4 年表からひもとく
坂井村誌内の年表を一部引用し、特に重要な部分をまとめた。
昭和12年(1937年)
・盧溝橋事件が勃発。村内の予備兵に召集下令があり、村内に一気に緊張感が流れた。
・銃後後援会(後に奉公会)結成、村防護団結成・応召家庭の農作業奉仕。
・軍の指示により、初めて防空演習が行われる。
・国防婦人会結成(全村)、国民精神総動員長野県実行委員会(会長・県知事)坂井村支部(支部長・村長)結成。
⇒日中全面戦争の開始に伴って始められた、国民の戦争協力を促す官製国民運動。「精動」と略されることもある。1937年(昭和12)8月第一次近衛文麿(このえふみまろ)内閣は「国民精神総動員実施要綱」を閣議決定し、同年10月「挙国一致、尽忠(じんちゅう)報国、堅忍(けんにん)持久」のスローガンのもとに国民精神総動員中央連盟(会長有馬良橘(ありまりょうきょう)海軍大将)を創設した。当初は精神運動の性格が強かったが、やがて長期戦下の経済国策への協力を中心とするようになり、貯蓄増加や国債消化の奨励、金属回収などがしだいに強力に実施されていった。
(引用:「コトバンク 国民精神総動員運動」)
・宮島軍平・開拓移民第一号出発(11月)
昭和13年(1938年)
・国家総動員法公布
・宮島隼人開拓青少年義勇軍(第一号)出発。内原の訓練所に入所。
・筑北青年学校射撃大会・修那羅で行われる。
・関森功・南沢一眞 北支戦線で戦死・8月遺骨帰還・10月村葬挙行
・吉池英幸少尉戦死 12月遺骨帰還
→村民戦争の悲痛を覚える
.・国家総動員法が一部施行 物資動員計画公布され、配給統制実施(ガソリン切符制、綿製品・肥料の配給統制開始)
昭和14年(1939年)
・国内体制強化のため、消防団が警防団となり、警察の補助機関も兼ねる。
・ノモンハン事件発生し、日本軍苦戦の報に国民は衝撃を受けた。
・米穀統制法が公布され、消費者は一日「米二合三勺」と決められる。しかし、これも次第に遅配になりがちとなる。
・ガソリン不足から木炭自動車が走り始める。
昭和15年(1940年)
・民主党・政友会・社会大衆党みな解散し、大政翼賛会が結成。村長が村の支部長となる。記号の労働組合も解散し産業報国会となる。
・金属回収運動始まる。お寺の梵鐘から蚊帳の吊手金など、また土蔵の窓の金棒も対象。(名鐘と言い伝えのあった、安養寺の鐘・矢倉善導寺の鐘もこの時供出。各家庭の仏具も供出の対象)
・食料が欠乏しはじめ、次第に総量が割り当てに達しなくなりはじめた。
昭和16年(1941年)
・国民学校令が公布され、児童にも少国民として責任を負わせる。
・緊急食糧増産報告推進隊結成(青少年団-国民学校5,6年以上が対象)。食料増産のため。
・農地作付統制規則を公布、命令されたものを作付することとなる。
・12月8日太平洋戦争に突入。最後の決戦体制に入る。
→三日後、松本歩兵第150連隊に動員下令、予備兵・補充兵の在郷の働き手が根こそぎ召集された。同時に馬匹の徴発も行われた。
昭和17年(1942年)
「昭和17年に入ると、国民はミッドウェー海戦の大敗北は知らなかったが、戦局が容易でないことを知りはじめた。それは30歳近い未教育補充兵が召集され、製糸工場が軍需工場に転換されると共にわずかに残った農村の若者が徴用されたからである。食料もいよいよ切迫し始めた。」
・総選挙が行われる、翼賛会非推薦の植原悦次郎氏は落選(非戦論者)。
・食糧管理法施行される。凡ての米麦は政府の管理下に入る。
・肥料の配給が急減した中で、食料は増産を要求され、この為和牛飼育でたい肥の増産運動となり、農会中心で進められた。
・都会は燃料難となり、各村へ薪炭など供出割当が行われ始めた。
