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1「蚕種の郷」座摩(ざますり)神社の祭礼 3「蚕種の郷」座摩(ざますり)神社の祭礼 3座摩神社の祭礼について、明治生まれの高遠直一さんは覚書(昭和53年)でこう書いています。 『八十八夜のお祭りの当日は午前中「お舟の練り」が村内を練りまわり、辻々にて信者に繭玉、養蚕道具などの縁起物を授与し、午後は各地よりはせ参ぜる力士多数、村内抜群の力士を中心に、境内相撲場、土俵上にて奉納大相撲が挙行された。この祭りのために村内各家には親類、縁者、蚕種屋のお得意様など多数の来客あり、あげて参拝する習慣であった。』  祭礼の準備は、上塩尻の18歳から30歳までの男子全員「若い衆仲間」が、祭典余興、繭玉練り、相撲などの係りを分担して準備にあたった。写真は、新屋を出発するお練りのお舟。(大正11年)「塩尻地区写真集」より2022-05-03
2「蚕種の郷」座摩(ざますり)神社の祭礼 1「蚕種の郷」座摩(ざますり)神社の祭礼 15月3日、上塩尻の #座摩神社 の祭礼が行われました。今年は、コロナ感染のため3年ぶり、神職と役員のみでひっそりと拝礼するだけでした。しかし、昭和の半ばまでは、座摩神社の祭礼といえば、「 #蚕影様 (こかげさん:蚕の神様)のお祭」として、上田・小県はもちろんのこと、遠くは水内、高井郡をはじめとして、佐久、北上州まで鳴り響いていたそうです。  江戸時代の半ばから昭和の初期まで養蚕は、国や地域の経済、農家の生活を支える重要な仕事でした。しかし、飼育技術が確立するまでは当たり外れが大きく、運に任せることが大きい仕事でした。上塩尻は、優良な蚕種を作るともに、飼育技術の改良・普及に努め、生産量ばかりでなく、品質の面からも日本一の「 #蚕種の郷 」と言われていました。その上塩尻の「蚕影様」の祭典は、八2022-05-03
3上塩尻蚕種製造民家群4 蚕種製造民家「清水卓爾氏宅」④上塩尻蚕種製造民家群4 蚕種製造民家「清水卓爾氏宅」④大沢の扇状地の扇端には湧水を利用した七つの池があり、かつては生活用水や蚕具を洗うのに使われた。門の外、左下に湧水がある。今も残る3か所の一つである。水神様を祭る祠には、慶長3年とあり歴史の古さを教えてくれる。2022-04-03
4上塩尻蚕種製造民家群4 蚕種製造民家「清水卓爾氏宅」③上塩尻蚕種製造民家群4 蚕種製造民家「清水卓爾氏宅」③土蔵の下に鉄筋入りのコンクリートで作られた地下室がある。夏でも室温が低いため、風穴の代わりに種紙に産み付けられた蚕種を保存し、ふ化の時期を遅らせた。 写真は、屋根に設けた気抜きを天窓のように採光に利用している。天井が高く、太い梁が力強さを感じさせる開放的な空間となっている。2022-04-03
5上塩尻蚕種製造民家群4 蚕種製造民家「清水卓爾氏宅」②上塩尻蚕種製造民家群4 蚕種製造民家「清水卓爾氏宅」②門を入って右側(東側)の2階建ての蚕室は、江戸時代に造られ、1階は居宅、2階蚕室として使われていた。西側の母屋は、明治29年に増築され、1階は居宅、2階は蚕室で、昭和20年代まで蚕を飼育していた。国の登録文化財に指定された佐藤尾之七邸と同じ、木曽上田村の棟梁、武居初太郎が建てた。  写真は、西側の母屋。気抜きの他に屋根の下に通風孔が設けられている。現在は、内部を改修して3世代の家族が暮らしている。2022-04-03
6上塩尻蚕種製造民家群4 蚕種製造民家「清水卓爾氏宅」①上塩尻蚕種製造民家群4 蚕種製造民家「清水卓爾氏宅」①旧北国街道を西に向かい新幹線の高架をくぐり、座摩神社の参道を過ぎ、坂を登り始めると左側に気抜きの屋根の二棟が迎えてくれる。一段下がったところにあるため、2階の蚕室の大きな窓や塗壁、気抜きのために屋根の上に小屋根(越屋根)を設けた蚕種製造民家が見えてくる。Google earthではまだ見ることができるが、数年前まで、街道の右側にも3軒の蚕種製造民家が並んでおり、「蚕種の郷」の入り口にふさわしい景観がみられた。2022-04-03
