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1「蚕種の郷」座摩(ざますり)神社の祭礼  8「蚕種の郷」座摩(ざますり)神社の祭礼 8祭礼を執り行った宮司さんや役員の方は、「養蚕・蚕種業を生業とする人々の精神的な支えとなってきたこの神社や祭典のことを地域の人に忘れて欲しくない、地域の宝として守っていきたい。コロナ感染が収束したら、地域の皆さんが共に参加できる祭典をしたい」と思いを語ってくれました。土俵は、写真中央の二本の木の間あたりに作られていた。2022-05-03
2「蚕種の郷」座摩(ざますり)神社の祭礼 7「蚕種の郷」座摩(ざますり)神社の祭礼 7高遠直一さんの覚書から 「養蚕の衰退とともに」 『時代の変遷とはいえ、これらの祭礼もいつか行われなくなり、その後は宵祭りなどに学校の体育館での映画会、塩尻自治会経営の託児所の庭の仮設舞台での、素人演芸会や奉納踊、また本祭当日神社境内での坂城町長生楼芸妓の手踊りや、青年相撲などが行われたこともあったが、これらもだんだん時代の流れに流されて今日に至ってしまった。』 写真の土俵には、四本柱がない。服装から見ると戦後か。相撲を取っているのは子供たちのようである。養蚕が次第に下火になり、養蚕に関わる人も少なくなり、「蚕影様」の祭典が、村祭りのようになってきたか。2022-05-03
3「蚕種の郷」座摩(ざますり)神社の祭礼 6「蚕種の郷」座摩(ざますり)神社の祭礼 6 写真は、化粧まわしをつけ村中を練りまわしてきた力士の行列。場所は小学校の裏あたりか。拍子木を持つ呼び出しも見える。「塩尻地区写真集」より2022-05-03
4「蚕種の郷」座摩(ざますり)神社の祭礼 5「蚕種の郷」座摩(ざますり)神社の祭礼 5 写真は、境内での大相撲の様子。江戸大相撲より免許を受けた四本柱に屋根をつけた立派な土俵上で行われている取り組みを群がる人々が応援している。拝殿の壁も取り払われて桟敷席になっている。子供相撲から始まって、三人抜き、五人抜きの相撲、化粧まわしをつけた力士が土俵に並んでのそろい踏み、道化相撲が終わると大関の土俵入り。そして、三役の取り組みが終わるころには一日が終わる。「塩尻地区写真集」より2022-05-03
5「蚕種の郷」座摩(ざますり)神社の祭礼 4「蚕種の郷」座摩(ざますり)神社の祭礼 4写真は、村中を引き回される山車。芸者衆が乗って音曲を奏でているように見える。 後ろの山車は、繭玉を投げている。繭玉と引き換えにお札がもらえる。繭玉の中には福引の札が混じっていて、拾った人は、賞品をもらえる。「塩尻地区写真集」より2022-05-03
6「蚕種の郷」座摩(ざますり)神社の祭礼 3「蚕種の郷」座摩(ざますり)神社の祭礼 3座摩神社の祭礼について、明治生まれの高遠直一さんは覚書(昭和53年)でこう書いています。 『八十八夜のお祭りの当日は午前中「お舟の練り」が村内を練りまわり、辻々にて信者に繭玉、養蚕道具などの縁起物を授与し、午後は各地よりはせ参ぜる力士多数、村内抜群の力士を中心に、境内相撲場、土俵上にて奉納大相撲が挙行された。この祭りのために村内各家には親類、縁者、蚕種屋のお得意様など多数の来客あり、あげて参拝する習慣であった。』  祭礼の準備は、上塩尻の18歳から30歳までの男子全員「若い衆仲間」が、祭典余興、繭玉練り、相撲などの係りを分担して準備にあたった。写真は、新屋を出発するお練りのお舟。(大正11年)「塩尻地区写真集」より2022-05-03
7「蚕種の郷」座摩(ざますり)神社の祭礼 1「蚕種の郷」座摩(ざますり)神社の祭礼 15月3日、上塩尻の #座摩神社 の祭礼が行われました。今年は、コロナ感染のため3年ぶり、神職と役員のみでひっそりと拝礼するだけでした。しかし、昭和の半ばまでは、座摩神社の祭礼といえば、「 #蚕影様 (こかげさん:蚕の神様)のお祭」として、上田・小県はもちろんのこと、遠くは水内、高井郡をはじめとして、佐久、北上州まで鳴り響いていたそうです。  江戸時代の半ばから昭和の初期まで養蚕は、国や地域の経済、農家の生活を支える重要な仕事でした。しかし、飼育技術が確立するまでは当たり外れが大きく、運に任せることが大きい仕事でした。上塩尻は、優良な蚕種を作るともに、飼育技術の改良・普及に努め、生産量ばかりでなく、品質の面からも日本一の「 #蚕種の郷 」と言われていました。その上塩尻の「蚕影様」の祭典は、八2022-05-03
8花桃イベントのお知らせと駐車場の案内花桃イベントのお知らせと駐車場の案内4月29日(金)に花桃イベント2022が開催されます。 場所や時間などの詳細は、写真のチラシをご覧ください。 駐車場についてですが、イベント会場近くの上田バイパス沿いにある広い駐車スペースのような待避所になります。地図上でも示してありますので、そこからご確認ください。 ぜひ時間のある方は参加してみてください。2022-04-26
