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1信州上田学・地域連携パートナー事業アグロフォレストリープロジェクト活動記録2信州上田学・地域連携パートナー事業アグロフォレストリープロジェクト活動記録2信州上田学〜地域連携パートナー事業アグロフォレストリープロジェクトでは、長野大学地域づくり総合センターと(一社)信州上田里山文化推進協会が連携して、古くから自然と調和していきてきた先人の知恵を伝承し、次世代の若者が地域資源を活用して自らの力で未来を開いていくための人づくり、地域づくりを行っています。  塩田平・別所温泉地区を中心に、上田市は、「レイラインがつなぐ太陽と大地の聖地〜龍と生きるまち」として、日本遺産になっています。学生たちも龗や九頭竜大権現を祀る男神岳、女神岳に抱かれた民話や雨乞い祭り、文化財について学びました。   今年の8月、10月には、ボランティアガイドの会など他の地域団体とも共同して、日本遺産に認定された塩田・別所地区の文化財についてレイラインの観点から方位や日2022-01-05
2信州上田学〜地域連携パートナー事業アグロフォレストリープロジェクト活動記録1信州上田学〜地域連携パートナー事業アグロフォレストリープロジェクト活動記録1信州上田学〜地域連携パートナー事業アグロフォレストリープロジェクトでは、長野大学地域づくり総合センターと(一社)信州上田里山文化推進協会が連携して、SATOYAMAイニシアチブにもとづずいて、古くから自然と調和していきてきた先人の知恵を伝承し、次世代の若者が地域資源を活用して自らの力で未来を開いていくための人づくり、地域づくりを行っています。今年のアグロフォレストリープロジェクトには、地域の若者、移住者とともに、長野大学の学生が29名(福祉学部4名、企業情報学部1名、環境ツーリズム学部24名)が参加し、若者の視点で見た里山の魅力を絵地図にしました。  持続可能な社会づくりに向けて、自然と調和してきた里山の暮らしを発信していく、SATOYAMAイニシアチブにもとづき、住んでいる人にはあたりまえすぎて気づかない魅2022-01-05
3ここらへんで一旦まとめここらへんで一旦まとめなんで上田探検をしているののか、それはゲームを作りたいからです (なんでわざわざ”ゲーム”なのかというのは「どうして地域資源で遊ぶの?」の記事を参照) 参照とは書きましたが一応なんとなく概要だけ。ホビーとして地域資源を発信すれば興味が無い人でも巻き込めるかなって思っているからです。さわりだけでも「こういうのがあるんだ!」みたいな感覚になって上田に触れる人が一人でも増えてくれたら嬉しいです。 さて、ここまで色々なものを見てきました。古墳、池、景色と。 それをどうゲームにまとめるか。 https://docs.google.com/document/d/1moarKFrUze8l2_XUbDJjwM9SZ0_LW3H7RcgTzq4o_4A/edit?usp=sharing 原案としてはこんな感じにまとまっております。 簡単に説明しますとマップは別所線区間内で行う陣取りゲームです。 特産品などを宣伝だった2021-12-22
4太郎山山頂太郎山山頂太郎山の山頂です。もっと良い場所から写真撮りたかったんですが、人がいっぱいいたのでちょっと難しかったです。上田市全体が見れますし、一応ここからも富士山を見ることができるらしいです。2021-12-22
5富士山?富士山?太郎山は富士山が見える山というので、実際に見える場所に行きました。正直富士山が見えると分かっていないと見えなかったと思います。一応富士山らしきものは撮りました。時期や天気が悪かったのかもしれません。2021-12-22
6太郎山道中太郎山道中太郎山道中の写真です。Jルートから登って2km地点を過ぎたあたりです。もっと早い時期に来れば良かったです。2021-12-22
7上田自然運動公園上田自然運動公園上田自然運動公園には体育館プールを中心に、マレットゴルフ場アーチェリー場がある。周囲は四季折々の鮮やかな顔を見せてくれる。敷地内にはひょうたん池という小さな池があり、コガモやカルガモなどの数種類の水鳥が生息していた。コガモは水中に顔をつけながらぐるぐると回り食事をしていて愛らしかった。長野大学からも近いため水鳥を見たい方は行けば愛らしい水鳥の姿が観察できるだろう。2021-12-22
8あんかけ焼きそばとの出会いあんかけ焼きそばとの出会い 以前から耳にしていた「上田に来たならあんかけ焼きそばを食べるべき」というおすすめを聞いて、気になっていました。バス停から少し上り坂を上ったところにあるお店「しんりん」さんで無事いただくことができました。  酢とからしをかけて食べた方がさらにあんかけ焼きそばの真価を味わえたと思いますが、忘れてしまい、かけずに食べきってしまいました。  それらを抜きにしても、濃すぎず、冷たい体に染みるような、ちょうど良い温かさのあんかけと、焦げ目がついて香ばしい味がするちりめんが程よいバランスでとても美味しかったし、ボリュームがあるあんかけ焼きそばをお腹いっぱい食べることができて、あんかけ焼きそばへの好感度が上がりました。 発祥は、真田坂を上った先にある海野町商店街を左折したところにある福2021-12-15
9メロディー装置メロディー装置加舎白雄四季の歌というものが聴けるメロディー装置を見つけた。何回もここを通ったことはあるが、こういったものが置いてあることを今回初めて知った。スタートボタンを押すとこの歌が流れ、流すのも止めるもの手動なのがシュールで面白かった。2021-12-21
10明治・大正期における上田の金融の歴史について明治・大正期における上田の金融の歴史について・テーマ選定理由:上田はかつて蚕糸業が発達した地域であり、それに伴って金融業が栄えた歴史があることを知り、興味を持ったから。 ・何を調べる:明治・大正期の金融に関する資料、年表を当たり、それによって当時の上田が全国的にどれぐらいの規模で経済的に栄えていたのかを調べる。 ・具体的な資料:国立国会図書館資料、去年授業で扱った上田市誌データ、附属図書館内の書籍2021-12-21
11上田城散策② 本丸東虎口上田城散策② 本丸東虎口上田城後のシンボルとされ、昭和34年に長野県宝に指定されているという本丸東虎口。そう言われているだけあって迫力がすごかった。2021-12-21
12上田城散策① 真田石上田城散策① 真田石大きな石垣が目を引く真田石。真田信之が父の形見として持って行こうとしたが微動だにしなかったという言い伝えがあるそう。どこの石垣を見てもそうだが、どういった技術で石をこんなに高く積んだのかとても気になる。2021-12-21
