蚕種の郷13 衰退した養蚕製糸業

蚕種の郷13 衰退した養蚕製糸業

  なぜ、今、桑畑は無いのでしょうか。養蚕農家はどうなってしまったのでしょうか。
江戸後期から養蚕業は広がり、幕末に生糸が欧米に輸出されるようになると生産は一気に増加しました。大正の中頃、第一次世界大戦が始まると女性の社会進出が進み、欧米ではその足元を飾るストッキングに絹が使われ、生糸の輸出は更に増えました。この頃、生糸の価格は最高値をつけています。塩尻地区の桑園面積が最も大きくなったのも大正から昭和の初期でした。明治初期の畑の面積の4倍にもなっています。段々畑を山の急斜面に段々畑つくるばかりでなく、水田を桑畑に転換する所もありました。
ピークは昭和5年です。前年、アメリカに始まった株の大暴落は、瞬く間に世界中に広がり世界恐慌となり、生糸の輸出はストップし、養蚕農家や製糸工場は、大打撃を受けました。立直る間もなく戦争が始まり、桑園は食糧増産のため畑に転換され、働き手は戦争に取られ、絹製品は、贅沢品として自由に売買できなくなりました。
 戦争が終わって生産を再開するころには、第2次世界大戦中にアメリカで開発されたナイロンをはじめとする化学繊維が出回るようになり、生糸にとって替わるようになりました。国内でも和装から洋装に変わり、更に1960年代以降、輸入の自由化が進み海外から安い繊維製品が輸入されるようになると養蚕製糸業の存続は、難しくなりました。塩尻では、1980年の桑園面積は0となりました。上田市でも平成11年(1999年)に養蚕農家は無くなっています。
 高度経済成長ともない農業人口は減少し、機械化、省力化を進めるために小さな田や畑は圃場整備事業で大きくなりました。一方、手のかかる山の畑は果樹などに転換されましたが農業従事者の高齢化が進む中で耕作放棄され、熊やイノシシが人里に現れることも頻繁になっています。

登録日:2021-06-29 投稿者:やまさん
地区コード塩尻地区
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    カテゴリ名蚕種の郷
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