9西部地域デジタル写真展のお知らせと投稿の仕方について西部地域デジタル写真展のお知らせと投稿の仕方について
PDFチラシ(PDF版)
この度、西部地域デジタル写真展というネット上で展示を行う写真展を開催します。 このイベントは、主に西部地域に住む子供たちをはじめとした方々を対象に、西部地域の魅力や良さを写真を通じて発信してもらうことで、西部地域に興味を持つ人を増やしたいというねらいで企画しました。 写真の募集期間は、5月1日(日)~5月14日(日)です。 投稿の詳しいやり方については、以下の青文字になっている「イベント詳細(投稿の仕方について)」を選ぶと見ることができます。そちらからご覧ください。
2022-04-18
10上塩尻蚕種製造民家群4 蚕種製造民家「清水卓爾氏宅」③上塩尻蚕種製造民家群4 蚕種製造民家「清水卓爾氏宅」③土蔵の下に鉄筋入りのコンクリートで作られた地下室がある。夏でも室温が低いため、風穴の代わりに種紙に産み付けられた蚕種を保存し、ふ化の時期を遅らせた。 写真は、屋根に設けた気抜きを天窓のように採光に利用している。天井が高く、太い梁が力強さを感じさせる開放的な空間となっている。2022-04-03
11上塩尻蚕種製造民家群4 蚕種製造民家「清水卓爾氏宅」②上塩尻蚕種製造民家群4 蚕種製造民家「清水卓爾氏宅」②門を入って右側(東側)の2階建ての蚕室は、江戸時代に造られ、1階は居宅、2階蚕室として使われていた。西側の母屋は、明治29年に増築され、1階は居宅、2階は蚕室で、昭和20年代まで蚕を飼育していた。国の登録文化財に指定された佐藤尾之七邸と同じ、木曽上田村の棟梁、武居初太郎が建てた。  写真は、西側の母屋。気抜きの他に屋根の下に通風孔が設けられている。現在は、内部を改修して3世代の家族が暮らしている。2022-04-03
12蚕種製造民家群3 現存する蚕種製造民家蚕種製造民家群3 現存する蚕種製造民家上塩尻の養蚕家屋については、1989~92(平成元~4)年に工学院大学の研究チームが大規模な調査を行い23軒が調査対象となっている。また、平成14年に近代化遺産活用計画策定のための地域調査チームによる現地調査では、気抜きのない養蚕家屋も入れて37軒を対象にしている。 現在、気抜きの備わる蚕室を持つ民家は19軒、他に気抜きはないが、喚起のため窓を大きくして蚕室として使われていた家屋が数軒、近年、取り壊されたり、建て替えられたりした家屋が10軒弱あるが、狭い北国街道や小路に面しているため、工事が難しいこともあり、内部を改修するなど手を入れ、現在も住居として使われている家屋が少なくない。  写真は、緑点は蚕種製造民家、改築されたが景観に配慮して気抜き施した家屋もある。赤点は、平成14年の調2022-04-03
13上塩尻蚕種製造民家群2 蚕種製造の中心地:上塩尻「大村」の景観上塩尻蚕種製造民家群2 蚕種製造の中心地:上塩尻「大村」の景観蚕種製造の中心地上塩尻「大村」は、扇状地の斜面の50000㎡ほどの狭い土地に100戸ほどの民家が集中し、その半数以上が養蚕をし、蚕種製造を営む集落だった。 門構え、土塀、気抜き屋根を持つ白壁の総二階の蚕室を持つ江戸から明治にかけて建築された大きな蚕種製造民家が、狭い小路を挟んで立ち並ぶ景観は、他に例を見ない。写真は、 気抜きの屋根の並ぶ蚕種製造民家群を裏山から撮ったもの。手前の山の下を左右に北国街道が通る。2022-04-03
14上塩尻蚕種製造民家群1 蚕種製造の中心地:上塩尻「大村」上塩尻蚕種製造民家群1 蚕種製造の中心地:上塩尻「大村」明治30年発行の「長野県小県郡熱心蚕種製造家一覧」には、上田町を中心に郡下163戸の蚕種製造家の氏名が記載されている。その2/3の107戸は、旧塩尻村(上塩尻58,下塩尻20、秋和29)がしめている。塩尻とともに西部地域に属する(鎌原7,諏訪部2)も加えると上田盆地の西部、千曲川北岸が蚕種製造の中心だったことがわかる。 上塩尻の中でも53戸の蚕種製造家が集中している「大村」(字:北側・南側)は、千曲川と虚空蔵山に挟まれた大沢の扇状地の斜面で、千曲川の洪水を受けにくく、江戸時代には信越、北陸を結ぶ北国街道が通っていた。上塩尻村の中心である「大村」は、扇状地の上部を北国街道が西の扇端部に向かって下り、平坦部を通る国道18号線とがけ下で交わる西端地点を頂点し、東500mの塩尻小学校の西縁とそこから北に向2022-04-03