13温泉(大湯・石湯・大師湯)温泉(大湯・石湯・大師湯)大湯 北条義政や木曽義仲が愛妾である葵御前としばしば入浴したと言われている。北条義政が浴室を建てたことから「北条湯」、葵御前にちなんで「葵の湯」とも呼ばれていたが、後にその溢れ出る湯の量の多さから「大湯」に改められた。 石湯 池波正太郎の代表作「真田太平記」で真田幸村と女忍者・お江が、ここ石湯で出会いその後結ばれるというエピソードから真田幸村の隠し湯であったと言われている。 大師湯 天長2年(825年)比叡山延暦寺の座主円仁慈覚大師が北向観音建立のために来る度に、好んで入浴したことからこの名がつけられた。かつては、北向山に参詣した籠の者が夜通し入れ替わりで利用したため籠の湯とも呼ばれていた。また、昔矢傷を負った雉子(キジ)が傷を癒やしたことから「雉子湯」と呼ばれたこともあった。2021-12-21
14鬼女紅葉伝説鬼女紅葉伝説この伝説は諸説あるが、その中の一説を紹介する。 会津の子供に恵まれなかった夫婦が子どもを授かった。幼名を呉葉(くれは)といった。京にのぼり源経基(みなもとのつねもと)公に仕えたが、美貌と 才気が公の心をとらえ寵愛を受けるようになり懐妊した。紅葉は公の愛を独占するに御台が邪魔になると、魔性を現わし、御台を殺そうとした。そのことが発覚して、信州に流され、戸隠山麓の荒倉山に棲むようになった。信州では京を恋う毎日だったが、或る朝、顔を洗おうとしてふと水面を見ると角が生えた鬼の形相に映った。そこで紅葉は、心を鬼にし、武力を貯え都に力づくで押しのぼろうと決意、盗賊の頭となり、悪事を働いた。あたりの人々を悩ませる鬼女紅葉のことは京にも伝えられ天朝に達し平惟茂(たいらのこれもち)が勅命を受けて紅葉2021-12-21
15別所温泉別所温泉温泉地では日本で3番目の歴史を持つと言われている信州最古の温泉。日本武尊が東征の際に出会った老人から「この山中に七つの湯が沸き出て、人々の7つの苦を助ける」と教えられ、7つの湯が見つかった。そこで東征の兵士たちが、この湯につかって疲れを癒やすことができたことから「七苦離の湯」、その後この湯が永く栄えるようにと「七久里の湯」と呼ばれるようになったとされている。2021-12-21
16蚕の歴史蚕の歴史小学生の頃、何気なく蚕を学校で育てていた。しかし、蚕についてよく知らなかったのでこのテーマにした。 蚕の歴史や蚕の糸から作られる製品などを中心に探求していきたい。 関連のあるWebサイトを調べたり、できれば実際に製糸場に訪れたいと考えている。2021-12-21
17こぶたやこぶたや 大正時代の蔵を再生した豚肉料理の老舗である「こぶたや」。私は小さいころから、お祝いの日によく連れて行ってもらっていたお店で、美味しさは昔から変わらずである。  今回はランチメニューの「ロースかつ定食」を注文。衣がサクサクとしていて、お肉は柔らかく、噛むとジューシーさが口の中で広がった。値段の方も量の割には安く、満足のいくものとなっており、どおりで昔から来店しているわけだなと納得した。2021-12-21
18塩田平 地形塩田平 地形塩田平は典型的な盆地であり、かつて湖であった場所が産川や浦野川によって埋め立てられたものと考えられている。また、特徴的な地形として、鴻ノ巣バッドランドが挙げられる。バッドランドとは、「無数のかれ谷が密に深く刻み込まれ急斜面の斜面と、細かなひだが入り組む複雑に発達した水系網を特徴とする地形」(引用)地質を反映した地形[国土地理院]バッドランド (2021/12/21閲覧) である。 写真の黄色くマークされた場所は、鴻ノ巣バッドランドの場所である。もう一枚は、地理院地図3Dの鴻ノ巣バッドランド3D地形である。 参考・出典 地理院地図Vector[国土地理院]鴻ノ巣バッ2021-12-21
19「上田市の主な工業」まとめ「上田市の主な工業」まとめ今回、上田市内における十の企業を調査気づいたことをまとめていきたいと思う。 まず一つは、やはり機械・精密機器製造が盛んであったということだ。上田市は隣接する坂城町同様に機械・精密機器を工業の強みとしているという情報は調査前に持っていたが、実際に具体的な企業を通じて知ることができた。逆に、針や食料品などの製造にも大きな役割を持っているということも確認でき、多様性も見ることができた。 次に、全国、または世界に展開する企業が複数あったということだ。上田という地から多くの製品が広がりを見せていくというのは、上田で学ぶ人間として驚きであり、誇らしいことでもあった。 今回は数多く存在する中小企業に触れることができなかったために調査結果としては物足りなさがあるが、上田市の工業における一般2021-12-20
20上田らしさ上田らしさ上田駅のすぐ近くにあるこの水車。そして銅像。初めて上田駅に訪れた時から感じてはいたが、駅の改札を抜けてからここまで市の特徴が入りやすい駅は興味深い。というのも、私は、駅はその場所のファーストインプレッションであり、その地域の雰囲気を掴む大切な場所だと考えている。駅の中で目にしたモチーフ、上田であれば真田という大きな売り出しポントが駅の中にも、街の中にも全面的に出されているのが非常に面白く、街を歩くのが楽しかった。2021-12-20
21別所温泉駅②別所温泉駅②別所温泉を出てすぐには古い電車や名物のおはぎやだんごを売っているお土産屋さんが2つほどあり、少し遠いですが下っていくとあいそめの湯という温泉もあった。この付近はかなり道が綺麗にされていた。 逆に坂を昇っていくと別所温泉遊歩道になり、石湯などいくつかの温泉や北向観音があった。標識がいくつか建っていて、外国語表示のものもあり観光地としてかなりいいと思った。しかし、駅を出て遊歩道に向かう途中から道があまり舗装されておらず歩きにくい印象を得た。舗装されているのが駅前の少しの範囲だけなのでそこを改善出来たらいいと思う。また、フィールドワークで来るまでおはぎやだんごが名物として売られていることすら知らなかった。2021-12-20
22別所温泉駅から上田の現状を見る別所温泉駅から上田の現状を見るフィールドワークの時間を使いほとんど行ったことのなかった別所温泉駅へと出向いた。ほかの別所線駅との違いとして、上田駅以外にはトイレなどはなく最低限の椅子しかないところが多い。しかし別所温泉駅は駅にトイレもあり、観光案内所やしっかりとした待合室が備えられていた。また、歓迎を表す置物や旗が、さらにはレンタル自転車まで置かれており電車を利用したお客さんにとってはかなり素晴らしいのではないかと思った。しかし、別所線でこのレベルなのはここと上田駅だけなのでほかの駅の質素さも目立ってしまうと感じた。2021-12-20
23柳町散策 柳町散策 柳町散策も終盤になるとある小さい橋と川についた。そのときはここが何という橋で何という川かわからなかったが、調べてみると「神宮橋」「矢出沢川」というらしい。2021-12-20
24柳町散策② ルヴァン柳町散策② ルヴァン天然酵母によるパン作りをしている「ルヴァン」。Instagramでよく見かけていたお店が柳町にあることを知らなかったので、見つけた際はテンションが上がってしまった。 スコーンを食べたがカラントが入っていてとても美味しかった。お店の方からおまけでパンもいただいて幸せだった。2021-12-20