7蚕種製造民家群3 現存する蚕種製造民家蚕種製造民家群3 現存する蚕種製造民家上塩尻の養蚕家屋については、1989~92(平成元~4)年に工学院大学の研究チームが大規模な調査を行い23軒が調査対象となっている。また、平成14年に近代化遺産活用計画策定のための地域調査チームによる現地調査では、気抜きのない養蚕家屋も入れて37軒を対象にしている。 現在、気抜きの備わる蚕室を持つ民家は19軒、他に気抜きはないが、喚起のため窓を大きくして蚕室として使われていた家屋が数軒、近年、取り壊されたり、建て替えられたりした家屋が10軒弱あるが、狭い北国街道や小路に面しているため、工事が難しいこともあり、内部を改修するなど手を入れ、現在も住居として使われている家屋が少なくない。  写真は、緑点は蚕種製造民家、改築されたが景観に配慮して気抜き施した家屋もある。赤点は、平成14年の調2022-04-03
8上塩尻蚕種製造民家群2 蚕種製造の中心地:上塩尻「大村」の景観上塩尻蚕種製造民家群2 蚕種製造の中心地:上塩尻「大村」の景観蚕種製造の中心地上塩尻「大村」は、扇状地の斜面の50000㎡ほどの狭い土地に100戸ほどの民家が集中し、その半数以上が養蚕をし、蚕種製造を営む集落だった。 門構え、土塀、気抜き屋根を持つ白壁の総二階の蚕室を持つ江戸から明治にかけて建築された大きな蚕種製造民家が、狭い小路を挟んで立ち並ぶ景観は、他に例を見ない。写真は、 気抜きの屋根の並ぶ蚕種製造民家群を裏山から撮ったもの。手前の山の下を左右に北国街道が通る。2022-04-03
9上塩尻蚕種製造民家群1 蚕種製造の中心地:上塩尻「大村」上塩尻蚕種製造民家群1 蚕種製造の中心地:上塩尻「大村」明治30年発行の「長野県小県郡熱心蚕種製造家一覧」には、上田町を中心に郡下163戸の蚕種製造家の氏名が記載されている。その2/3の107戸は、旧塩尻村(上塩尻58,下塩尻20、秋和29)がしめている。塩尻とともに西部地域に属する(鎌原7,諏訪部2)も加えると上田盆地の西部、千曲川北岸が蚕種製造の中心だったことがわかる。 上塩尻の中でも53戸の蚕種製造家が集中している「大村」(字:北側・南側)は、千曲川と虚空蔵山に挟まれた大沢の扇状地の斜面で、千曲川の洪水を受けにくく、江戸時代には信越、北陸を結ぶ北国街道が通っていた。上塩尻村の中心である「大村」は、扇状地の上部を北国街道が西の扇端部に向かって下り、平坦部を通る国道18号線とがけ下で交わる西端地点を頂点し、東500mの塩尻小学校の西縁とそこから北に向2022-04-03
10<ruby>埋薪<rt>まいしん</rt></ruby>のある<ruby>藤本<rt>ふじもと</rt></ruby>の<ruby>蚕室<rt>さんしつ</rt></ruby>(<ruby>上塩尻<rt>かみしおじり</rt></ruby>)埋薪まいしんのある藤本ふじもと蚕室さんしつ(上塩尻かみしおじり)蚕種製造さんしゅせいぞう中心地ちゅうしんちだった上塩尻かみしおじりでもその筆頭ひっとう蚕種製造家さんしゅせいぞうかであった藤本ふじもと(佐藤本家さとうほんけ)の蚕室さんしつ蚕種製造さんしゅせいぞう使つかわれました。かいこ成育せいいく大敵たいてきさむさをふせぐため、床下ゆかした埋薪まいしんと呼ばれるオンドルのような暖房施設だんぼうしせつそなわっています。2022-01-18