15〈秋和〉不思議な街並み 5〈秋和〉不思議な街並み 5秋和の北国街道は直線的だが、道幅が狭いため大軍の進軍は難しい。家々の間口の幅が同程度なのも人工的に作られたからだろう。街道に面して出入口を作らず、小路から出入りし、時には小路に隠れて敵を迎え撃つ。小路を50mほど奥に入ると家並の裏に東西に走る小路があり、街道から見られずに移動ができる。間口いっぱいに建てられた家は、江戸末期から養蚕・蚕種業が盛んになり、広い蚕室を確保する確保するために改築されたものではないか。 西脇や新町のように城下町に近い村は、時代が下がると町屋化し、商いのために道に面して入口を設けるようになった。秋和は農が主で店も宿もほとんどなく、旅人に出入口を開く必要もなかったのではないか。むしろ、背後にある田や山麓や河川敷にある桑畑に通うには、家にわきにある小路が重宝2022-03-23
16〈秋和〉不思議な街並み 4〈秋和〉不思議な街並み 4秋和は、生塚、新町、西脇などと同様、真田氏が上田の城下町を作るときに太郎山の山麓にあった村々を城下町の防衛帯(城下囲:じょうかかこい)とするために移住させてできた。滝沢和喜夫著「秋和の今昔」(S57刊)には、『北国街道に添った秋和村の家の構造は、敵をあざむくために、障子の後ろに雨戸を設けて無防備に見せかけ、小路を多く作って、小路を入った正面に入口を置かず、小路の左右を入口として、攻めるに難く、逃げるに易くするというのが共通の家構えであった。』とある。そのため、真田氏・仙石氏の治世では、屋敷にかける年貢は免除されていた。写真は、街道から北へ抜ける小路。左側に家は小路に向いて門がある。2022-03-23
17〈秋和〉不思議な街並み 3〈秋和〉不思議な街並み 3④家と家の間に街道に直交する小路があり、家の門や入口はその小路に向いている。 地図で秋和集落を見ると東西に走る街道から、一~二軒おきに南北に「くしの歯」のように小路が何本も延びている。もちろん、街道の奥にある家も小路に面して門や入口が設けてある。 写真は、2万5千分の1の地形図。国道18号の北側の旧北国街道の両側に家が並んでいる。特に、西側に南北方向に小路がみられる。2022-03-23
18〈秋和〉不思議な街並み 2〈秋和〉不思議な街並み 2①街道に面して入口のある家が少ない。  旧家の多くは、入口や玄関が街道に面していない。東西にある小路に門を設け入口としている。街道に背を向けている南側の家ばかりでなく、北側にある家も同様で、南に庭があっても塀で囲み、街道から母屋が見えにくい。近年、改築された家の多くは、街道に面して入口や駐車場を設けている。 ②街道に面して、旧家の間口の幅がほぼ10~12mほどで、広狭の差が少ない。 文人で蚕種家だった滝澤秋暁生家は例外的に20mほど。 ③どの家も間口の幅いっぱいに家が建てられている。 家々は、間口の幅いっぱいに家が建てられている。また、街道に寄せぎりぎりの位置に建てられているため、街道の南側は家が高い壁のように立ち並んでいる。 写真の家は、左手の小路に向かって門のある家。右手が2022-03-23
19〈秋和〉不思議な街並み 1〈秋和〉不思議な街並み 1秋和集落は、旧北国街道に沿って東西1kmほどの街村を形成している。昭和16年に国道が集落の南にできたため、道幅狭く、通過車両少なく、道路に沿って水路のある街道の面影が残っている。道の両側には戦前まで蚕種製造を生業としてきた気抜きのある民家も多かったが、近年は、改築する家が増え、独特の景観も失われつつある。昔の景観を思い出しながら街並みを歩くと、不思議な点に気づいた。 写真は、西から東を望む。右手の建物は、街道の面影を残す旧中島銀行。左手は、改築された家々2022-03-23
20西部地域デジタル写真展について(投稿の手順などの説明)西部地域デジタル写真展について(投稿の手順などの説明)2022-03-18
21養蚕農家の生活12 手伝いを通して一人前に 養蚕農家の生活12 手伝いを通して一人前に この桑しょいというのが、自分の力がどれだけあるようになったかを知るバロメーターでした。去年は一わだったのに、今年は二わしょえるようになった。早く兄や父と同じくらいしょえるようになりたいものだと思ったものです。  桑束三ばをしょえるようになったのは、6年生の夏蚕の時でした。今日こそはと桑束をしばる「すがい」を三つ持って山の畑に行きました。父と同じくらいの束三ばを作り、背負子につけました。つけ終わったときは、皆帰りかけており、私が一人残りました。腰を下ろして背負子に肩を入れ、さて力を入れて立とうとしましたが立てません。前の桑株にすがったり、あっちこっちとずって歩きようやく足をぶるぶるさせて立ち上がりました。嫌な坂道も注意して下り、石垣の上の細道も気を張って過ぎ、途中の休み場も下2021-11-15