25柳町散策① 柳町屋柳町散策① 柳町屋柳町を進んでいくと赤いのれんが目を引く「柳町屋」というお店を発見した。上田ブランド研究所のラボショップだそうだ。そこでアップルたまごタルトを購入した。軽食にぴったりでとっても美味しかった。2021-12-20
26呉市の歴史呉市の歴史地元である呉市は、日本でも数少ない軍港であり、かつてはとても栄えており、昔の貴重な資料や、町の良さを投稿することで、多くの人に見てもらうことができると考え、テーマに選んだ。 軍港としての街ということを中心的に探究していきたい。2021-12-18
27山道の役割山道の役割色々な山道を通ってきてわかってきたことは、町から町へ通り抜けるための山道と、ドライブスポットとしての山道に分けられることだ。 通った道の例を挙げると、前者は鳥居峠や新地藏峠が当たる。しかし、新地藏峠に関しては真田町やそれより北の地域から長野市に行くときは近道になるが、上田市街地からなら街中を通った方が近道になる。 後者は、美ヶ原公園西内線・長野県道178号・ビーナスライン、記事には上げていないが室賀峠等が挙げられる。 平地の道路網が発達するにつれ、走りにくく時間のかかる峠道の使用率は減り、廃道化の進む道が出てくるのだろう。2021-12-17
28県道178号はなぜ冬季通行規制がされないのか県道178号はなぜ冬季通行規制がされないのか冬の山道は通行規制がされる場合もあるし、されない場合もある。 その違いは何だろうか。 規制は降雪による雪崩や落石の危険や、事故が起こる可能性が高くなるなど、交通の危険防止のために行われる。 県道178号がビーナスラインや美ヶ原公園西内線のように規制が行われない理由を考察してみた。 全ての道を走行してみて分かることは、道の狭さこそあれ178号が美ヶ原まで最短で登れる、かつキツいカーブが少ない道であることが分かった。 地図で178号と他の道を見比べてみると一目瞭然だ。 観光資源としての美ヶ原へのアクセスのため、相対的に危険の少ない道を通れるようにしているのだろう。2021-12-17
29ビーナスラインへビーナスラインへ県道178号を登りきると、冬季通行規制のかかっていないビーナスラインにぶつかる。 除雪がしてあるので、比較的安心して通行ができる。 しかし、端に雪がたまっており、通常より狭くなっているので注意。 昼間でも一部凍結路面もあり。2021-12-17
30長野県道178号長野県道178号長野県道178号は冬季通行規制の無い道路だ。 この道は通行規制の無い分部のビーナスラインにつながっており、冬でも美ヶ原にアクセスすることができる。 道は広いところもあれば、幅員が狭い場所もある。 狭いブラインドカーブでは対向車が来ないか特に注意が必要だ。2021-12-16
31鍛冶屋の仕事~鉄とくらし鍛冶屋の仕事~鉄とくらし当時の町や村には、それぞれ必ず1軒か2軒の鍛冶屋があった。 そこでは、鍬、鋤、鎌などの農具や斧、蛇包丁などの日用品がつくられていた。この鍛冶屋は、野鍛冶ともいっていた。 鍛冶屋では、新しいものをつくるだけでなく、古くなって刃の減ったものを鍛えなおして再び使えるようにする先掛けも行っていた。 鍛冶屋で何度も再生された鉄製品を当時の人は最後まで大切に使った。2023-05-06
32上田における交通の2大生命上田における交通の2大生命上田における交通関係において車と電車って便利に動くなら欠かせないですよね。別所線が無くなったらものすごく困るみたいな人も多いんじゃないでしょうか。 これって欠かせないよねっていう要素がある状態の時、つまりそれを利用する人が割合で見ると多いんだと思います。 つまり、少なからずそれが何かしらの危機に陥ったとき「守ろう」という連帯感が生まれる根源になるとも言えます。 実際、鉄橋が被害を受けたとき(その時ここにはいなかったので現地がどうだったかは分かりませんが)、端から見てる分には重要な要素なんだなっていうのが伝わるぐらい連携しているように見えました。 血液というか血管というか、そういった循環器的な役割が確立されているとそこを中心に施策を考えたり出来る、つまりベースが定まっているので2021-12-15
33キャラクターがいると魅力的に感じるキャラクターがいると魅力的に感じる別所線のキャラクターの「北条まどか」さんってちゃんとストーリーがあるみたいですね。僕は最初見たとき、あんまり言い方は良くないと思うんですけど看板として使われてる存在なのかなって思いました。 でもちゃんと調べてみるとしっかり練られたストーリーと立ち位置があるみたいですね。 長いのでここでは割愛しますがウェブで見られる絵本的なものもあるみたいですよ。 さて、このようなキャラクターがいることでどのような効果があるか。一瞬は目をとめますよね。さらに、ちょっと調べてみようってなったらその地域資源についても触れるきっかけになりますよね。そうやって輪を広げていくための役割を担えるのがキャラクターだと思っています。 ただ、ちょっと残念だなと思ったのが物語に触れるきっかけがあんまし見当たら2021-12-15
34人が集まれる大きな施設人が集まれる大きな施設突然なんですけどサントミューゼってすごいいいですよね なんでかっていうと、入学式だったりで人を大勢入れられるキャパシティがあるから。 僕も入学式と講義で何度かお邪魔させていただいたんですが、大ホールの他にスタジオだったり練習室だったりいくつも部屋があるんですよね しかも美術館も併設されてるから何度行っても飽きることが無い場所ですよね 集まれる場所って、一体感が生まれたり、そこを中心に網が広げるみたいなことが出来る「拠点」的な役割を果たしてくれると私は考えているので、地域資源の中で実は「建造物」っていうカテゴリでくくるなら城とかよりも重要な位置づけにあるんじゃないのかなって最近は思ってますね。2021-12-15
35ルヴァン信州上田店ルヴァン信州上田店天然酵母パンの先駆けとして有名なお店。暖かい色の照明で照らされた店内は、お店というより工房のようで、どことなくホッとするような雰囲気。今回はスコーンをいただきました。ナッツとベリーが入ったシンプルなスコーンでしたが、とてもおいしかったです。おまけにつけていただいたパンも天然酵母ならではの味わいでした。2021-12-03
36家庭メモ(『西塩田時報』第73号(1953年10月5日)4頁家庭メモ(『西塩田時報』第73号(1953年10月5日)4頁当時の法務省民事局参事官平賀健太氏が講義を行った「戸籍」についての記事である。 戸籍の話から住民票や選挙権、戦没者の身分証明に至るまで、戸籍の重要性を講義している。 戸籍の届け出が正確ではなかった当時の様子がうかがえる内容である。 ▼この記事は以下から参照できます。 #318 『西塩田時報』第73号(1929年12月1日)4頁2021-12-15
