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現代に繋がる主導的産業の偏移について
幕末の開港によって長野県は地域経済を世界につなげることになった。そこで長野県を国外まで広げる一翼を担ったのは生糸でした。 長野県は外国との交流が始まると、器械製糸を取り入れ、養蚕や蚕種業の技術開発や改良に力を入れました。それで、蚕糸王国と呼ばれることになったわけです。長野県の近代のあゆみは養蚕や製糸業の盛衰に左右され長野県の命綱は、蚕糸業であったと断言して過言ではありません。 長野県の製糸業は県外や外国にまで進出し、日本の製糸の中心となります。なので、長野県内のいたるところの農家では養蚕が営まれました。 蚕糸業は大正時代から昭和初年にかけて全盛期を迎えますが、1929年(昭和4)からの世界大恐慌の影響をうけ、製糸業を営む会社の倒産が相次ぎ、繭価の価値の大暴落のため生活を養蚕に
2022-08-10
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上田と生糸貿易‐2 ~蚕種の大量輸出~
蚕種は蚕の卵を指す。幕府は民間人の蚕種輸出を禁じていたが、横浜港開港当初より、蚕種の密輸が横行した。そのため、1865年に幕府が民間人の蚕種輸出を認めると、蚕種輸出はますます盛んになり、相場も高騰していった。このような背景としては、当時ヨーロッパに蔓延していた蚕の微粒子病の存在があった。ヨーロッパ諸国はこれにより良質な蚕種を求めていたのだ。長野県では上田が特に蚕種の生産地であり、上田は明治初期には実に日本の3分の1を生産していたという。このような蚕種輸出の高騰状態は、1870年の普仏戦争の勃発により沈静化し、その後暴落の一途をたどってしまうが、上田の蚕糸業がこれをきっかけに発展したことは想像に難くないであろう。 画像は「蚕紙」wikipediaより URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9A%95%E7%B4%99#/media/%E3%83%95%E3%82
2020-07-08
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蚕種(1)
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