を伝えることは、上田に来る観光客を増やすことに繋がると考えた。
別所へフィールドワークに行ったときに、年配の方が多いように感じた。そこで私は、今回のターゲットは若者にしようと考えた。若者に別所の魅力を伝えるときになにが一番有効で、興味を持ってもらえるかを考えた時に、私はカフェだと思った。別所には魅力的なカフェがある。それを、SNSを活用し、伝えていこうと思った。
SNSに投稿する画像を制作するときに私が気を付けたことは、二つある。一つ目は写真の撮り方だ。ケーキや飲み物がどう撮影したら魅力的 | 2023-01-30 |
12 | | 第二回「create owarai」の開催 地域事業者とよそ者を結ぶ活動 | 大洗町の地域事業者の方とリモートでよそ者がミーティングを行っている様子です。
地域事業者の方々が抱える課題を、スキルフルなよそ者と協力することで課題解決に向け動いていく様子です。
今後もこの活動を継続していくことが、継続的な人的資源の流入に繋がるのではないかと考えています。 | 2023-01-30 |
13 | | 第一回「create owarai」の参加:イベント提案 | 「create owarai」に参加した際のイベント実施画像
参加型のサンドアートとサンドアート内に大洗の特産であるサツマイモを埋めた芋掘りを提案した際の画像です。
参加人数は30人以上。予想以上の賑わいを見せました。
このイベントで出会ったつながりは現在にも活きており、その後も自主的に活動を行っていきました。
「create owarai」は現在第二回が開催されており、ここで得た経験値から、より効果的なイベントを開催していきたいと思います。 | 2023-01-30 |
14 | | 秋和にも猫瓦 | 先日、秋和の街歩きをしてきました。
街歩きの目的は猫瓦探索でした。街歩きの結果、合計7つの猫瓦を発見することができました。この結果から秋和でも養蚕が盛んであったことが分かりました。
発見した猫瓦の文様、絵柄についてはまた紹介していきたいと思います。 | 2023-01-30 |
15 | | 下塩尻にも猫瓦 | 下塩尻にも猫瓦を見つけることができました。
この猫瓦は耳の部分がとがっていないこと、文様などが彫られていないのが特徴です。他の猫瓦と比べても文様や文字が彫られていないので瓦が平です。
色も少し青っぽいので瓦自体が普通のものとは違うのではないかと思います。もしかしたら年代的には新しいのかもしれませんね。 | 2023-01-30 |
16 | | 「d-commons.net UI磨き上げ」まとめ(2022年度 プロジェクト研究) | タイトル:d-commons.net UI磨き上げ
概要:d-commons.net上に存在しているUIの課題点を発見し、解決案を考察する。UIの利便性向上を図り、更に洗練されたサイトにするためのブラッシュアップを促す。加えて、d-commons.netをより面白くするためのアイディアを考案する。
・マイテーマ
プロジェクト研究 信州上田デジタルマップ 課題探求 2022前期
教員向けd-commons.net(eduスクウェア)の研修会 アンケート結果&考察
プロジェクト研究 信州上田デジタルマップ 課題探求 その他考察 | 2023-01-30 |
17 | | 猫瓦 | 12月6日に上塩尻の街歩きをしてきました。
街歩きの目的は猫瓦探索でした。
北国街道沿いには猫瓦がよくありますが、上塩尻には他にも猫瓦があることがわかりました。
特に印象的だった猫瓦は鶴が掘られたものです。
猫瓦に掘られている絵には意味があります。
鶴は初めての発見だったのでどのような意味があるのか気になりました。
猫瓦に興味のある人は上塩尻を歩いてみてください。面白い瓦を見られるかもしてません! | 2023-01-30 |
18 | | これなんだろう? | 皆さんはこんな瓦を見たことがありますか?
これは猫瓦といいます。
猫瓦とは、養蚕をする上で蚕がネズミに食べられてしまうことがあり、そのネズミ除けの願いを込められた瓦のこと。そのためネズミの天敵である猫がモチーフになっている。
上田市上塩尻では蚕種製造が盛んであったり、養蚕をする家が多くあった地域であるため、今でも越屋根といった養蚕特有のものが残っている。もちろん猫瓦が残る家も多くある。猫瓦はただ猫の形をしているだけではなく、文字や絵が掘られている。これらには様々な思いが込められているそうだ。 | 2023-01-30 |
19 | | 2022年度 プロジェクト研究発表会資料「d-commons.net UI磨き上げ」 | 本記事に登録されている画像は、2023年1月28日「プロジェクト研究発表会」で使用した資料(画像版)です。
画像表示されているものと、クリップファイルに登録されているものは同一のスライドです。お好きな方法で閲覧してください。
また、こちらはPDF版の資料です→PDF版 | 2023-01-30 |
20 | | 上田市で農地を所有しながら暮らすには | 上田市は自然が豊かで農地が沢山あるのになぜか農業が盛んではないのだろうか。
我が家にも農地があるが半分以上がの農業放棄地となっている。農業放棄地が発生してしまっていることが農業が盛んになっていくうえで邪魔になっているのではないだろうか。
農業放棄地が増えていく原因の一つに農地に関する法律があると考えた。そこで農地法を調べたところいくつかの問題点が見つかった。
・農地の売買や貸借に農地の所在する市町村の農業委員会の許可が必要な点。
・農地売買の許可を得るのに農地の権利取得後の経営面積に原則として都府県50a、北海道は2ha以上になること(例外あり)
・農地を取得する個人またはその家族等が取得後に行う農業事業に必要な農作業に常時従事しないと農地を買えないこと
これら3つが大きな問題と | 2023-01-30 |
21 | | 「海外視聴者向けの日本人youtuberと旅行動画」その活用方法の調査 最終版 | 2022年度研究である
『「海外視聴者向けの日本人youtuberと旅行動画」その活用方法の調査』
の最終完成版になります。
私自身海外に向けた動画をいくつか制作してみた結果、
主に言語の面でかなり高度な技術が必要であることが分かりました。
それは同時に、新たに海外へ向けてYouTubeによる情報発信を企業や自治体が行うことは非常に難しいということにもなります。
外国語字幕を付けた動画で発信している企業はもちろん存在しますが、そのほとんどが日本人以外の社員も多く在籍している大企業であるため、それと同様のレベルを地方自治体などがこなすことはほぼ不可能です。
そこで、すでに個人や少人数であっても海外に向けて活動し、好調な成績を出している日本人youtuberに協力を仰ぐことで、世界中へ向けての効率的かつ効果的な情 | 2023-01-30 |
22 | | ”川”と共にある上田市御所 | 上田市には千曲川が流れている。
上田市の災害の歴史を語るには欠かせないだろう
千曲川が流れている御所では、昔から大きな洪水の被害を受けてきた。その被害を少なくするために当時の村人達は「水天宮」を奉納し、「天御中主神(あめのなかぬしのかみ)」を祭ってきた。
向かいにも「水神宮」がある。
今、ここで生活出来ているのは当時の人々が、こういった「信仰」によって水害が少なくなることを願い、どうすれば安全になるのかを考えて対応をした、それらの「堤防」の積み重ねの結晶であると考えられる。
昔の人々の想いに馳せながら、こういった史跡を巡ってみるのも面白いのではないだろうか。 | 2023-01-30 |
23 | | プロジェクト研究(長野大学前川ゼミ)2022アウトカム | 長野大学企業情報学部前川ゼミ/プロジェクト研究2022成果報告