37農民への問いかけ農民への問いかけ地元の農民に対して役人に搾取される人生で良いのかと、もっと考えながら生きた方が良いと問いかけていたのが、面白かった。 ▼この記事は以下から参照できます。 『西塩田時報』https://d-commons.net/admin/content_edit.php?id=5840#photo_gallery2021-12-15
38戸籍の話(『西塩田時報』第73号(1953年10月5日)4頁戸籍の話(『西塩田時報』第73号(1953年10月5日)4頁当時の法務省民事局参事官平賀健太氏が講義を行った「戸籍」についての記事である。 戸籍の話から住民票や選挙権、戦没者の身分証明に至るまで、戸籍の重要性を講義している。 戸籍の届け出が正確ではなかった当時の様子がうかがえる内容である。 ▼この記事は以下から参照できます。 #318 『西塩田時報』第73号(1929年12月1日)4頁2021-12-15
39卒業生名簿(『西塩田公報』第47号(1951年3月10日)2頁)卒業生名簿(『西塩田公報』第47号(1951年3月10日)2頁)この記事は、当時の卒業生の名前が書かれており、しかもフルネームである。 現代の学校では名簿を世間に出すことさえも厳重な取り扱いを求められているが、この時代には時報に載っている。 個人情報保護などは考えられていなかった時代ならではの記事で面白いと思った。 ▼この記事は以下から参照できます #1124 『西塩田公報』第47号(1951年3月10日)2頁2021-12-14
40児童の体格について(『西塩田時報』第2号(1923年9月1日3頁))児童の体格について(『西塩田時報』第2号(1923年9月1日3頁))この記事は当時の児童の体格について書かれている。また、日本全国と長野、西塩田小学校の3つの児童の体格の平均が比較されている。比較した後に、身体の発達に家庭でも一層のご注意を、などといった文面も見受けられる。 現代においても、このような記事を目にすることは多いのではないか。当時の記録がデータとしてしっかり残っている点が興味深かった。 ▼この記事は以下から参照できます #7 『西塩田時報』第2号(1923年9月1日)3頁2021-12-14
41さよなら「西塩田公報」過去の苦楽もまたなつかしい(『西塩田公報』第104号(1956年5月5日)4頁)さよなら「西塩田公報」過去の苦楽もまたなつかしい(『西塩田公報』第104号(1956年5月5日)4頁)この記事は西塩田時報の最終刊の投稿である。 西塩田時報が地域で長く親しまれ人々に影響をどれだけ与えてきたのかが分かる内容だった。 西塩田時報がどれだけ優れた公報だったのか、どのような苦労や地域との関わりがあったのか読んでいてとても面白かった。 最終刊にあたり長く親しまれてきた公報が戦争を受けた言論統制以外での理由で廃刊を受けた人々の惜しい気持ちが当時の西塩田時報の立ち位置を示しているようで興味深かった。 ▼この記事は以下から参照できます。 #1346 『西塩田公報』第104号(1956年5月5日)4頁2021-12-14
42ビタミンの話(『西塩田青年団報』第5号(1946年12月25日)3頁)ビタミンの話(『西塩田青年団報』第5号(1946年12月25日)3頁)記事では、ビタミンは人間が生きていくうえで不可欠な物質であるとした上で、摂取すべき食材が各ビタミンごとに示されている。 ビタミンB1不足によって起こる脚気はかつて国民病であったというが、戦後になって知識が広まり、食料不足も次第に解消されたことで、ようやく解決に向かったのだろう。 ▼この記事は以下から参照できます。 #973 『西塩田青年団報』第5号(1946年12月25日)3頁2021-12-14
43かつての成人の願い(『西塩田時報』第78号(1930年5月1日)3頁)かつての成人の願い(『西塩田時報』第78号(1930年5月1日)3頁)コラムを書いた筆者が、戦争の傷が残る子ども時代に見た大人の世界は、 生きるために血眼で戦う醜い世界。 そんな時代の先で彼が望んだのは、何か世の中の役に立つ人間になることだった。 生きるために戦うことの醜さを知らない現代の日本の大人たちは、 戦いの時代になったら、彼にとっての醜い大人になってしまうのだろうか。 私は世の中の役に立つ大人になりたいとは思うものの、そういう人にならない確証は無い。 なるべく避けたいものだなと思った。 現代では多分考えないだろうこの価値観が面白いと思った。 ▼この記事は以下より参照できます #337 『西塩田時報』第78号(1930年5月1日)3頁2021-12-14
44記念『西塩田時報』第100号(1932年3月1日)記念『西塩田時報』第100号(1932年3月1日)記念すべき第100号でこの時報ができた話やその前身について触れていた。昔の人もこのような節目を大切にしていて現代の人と同じ感覚なのが興味深かった。2021-12-14
45『児童の体格について』(『西塩田時報』第2号(1923年9月1日)3頁)『児童の体格について』(『西塩田時報』第2号(1923年9月1日)3頁)記事では日本全国・長野・西塩田小学校の児童の体格の平均を比べたもので、この村の児童の体格があまり良くないということが述べられている。 3つのデータから、どういった児童がどのような部分で全国・長野の平均を上回っているのかがよくわかる。 地域を感じさせる記事で興味深かった。 この記事は以下から参照できます #7 『西塩田時報』第2号(1923年9月1日)3頁2021-12-14
46タイムカプセル!塩尻小学校郷土資料館の撮影タイムカプセル!塩尻小学校郷土資料館の撮影10月20日~10月29日にかけて、塩尻小学校の郷土資料館に保管されている資料・道具の撮影を行いました。 このプロジェクトは、過去に使用されていた道具・地域資料のデジタル化を行い、地域の文化伝承を促すために発足されました。 今後、撮影した写真(資料)ごとに解説を添えたwebサイトが解説される予定です。 保管されている道具は大変数が多く、興味深かったです。2021-12-13
47戦後前の記事戦後前の記事戦前の最後の記事を見て、思ったよりも平和であり、地域のため池の話などをしている点が面白かった。 https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0974.jpg2021-12-13
48ああ、感激の優勝旗(『西塩田時報』第204号(1940年10月31日)6頁)ああ、感激の優勝旗(『西塩田時報』第204号(1940年10月31日)6頁)この資料は、上田市営運動場という場所で行われた体育大会の様子を記している。上田市営運動場という場所を調べて見たがどの施設のことを指しているのかがハッキリしなかった。というのも、この運動会が開催された昭和15年(1940年)には上田城跡公園陸上競技場はあったが、当時から陸上競技場という名で呼ばれていたと思われるため(勝俣英吉郎の銅像に記されている碑文に陸上競技場と記されていることから)、運動場という名前で新聞に載せるかどうかが怪しいと判断したためである。この体育大会では現在も競技として残っている100M走や800Mリレーの他に、バトンの代わりに俵を用いたリレーや手榴弾投という現在にはあまり聞かない競技が記されている。 現在の新聞では大会が開催されたことを掲載する際は、結果しか載せないことが多い2021-12-13