22養蚕農家の生活11 夏蚕、秋蚕、晩秋蚕 養蚕農家の生活11 夏蚕、秋蚕、晩秋蚕 繭かきの済んだ後の蚕巣ワラは燃やしてしまいました。  このころは田の「しつけ」も繭と並行で、田植えはほとんど他人まかせで、家中でやったことはなかったのです。  7月中旬にはまた夏蚕が始まるのです。夏蚕は子供たちの夏休みと重なり、暑くて飼育が容易なので、我が家では重点をここに置くのです。  庭起きともなると桑は1キロも道のりのある小玉の丘陵まで切りに行くのです。父母姉2人兄2人に私の7人の1ケ分隊が、みな背負子をしょって水上の田の細いあぜ道、しかも高い石垣の細いあぜ道を一列になって行くのです。この行列は私たちだけではありません。 ほとんどの家がこの丘上に桑畑を持っているのです。細道を進んでいくと早い家ではもう桑をしょってこの道を帰ってくるのです。そこで道をよけて通してやるのが大変でした2021-11-15
23養蚕農家の生活10 繭かき・出荷 養蚕農家の生活10 繭かき・出荷  やといの入った各部屋は練炭を入れて暖をとり、繭づくりをさせる。1日たつとヒキは糸をはいて繭の形を作り、3日目には白くなってヒキは見えないようになる。  8日目には「繭かき」(繭の収穫)が始まる。非農家の女衆を3人ぐらい頼んで3日間ぐらいで終わらすのです。繭は20貫(75㎏)もたまればこれを「たて」(繭を入れる袋)に入れ、父は二つの「たて」を天秤で担ぎ、兄は「たて」を背負子でしょって東北(本原)の繭糸(けんし)会社の競(せ)り市(いち)に持って行くのです。私は後について見に行きます。  繭糸(会社)には大勢の人が白い「たて」を持ちよって競りに出す順番を待っています。「ぼて」(大きな竹籠)に繭をあけ、競り台まで運ぶと、係りの男が大きな声で「○○の上等まい」と呼びながら競り台に繭をあけます。する2021-11-15
24養蚕農家の生活9 ヒキ拾い養蚕農家の生活9 ヒキ拾い 庭起き1週間をこえるころになると、蚕は太ぶとと大きくなり、急に桑を食わなくなります。そして首のあたりからあめ色に透きはじめ、首を上に伸ばして何かを探すようにうごめきはじめます。この状態を「ヒキた」と言い、一刻の猶予もできません。まごまごしていると蚕座に糸をかけ始めるからです。このような状況は、親たちは長年の経験で、隣近所で蚕の進んでいる家、遅れている家があり、そう忙しくない家等「えいっこ」(手伝いのしあい)できる家にお願いしておいて、互いに手伝いっこするのです。  朝早くから箔や蚕巣を庭に運び出して「ヒキ拾い」(蚕を蚕巣にいれてやる)の用意をしていると、お手伝いの人が4.5人来てくれて、一番進んでいる前の蚕室からヒキ拾いを始めます。拾うのは手の早い女衆、蚕を箔に撒いて蚕巣を立2021-11-15
25養蚕農家の生活8 桑取り養蚕農家の生活8 桑取り 春蚕用の桑畑は私の家の近くにありましたので、桑切はそうたいへんではありません。切り取ったところから畝間(うねま)をかきあげしては株直しをしました。  蚕飼いが始まると、村の中は急に桑取に出かけるおばあさんたちの往来が繁くなり、そこらで立ち話をする風景が目につき、その言葉の中に「お家のお蚕様は」とか「おら家のしょうは」と蚕に敬語をつける話がよく聞かれます。また、それほどにありがたい虫であり、また、この虫の成長いかんで家の経済が左右されるとなると飼い主の責任は大変に重く、その技術の難しさもあるわけで、毎日のように養蚕教師が一軒ごと巡回指導して歩きましたが、飼主は心配で、よその家の様子と我が家の様子を比べたくなるのです。そして、少しでも我が家の良さを知りたいのです。        2021-11-15
26養蚕農家の生活7 蚕の世話養蚕農家の生活7 蚕の世話 桑をくれるのは1日に大ぐれは3回ですが、群れ直しで少しはくれるので5回ぐらいになったでしょうか。稚蚕の時は、割に湿気に強いのでトタン箱内で飼い、桑葉のしなびるのを防ぎましたが、大きくなると冷湿をきらうなどといい、蚕座(さんざ)(さんざ:食い残りのかす)が厚くなると蒸れる危険があるので、蚕(こ)尻(じり)(こじり:蚕の糞)取りも三齢、四齢にはちょいちょいやりました。その際、よく見ないと蚕をうっかり捨てることになりました。  庭起きになり蚕を下に放すときは、畳の間は全部畳を片付け、座敷、茶の間、勝手土間…軒下、蚕室、裏の物置と人間が寝る部屋とお勝手を残し、全部が蚕の放し飼いに使われたのです。床上にもみ殻をまき、その上に石灰をまいて蚕箔上の縄網(なわあみ)(蚕の上に網をかけ、その上に桑を乗せる2021-11-15
27養蚕農家の生活4 桑の手入れ 養蚕農家の生活4 桑の手入れ  4月は春祭りの時期です。桑は昨年の夏蚕用に切られ、15センチほど切り残された桑棒に、切られた後に発芽した細枝をつけてボサボサになっている。この棒を株すれすれに鎌で切除する作業を株直しといいますが、お祭りの前にこの作業を済ませることが我が家の例年の習いでした。越年した桑株はかたくて鎌でそぐのは子供の力では大変でした。鎌はよく切れることが大事で、それにはちょいちょい砥(と)ぐことでした。その砥ぎ方も父から習ったのです。600坪からある桑畑の株直しは我が家にとっては大変な作業で、父母が専門にやるばかりでなく、私たち子供もお祭り前に終わらそうとがんばりました。手の中は血豆がいくつもでき、指の付け根にタコができました。  桑の芽が出る前に全桑園に春肥をやります。それには大豆かすやアンモ2021-11-15