▼前川ゼミ2022成果報告 47分
ゼミメンバーの各自が成果を報告しています。(発表順は以下の順と同じ)
▼前川ゼミ・ポートフォリオ(マイサイト)
【1】川口将太(4年) 企業のソーシャルメディアを用いたメディア戦略
【2】高山大和(4年) 持続的な地域活性化策~大洗モデル~
【3】林 亮太(4年) 「海外視聴者向けの日本国内旅行動画」その特徴と活用方法の調査
【4】中澤愛華(4年) 神川小学校における地域学習支援
【5】春原百々羽(2年) 蚕について地元の人が学ぶ理 | 2023-01-30 |
24 | | まとめ~武田信玄武将の起請文〔八三通〕~ | 写真の起請文は、武田信玄が配下の武将を、下郷(下之郷のこと。以下同じ)諏訪大明神(生島足島神社)へ集めて、信玄に絶対背かぬことを、神前で誓わせたものです。誓いの言葉を牛王紙の裏に書き、血判を押して、差し出させたもので、全国的に有名なものです。
この貴重な文書が生島足島神社に残っていることに歴史的な価値があると感じました。
https://museum.umic.jp/bunkazai/document2/089-1.html
武田信玄と信州は深い関わりがあり、その中でも生島足島神社に信玄がこだわったというのも面白く感じました。そして、信玄についてだけではなく当時の人びとがどのような宗教観や価値観を抱いていたのかを副産物として知ることができ、特定の人物だけでなく、社会がどのように動いていったのか文書から読み解けることにもつながることがわかりました | 2023-01-30 |
25 | | 桑原康盛等連署起請文 | この一族は、信州の海野幸貞の被官ひかん衆。桑原くわばら氏は更級郡桑原(千曲 市)、塔原とうのはら氏は筑北地方の塔ノ原(東筑摩郡明科町)を本拠とする海野氏血族である。山崎氏・城内氏も、筑北地方の地侍じざむらいであろう。誓詞の最後の条からみて、上杉氏の勢力と接する地域であるため、特に警戒されたようです。
起請文の内容はほぼ似ているようですが、これを含めた三通は特に従順な忠誠心を誓わせているようです。
https://museum.umic.jp/ikushima/kishomon/rokukajyo.html | 2023-01-30 |
26 | | 壱叶・三かわ連署願文 | この文書は戦国時代の武将室賀信俊の妻壱叶と、信俊の弟経秀〔の妻三かわが、武田信玄に従って出陣した夫〔の無事を、下之郷大明神(生島足島神社)にお祈りして差し上げた、お願いの文書で、願文といいます。戦国時代の女性の願文や女性の花押〔かおう〕(書〔か〕き判〔はん〕)を記した文書は、例が少なく大変珍らしいものであるそうです。
この時代の女性の苦悩がうかがい知れます。
https://museum.umic.jp/bunkazai/document2/089-5.html | 2023-01-30 |
27 | | 開善寺宛武田信玄定書 | この文書は現在上田市新田にある海禅寺が、戦国時代に小県郡東部町海善寺地区にあった当時、武田信玄が永禄5年(1562)11月7日、この寺に祈念を頼み、願がかなったときには、開善寺(海善寺・海禅寺)に、以前の通り土地を寄付することを約束した定書であるそうです。
https://museum.umic.jp/hakubutsukan/collection/item/0028.html | 2023-01-30 |
28 | | 真田氏最古の文書は信玄からの書状 | 「其の方年来の忠信、祝着に候。然らば本意の上に於て、諏方(訪)方(形)参百貫并ならびに横田遺跡上条、都合千貫の所これを進じ候。恐々謹言。
天文十九庚戌
七月二日 晴信(花押)
真田弾正忠(幸隆)殿」
この文書が効力を持つことになったため、上田の地にかなりの土地を得ることができたわけでありに幸隆の子昌幸が上田城を築くもととなったともみられる文書であり、その意味でも貴重なものであるとされています。
武田信玄は真田一族と深い関わりをもっていることがわかります。
https://museum.umic.jp/sanada/siryo/sandai/020202.html | 2023-01-30 |
29 | | 上田の名将とのつながり | 上田で最も知られる一族といっても過言ではない真田氏、なかでも真田昌幸は甲斐の信玄の元へ送られたと伝えられています。人質といっても、奥近習おくきんじゅう(小姓こしょう)として信玄に仕え、十四歳のときには、川中島合戦で初陣を果たしたそうです。
https://museum.umic.jp/jinbutu/data/051.html | 2023-01-30 |
30 | | 向源寺宛武田信玄朱印状 | この文書は戦国時代の永禄九年(一五六六)武田信玄が、重臣の三枝〔さいぐさ〕宗四郎昌貞に命じて「武田方の軍勢が向源寺(当時上田原にあった)境内で陣をとることを禁じ、もし命令に背〔そむ〕く者がいたら、子細〔しさい〕(くわしい事情)を申し出るように。」と、向源寺に伝えた朱印状だそうです(資料参照)。
信玄は信濃国へ、幾度か軍勢を出して合戦を繰りかえしています。このようなとき勢力下におさめた地域の主な寺や社を大事に扱うことが、民の心を安定させるために、大切であることを心得ていて、特に寺社に迷惑がかからぬよう、心配りをしていたことを物語る文書として貴重なものです。」
神仏への信仰心がもたらす力は信玄自身が一番実感していたがための行動だったのではないかと考えさせられます。
https://museum.umic.jp/bunkaza | 2023-01-30 |
31 | | 武田信玄願文(県宝) | 武田信玄は、上杉謙信との戦いに備えて、東信濃の名社生島足島神社に、願文を献げ、今後の戦について深く祈願するところがあったそうな。
これがその願文で、おわりに永禄2年(1559)と記され、信玄自筆のものといわれています。
「謹んで、下之郷諏訪大明神に申し上げます。私(信玄)は、越後の軍勢(謙信をさす)が攻めてくるので、戦うがよいかどうかト(うらな)ったところ”吉”という卦が出ました。そこでこの天の教えに従って出陣いたします。何卒私の軍に勝利を与えられ、長尾景虎(謙信)が逃亡するようお助けをお願いいたします。もし私が凱歌をあげて帰国しましたなら、今年から10カ年間、毎年青銅貨10緡ずつお社のために上納いたします。」
調べて知ったことですが、信玄は戦国大名の中でも占いマニアだ | 2023-01-30 |
32 | | はじめに~武田信玄と上田のつながり~ | 武田信玄は戦国時代に甲斐国(山梨県)の守護を独占してきましたが、一見関わりのなさそうな上田とはいったいどのようなつながりがあるのでしょうか?。
信玄は領地拡大のために信濃に侵攻した歴史が残っています。現在の上田地域を支配していた村上氏との上田原の合戦、砥石城の戦いで負け戦さとなったものの最終的には、村上氏をも越後へ敗走させ、川中島の戦いを経て北信濃までその支配下に治めたのがおおまかな史実です。
上田との関わりは、玄配下の武将たちが起請文を奉じた場所が生島足島神社であり、数多くの古文書が残されているという点です。
https://museum.umic.jp/ikushima/komonjyo/index.html | 2023-01-30 |
33 | | 土偶型容器について(2) | 出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/J-7533?locale=ja)
画像の土偶型容器の出土地は長野県上田市腰越。弥生時代(前期)・前4~前3世紀頃のものとされる。現在は東京国立博物館が所蔵している。