49農村の若人に(一)(『西塩田時報』第121号(1933年12月1日)4頁)農村の若人に(一)(『西塩田時報』第121号(1933年12月1日)4頁)この文章は、匿名のYさんから農村の若者に向けた物である。 世界は戦争や疫病により、落ちぶれてしまっている。世界では資本主義や社会主義、科学を主体とする思想も広がっている。日本もそれを色々と真似ようとしているが、執筆者から見たら、立派な青年(日本)が不良な青年(外国)と遊んでいて悪い癖を覚えさせられているように感じられているそうだ。現に世界恐慌の際、労働者と資本家も苦しんでいる中で、大資本家や国際的な資本家は卑しく笑っていた。また、人間は自ら見つけた科学を全力で成長させてきた。その科学は完全に人間の上に立ち、一切の指令権を持つようになり、人間は科学に職を追われ科学の犠牲になりつつある。歴史ある美しき日本を守れ。そして、大和魂を持って世界を再生することが使命である。 ある程度理解2021-12-12
50知って居て重宝な家庭メモ『西塩田公報』第95号(1955年8月5日)4頁知って居て重宝な家庭メモ『西塩田公報』第95号(1955年8月5日)4頁「知って居て重宝な家庭メモ」というタイトルで、衣類にチューインガムがついた時の取り方など生活の豆知識が記載されている。 地域の出来事が多く書かれているイメージだったのでこの様な内容が書かれていて面白いと感じた。 この記事は以下から参照できます。 #1310 『西塩田公報』第95号(1955年8月5日)4頁2021-12-11
51第三農村の疲弊(『西塩田時報』第124号(1934年3月1日)1頁)第三農村の疲弊(『西塩田時報』第124号(1934年3月1日)1頁)私が興味を引かれたのは、「第三農村の疲弊」という記事。 インフレ景気において利潤を得る都市部の市場と比較し、経済状況に苦しむ地方農村の状況を述べている記事だった。 私が面白いと思ったのは、地元紙であるからこうした苦境に立たされている農村の人々に寄り添い、政治に批判的な内容を書くのかと思いきや、逆に自分たちの批判的な心を改めるべきだと述べている事だ。戦争が近づく中で、国に対する忠誠心なども高められてきたことも関係しているのだろうか、と推測でき、興味深かった。 この記事は以下から参照できます。 https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0549.jpg2021-12-11
52朝鮮人の結婚式(『西塩田時報』第4号(1924年4月1日)4頁)朝鮮人の結婚式(『西塩田時報』第4号(1924年4月1日)4頁)私が興味を引かれたのは、「朝鮮人の結婚式」という記事。 これは朝鮮人の結婚形態を日本との違いも踏まえて紹介した記事だったが、興味を引かれたポイントはその内容ではなく、この記事が発行された年。 この記事が発行されたのは大正13年(西暦1924年)で、大正12年の朝鮮人大虐殺が起こった関東大震災の一年後だった。関東では朝鮮人への憎悪が残っていたであろうこの時代に、地方では朝鮮人の和やかな記事が出せたというのは、当時はそれだけ都市と地方が隔絶していて情報が行き届いていなかったのだろうか、とか、地方の人々はそもそも他人事で憎悪を感じていなかったのか、といういくつかの推測を私に抱かせた。 真偽のほどは不明だが、歴史的背景を含めて考察ができるというのも、貴重な価値を持つ文献だと思った。 この記事は以2021-12-11
53復幸りんご復幸りんご台風災害から2年が経ち、ボランティアなどで助けていただいた方々に対して、地元の大学生が「復幸りんご」として農家の方と共同で作っていた。 そのリンゴの特徴としては、リンゴに模様を描くこと。リンゴは日が当たった部分が赤く色付くため、まだ青いうちに折り鶴シールを貼り、周りが赤く色付いたらシールを剥がすことで日の当たらなかったシールの部分が模様となる。気になる方は検索してみては。2021-12-06
54リンゴの新たな可能性リンゴの新たな可能性台風19号災害をきっかけにSNSを活用した事で、リンゴの新たな可能性を見出した農家の方。SNSという地理的距離がない媒体を利用することで、今までして来なかった洋菓子店とのコラボレーションを通して長沼(信州)のリンゴを全国に広げる活動を始めている。2021-11-29
55長沼地区  歩き2長沼地区 歩き2以前はまだ色付いてはいなかったが、今回再び訪れてみると沢山のリンゴが赤く色づいていた。今年も収穫が行えそうだった。2021-11-08
56長沼地域 歩き長沼地域 歩き画像のリンゴは「ふじ」というリンゴを代表する品種。まだ赤く色付いてはいなかったが、多くの実がなっていた。もうすぐ災害から2年が経つ中でこれを見ることができよかった。2021-10-08
57台風19号災害から2年…りんご農家の今台風19号災害から2年…りんご農家の今2019年10月13日、台風19号により千曲川の氾濫が引き起こされた災害から2年が経った。当時、千曲川から水と共に流れてきた泥などが地面に堆積、あるいはリンゴが水に浸かるなど、リンゴ農家にとって甚大な被害となったが、その後数ヶ月に渡るボランティア活動によって堆積した泥は撤去された。しかし、収穫時期真っ只中だったこと、住居・農機具様々なものが被災したことは想像以上に深刻なものだった。 復興していく中で、ある農家の方が方法の1つとして始めたのがSNSだった。当時は現状を伝えるものでしか無かったが、次第に励ましの声やオンラインでの販売など、SNS活用の可能性が広がっていった。農家の方によれば、そういった励ましの声が一番の復興の力になったそう。 2年が経過した現在、さらにSNSの可能性が広がり「復興りんご」2021-10-26
58新地藏峠新地藏峠県道35号長野真田線 新地藏峠は、真田と長野市を結ぶ山道。 写真は撮れるような場所がなかったので文章だけで。 この峠には、進行方向を180度変える「ヘアピンカーブ」と呼ばれるカーブを始め、きついカーブが点在している。 加えて高低差もあるので、かなり走りがいのある峠になっている。 道幅も狭くはないので、山道を楽しむには十分。 夜間、この道も凍結することが予想されるので注意を。2021-12-01
59菅平ダム菅平ダム上田の降水量が少ないために、昭和41年から昭和43年にかけて建設されたダム。 菅平発電所もともに建設された。 あまり水が貯まっているようには見えなかったが、降水量が少ないからなのだろうか。 長野県公式HPによると、5月初旬ごろに満水になり、放流も運用開始から10数回程度しかしていないそう。 全国でもまれな利水ダムということで、発電や灌漑に使われている。2021-12-01