28養蚕農家の生活3 養蚕の準備養蚕農家の生活3 養蚕の準備 養蚕は暖かい時期に蚕を飼うことばかりでなく、その用意は冬のうちから始まりました。3月、寒いながら日も長くなりだすと父は蚕(こ)巣(す)(こす:蚕が繭を作るときにワラで編んだ巣に入れる)折りを始めました。昨年の秋の終りに田んぼのワラは全部家の裏に積み上げてあり、これを崩してワラすぐりをした一つかみのワラを簡単な箱型の器具にのせて、二本の鉄棒とばねの力で作ります。1個を作る所要時間は2分ぐらい、一時間に30個、1日に100個も作ればもうたくさんになってしまっただろうと思います。  蚕巣1個が蚕(さん)箔(ぱく)(さんぱく:1畳ほどの竹籠に敷く紙。その上で蚕を飼う)1枚用で、我が家では春蚕に350個、夏蚕に450個、残りを秋蚕、晩秋用にするので1000個の蚕巣が必要で、この蚕巣を折る作業は2021-11-15
29コスモスの写真展コスモスの写真展11月1日から14日までコスモスの写真を西部公民館で掲示しています。 青空にピンク色のコスモスが映えます。 今年見逃した!という方是非ご覧下さい。 散歩がてら写真展を見に行くと 西部公民館の入り口 [ど根性千日紅] 発見しました。 来年は[西部地区の素敵な風景]そんな写真展どうでしょうか?2021-11-02
30養蚕農家の生活2 桑の状態や水田の仕事、働き手に合わせて養蚕農家の生活2 桑の状態や水田の仕事、働き手に合わせて 私の家では桑畑を春(はる)蚕(ご)用に400坪(1320㎡)、夏(なつ)蚕(ご)、秋(あき)蚕(ご)用に600坪(1980㎡)をあてていたようです。なぜ夏蚕に重点をおいたかというに、春は気温が低く温度をとる養蚕には不向きであり、しかも養蚕期間が長いという不利と水田の「しつけ」(田植え)時期と重なるからです。また、夏期は子供たちの学校の長期休業という戦力の当てがあるからです。              『養蚕業について』西沢吉次郎著から  写真は、開校当時の塩尻小学校。桑畑に囲まれている。奥に見ええる山にも段々畑が広がっている。子供たちも養蚕の大事な労働力だった。(復刻版塩尻時報扉より)2021-10-15
31養蚕農家の生活1 西沢吉次郎さんの話養蚕農家の生活1 西沢吉次郎さんの話 上小地域から桑畑とともに養蚕農家が姿を消して久しい。蚕の飼育についての記録は残っているが、蚕とともに暮す生活の記録はあまり見当たらない。知る人もわずかになり、聞くことも難しくなっている。 上小郷土史研究会が平成2年に発行した「大正から昭和へー町や村の暮らしー」所載の西沢吉次郎さんの作品は、当地の養蚕農家の生活を描いた貴重な記録である。西部地域の記録ではないが、養蚕・蚕種製造をする農家の生活を想像する手立てとして使用することを許可してもらった。  西沢さんは1919(大正8)年、現上田市真田町本原に生まれ、子供のころの農業や養蚕の手伝いをした思い出を記録している。明治の中頃から大正、昭和初期は、繭景気が良い時代で、「米の成る田に桑の木植えて、お前食う木かくわ(桑)ぬ木か」というざ2021-10-12
32コスモス写真展コスモス写真展今年も花いっぱいの会の方で企画したコスモス写真展を行います。それに伴い、生塚神社付近のバイパス沿いにはたくさんのコスモスが咲いているので、ぜひ気軽に散歩しながら見に行ってみてください!2021-09-20
33コスモス見頃です。コスモス見頃です。今日は草取り活動をしました。 ボランティア募集で来てくださいました。 朝日をあび 時より吹く風はとてもさわやかでした。 コスモスは 今 最高です。 お散歩にお出掛け下さい。 写真展にも応募してくださいね。2021-09-19
34塩尻小学校郷土資料館7 蚕種家「佐藤尾之七邸宅」の今塩尻小学校郷土資料館7 蚕種家「佐藤尾之七邸宅」の今 写真は、資料館に版画があった蚕種家「佐藤尾之七邸宅」の今である。住む人なく閉められた門の脇に、蚕種家の屋敷だったことを紹介する説明文が掲げてある。往時の活気はうかがうべくもないが、一時代を築いた風格が漂い、「蚕種の郷」独特の景観を伝えている。1912(大正元)年の長野県の調査では、塩尻村(上塩尻、下塩尻、秋和)で県税を納めている戸数は566戸、うち蚕種製造戸数は、136戸で23.3%を占めていた。版画は当時の盛況ぶりを想像する手がかりとなっている。 今、塩尻地区でも朽ちるにまかされた蚕室や現代的な住宅に建て替わる古民家が少なくない。「気抜き」のある建物が狭い小路をはさんで軒を連ねる「蚕種の郷」の景観も雑木に覆われた段々畑同様に消えゆく時が迫ってはいないか。失ったら取り戻すことでき2021-08-12