おそらく出土の際に頭部がなくなっていたのだろう。
土偶型容器は頭部が開いているものであるが、首がなくなっていることで体全体が空洞になっていることがわかる。乳房のような表現があることから女性をイメージしていると思われる。 | 2023-01-29 |
34 | | 土偶型容器について | 出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_item_images/tnm/J-7532?locale=ja)
土偶型容器(どぐうがたようき)
頭部が開いていて足の表現がない人型(ひとがた)の容器で、容器型土偶とも喚ばれる。中から焼けた小児骨が出土した例もあることから、再葬墓という当時の東日本で流行した墓制に関わるものと考えられている。
画像の土偶型容器の出土地は長野県上田市腰越。弥生時代(前期)・前4~前3世紀頃のものとされる。現在は東京国立博物館が所蔵している。
国宝の縄文のビーナス、仮面の女神と比べると険しい顔をしている。首や胴が長く頭が大きい、腕が体全体に対し短いというようにバランスはあまり良くないように見えるが、小児を表しているのではないかと考える。 | 2023-01-29 |
35 | | 長野県の土器について | 長野県では縄文遺跡が数多く発見されている。
現在、八ヶ岳西麓の茅野市尖石縄文考古館に展示されている国宝「縄文のビーナス」、国宝「仮面の女神」が有名だ。この2つの土器は、左右対称で美しい造形、ほぼ完全な姿での出土というような理由により国宝となった。
長野県内で出土された土器はどのようなものか探求する。 | 2023-01-29 |
36 | | 別所温泉森林総合センター | 森林公園(別所温泉森林公園)天神岳のふもと、別所温泉から車で10分、赤松と杉の林に囲まれた公園。森林総合センター、山菜料理、バンガロー、キャンプ、林間広場にはテニス場、フィールドアスレチック等ある。
別所温泉森林総合センター http://db.umic.ueda.nagano.jp/johogura/datadisp.php?arg_sano=2691026 | 2023-01-29 |
37 | | 愛染桂 | 当地方では稀にみる大木のカツラ(雄木)で樹高22m、目通り5.5m、枝張り14m。北向厄除観音の霊木とされている。近年境内にある愛染堂とこのカツラの木を結んで愛染桂といい、若者たちから縁結びの霊木として親しまれている。
川口松太郎の名作「愛染桂」はこの木からヒントを得たという説もある。
引用元
解説愛染桂(市指定天然記念物) http://db.umic.ueda.nagano.jp/johogura/datadisp.php3?arg_sano=668015 | 2023-01-29 |
38 | | 温泉薬師瑠璃殿 | 本尊薬師如来。北向観音堂の西方の崖の上に建てられた一風変わった建物で「医王尊瑠璃殿」と呼ぶ。建立年代は明らかでないが、資料によれば焼失した後文化6年(1809)に地元湯本薬師講中によって再建されたという。温泉の効能に併せて病気を除き解脱するという深い温泉薬師信仰に由来するものである。「瑠璃殿」という名は、薬師如来を瑠璃光如来とも呼ぶところからとった名である。
引用元
http://db.umic.ueda.nagano.jp/johogura/datadisp.php?arg_sano=668014 | 2023-01-29 |
39 | | 別所温泉石湯 | 別所温泉石湯石湯の表には、真田太平記の池波正太郎書「真田幸村公隠しの湯」の碑がたつ。
引用元
http://db.umic.ueda.nagano.jp/data/johogura/datadisp.php?arg_sano=2581061 | 2023-01-29 |
40 | | 別所温泉駅の歴史 | 別所せんはは大成10年に「川西線」として開業した。
当時「信濃別所駅」という名前で開かれ、昭和5年に、駅名が「別所温泉駅」となり、同25年に現在の駅舎が完成した。
この駅舎が一年で最も混雑するのは、大みそかから正月三が日まで。二年参りのときには終夜運転も行われ、北向観音に訪れる人たちでいっぱいになる。
引用元
Ueda City Database ( 3033024) https://museum.umic.jp/johogura/bessho/2691012/2691012.html | 2023-01-29 |
41 | | お菓子の歴史(洋菓子輸入時代) | 明治頃に、文明開化が始まり、外国の文化が日本に取り入れられ生活が変化していったが、それは菓子も含まれる。明治10年に洋菓子の輸入が5千円であったが、20年には1万円、30年には2万5千円で、38年には一躍して23万5千円とまで上昇し、短期間で需要がかなり増えた。洋菓子製法技術や洋風食材が導入され、相手先もオランダ、ポルトガルから、イギリス、フランス、アメリカに変化した。
ビスケット、キャンディ、チョコレート、キャラメル、クッキーなどが輸入され、日本での消費が増えると国内生産の方が儲かると考える人が出てきて、製造が始まった。日本で最初に作られた洋菓子は明治8年のビスケットで、東京京橋の風月堂が始めた。明治中期になると森永太一郎が森永製菓会社を作り、ビスケットやドロップス、キャラメルなどの洋菓子生産 | 2023-01-29 |
42 | | 菅平中の総合学習:まとめ | 菅平中の総合学習についてのまとめになります。
活動説明についてはスライドの前の投稿につけてあります。 | 2023-01-29 |
43 | | 仙石氏~松平氏 藩主の移り変わり | 仙石氏3代の後に上田藩主を務める松平氏は、上田藩の歴史の中で一番長い7代続くことになる。松平氏で初めて上田藩主を務めたのは松平忠周であるが、彼の時代に上田へ移封されたのだが、同じく但馬国出石(兵庫県)へ移封された仙石氏とは領地を入れ替わる形で上田を収めることとなった。
参考サイト
上田市デジタルアーカイブポータルサイト
https://museum.umic.jp/sakuhin/web.html
上田市立博物館
https://museum.umic.jp/hakubutsukan/ueda-castle-history/03/ | 2023-01-29 |
44 | | 初代上田藩主 真田信之 | 真田信之は初代上田藩主を務めた人物であり、上田城を築城した真田昌幸の息子である。信之は徳川家に仕える猛将本田忠勝の娘、小松姫と結婚し、関ヶ原の戦いでは父昌幸、弟幸村とは対立することとなる。その後は上田領を任され、農村の復興と上田城下町の整備に尽力したが、1622年に松代へと移封されることとなる。
参考サイト
上田市デジタルアーカイブポータルサイト
https://museum.umic.jp/sakuhin/web.html
上田市博物館
https://museum.umic.jp/hakubutsukan/ueda-castle-history/03/ | 2023-01-28 |
45 | | いなごの佃煮 | 県内全域の郷土料理。南信地域の伊那谷には、古くから昆虫食文化が根付いており、いなご、蜂の子、かいこ、ざざむしなどを食べる習慣がある。戦時中や戦後の食糧難では、少ない動物性たんぱくをとるための栄養補給源として食べられていた。いなごを捕って袋や容器に入れて一晩おき、お湯に通して洗う。洗ったいなごは、甘露煮や佃煮にすることが多い。昔に比べいなごの数も減少しており、生活や食文化の変化により各家庭で調理されることは少なくなってきたものの、今もなお伊那谷では昆虫食文化が残っている。