60鳥居峠鳥居峠鳥居峠は、長野県の上田と群馬県の嬬恋村にまたがる山道である。 今の時期夜間はアイスバーンが起き、灯りもないので危険な時がある。 しかし、昼間で気温が上がっていれば走りやすい道でもある。 上田から温泉で有名な草津方面に行くためには山を越えないといけないが、東御市の方から超えるよりも鳥居峠を通った方が、運転の負担も少ないだろう。 日本百名山である四阿山への登山道もあるが、一般車では入っていけないようなので注意。2021-12-01
61上田駅前探索2上田駅前探索211月後半のこの時期になってくると駅近くのアリオでイルミネーションが見られた。駅周辺の街もBGMがかかっていたりしてかなり雰囲気が良くなっていて良いと思った。(夜の写真を撮り忘れました)2021-11-30
62自由画作品の名札作り自由画作品の名札作り山本鼎の部屋から預かった児童の作品に名札を貼る作業を行いました。私は制作年と学年、氏名、整理番号を名札に書く作業を行いました。90年ほど前の児童の作品がかなり多く、今でも大切に保管されていることがすごいなと思いました。鉛筆一本で書かれた絵や水彩画のような絵など、どの絵も一生懸命に描かれていて作品を見るのが面白かったです。中には氏名が不明の作品もありましたが昔の作品を実際に見ることができ、貴重な経験でした。2021-11-29
63#りんご県のおみや#りんご県のおみやりんごの甘酸っぱさと、口当たりの良いバタークリームがおいしい、すっきり食べられるお菓子でs。 長野県といえば、全国的にもりんごの産地として有名です。上田もその例外ではありません。 明治七年(1874年)から栽培が始まり、善光寺への参詣客に売っていました。世界恐慌でそれまでの主要産業だった養蚕業が打撃を受けたことをきっかけに、りんご栽培が盛んになりました。当時は味が不評だったため、同じくりんごが特産の青森県を真似て、「紅玉」と「国光」の品種を中心に栽培されるように。 「水はけの良い土地」、「昼夜の気温差」がりんごの生育に適しており、8月~2月にかけてが旬と、おいしく食べられる期間が長いことが特徴。 りんごの名前の初めに「サン」がついているものは、袋をつけないで作られたりんごで、太陽光2021-11-23
64六文銭六文銭お店の名前から真田の家紋が思い浮かびます。 このお店はとんかつが有名です。(開店前でした) どの品もボリュームがあり、サクサクできたてのとんかつやメンチカツを頬張ることができます。 お腹も舌も満足する一品が味わえます。2021-11-17
65大正二年上田町市街図大正二年上田町市街図測量による地図が作成されるようになったため、方位・縮尺が地図に記入されるようになり、凡例にある地図記号も用いられるようになった。しかし、かなり簡略化された地図だ。地図からは、市街地の周囲は水田や畑が広がっていたことがわかる。 大正期の上田は、養蚕業とその関連産業が隆盛を極めており、市街地北方に「大星川原種桑園」、南方に「鴨池種桑田」などの広大な桑園が見られる。 また、「上田蚕糸専門学校」(現信州大学繊維学部明治44年開校)、「小県蚕業学校」(明治25年開校、大正12年現在の上田東高校の地への移動)も見える。2023-05-06
66前山寺までの道中前山寺までの道中自転車移動の最中、看板を見つけました。 看板一つでこんなに見所がある塩田町はどんなところなのか… しおだの町中を自転車で走っていると、至る所にため池があり、地元では見たことがなかったので、違いを感じました。2021-11-17
67山から山から前山寺に向かう途中にある公園からの風景です。 澄んだ空気が気持ちよく、見晴らしが良かったです。 長い上り坂だったので疲れがありましたが、この風景を見て達成感がありました。2021-11-17
68舌喰池舌喰池この池は2000年前からある非常に歴史が深い池である。 さて舌喰池とは物騒な名前だ。諸説あるがこの名前の由来は水漏れがひどかったこの池を改修するとき堤の真ん中に人柱を入れなければ効果がないと言われ、くじ引きで人柱に選ばれた娘が舌を噛み切って自殺してしまったということからこの名前が来ている。その他にも塩田地方では土手の崩れることを「くいる」といい、土手を築くたびに下が崩れる「したくいる」が舌喰になったという説もある。 水鳥も飛来しており、カイツブリなどの様々な水鳥を見ることができる。 そのほかにも池のほとりはかなり広く芝生が生えきれいに整備されているので、池や水鳥などを眺めながらのピクニックにも絶好の場所となるだろう。 またこの池は全国ため池100選にも選ばれている。近くには資2021-11-17
69前山寺の三重塔前山寺の三重塔紅葉の季節真っ只中の秋の前山寺は、銀杏が見頃でした。 立派な門をくぐってすぐに目に入ったのは、前山寺の有名な「三重塔」でした。迫力があるのはもちろん、散る銀杏の葉と塔のコントラストが綺麗で、写真を撮りたくなりました。風が強い日だったので落ち葉も多かったのですが、銀杏の葉が黄色い絨毯のようになっており、境内が色づいていました。 三重塔は国の重要文化財にも指定され、元弘年中(一三三一年)讃岐国善通寺から来上した長秀上人により正法院を現在の位置に移し、前山寺を開山したと伝えられています。 前山寺のHP→ https://www.zensanji.info/2021-11-17
70寺下駅前寺下駅前寺下駅の目の前に川が流れているのですが、ただでさえ道が狭く車が怖いのににガードレールがなく川に落ちてしまうのがさらに怖かったので改善した方がいいと感じた。2021-11-17
71あいそめの湯②あいそめの湯②信州最古の温泉といわれている別所温泉であるが、あいそめの湯に飾られていた別所温泉の歴史が書かれたものがあったので、自分でも深く調べてみた。 別所温泉は景行天皇の時代、日本武尊の東征の折りに発見されたといわれている。または平安時代(794年-1185年)中期の女流作家、清少納言によって書かれた「枕草子」にある「湯は七久里の湯、有馬の湯、玉造の湯」という一節の中の「七久里の湯」が起源ではないかという説もある。 12世紀に入ると別所は木曽義仲(源 義仲)信州を平定するために派遣した軍勢によって火を放たれ、多くの寺院建築が灰になってしまったが、大悲殿ならびに安楽寺の八角三重の塔だけは焼失をまぬがれた。その後、焼失した別所の寺院は源頼朝、次いでに塩田北条氏によって再建されることとなった。そして、こ2021-11-16
72あいそめの湯あいそめの湯あいそめの湯に行ってみました。 塩田といえば別所温泉。 別所温泉の泉質は皮脂を溶かして古い角質層を軟化させ、その効用で肌がすべすべになるといわれています。 実際に入ってみると、硫黄のにおいがして、温泉に入っている感が凄かったです。2021-11-16
73上田紬を学ぶ④上田紬を学ぶ④りんご染めの糸で作られた上田紬です。黄色からグレーに近い色まで、りんごの品種によってその色は様々です。商品名にりんごの品種が書かれているものとそうでないものがありますが、書かれているものはその品種のみで染められたものでそうでないものは何種類か混ぜて染められたものだそうです。 りんごという長野県の特産品を染料に使うことで、上田紬が長野県のものであると強調することにつながっています。2021-11-15