11塩尻小学校郷土資料館7 蚕種家「佐藤尾之七邸宅」の今塩尻小学校郷土資料館7 蚕種家「佐藤尾之七邸宅」の今 写真は、資料館に版画があった蚕種家「佐藤尾之七邸宅」の今である。住む人なく閉められた門の脇に、蚕種家の屋敷だったことを紹介する説明文が掲げてある。往時の活気はうかがうべくもないが、一時代を築いた風格が漂い、「蚕種の郷」独特の景観を伝えている。1912(大正元)年の長野県の調査では、塩尻村(上塩尻、下塩尻、秋和)で県税を納めている戸数は566戸、うち蚕種製造戸数は、136戸で23.3%を占めていた。版画は当時の盛況ぶりを想像する手がかりとなっている。 今、塩尻地区でも朽ちるにまかされた蚕室や現代的な住宅に建て替わる古民家が少なくない。「気抜き」のある建物が狭い小路をはさんで軒を連ねる「蚕種の郷」の景観も雑木に覆われた段々畑同様に消えゆく時が迫ってはいないか。失ったら取り戻すことでき2021-08-12
12蚕種の郷7空前の大洪水 「戌の満水(いぬのまんすい)」蚕種の郷7空前の大洪水 「戌の満水(いぬのまんすい)」図(「上田の水害」上田市立博物館)は、寛保2年(1742)「戌の満水」による上塩尻村の被害状況を描いた絵図です。「戌の満水」では、千曲川の上流から下流まであちこちで大きな被害を受けましたが、千曲川の氾濫で上塩尻ではもともと田だった場所に石や砂が入ってしました。図の手前の灰色部分、今の「しなの鉄道」の線路より南側一帯は、1~2メートルの砂や石に埋もれてしまいました。この図の西に下塩尻が続きますが、村境まで家は流され、石や砂は3メートルにもなり、今の下塩尻の中島は、名の通り微高地になっていましたが、庄屋の家2軒を残して水に漬かったと記録されています。2021-06-25
13西部地域まちあるきマップ【塩尻地区/上塩尻編(6月)】西部地域まちあるきマップ【塩尻地区/上塩尻編(6月)】2021-05-17
14西部地域まちあるきマップ【塩尻地区/上塩尻編(5月)】西部地域まちあるきマップ【塩尻地区/上塩尻編(5月)】2021-05-16
152019西部地域まちあるき:藤本蚕業歴史館2019西部地域まちあるき:藤本蚕業歴史館 2019年6月14日に行われた西部地域まちあるき(上塩尻)では、藤本蚕業歴史館を見学しました。 かつて「蚕都」と呼ばれた上田市の中で、蚕種製造の中心地だった上塩尻。そしてその総元締めであったのがこの藤本工業(藤本蚕種)です。 館内には資料だけではなく当時の備品等も保管されており、タイムスリップが可能であれば蚕種製造をしたいと思いました。2021-01-29
16思わぬ洪水5 「矢出沢川の流下能力を超える神川からの流入、用水路にも」思わぬ洪水5 「矢出沢川の流下能力を超える神川からの流入、用水路にも」平成22年の水害時の降水量は、上田で時間雨量56mm,累計雨量82mmでした。時間雨量は上田市観測史上1位となっていますが、累計雨量は昭和39年より少なく、用水路も改修整備されているのになぜ水害がおこったのでしょうか。同時刻、菅平94mm、真田110mmと流域面積が矢出沢川により格段に広い神川流域に多量の降水がありました。矢出沢川は、懐の浅い太郎山の金剛寺地籍から流れ出た沢水を集めた川で、梨ノ久保沢、黄金沢などを合わせても水量はわずかなので下流の水田を潤おすには足りず、江戸時代に神川から水を取り入れる堀越堰が作られました。堀越堰ばかりでなく古代から拓かれていた神科台地の用水も神川の上流から取り入れられており、余った排水は蛭沢川などを通って矢出沢川に落ちています。平成22年の水害は、真田地区でも多くの床下2021-01-25
17思わぬ洪水4 「想定外だった用水の氾濫」思わぬ洪水4 「想定外だった用水の氾濫」平成22年の豪雨では、上田市全体では152件の床上・床下浸水被害があり、特に矢出沢川の関係では蛇沢、上川原、諏訪部、秋和、上塩尻、下塩尻の被害が大きく、伊勢山、神科新屋、長島、大久保、下川原、北大手、下紺、常磐町で被害がありました。 図は、長野県の管理している矢出沢川・黄金沢川について、平成19年の整備状況を勘案して100年に一度の大雨(1時間に58mm以上)が降り、川が氾濫した場合の浸水想定区域図(県土木部のホームページより)です。被害にあった地区は、図の想定区域とほぼ重なりますが、常磐町をはじめとして想定外の地区にも広がっていたことがわかります。地図の説明文には、内水(小河川や水路の氾濫)は、考慮していませんと書いてあります。どういうことでしょうか。なお黄金沢川は、氾濫しなかった2021-01-25