[いなごの佃煮 長野県 | うちの郷土料理:農林水産省](https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/inagono_tsuku_dani_nagano.html)より引用 | 2023-01-28 |
46 | | 戦前長野の農業形態⑥ | 当時に比べると長野でのイチゴは果物の中だとあまりメジャーではないように思われるが、輸送手段や保存方法が当時に比べると発達したため、他地域での生産もさかんになったからではないかと考える。
戦前の長野での農業について共通点も多く見られたが、現在と違う点も多くとても興味深いと感じた。農業に関して調べるうちにジャムのルーツにも触れることができ有意義な学習であった。 | 2023-01-28 |
47 | | 戦前長野の農業形態⑤ | 栽培されたイチゴは鮮度の問題から近郊には青果として、遠方には貯蔵できる形としてジャムにすることで販売していたようである。
この資料に加え、長野のジャムに関して調べてみたとこ
ろ、明治10年新宿で初めて日本でジャムが作られ、その四年後に企業として初めてジャムが作られた地が長野であり、長野は日本のジャム生産の先駆的な地のようだ。
信濃産業誌 完」
https://api.ro-da.jp/v1/shinshu-dcommons/library/02BK0102152899/images/629fa7724c1f448586380935d789259b.jp2/651,655,2070,3016/333,485/0/default.jpg
「日本におけるジャムの歴史」
http://www.sudo-jam.co.jp/tokusyu/20140210 | 2023-01-28 |
48 | | やたら | 北信地域の郷土料理。野菜や漬物を細かく刻んで混ぜ合わせたもので、夏野菜のふりかけのようなもの。みょうがやなすなどの夏野菜、ぼたんこしょう、大根の味噌漬けを刻んで混ぜ合わせ、あたたかいご飯にかけて食べる。「ぼたんこしょう」は、古くから地域で栽培されてきた青唐辛子のこと。やたらとなんでも入れたり、やたらと刻んだりすることから「やたら」といわれるようになったといわれている。そのため、家にある野菜を使って自由にアレンジできる。
[やたら 長野県 | うちの郷土料理:農林水産省](https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/yatara_nagano.html)より引用 | 2023-01-28 |
49 | | 松平忠固 | 松平家は仙石氏3代の後に上田藩主を務める事になった家である。その中でも特に功績を残したのが忠固であるといえるだろう。忠固は上田藩主だけでなく当時の江戸幕府老中も務めており、条約の締結や、開国が成された際に上田の特産物を貿易に用いようと提案した人物でもある。
参考サイト
上田市立博物館
https://museum.umic.jp/hakubutsukan/ueda-castle-history/03/
松平忠固史
https://www.matsudairatadakata.com/ | 2023-01-28 |
50 | | 戦前長野の農業形態④ | 次に紹介したいのは私がこの資料を閲覧していて一番興味を引かれたイチゴについてである。現在の長野ではあまりメジャーな果物ではないように思われるが、資料にあるように当時、長野で栽培されたイチゴはイチゴジャムとして使われていたようである。 | 2023-01-28 |
51 | | 山賊焼き | 中信地域の郷土料理。鶏の一枚肉をタレに漬け込み、片栗粉をまぶして揚げた料理。タレのベースの味は、醤油、味噌、塩など、地域によって様々である。名前の由来は諸説あるが、山賊は物を“とりあげる”から、“鶏を揚げる”料理を「山賊焼」と呼ぶようになったそうだ。
[タレのベースの味は、醤油、味噌、塩等店舗によって様々](https://www.nisshin-oillio.com/report/kikou/vol35.html)より引用
紹介したのはほんの一部だが、寒さの厳しい気候を生かした郷土料理や野菜が多いと感じた。日本はたくさんの自然に恵まれ、四季がある。近年、日本の文化の継承が危惧されているが、「郷土料理」という地域の個性あふれる文化を大切にし、郷土料理を通して地元の良さを改めて考えるべきだ。 | 2023-01-28 |
52 | | 戦前長野の農業形態③ | こちらは大麻に関する記載である。大麻といっても工芸作物の麻のことであり、麻袋や畳に使うようである。栽培方法や適する条件等も記載されている。栽培に関する条件は比較的緩いようだ。
「信濃産業誌 完」
https://api.ro-da.jp/v1/shinshu-dcommons/library/02BK0102152899/images/f65cc121f9b64b6cbf76b0a27d25cebd.jp2/493,541,4771,3136/852,560/0/default.jpg | 2023-01-28 |
53 | | 野沢菜漬 | 県内全域の郷土料理。寒さが厳しい長野県は、冬になると田畑から青ものはひとつもとれなくなるため、晩秋になると大量に保存用の漬物を仕込んだ。一石桶といわれる大きな桶で大量の野沢菜をつける。各地域や家庭によって漬け方は様々。そのまま食べたり、おにぎりやおやきの具材にも使われる。野沢菜には浅漬けと古漬けがあり、春先、発酵が進んで黄色く変色した古漬けは、酸味が強いが味わいがあり、油との相性がよく、炒めて食べたりもする。
[野沢菜漬 長野県 | うちの郷土料理:農林水産省](https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/nozawana_zuke_nagano.html)より引用 | 2023-01-28 |
54 | | おやき | 北信地域、中信地域の郷土料理。寒冷な気候のため、小麦や蕎麦が多く栽培され、小川村の縄文遺跡からは雑穀の粉を練って焼いた跡が発見されているほど歴史は古い。小麦粉と蕎麦粉を水または湯で溶いて練り、薄くのばした皮に具材を包み焼いたもの。包む具材は、なす、きのこ、かぼちゃ、切干大根などを味噌や醤油で味付けし、それを単体もしくは複数混ぜたものやあんなど様々な種類がある。
[おやき 長野県 | うちの郷土料理:農林水産省](https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/oyaki_nagano.html)より引用 | 2023-01-28 |
55 | | 戦前長野の農業形態② | まず始めに触れたいのが稲作である。資料に記載されているように川による豊富な水源、肥沃な土、夏期に暖かく、基本的に冷涼な気候であることから稲作が行われていたことがわかる。稲作に適する条件が現代と同じであり、当時から盛んに行われていたことがわかる。左のデータには作付量、反別、収穫高などが記載されている。
「信濃産業誌 完」
https://api.ro-da.jp/v1/shinshu-dcommons/library/02BK0102152899/images/75b5398006c44bf0b725eedac59bc2f7.jp2/620,642,1725,3035/308,542/0/default.jpg | 2023-01-28 |
56 | | お菓子の歴史(京菓子・上菓子時代) | 京菓子とは、一般的に京都で作られたお菓子のことをいい、江戸が中心だった江戸時代において、都である京の菓子を地方のものと区別して呼び始めた。