35塩尻小学校郷土資料館1 郷土資料館はタイムカプセル塩尻小学校郷土資料館1 郷土資料館はタイムカプセル 塩尻小学校郷土資料館は、1961(昭和36)年、PTAや地元自治会の協力で各家庭から寄付された農具、養蚕道具、製糸道具、織機、衣料日用品、昔の旅の服装用具、昔の新聞、雑誌、書籍、楽器、写真、古文書、土器や石器など約280点を空き教室に展示して始まった。その後、周年記念事業等で整備充実が図られ、1995(平成7)年には校舎改築にあわせて独立した郷土資料館が完成した。塩尻地区が「蚕種の郷」だったことから、他に見られない蚕種製造にかかわる貴重な資料が集められていている。展示品の中から蚕種製造にかかわる資料(太字で表記)を紹介する。写真は、塩尻小学校郷土資料館。右は桑の木。2021-08-12
36蚕種の郷11 先人たちの努力と工夫蚕種の郷11 先人たちの努力と工夫 蚕種は、半紙大の蚕種紙に一粒並べに産卵されたままの状態で販売されました。農閑期になると蚕種業者は、生産した蚕種紙を背負ってお得意先の養蚕農家を回り、前年に渡した種紙の代金を受け取り、翌年用の蚕種紙を渡して周りました。良い繭がたくさん取れれば、その秘訣を聞き、取れなければ飼育方法を指導する蚕種業者は養蚕の優れた技術指導員でもありました。また、塩尻では、養蚕技術の改良や新品種の育成、組合を作って質の悪い蚕種が出回るのを防ぐなど品質向上の取り組みも行われ、蚕種の郷としての評判を支えました。幕末、外国との貿易が始まると塩尻の蚕種は、蚕の病気で養蚕業が全滅の危機に瀕していたイタリアやフランスにも輸出され、1枚3両から4両でいくらでも売れたそうです。 小さくて高価、また高度の技術で製造さ2021-06-25
37蚕種の郷10 蚕種製造に欠かせない歩桑(ぶぐわ)の栽培蚕種の郷10 蚕種製造に欠かせない歩桑(ぶぐわ)の栽培蚕の餌となる桑は、他の樹木と違って、その根を地中深く伸ばします。千曲川の洪水に流されることもなく、急斜面でも地下水を吸収して成長できるので干ばつにも強いのです。また、洪水は上流から肥えた土を供給してくれました。 さらに、岩鼻から吹き出す強風は、蚕の害虫カイコノウジバエの卵を桑の葉からふりおとしてくれます。そのため塩尻地区の河原や扇状地、山の斜面に育つウジバエの卵を産み付けられていない桑「歩桑(ぶぐわ)」は、蚕種製造には、欠かせないものでした。   写真は、バイパスののり面に桑の実を食べた鳥の糞から育った桑の葉2021-06-25
38蚕種の郷9 なぜ、蚕種の郷に?蚕種の郷9 なぜ、蚕種の郷に? 蚕種製造は、蚕が作った繭の殻を破って出たオスとメスの蛾を交配させて、メスの蛾に、厚手の紙(産卵台紙)に卵(蚕種)を産みつけさせます。卵を産み付けられた産卵台紙(種紙)販売するのが蚕種業です。大事なことは、卵から生まれた蚕が病気に強いか、その蚕が吐いた糸の品質が良いかです。塩尻の先人たちが生み出した蚕種は、強健であり、発育が早く桑の食い方も活発で飼いやすく、繭の形もよくそろい、糸量も多いと人気を呼び、蚕種の郷・塩尻の名が全国に知られるようになりました。  こうした品質の良い蚕種が作られるようになったのは、上田地方、とりわけ塩尻が養蚕・蚕種製造に向いた場所だったからです。 写真(「養蚕・製糸」(上田市立博物館)より)は、産卵台紙にメスの蛾が卵を産み付けている様子。白い粒が卵。卵2021-06-25
39蚕種の郷8 養蚕から蚕種製造へ蚕種の郷8 養蚕から蚕種製造へ塩尻では、豊臣秀吉の時代、文禄4年(1595年)の千曲川大洪水で壊滅的な被害を受け、水害に強い桑を植え、養蚕が始まったと伝えられています。江戸時代は、米を年貢として取り立てていたので田に他の作物を作ることは禁止されていましたが、しばしば水害に襲われる河原の畑や急な斜面の段々畑に桑を植え、蚕を飼うことは許されていました。中期には、稲作の合間に始めた養蚕の中でも蚕種製造に力を入れるようになり、後期には本場の奥州(東北地方)を追い越し、日本一の蚕種の生産地となりました。写真は、昭和20年ころ養蚕作業の様子(塩尻地区写真集より)です。養蚕は手がかかる仕事が多く、家族総出で作業しました。学校は、「蚕休み」にして子たちも手伝いました。写真は、蚕が作った繭を前に置かれた藁で作った「まぶし2021-06-25
40蚕種の郷4 戦前の写真には蚕種の郷4 戦前の写真には 写真は、「支那事変の戦没者村葬の様子(昭和12.13年)」(塩尻地区写真集)です。会場は今の塩尻小学校の校庭です。背後にみえる山腹には中ほどまで石垣と段々畑が広がっているのがよく分かります2021-06-25
41春の花写真展春の花写真展5月24日(月)~6月6日(日)まで西部公民館で行っていた春の花写真展を見てきました。私自身も複数枚持っていき飾っていただきましたが、思っていた以上に写真が集まっていて、やはりたくさんの人がイベントに参加してくれると、それぞれの目線で見て感じることができ、それを記録としても残せるため、今回のイベントはとても良いものであったと思います。私自身も参加させてもらえて、とてもいい機会になりました。来年はもちろん、他にももっと西部地域で様々なイベントが行えたらと思います。2021-06-07