18地域の記憶:上塩尻・段々畑の桑園地域の記憶:上塩尻・段々畑の桑園地域のありようは長い間には大きく様変わりします。昔その地域がどうであったのかを確認するにはその当時の資料が欠かせません。人の記憶の中にその様相は残っていても、第三者がそれを確認できるのはデータとして残された何らかの記録です。証言のような言葉(人の記憶)でも補えますが、それを証言してくれる映像なり、道具なり、資料なりがあってその確認ができます。 2019年2月、上塩尻のSさんのお宅を訪問しました。蚕種製造の中心地・上塩尻の古い資料をデジタルアーカイブ化しようというねらいです。 Sさんのお宅にあった一枚の写真に注目。少年たちと大人たちの集合写真です。脱穀作業を共同で行った時の記録と思います。少年たちは国民服を着ています。1940年代前半の撮影ではないかと思われます。その背後に段々畑の桑園2020-12-19
19Excellent上田、上塩尻見学:藤本蚕業歴史館Excellent上田、上塩尻見学:藤本蚕業歴史館2019/10/31、長野大学で私が担当する1年生の課題発見ゼミⅡ「Excellent上田」で、かつて蚕種製造の中心地だった上塩尻を訪れました。最初に訪れたのが藤本蚕業歴史館です。この建物は昭和初期、藤本蚕業の蚕種製造施設として建てられたものです。現在この建物の2階が文書・資料の保管所兼展示スペースとして使われています。 館内には1990年前半の上塩尻集落のミニチュア模型があります。上塩尻を俯瞰するのに役立ちます。 上塩尻の藤本は、代々当主が藤本善右衛門を名乗った蚕種製造家・佐藤本家を引き継いで明治期、企業となります。藤本蚕業歴史館には企業としての藤本蚕業の文書が多数残されているだけでなく、前身の佐藤本家の文書、資料も多数残されています。江戸期の藤本善右衛門保右が著した蚕書『蚕かひの学』の版木が残されて2020-12-19
20JIA長野県クラブの上塩尻見学会JIA長野県クラブの上塩尻見学会2020/7/31、JIA(日本建築家協会)長野県クラブの上塩尻見学会があり、見学会のコーディネーションと当日の案内をさせていただきました。 全国的に見ても稀有な蚕種製造民家群が残る上塩尻はまだ広く知られているに至っておらず、参加者のほとんどにとっても上塩尻を見学するのは初めてのことです。建築家の方々だけあって、蚕種製造民家に対する参加者の方々の関心は高く、建築的に特徴のあるところにはたびたび視点が釘づけになっていました。 コロナ禍の情勢下で見学会を実施することとなり、主催者側では、その状況に対応した配慮もされて見学会と意見交換会がなされました。人と人の間の距離があるため、お互いの声が聴きとりにくい一面がありましたが、その辺はやむを得ません。 意見交換も貴重な機会でした。空家に移り住んでも2020-12-19
21彼岸花彼岸花昔ほど彼岸花を見なくなりましたが、上塩尻の弥勒堂墓地でたくさん咲いていました。見頃は秋の彼岸頃です2020-10-14
22上塩尻 ゆうすげと蝶の里 2020年9月22日上塩尻 ゆうすげと蝶の里 2020年9月22日2020年9月の上塩尻のゆうすげと蝶の里のアサギマダラの様子です。 この写真を撮影した2020年9月22日の早朝は5頭ほどのアサギマダラがフジバカマの周りを舞っていました。 そのほかの蝶も数頭飛来していました。 アサギマダラは10月の初旬ごろまで飛来していると思いますので、ぜひご覧ください。 近くに太郎山の登山者用の駐車場もあります。2020-09-24