また、京都では宮中や公家、茶寺や茶家に献上する菓子のことを上菓子と呼んでいるが、江戸では駄菓子(雑菓子)の対抗する意味として使われた。当時の菓子司が作るものは、蒸菓子、干菓子、駄菓子(雑菓子)であり、上菓子司の作る雑菓子には、白砂糖が用いられ、品質こそ上菓子であった。安永・天明期になると、和菓子の技巧は江戸独特の個性も加わり、かなり発展している。
守安正 著『お菓子の歴史』,白水社,1965. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2507981 (参照 2023-01-28) | 2023-01-28 |
57 | | 手打ちそば | 県内全域の郷土料理。冷涼な気候で、米や小麦が栽培しづらい高冷地の農産物として育てられてきた。そばは、そばつゆにねぎとわさびを入れて食べるのが一般的だが、伊那の「高遠そば」は、そばつゆに大根のしぼり汁と焼き味噌を加え、奈川の「とうじそば」は鍋つゆに野菜や鶏肉などを入れて火にかけたものに、竹籠に入れたそばをしゃぶしゃぶのようにして食べたりなど、地域や産地によって様々な食べ方がある。
[おやき 長野県 | うちの郷土料理:農林水産省](https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/oyaki_nagano.html)より引用 | 2023-01-28 |
58 | | 鯉こく | 佐久市の郷土料理。二毛作の難しい佐久平では、水田を利用した鯉の養殖が行われている。「鯉こく」は大胆に筒切りにして味噌で煮た汁物で、砂糖や山椒を入れたり、鱗を取らないなど、調理方法は地域や家庭によって様々である。お正月によく食べられており、「病気をせず1年健康に過ごせるように」という思いが込められている。
[鯉こく 長野県 | うちの郷土料理:農林水産省](https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/koikoku_nagano.html)より引用 | 2023-01-28 |
59 | | メディアの活用について | プロジェクト研究のまとめです。 | 2023-01-28 |
60 | | 蚕について地元の人が学ぶ理由 | プロジェクト研究振り返り | 2023-01-28 |
61 | | 海野町レトロ写真館 活動報告 | 2019年度から2022年度にかけて、信州上田デジタルマップを活用のもと、上田市の海野町商店街に焦点を当てて、研究を行ってきました。 | 2023-01-28 |
62 | | ペグーの大臥像に見入る皇軍勇士(『ビルマ作戰 : 大東亜戰史』) | ビルマ(ミャンマー)に侵攻した日本軍が、ペグー(バゴー)の寝仏を見ている写真。
この写真が載っている本には、進軍している様子や戦っている様子、町の状況等の写真が多い。そのため、この写真のように戦いに関係のないものが載っていることに違和感を覚えた。
観光できるほど、英軍に圧勝であると伝えるためだろうか。それとも、ただ単純に近況報告をしているだけなのだろうか。様々な考察ができる。
▼この写真が掲載されている書籍は以下から参照できます。
国立国会図書館デジタルコレクション 『ビルマ作戰 : 大東亜戰史』,同盟通信社,1942年 | 2023-01-28 |
63 | | まとめ | 百数十年前の上田の地図をキュレーションしてみて、現在の地図とそこまで違いがないことに驚いた。当時の測量師の技術力の高さが垣間見える調査になった。また、地図を探すために上田という地域について調べ、それによって得られた知見というのがこの取り組みの一番の成果であると思う。 | 2023-01-28 |
64 | | 真田村① 本原村 | 真田村に関しても1958年10月1日に長村、傍陽村、本原村が合併しているため三つの地域を調査する。
明治18年。
https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/museum_history/03MP0301080170 (信州デジタルコモンズ) | 2023-01-27 |
65 | | 武石村② 下武石村 | 山脈まで細かく有地別に記録されていることが分かる。
https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/museum_history/03MP0301080410 (信州デジタルコモンズ) | 2023-01-27 |
66 | | 丸子町① 下丸子町 | 明治前期の下丸子町。現代の下丸子の姿に近い。
https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/museum_history/03MP0301080400 (信州デジタルコモンズ) | 2023-01-27 |
67 | | 上田町 | 上田町の明治時代前期の姿である。寺や神社が多いことが分かる。現在の上田町と比べても全く同じ名前の寺や神社が残っておりその中には江戸時代から姿を変えず残っているものもある。
https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/museum_history/03MP0301080250 (信州デジタルコモンズ) | 2023-01-27 |
68 | | お菓子の歴史(南蛮菓子時代) | 室町時代末期、ポルトガル人やスペイン人によって南蛮菓子が渡来した。南蛮菓子は、カステイラ(カステラ)、ボーロ、パン、金平糖、カルメラ、ビスカウト(ビスケット)などがあり、これらの菓子が後世の菓子に非常に大きい影響を与えています。
南蛮菓子は、砂糖の大量輸入と、砂糖菓子の製法を伝えて、無糖時代と有糖時代の間に明確な一線を引いただろう。
守安正 著『お菓子の歴史』,白水社,1965. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2507981 (参照 2023-01-27) | 2023-01-27 |
69 | | はじめに | 上田市によると、『平成18年3月6日に、旧上田市、旧丸子町、旧真田町、旧武石村の1市2町1村が合併し、新しい「上田市」が発足しました。』とある。そのため上田の過去の資料を調査するにあたって上の4地域に分割して比較していく。
参考
”合併(平成18年3月6日)に関すること”,上田市,2019-12-12https://www.city.ueda.nagano.jp/soshiki/gyokan/6028.html(2023年1月27日閲覧) | 2023-01-27 |
70 | | お菓子の歴史(点心時代) | 菓子は一日二回の食事の間に食べる間食用として長く続いていたが、鎌倉時代になると都会では三食制となったため、菓子は嗜好品になり、一般庶民からは縁のないものになった。
そのころ、茶が日本に渡来して、喫茶が流行した。その際に使用する菓子を「点心」と呼ぶ。もともと、点心とは定食と定食との間の小食であり、間食やおやつを意味する。点心には主に羹(あつもの)という汁と、まんじゅう類があり、それぞれ多くの種類がある。これらが和菓子の発展に繋がっていった。
守安正 著『お菓子の歴史』,白水社,1965. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2507981 (参照 2023-01-27) | 2023-01-27 |