・実業学校生の卒業が繰り上げて12月卒業となる。
・防空体制が必要な戦況となり、筑北各村が連合して、麻績村天王に防空監視哨を構築し青年学校生徒が立哨の任務に就いた。
昭和18年(1943年)
・木材供出の大量共木割当来る。特に木造船用のケヤキ材の共木は容易でなかった。
・製糸工場は企業整備により63%は軍需工場となり、絹の大部分はパラシュートなどに加工され、農家の年少労働者がおおく、就職した。
・物価急上昇・たばこ6割値上げ(ひかり 18銭-30銭)
・作ったことにない甘藷の作付命令がでる。
昭和19年(1944年)
・増産のため田地改良事業、暗渠排水・客土工事のため食糧増産隊(高小生・青高生主体)動員される。
・大本営が松代に来るという噂が広がり、村の職人衆、徴用でいなくなる。
・松根油のための松根掘り取り供出の割り当てあり、戸主当たり三十六貫であったが、完了しないうちに追加で倍量となる。
・満蒙の守りとして第六次青少年義勇軍が送出される(坂井村は丸山中隊)。
・この年はじめて開拓農家二戸が家族ぐるみで渡満した。
・女子挺身隊が編成され、川崎方面の東芝工場へ派遣された。
昭和20年(1945年)
冠着駅建設。
松根油
昭和20年に入ると、松根の割当がさらに倍増され一戸当たり200貫近くなり、又松脂(松やに)の割り当ても来た。そこへさらに松根を搾って油にして出せと命令が来た。丁度な資材が無いので一部冷却パイプは竹の筒を使うような苦心のなかで、二釜を完成し20年7月には坂井村産航空燃料はドラム罐に溜まった(場所は安坂川左岸の境ナシ橋の袂である)。
決戦体制
戦局がいよいよ切迫し敗戦の色は濃厚となり、「本土決戦」の声もチラホラ聞こえるようになった。松代に大本営が映る工事が始まる頃は、決戦用の飛行場を松本神林村に作る為勤労奉仕隊が割り当てられ、又その飛行機を隠す為の豪を掘る作業隊も割り当てられた。場所は、中山村、山辺村などで遠い処を、弁当もない奉仕隊員が参加した。
疎開学童
極度な食糧難の時に疎開学童を受け入れねばならなかった(東京足立区梅島国民学校)。安養寺へ70余名の児童を行け入れたが、政府は何の手当もできない状態だったからうすい野草入りのお粥を食べるくらいで、婦人会や、女子青年団の人たちの当番の奉仕も各家庭がすでに食糧難であったから、僅かな野菜や芋干し、クリなどの差し入れ位の物であった。
国民義勇隊(別名郷土防衛決戦隊ともいう)が結成され、あらゆる団隊員がこれに参加することとなった。
軍工場・軍倉庫の疎開
突然海軍補給廠と、陸軍東京経理部が疎開してくる事となり、東部軍の担当の将校が来て役場に泊まり込みで指図するようになった。又海軍航空本部の将校も役場に泊まり込み地下工場を作るといって、山秋・堀海道、須明・永井中村の山麓に横穴を掘るように命令を下した。農繁期で合ったのに大人数(全村一戸一人)の動員であったから村内騒然たる処へ東部軍の経理部による資材が突然鉄道貨車で何十輌も到着し保管を命ぜられた。下安坂・下永井の土蔵・学校の体操場教室・さては神社の舞台にまで積み込まれた。これも全村の勤労動員であった。
全村動員による山秋の裏山での横穴掘りが始まって、二日後に敗戦降伏の詔勅が出されたのである。
敗戦の二日後の17日、新潟にソ連兵士上陸の偽情報が流され婦女子は握り飯を作って山へ逃げるという一幕もあった。
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投稿者 | みや |
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