42春の花写真展春の花写真展西部公民館にて春の花写真展が開催されました。 4月24日の花桃植樹の様子やネイチャービンゴゲームの様子も掲示されています。 今年は桜も花桃もいつもより早く咲きましたね。2021-06-05
43花桃イベント 生塚神社~里山の中の様子花桃イベント 生塚神社~里山の中の様子花桃イベントのネイチャービンゴゲームを実際に行っている最中の様子とやその際に里山の中を歩いている様子を撮影した写真です。途中の道で険しいところもありますが、進んでいくと眺めが良い場所もあり、それが魅力の里山となっています。ここを歩けるように整備したと考えると、すごいなと改めて思います。2021-05-08
44花桃イベント 参加者の様子花桃イベント 参加者の様子イベントには写真のように大人の方をはじめ、たくさんの子どもたちが参加してくれました。里山に登る前も楽しみにしていて、終わったあともとても楽しんでくれた様子が感じられました。2021-05-06
45蚕種の郷3 航空写真に写った段々畑(2)蚕種の郷3 航空写真に写った段々畑(2)画像を拡大すると石垣の黒い線が見えてきますが、ここでは扇状地の部分だけでなく沢に沿って山の上まで白い畑が延び、段々畑になっていることがよく分かります2021-04-24
46蚕種の郷3 航空写真に写った段々畑(1)蚕種の郷3 航空写真に写った段々畑(1) 昭和22年撮影の航空写真(国土地理院)には、今は雑木に覆われている段々畑がはっきりと見えます。北に連なる太郎山山系、南には東西に流れる千曲川、左上から右下に国道18号線、右下が上田市街、中央に秋和の集落、左上に山と国道に挟まれた塩尻の集落が見えます。中央の黒い部分は水田、黒くひだになった山と水田の間の白い部分が畑です。右の大きく張り出した部分は緑が丘で、黄金沢と和合沢の複合扇状地です。山麓を西に向かうと沢の出口に小さな扇状地が並び、秋和の北西にやや大きな扇状地が見えますが、ここが前記の大藏京です。2021-04-24
47生塚延命地蔵尊宵祭り(うぶつかえんめいじぞうそんよいまつり)生塚延命地蔵尊宵祭り(うぶつかえんめいじぞうそんよいまつり)毎年3月23日夕刻より生塚延命地蔵尊宵祭りが行われました。かつては、飴売りの屋台も出た時もありました。 延命地蔵尊の謂れ(いわれ)は写真に写してあります。2021-03-26
48思わぬ洪水6 「改修進む矢出沢川」思わぬ洪水6 「改修進む矢出沢川」平成22年の洪水被害を受け、県では平成23年、30年に一度の豪雨に備えて矢出沢川の整備計画を立て、護岸の改修、河床の掘り下げなど流下能力を高めるための工事を進めています。令和元年(2019年)の台風19号(10/11~13の累積降水量 菅平285mm、上田149.5mm)では千曲川、神川流域で大きな被害に見舞われましたが、矢出沢川流域では被害はありませんでした。写真は、令和3年(2021年)1月、蛇沢地区の矢出沢川で進められている護岸工事の様子です。 100年に一度の矢出沢川の洪水が起き、30年に一度の豪雨に備える対策が進められていますが、地球温暖化にともなう異常気象による気象災害が頻発するようになってきました。この災害を忘れず、注意を払うことをわすれてはなりません。  2021-01-25
49思わぬ洪水3「用水路の改修」思わぬ洪水3「用水路の改修」昭和39年以降、平成22年まで大きな浸水被害の記録はありません。その理由について30周年誌には、夏にはホタルが飛び交い、サワガニを取った粗い石組みでできた崩れやすい用水路が、コンクリートU字溝に改修され、用・排水がよどみなく流れる様になったから。水門の整備が進み、豪雨の時には矢出沢川からの用水の取り入れを調節したり、西小のそばの水門を開け、矢出沢川に用水を戻したりするなど水路への流入量を調節できるようになったからと説明しています。さらに昭和58年には公共下水道が完成し、家庭雑排水は水路に流れ込まなくなりました。写真は、令和3年1月に秋和地区で行われていた水路改修工事の様子です。U字溝を入れるため、石を除き底をならしています。2021-01-23