71 | | 尺貫法からメートル法へ(1933) | メートル法に関するプリントを、生徒の各家庭に配布したという記事である。この記事の翌年の1934年に、日本従来の尺貫法が廃止され、メートル法が取り入れられた。これまで使ってきた単位を、使わないようにしなければならないと考えると、当時の学生はとても苦労しただろう。教育において、使用する単位を変えるということはとても大変なことだ。
#507 「西塩田時報」第114号(1933年5月1日)3頁
https://mmdb.net/mlab/uedagaku/pdf/nishishioda/ns07_101to120.pdf | 2023-01-27 |
72 | | 皆勤賞(1928) | 1928年の西塩田村の学校における、皆勤賞に関する記事である。この記事を見て、当時から学校を休まないことを表彰する文化があることが分かった。また、25%もの生徒が1年間皆勤賞というところを見て、現在よりもはるかに高い数値に驚いた。おそらく当時は、今よりも学校を休んではならないという風潮が強かったのであろう。もしくは、外で遊ぶことが多かったから体が強かったのだろうか。
#234 「西塩田時報」第54号(1928年5月1日)2頁
https://mmdb.net/mlab/uedagaku/pdf/nishishioda/ns04_041to060.pdf | 2023-01-27 |
73 | | 蚕種業における歴史的建築物について | かつて蚕種業で栄えた上田を参考に地域を活性化していく方法を模索した。
建築物の特徴としては、作業を行いやすいよう、屋敷をつなぐ渡り廊下跡があり、温度調節のための木造の暖房施設があった。発展を示す跡として、屋敷が多く建ててあり、家紋付きの瓦や蔵など当時の発展の象徴が多くあった。
今回の建築物は上田市上塩尻の建築を参考にさせていただいたが、養蚕に関わる設備跡はもちろん、目地時代当時の発展の様子や当時の文化を表すもの(家紋・猫瓦)が実在する資料として現存していた。これらの建築物は国登録有形文化財にもなっており、価値が高いものになっている。
今回のイベントを介して、建築物を見学することができたがそれらを通して、別の気づきがあった。地域の方が蚕種業の歴史を詳しく知らない方がほと | 2023-01-27 |
74 | | くるみ生産量一位の長野が作る信州の銘菓 くるみのハーモニー | 引用元:https://www.usagiya-ueda.com/blog
香ばしいビスケットの中に、ミルクキャラメルを絡めたくるみがたっぷりと詰められた人気のお菓子「くるみのハーモニー」。くるみの生産量全国一位の長野県が生んだこのお菓子は、おいしさが人気の理由なのはもちろんのこと、焼き色よく、サイズ感もかわいらしく、見た目も愛されるひとつの理由になっています。
そのパッケージデザインはいたってシンプルに仕上げられています。
お菓子の第一の特徴であるくるみのイラストが表面に印刷されており、あとは商品名が記載されているのみ。
歴史にゆかりある上田の地らしさがにじみ出たデザインだと感じました。商品の包みが和紙のような質感になっていることもこれを助長しているように見えます。 | 2023-01-27 |
75 | | かわいい見た目に全世代から人気のお菓子 餅屋伝助のウサギ餅 | 引用元:https://ueda-tabi.com/mochiyadensuke/
ウサギの形に丸めた可愛いお餅の中に、餡が入ったお菓子です。ウサギ餅はカスタードクリーム、カマンベールチーズ、チョコレートの3種類。上品な甘さがあり、ふんわりもちもちな食感、口溶けの良い柔らかなお餅に餡がマッチしていて、どの世代の人からも人気のお土産として愛され続けています。
この商品でのデザイン面を考えるにあたって着目すべきは本体のかわいらしいウサギの形でしょう。
ウサギの顔をデフォルメ化し表現したものや、簡単に耳のみを焼き目としてつけているものなど、昔から変わることなく愛されているこのデザイン。変にモダンチックな凝った仕上がりでなく、このような親しみやすい見た目だからこその愛され度合だと感じました。 | 2023-01-27 |
76 | | 上田人気のご当地グルメ「美味だれ」 | 引用元:https://oidareyakitori.jp/
上田市のご当地グルメとして有名な美味だれ焼き鳥。そこに使用されるニンニクが入った醤油ベースのたれはお土産としても人気です。
この製品のパッケージデザインには一目で上田らしさを感じられる六文銭が採用されています。また製品名のタイポグラフィーもシンプルながら伝統を売りにしていることが伝わる字体で、赤基調に黒文字といった色彩も真田を想起させてくれて、よく考えられたデザインだと感じました。 | 2023-01-27 |
77 | | 防空講習(1937) | 1937年7月7日に当時の上田中学校で、防空に関する講演があったと書いてある。防空とは敵の空中からの攻撃から身を守ることである。1937年7月7日は日中戦争が開戦した日であり、当時の学校にも戦争に対する緊迫感が漂っていたことが予測される。
#738 「西塩田時報」第165号(1937年8月1日)2頁
https://mmdb.net/mlab/uedagaku/pdf/nishishioda/ns10_161to180.pdf | 2023-01-27 |
78 | | お土産の定番! 信濃路うさぎやのくるみそば | 引用元:https://www.usagiya-ueda.com/
上田お土産の代表格ともいえる、蕎麦粉の皮で餡を包んだ、素朴で美味なお菓子「くるみそば」。
サクッ ホロッとした風味漂う皮部分に上に乗ったたっぷりのくるみ、中に詰められたネットリ食感の飴・餡、上田市民含め多くの人たちに愛され続けています。
この製品のデザインを見ていったとき一に目につくのは、パッケージの背景として描かれた水彩画調の植物の数々でしょう。原料に自然豊かな地だからこそのそばやくるみを使用しているこの製品らしさが表れているように思います。またタイポグラフィーも習字調で歴史ある製品なのだなということを強く感じさせてくれます。 | 2023-01-27 |
79 | | はじめに | 私は、大正・昭和初期における教育の特色について調べていきたいと思う。西塩田時報の学校行事などについて書かれた記事を参照して、当時どのような教育が行われていたのかを解き明かしていく。また、当時、軍国主義となっていった日本だが、教育にはどのような影響が及ぼされたのかなども詳しく見ていきたい。 | 2023-01-27 |
80 | | 長野伝統のお菓子 みすゞ飴 | 引用元:https://misuzuame.com/sp/ame/
みすゞ飴は、国産果実を寒天・グラニュー糖・水飴で固めた、長野県の伝統的な乾燥ゼリー菓子です。
その歴史は長く、100年も前から信州上田のちでも愛され続けています。
上田土産の代表格のような存在であるこの製品のデザインは、製品同様オレンジを基調とした色彩豊かなデザインで、また習字調のような少々独特な字体で印刷された商品名は、伝統を重んじ、歴史ある信州地域の名産らしさをある意味表しているようでなんともしっくりくるように感じます。パッケージデザインには製品に使用されている果実も印刷されており、一目見て商品の要素が伝わることも良さの一つでしょう。 | 2023-01-27 |
81 | | 唐菓子について | 奈良時代から平安時代にかけて遣唐使によって唐から伝来した唐菓子は,米粉や小麦粉を捏ねていろいろな形に作り,油で揚げたり,焼いたものである。
日本や仏教の世界でお供え物とされるほどであり、当時はとても高価でめったに食べられないものであったが、現在では限られた和菓子店だけではあるが、手軽に食べることができる。