74紅葉紅葉博物館の投稿から一回脱線して大手門公園近くの紅葉を。赤くなり始めた葉っぱたちがなぜか曇り空に映えていてとてもきれいでした!葉と流れる水との相性も良かったです。2021-11-15
75上田紬を学ぶ①上田紬を学ぶ①写真1枚目は紬糸を染色する作業場です。 今回見学させていただいた小岩井紬工房さんでは染料に化学染料とりんごの木を使っているそうです。手前のバケツに入っているのが染料になるりんごの木です。 写真2枚目は紬糸の原料となる繭です。 もともと上田紬は生糸にできない質の悪い繭から作った紬糸を使った、庶民が着るための服でした。しかし今では手作業で紬糸を紡ぐほうが逆にコストがかかってしまうため、昔のような手軽さはなくなってしまいました。2021-11-15
76日昌亭日昌亭 上田市民のソウルフードと言ったら、「あんかけ焼きそば」。その「あんかけ焼きそば」を食べることが出来るのが、昔から地元の人たちに愛されている「日昌亭」である。 また、「日昌亭」には本店と支店があり、私は支店の方へ行った。お店の中に入ると内装はシンプルで、「静か」というのが第一印象であったが、メニューを選んでいるときや頼んだものを待っているときの厨房から聞こえてくる調理音。これがまた気分を落ち着かせるような感じでとても良かった。 本題の「あんかけ焼きそば」だが、あんかけたっぷり、野菜たっぷりで麺はとてもパリパリ。そして、麺は脂濃くなく、しっかりと焼かれているのがはっきりと分かった。 さらに、からし酢もお好みでかけることが出来て、かけるとガラッと味の印象が変わり、より一層美2021-11-15
77ぶしもりや めんめんぶしもりや めんめん赤坂駅近くにある、つけ麺専門店。このお店では、豚骨魚介スープの「ぶしもり」が一番人気で、もちろん私はこれを頼んだ。麺の量や温度など色々と変えることが出来、私は麺の量「基本」、麺の温度「あつもり」にした。今回の来店で二度目なのだが、前回は「中盛」で痛い目をみたので今回は「基本」にしてみた。 麺はかなり太く、コシがあり、食べ応えがある。つけ汁は、とても濃厚な豚骨と魚介のスープで、中に角切りのチャーシューが入っていた。このチャーシューが柔らかすぎて、口の中に入れるとホロホロと溶けてしまう。 そして、食べ終わるとかなりの満腹感を得られた。食べに行く方は自分の空腹感とよく相談して、麺の量を決めてもらいたい。2021-11-15
78映画のワンシーンに出てきそう!映画のワンシーンに出てきそう!上田市大手にある上田市新参町教会。赤色の尖がった屋根を持った白い木造の建物。上田の映画ロケ地がまとめられた本で知り、レトロな少し哀愁を感じるような見た目に惹かれて、実際に行ってみた。上田には映画のロケ地となった場所がたくさんある。ロケ地を巡ってみるのも上田の楽しみ方の1つかもしれない。2021-11-15
79手洗池のシジュウカラ手洗池のシジュウカラ手洗池には水があまり溜まっておらず、水鳥はカルガモしか観察できなかった。 池の側にある林道を歩いて見るとシジュウカラとメジロの混群が現れた。 また、水の量だけ見ればカモ類などの水鳥は少しくらいは生活できそうに見えたが、水草がほとんど見られなかったため、水鳥が見られなかった原因は水の量ではなく水草の欠如による餌不足かもしれないと考察した。2021-11-15
80上田城二の丸橋上田城二の丸橋上田の名所、上田城で真っ先に観光客を迎えるのがこの二の丸橋。下は遊歩道になっているためくぐり抜けることも可能です。 かつて下を電車が運行していたというこの橋。下から仰ぎ見ればその大きさ、歴史を体感できるでしょう。2021-11-15
81山田池のオオバン山田池のオオバン山田池には多数のオオバンが湖面に浮いていた。オオバンは水かきがあまり発達しておらず泳ぐのがあまり得意でない。 水の上を移動する際に頭をせっせと動かしながらがんばって移動している姿がとても可愛らしかった。 山田池にも枯れた水草などがところどころで見られて、オオバンの他にカモ類が多く見られた。水鳥が集まる条件の一つとして、水草などがあるというものが多いと考えられる。訪れたため池の中で水鳥が多い池には水草が生えていたという共通点があった。2021-11-15
82袋町袋町黄金沢川を後にした投稿主は、なんとなく川が流れていた記憶を頼りに歓楽街、袋町へ。とても小さな川なのですが、「蛭沢川」という名前がちゃんとありました! そんな蛭沢川にかかる橋は写真上から大黒橋、弁天橋、棗(なつめ)橋、柳橋と、一つ一つ名前がつけられています。石垣風の橋の下の構造、お揃いの欄干のデザインがレトロを醸し出していました。2021-11-15
83ありがとう、黄金沢川ありがとう、黄金沢川黄金沢川にはたくさんの橋が架かっている…! 味を占めた投稿主はそのまましばらく下流に進んでいったのですが、数々の小さな橋に遭遇しました。名前の無い橋もこれだけ撮影できました。(撮影雑ですみません) たくさんの情報提供、ありがとう。黄金沢川。2021-11-15
84博物館訪問 蚕糸博物館訪問 蚕糸撮影が不可だったため見せることは出来ないが、昭和43年4月に上田蚕糸専門学校が開校された際に記念として残された袱紗(ふくさ)が展示されていた。 また、明治から昭和戦前にかけて上田で発行されていた蚕業雑誌類が8点ほど展示されていた。色つきで可愛かったし、この頃に蚕糸が盛んだったことがよくわかった。2021-11-15
85珍しい自販機!?珍しい自販機!?いつもの学校への通り道にあって思わず撮っちゃいました 毎日通ってるのに気づかないコトってあるんですねー この時は買わなかったんですが機会があるときに買ってみようかなと思います けっこう数が減ってたりするんで人気なんですかね? カードに使うんでしたら回復アイテムになりますかね~2021-11-15
86見逃していた場所見逃していた場所上田城へは何度か訪れていたのだが、今回の散策で注意深く辺りを見回していると、上田城に遊歩道があることに気がついた。トンネルのようなものの奥には紅葉が広がり、写真に撮りに来ている方が多くいた。ここへ来るまで随分とかかったので、写真のベンチで休んだ。2021-11-14
87愛染橋愛染橋旅館花屋の近く、湯川に架かっている愛染橋。鮮やかな赤色が目にとまり、思わず撮影しました。 調べてみると数年前の写真ではもっと渋い色をしていたので、最近塗装し直されたのでしょうか。2021-11-14
88上田城の歴史2上田城の歴史2関ヶ原の合戦後、上田城は徳川の手で破却されたが、真田に代わって上田城主となった仙石氏によって復興された。1626年に修復された上田城は真田氏時代の縄張りを受け継いだとみられ、仙石氏の後に城主となった松平氏の代になっても、その姿にほとんど変化はなかった。明治維新後、廃藩置県により1874年に上田城は民間に払い下げられ、再び廃城となった。この際、本丸付近を一括して購入した丸山平八郎氏は、1879年の祭り神社(現真田神社)創建に当たり本丸南側の土地を神社用として寄附し1893年には残りの土地を遊園地要として寄附した。これが上田城跡のの公園化の第一歩になった。2021-11-14