23上塩尻 ゆうすげと蝶の里上塩尻 ゆうすげと蝶の里上塩尻の新幹線のトンネルのすぐ近く。 ゆうすげと蝶の里では、地元の方たちがアサギマダラが飛来するようにと、食性のフジバカマを植えて整備をしてくださっています。 アサギマダラは、青い色と、マダラ模様が特徴の蝶。 産卵期になると、長距離を飛ぶ蝶として有名で、記録によれば2500kmを飛んだ個体もいるとか。 上田地域では、8月下旬から10月上旬ごろまで見られます。2020-08-31
24西部地区探検隊[不思議な水路 7]西部地区探検隊[不思議な水路 7]7 4月下旬、田植えの前に水門が閉められ、右側用水路は満々と水をたたえ、太郎山に向かって流れていきます。 医療センターに向かう道路の一つ手前の交差点付近で水路は西に曲がり、網の目のように水田を潤し、水田から流れ出た水や沢水、雨水を集めながら西に流れます。東西に流れる水路も生塚で支流を北に向けて分けた後秋和の街道沿い流れ、上塩尻の入り口で山沿いを流れてきた用水路と一緒になり最後は、岩鼻手前で千曲川に流れ込みます。2020-08-28
25西部地域まちあるき2019の記録西部地域まちあるき2019の記録 2018年に発足した「上田市西部地域まちづくりの会」は翌2019年度に本格始動しました。4部会の一つ「自然・生活環境部会」では地元地域の文化・歴史遺産・自然などをデジタルアーカイブ化・マップ化する活動を持続的な地域活動にしていこう、という方向で取り組みが始まりました。その活動の手始めにしたのが「西部地域まちあるき」です。 4月は西部地区(下紺屋町~生塚)、5~6月は塩尻地区(秋和・上塩尻・下塩尻)をまちあるきしました。部会のメンバーにとっては地元でありながら、地元自治会のエリアがより広域に広がった「西部地域」をお互いに詳しく見聞しあったことはなく、地元であ2020-08-25
26秋和の文庫蔵を訪ねる秋和の文庫蔵を訪ねる2020/2/17、地元の方々と学生と秋和文庫蔵を訪ねました。 秋和は蚕種製造の中心地であった塩尻村の中で、上塩尻、下塩尻と共に蚕種製造が営まれ、蚕都上田の興隆にも大きく貢献した一地域です。そうした近代の地域の背景を知る上でも地元の古い資料は欠かせないものです。 地域の文書保管のための文庫蔵の内部には明治以降の文書が段ボール箱やタンスに入れてしまわれています。具体的にどのような資料が保存されているのか、まだその目録化はされていないとのこと。しかし、これだけしっかりと明治以降の文書が残されていることはかけがえがありません。実に得難いことです。平成のものもあります。 いくつか手にした文書は「明治十八年 祭典諸事記載帳」「明治三十年度 人夫賃金支払帳 塩尻村秋和土木委員」「明治十年第三月 2020-08-25
27上塩尻から和合城跡、虚空蔵山、太郎山 方面 秋の風景上塩尻から和合城跡、虚空蔵山、太郎山 方面 秋の風景上塩尻の畑から和合城跡、虚空蔵山、 太郎山方面の秋の風景2020-08-25
28モリス先生来訪、古建築をフィートで測るモリス先生来訪、古建築をフィートで測る2018/11/30、千葉大学のマーティン・モリス先生が上田に来訪されました。この日、塩尻地区のある古い民家を地元の方々と見聞しました。モリス先生はイギリス出身ですが、驚くほど日本の伝統建築に詳しく、訪問先の室内を簡易的に測定し、建築上の特徴などからその年代の推定までされていました。 さらに驚いたのはフィートのメジャーで寸法を測り始めたこと。よくよく考えてみればフィートと尺の単位は極めて近似しており、尺のメジャーの代わりにフィートのメジャーを使っているのだとわかりました。なるほど!です。 モリス先生は、長年上塩尻を研究されている東北大学の長谷部弘先生の研究グループでも共同研究をされたことがあり、10年以上前、上塩尻の民家を調査されたことがあります。この日は塩尻地区の何名かの方々とも意見2020-08-25