写真は岡田哲「食文化入門-百問百答-」から抜粋 | 2023-01-27 |
82 | | お菓子の歴史(上古時代~唐菓子時代) | 日本のお菓子の歴史はとても古く、約2000年前の上古時代といわれている。菓子の名称については色々な説があるが、初めは「古能美(このみ、木の実)」、「久多毛能(くたもの、果物)」であり、現在でいう菓子とは違っている。
現在の菓子は唐菓子時代(奈良朝平安朝初期)に輸入された唐菓子が始まりとされている。
守安正 著『お菓子の歴史』,白水社,1965. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2507981 (参照 2023-01-27) | 2023-01-27 |
83 | | 別所温泉駅 | 別所温泉には上田駅から上田電鉄別所線にのり別所温泉駅で下車することで行くことができる。
乗車時間は30分である
引用元:信州上田景観100選 | 別所温泉駅 https://museum.umic.jp/keikan100sen/detail.php?photo=31-1_31-2&dir=1031&area=%E4%B8%8A%E7%94%B0&cattext=%E3%81%BE%E3%81%A1%E3%81%AA%E3%81%BF%E3%83%BB%E9%83%BD%E5%B8%82%E6%99%AF%E8%A6%B3&imgtitle=%E5%88%A5%E6%89%80%E6%B8%A9%E6%B3%89%E9%A7%85&imgtext=%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E3%81%8B%E3%82%89%E6%AE%8B%E3%82%8B%E3%80%81%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%82%E3%82%8B%E7%B5%82%E7%9D%80%E9%A7%85%E3%81%AF%E6%97%85%E3%81%AE%E5%A7%8B%E3%81%BE%E3%82%8A&glat=36.353&glng=138.162&access=%E4%B8%8A%E7%94%B0%E9%A7%85%E3%81%8B%E3%82%89%E4%B8%8A%E7%94%B0%E9%9B%BB%E9%89%84%E5%88%A5%E6%89%80%E7%B7%9A30%E5%88%86%E3%80%8C%E5%88%A5%E6%89%80%E6%B8%A9%E6%B3%89%E9%A7%85%E3%80%8D%E4%B8%8B%E8%BB%8A%0D%0A | 2023-01-26 |
84 | | 別所温泉の歴史 | 塩田平を囲む山なみの西方にそびえる夫神(おがみ)岳のふもとに、この地方の古い歴史とともに、絶えまなく湧き続けて来たのが別所の温泉である。この自然の出湯と人とのかかわりは、夫神岳の麓から古代の布目瓦が多数発掘されたことによっても、その古さが想像される。
国造や国府の所在していた古代から、庶民の安息療養の場所であり、また温泉の効能と医薬信仰が、やがて仏教の霊場としての北向観音堂となったであろう。
別所の温泉は昔から”七久里(ななくり)の湯”と呼ばれたといわれ、平安時代の有名な和歌集にもその名をとどめている。
鎌倉時代には北条氏の居館塩田城にも近いので北条一族の好んで来湯することも多かったと想像される。国宝八角三重塔のある名刹安楽禅寺は北条氏の開基によるところから、別所とい | 2023-01-26 |
85 | | 上田市の自然文化について | 別所温泉は、信州最古の歴史を持つ七久里の湯と呼ばれる温泉を持ち、平安時代の有名な和歌集にも記されている。安息の場として栄えた別所温泉は、かつて真田幸村の隠し湯があったとも言われていて、1500年以上の歴史を持っているとされている。
また別所を含む塩田平は、信州の鎌倉とも呼ばれ、温泉に限らず多くの文化財が残されている。
「幕宮池」と呼ばれる池は、日本で最も降雨量が少ないとされる位置にあり、多くのため池が作られた場所である。
〈参考資料〉
https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/others/01DD001H230003
https://adeac.jp/shinshu-chiiki/catalog/mh055500 | 2023-01-26 |
86 | | 持続的な地域活性化~大洗モデル~3 発表(最終)版 | プロジェクト研究の足跡をまとめた発表資料になります。
それぞれの実施内容はこのマイテーマ(プロジェクト研究・卒業研究)をご覧ください。
持続的な地域活性化策~大洗モデル~とは、大洗町において持続的な地域活性化策というテーマを研究する者であり、卒業研究、地域活動という視点から3つの取り組みを行い、そこで得た知見を大洗町にフィードバックするものです。
茨城県大洗町とは茨城県東部に位置する小さな観光都市で、海が観光資源となっています。また、アニメ『ガールズ&パンツァー』を利用したコンテンツツーリズムを10年間推進しています。
その一方で、人口減少、海水浴客の減少、町の活気のなさといった社会課題を抱えています。
そこでまず実施内容1として、「create owarai」に参加しました。この「create owarai | 2023-01-26 |
87 | | みすず飴のデザイン | 画像引用元:https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwiWoaP98-T8AhV1plYBHZdnCXAQjBB6BAgNEAE&url=https%3A%2F%2Fmisuzuame.com%2Fsp%2Fame%2F&usg=AOvVaw1an-aePxECBjNJ0dsY_4LF
上田のお土産というと思い浮かぶものの一つとして、みすず飴が挙げられる。みすず飴のデザインで特徴的なのは文字のフォントである。おなじみのフォントになっているので、誰もが手に取りやすくなっていると思う。今後も、このデザインは継承していくべきだ。また、透明なパッケージにすることで、みすず飴のカラフルさが際立っている。 | 2023-01-26 |
88 | | 上田紬のデザイン | 日本らしさが残るデザインになっているため、観光客の目にとまりやすいと感じた。また、近年では若者向けにデザインされるお土産が多い中、伝統的な要素が前面に出されている。
画像・資料参考元:みんなで作ろう信州上田デジタルマップ
投稿者名:あやか様 | 2023-01-26 |
89 | | 前川ゼミレポート | 私は、なぜ上田氏は真田氏のPRに固執するかについて疑問を持ったため調べることにした。というのも、上田市には別所温泉近辺にたくさんの歴史的建造物があり、「信州の鎌倉」という別名まで付けられるほどのだからだ。そして「別所温泉」という名前自体は全国的にもある程度知られている。まったくの無名の観光地をアピールするわけではないのになぜここを差し置いて真田氏に固執するのだろうか。
真田氏に固執する理由として思いついたのが歴史好きに対するアピールの強さだ。二度にわたる上田の戦い・大阪の陣で有名な真田幸村にゆかりのある地(真田村)であることから、上田城や真田氏についてアピールできる。だが、この真田氏についてもやや疑問がある。一般人に「武将の真田」と言って思い浮かべるのは真田幸村だろう。この真田 | 2023-01-26 |