89慈悲の湯慈悲の湯北向観音の手水舎です。流れているのは温泉なので、寒い日でも安心して手を清められます。 手水なので口をすすぐのはもちろんのこと、飲むこともできます。以前飲んだことがあるのですが、硫黄の香りが口いっぱいに広がり、決して美味しくはなかったのでおすすめはしません。2021-11-14
90愛染かつらの木愛染かつらの木北向観音の境内にある大きな桂の木です。葉っぱがハート型なことから、縁結びのご利益があるとされています。 撮影日は残念ながら時期が悪く、枯れ果てていました。かろうじて数枚残っていた葉っぱを撮ってみましたが、これが愛染かつらの葉なのかは分かりません。2021-11-14
91北向観音堂北向観音堂北向きに建立されたことから名前がついた北向観音。厄除け観音として信仰を集めています。 お堂の中は薄暗く、お線香の匂いが立ち込めていてなんだか心が落ち着く空間でした。お線香を入れられる香炉には小さな狛犬が乗っかっていて可愛かったです。2021-11-14
92プレミアムジェラート ハレTerraceプレミアムジェラート ハレTerrace北向観音参道にあるジェラート屋さん。撮影日はそこそこ寒かったですが、老若男女問わずたくさんのお客さんで賑わっていました。 紫芋のジェラートとラズベリーソルベを注文したところ、カップいっぱい山盛りに盛り付けていただきました。素材そのものの味が生きた素朴な味で、とても美味しかったです。2021-11-14
93旅の終わりの足湯旅の終わりの足湯今回の旅では約10km歩いた。久しぶりにここまで動いたため、とても疲れた。しかし、最後に足湯を堪能し、足の疲れが吹っ飛んだ気がした。温泉には浸かっていないため、今度訪れた際は温泉でも癒やされたいと思った。2021-11-14
94別所神社別所神社腹ごしらえをし、向かった先は別所神社。温泉街を歩いていて目に入ったので行ってみた。上り坂が急で大変だった。 こちらは昔から縁結び・子宝の御利益があると言われている。ご本殿はお堂の裏にあり、少し驚いた。 また、ここからは別所温泉の町並みと山、そして空を一望できる絶景スボットになっていた。幸いにも晴天に恵まれ、素晴らしい景色を堪能することができた。2021-11-14
95安楽寺・八角三重塔安楽寺・八角三重塔黒門を抜けて向かったのは安楽寺、八角三重塔。ココでは主に国宝である八角三重塔を見てきた。 この塔は一見四重に見えるが、一番下の屋根がひさしに相当する「裳階(もこし)」にあたることから、裳階付き八角三重塔として認定された。 建築年代は明らかになっていないが、鎌倉時代末期が定説となっている。また、建築様式については、当時中国の最新技術であった唐様が用いられ、和洋の塔とは違った重厚な佇まいになっている。 下から見上げることで重厚感や塔の存在がより際立って見えた。秋に訪れたこともあり、紅葉とのコラボレーションが素晴らしく綺麗だった。2021-11-14
96池は見たこと無かったんだよなあ池は見たこと無かったんだよなあこちらは長池の写真です! 佐渡って湖はあるんですけど池は無いのでどんなもんかなあって感じで見に行ったんですよ なかなかキラキラしてて見応えあるなーとは思いました こんな住宅街のど真ん中にあるのって景色としてはミスマッチじゃないんかなとか思ってたんですけどそんなことなく自然に一部としてちゃんと溶け込んでましたね ここ眺めながらお茶飲みたいなあ ここをカードに使うなら配置して敵の移動速度を遅くする地帯とか、雨の日には水かさが増してこの近辺が通れなくなるとかそんなオブジェクトですかね だんだん形が見えてきた気がします2021-11-12
97調べて出てこない場所でも名前があるところ以上の価値がある場所も存在する調べて出てこない場所でも名前があるところ以上の価値がある場所も存在する3つ連続で同じ時系列の投稿にはなるんですけどまたまたタタラ塚古墳に向かう途中の話です ホントに特に何か施設があるわけでもなく民家しかない坂でした。上りがけっこうきつかったので自転車を降りて歩いて上っててさすがに疲れたなーと思って立ち止まりました。それでなんか予感がして後ろをふと振り返ったらこんな景色が広がってるじゃないですか! こりゃ撮るしかねえなああ! そんな感じで撮ったんですけどもう1週間早かったら真っ赤じゃなくてもうちょい色々な色のコントラストが広がってて惜しいことしたなーみたいな感じになったとはいえ、まあ綺麗ですよね 来年のリベンジに期待ですね!(リベンジすること多いな笑) ここをゲームで使うとしたらイベントカードとして味方の士気を上げるみたいな感じで春夏秋冬バージョン2021-11-12
98「長野県企業局」ってなあに?「長野県企業局」ってなあに?こんにちわ! 先ほどの記事の続きになるんですが、常田新橋に抜けるときのお話です 自転車でつっーと走って向かっている時に柵でガチガチに囲まれているよく分からない施設があるじゃないですが 調べてみたところ県の施設でその中でも僕が見てきたやつは水道を管理する部署らしいですね イメージキャラクターもいるみたいで名前は「すいじん様」(感じだと粋人様) 水滴に仙人みたいな顔と杖がついた可愛らしいキャラクターです ここをゲームに使うとすれば資源提供みたいな感じでリソースの源にしてここから発展していくみたいなポジションに置こうかな?2021-11-12
99上田に「古墳」!?!?上田に「古墳」!?!?先日千曲川の写真を撮ろうとして、いつもは143号線を通って行くんですがちょっと常田新橋に抜ける方に変えてみたんですよ。 それで一本道とはいえ方向音痴なもんでマップ見ながらじゃないと動けないんですね そしたらなんか画面の端の方に移ってるじゃないですか これは行くっきゃないなと思っていった訳ですよ まあただ敷地内にありそこまでよくは見れなかったのですがご紹介だけ 名前は「タタラ塚古墳」 古墳時代後期に築かれた古墳と推定されています。上田悠生寮の敷地内にあるため近くではよくは見られなかったのですが案外外に出てる部分は小さいな~って思いました 写真も撮れていないので今回は無いのですがちゃんとアポを取り今度リベンジしたいと思います! これをカードに使うのだとしたら後方支援として後ろに配置し2021-11-12
100上田城 本丸跡地上田城 本丸跡地かつて本丸があったとされている場所です。今では記念の石碑などが建てられており、草木が生い茂る広場に変わっています。また、この季節ではイチョウがとても綺麗でした。季節によって風景を彩っている植物が変わるのも楽しみの一つになるでしょう。2021-11-12
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