29上塩尻文書/142-33上塩尻区雑書綴(1939)上塩尻文書/142-33上塩尻区雑書綴(1939)下の画像を選択すると文書(PDF形式)を表示できます。 【大分類】町村自治 【小分類】区会活動 【整理番号】142-33 【資料名】上塩尻区雑記帳 【発信者】上塩尻区 【年代】1939年(昭和14年) 【形態】綴 【数量】12020-08-17
30上塩尻文書/142-34上塩尻区協議会記録(1939)上塩尻文書/142-34上塩尻区協議会記録(1939)下の画像を選択すると文書(PDF形式)を表示できます。 【大分類】町村自治 【小分類】区会活動 【整理番号】142-34 【資料名】上塩尻区協議会記録 【発信者】上塩尻区 【年代】1941~1947年(昭和16~22年) 【形態】 【数量】12020-08-17
31上塩尻文書/144-11上塩尻堤防請負申合規約(1912)上塩尻文書/144-11上塩尻堤防請負申合規約(1912)下の画像を選択すると文書(PDF形式)を表示できます。 【大分類】町村自治 【小分類】防災 治水 【整理番号】144-11 【資料名】上塩尻堤防請負申合規約 【発信者】上塩尻区 【年代】1912年(明治45年) 【形態】綴 【数量】12020-08-17
32上塩尻文書/144-12飯島欠口堤防災害復旧関係書(1914)上塩尻文書/144-12飯島欠口堤防災害復旧関係書(1914)下の画像を選択すると文書(PDF形式)を表示できます。 【大分類】町村自治 【小分類】防災 治水 【整理番号】144-12 【資料名】飯島欠口堤防災害復旧関係書 【発信者】 【年代】1914年(大正3年) 【形態】綴 【数量】12020-08-17
33上塩尻文書/144-13飯島大花堤防図面(1914?)上塩尻文書/144-13飯島大花堤防図面(1914?)下の画像を選択すると文書(PDF形式)を表示できます。 【大分類】町村自治 【小分類】防災 治水 【整理番号】144-13 【資料名】飯島大花堤防図面 【発信者】 【年代】1914年(大正3年)? 【形態】 【数量】32020-08-16
34<ruby>猫瓦<rt>ねこがわら</rt></ruby>猫瓦ねこがわらかいこべてしまうネズミをけるために上塩尻かみしおじり集落かしゅうらくではよくねこかおかたちをしたかわらられる。ねこからネズミ、ネズミからかいこへとつながるのはとても面白おもしろいとおもう。一見何いっけんなにだろうとおもうものもじつかんがえられていて、なるほどと感心かんしんさせられる。2020-01-10
35石垣石垣上塩尻地区に多く見られる石垣。上塩尻地区は山が近づくにつれ勾配が急になるため、石垣を組んで平たんにすることで立派な家にすることができる。この石垣からこれを作った人の奮闘が伝わってくる。歴史を体感できる場所だと思う。2020-01-10
36上塩尻地区の蚕室建築群上塩尻地区の蚕室建築群上塩尻地区の蚕室建築群模型2019-06-14
37上塩尻の蚕室上塩尻の蚕室蚕種製造のための養蚕施設。下に埋薪(まいしん)と呼ばれる暖房の仕掛けがあるのが特徴。韓国のオンドルに似ています。2019-03-01
38熊棚熊棚上塩尻のとある場所で。 熊が木に登り休むために枝で棚をつくる熊棚を発見しました。2019-02-20
39COSMOSCOSMOS上塩尻を散策しながら、神社に向かう途中山のふもとにたくさんのコスモスが咲いてたので思わず写真を撮ってしまいました。2019-04-01
40気抜きがある家気抜きがある家上塩尻を散策していると、いくつかこのように屋根のところに気抜きがある家がありました。 これは、蚕を育てるためのもので、今もこのように変わらず残っており、歴史を感じることができました2018-12-08
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