90 | | 戦後80年で人々の価値観はどう動いたのか | 戦後日本において、新幹線が開通し、オリンピックが開催され、インターネットが普及する間に、日本人の価値観・人生観はその生活の様相とともに大きく動いてきたように思われる。そこで、戦前の人々の価値観は、現在を生きる我々から見ていかに違うのかを研究する。
本記事では西塩田時報第百八十二號第五頁を取り上げて述べる。
「幹部修養講習會に出席して」という項目は、「原田晴章」なる人物が、「三好武治」なる人物の講演の一端を書くというもの。講演の内容は、主に支那事変(日中戦争の、当時の日本での呼び名の一つ)についてのものである。
「日本で今度の事變での勝利は精神力である」
「支那事變は世界に類の無立派なる所の正しき戰争である」
このような記述がある。やはり根拠のない精神論や戦争を美化する意 | 2023-01-26 |
91 | | 上田蚕種協業組合 | 上田蚕種協業組合は、大正5年に地元の蚕種家が出資して上田蚕種株式会社として設立したのが始まりである。現在の事務棟・採卵室など主要な建物が翌6年に完成した。その後、昭和45年から現在の社名となっている。最盛期には22万箱の蚕種をこの組合から出荷していた。
「上田蚕種協業組合」より
https://museum.umic.jp/bunkazai/document/dot25 | 2023-01-26 |
92 | | 常田製糸場 | 【概要】
常田館製糸場は明治33年(1900年)創業の製糸工場である。笠原工業株式会社構内に常田館製糸場に関連する施設15棟が現存しており、そのうち明治から大正時代にかけて建てられた7棟が平成24年に国の重要文化財に指定されている。国内最高層の木造5階建繭倉庫、大正時代末の鉄筋コンクリート5階建倉庫群などは、製糸技術が発達した時代の先人達の工夫と知恵の足跡が歴然と残る貴重な文化遺産である。
【歴史】
嘉永5年(1852)諏訪郡平野村に生まれた笠原房吉(かさはらふさきち)が、明治33年「常田館製糸場」を創業した。以来110年余、製糸業の隆盛と衰退のなかで、製糸工場建物は増築・取り壊し・焼失・改築・移転・用途変更等の紆余曲折を経ながら今日に至っている。
【現在】
笠原工業(株)では施設の一部を一般公開している。
公開 | 2023-01-26 |
93 | | 上田の食文化⑥ 〜フルーツ編〜 | 長野県はぶどうやりんごがとても有名なのは知っていましたが、普通に道沿いにある木にりんごがよく生えていたり、道にりんごがころあっているのをよく見かけるので、それぐらいよく採れるものかとびっくりしました。
1番驚いたのは、写真のようにりんご畑に大きな穴が掘ってあって、そこに大量のりんごが入れられてたことです。
直売所にいけばとても安く売っているので、フルーツ自体も好きですし堪能してます。巨峰大好きなので、安くおいしいものが気軽に買えるのでとても嬉しいです。 | 2023-01-26 |
94 | | 別所温泉の魅力を塩田平活性化に活かす | 別所温泉には落ち着くカフェ、きれいな景色など様々な魅力があります。
ただ道が狭く、坂も多いため、観光が大変という面もあります。
そこで超小型車の活用やガイドの方を募り、車で移動しながら、そしてガイドの方の説明を聞きながら、別所温泉を観光するというのも良いのではないでしょうか? | 2023-01-26 |
95 | | 蚕都上田の歴史と未来 | 私は「蚕都上田の歴史と未来」というテーマで蚕都について探求しました。より考えを深めるために計四か所の施設に見学に行きました。
一枚目の写真は上田駅の構内に設置されている繭の女神様です。蚕糸業の全盛期時代である大正時代から蚕は上田の地を支える存在であったことが分かりました。
二枚目、三枚目の写真は常田館製糸場と上田蚕種協同組合事務棟です。製糸場は繭の乾燥や保管のために多窓式になっているなど建物ごとに様々な工夫が見られました。製糸場の建物15棟中7棟は国の重要文化財に、事務棟は文化庁の登録有形文化財にそれぞれ指定されています。四枚目の写真はホール、美術館などの複合施設であるサントミューゼです。名前の由来は蚕都からきており、人々の交流の場として上田市には欠かせない存在になっています | 2023-01-26 |
96 | | 市街地方面の神社・寺院と真田氏 | 上田城周辺には、神社・寺院が多数存在する。しかも、同じような場所に集まっている場合が多い。これは、地域のシンボルである上田城に深く関わってくる。1583(天正11)年、上田城を築城した真田昌幸は、城下町として海野町を作った。これは、先祖の地である海野郷(現在の東御市本海野)より、新たな本拠地近くに住民を移住させたことに由来する。それに伴い、海野郷近辺にあった寺院を城の近くに移した。例えば願行寺や日輪寺といった寺院がこれに該当し、真田氏の先祖である海野氏が開いたとされる場合が多い。特に願行寺は、江戸時代に上田藩の菩提寺になったほど、この地域や人々に深く根付いていたと考えられる。また海野町には、商売繁盛を利益とする高市神社がある。これは昌幸がつくったものだ。
このように、上田城を築城す | 2023-01-26 |
97 | | ”温泉”という身近なお風呂 | 住んでいる中で一番、観光する目的が明確にある場所といったら別所温泉であるといえる。
なぜ目的が明確にあるのか。
それは、上田市に住んでいる学生は実家を離れてアパートなどで一人暮らしをしている人が多い。
そのため、お湯を沸かしてくれるリモコンなどの設備が無いため、シャワーだけで済ます人がほとんどである。そのため、温泉という「湯船」に気軽に浸かれる場所というものはとても貴重である。さらに、今の時期(これを書いている日付は2023/01/27)は寒さが厳しく給湯器が凍ってしまいお湯が出にくいという人も大勢いるのではないだろうか?
そのため、風呂に行くという目的の下、温泉に観光に行けるのではないだろうか。
別所温泉付近だけでも約7箇所あるため、1週間ごとのシフトを組んでみて赴いてみるというのも面白いかも | 2023-01-26 |
98 | | 平成の食 | 味噌や醤油は、以前では村で共同の場を設けて作っていたが、それがほとんどなくなった。原材料の生産減少や、労働の変化によって、かかる時間自体が少なくなったことも、関係しているようだ。漬物については、野沢菜漬けやタクアン漬けなどは昔からつくり続けている家庭が比較的多いようだ。また、酢漬け、粕漬けなどは新たに作られるようになり、ラッキョウ漬けや福神漬けは作ることをやめる家庭が多い。しかし、若者を中心に漬物を食べる量が減り、今後にも変化が大きい食であるようだ。 | 2023-01-26 |
99 | | 平成の食 | 山菜や雑キノコは、傾向としては採らなくなった人が多いようだ。しかし、趣味的な面も伴って、わざわざ上田地域外に出向き、採っている人もいる。タンパク源としてのイナゴ、ドジョウ、タニシなどは数も減り、食べられなくなった。その背景には水田への農薬散布が関係しているとのこと。肉や主に海の魚は店で買えるようになったため、その種類が増えたり、以前よりも多く食べられるようになった。。 | 2023-01-26 |
100 | | 平成の食 | 副食物に関して、食べられる野菜の種類は大きくは変わらないが増えた。しかし、以前はほぼ自給自足であったのに対し、大規模な店で買うことが増えた。その背景には、野菜の消費量が減った一方で、店で常時安く野菜が買える環境が整ったことが挙げられる。また、高原野菜や果樹の販売目的での栽培が増えた事で、以前より多くの種類の野菜は作られなかったことも考えられる。増えた野菜の種類としては、タマネギや中国野菜、西洋野菜がある。 | 2023-01-26 |