50思わぬ洪水2「ちょっと降ると水害でした」(常磐町30周年誌より)思わぬ洪水2「ちょっと降ると水害でした」(常磐町30周年誌より)昭和39年8月の集中豪雨では、2時間ばかりの間に合計105.4mmの降水量があり、常磐町一帯に浸水被害を受けたことは、古くからの住人の脳裡に刻まれています。 常磐町ができたころの様子が30周年誌に載っています。「以前はよく水害がありました。ちょっと降ると水害でした。団地の中を流れる田用水が氾濫するのです」。その理由について「この団地は緑ヶ丘地区に比べるとずいぶん低いんですね。極端ないい方をすると『なべ』の底みたいにこの辺が一番低い。中でも西団地は特に低い。山に近いから西のほうが高いと思っていたんですが、川が山の方角へ向かって流れるわけだから山ぎわのほうが低い」と語っています。写真は、常磐団地ができたばかりの頃の様子です。東側は緑ヶ丘まで一面の水田です。道路も水路も舗装されていません。2021-01-23
51西部地区探検隊[不思議な水路11]西部地区探検隊[不思議な水路11] 写真(国土地理院所蔵)は昭和22年、当時の占領軍が空中撮影したものです。西部地区の東側の扇状地(緑ヶ丘)や太郎山のすそは白っぽい色をしていて、畑作地帯です。南側を国道と北国街道が東西に走っていて、北国街道に沿って家が並んでいます。間の濃い灰色の部分、現在の常磐町と城北は、あたり一面の水田地帯です。碁盤の目のように道路が走っている(条里遺構)様子がよくわかります。道路にそって、用水路も走っています。右下に西小学校が見えます。郵便局や裁判所のあるあたりも水田になっていたことがわかります。国道の南側を矢出沢が流れ、左下で千曲川に注いでいます。右下は上田市街地です。2021-01-12
52地域の記憶:上塩尻・段々畑の桑園地域の記憶:上塩尻・段々畑の桑園地域のありようは長い間には大きく様変わりします。昔その地域がどうであったのかを確認するにはその当時の資料が欠かせません。人の記憶の中にその様相は残っていても、第三者がそれを確認できるのはデータとして残された何らかの記録です。証言のような言葉(人の記憶)でも補えますが、それを証言してくれる映像なり、道具なり、資料なりがあってその確認ができます。 2019年2月、上塩尻のSさんのお宅を訪問しました。蚕種製造の中心地・上塩尻の古い資料をデジタルアーカイブ化しようというねらいです。 Sさんのお宅にあった一枚の写真に注目。少年たちと大人たちの集合写真です。脱穀作業を共同で行った時の記録と思います。少年たちは国民服を着ています。1940年代前半の撮影ではないかと思われます。その背後に段々畑の桑園2020-12-19
53コスモスの写真展コスモスの写真展上田西部公民館に於いてコスモスの写真展を開催しました。 地域の皆さんより募集し沢山の方から応募頂きました。 塩田地区の山並みや上田市街地と共に写されているものや お子さんの散歩の様子など それぞれの思いの写真が飾られ とてもほっこりとするものでした。 コロナ禍に於いて 集まらないイベントとして写真展は良かったとおもいます。2020-11-20
54旧北国街道(下紺屋町·鎌原·西脇·新町)旧北国街道(下紺屋町·鎌原·西脇·新町)旧北国街道の道の写真です。新町ら辺からは少しずつカーブもあり完全な直線ではないですが、二の丸通りから入ってしばらくはきれいな直線となっています。2020-10-22
55緑ヶ丘西公園緑ヶ丘西公園昔はこの写真よりももっと緑がいっぱいでよもぎも生えていました。今ではあまり草などの植物も生えてなく、ブランコの向きが変わったり鉄棒がなかったりと、昔ほど栄えていないように感じますが、とても広い公園です。2020-10-16
56西部公園西部公園この公園は少し細い道を入ったところにあり、初めて行くとなるとわかりづらいかもしれません。この公園には滑り台とブランコと鉄棒が置いてあります。また、写真には写っていませんが、この公園の反対側には少し大きめのグラウンドがあり、そして、この写真を撮影したすぐそばには小さな休憩所があります。他の公園に比べると少し広めになっています。2020-10-16
57常磐町自治会館横の公園常磐町自治会館横の公園よく子供たちが遊んでいるのを見かけることが多く、数年前には写真の奥の方にある木でできた休憩所も立てられ、そこでよくお母さん方が話しているのもよく見かけます。その休憩所は屋根もあり柱などがしっかりと立てられているので、雨の日でも活用できそうです。2020-10-16
58常磐町西公園常磐町西公園この公園周辺は住宅街となっており、遊具は昔から写真にある滑り台とジャングルジムのようなもの2つがあります。また、昔はこの公園の目の前が田んぼで、現在はアパートの駐車場となっています。公園にしてはもの寂しい感じがします。2020-10-16
59熊の捕獲と保護熊の捕獲と保護太郎山山系では熊の出没が報道される。虚空蔵山麓は人、農作物への被害防止を目的に自治会、猟友会が協力し檻、罠を仕掛け熊を捕獲しています。しかし熊は保護動物のため捕獲後各種データを取り、遠くの山に放獣されます。写真は催眠状態で測定を受ける小熊です。2020-10-15
60上塩尻 ゆうすげと蝶の里 2020年9月22日上塩尻 ゆうすげと蝶の里 2020年9月22日2020年9月の上塩尻のゆうすげと蝶の里のアサギマダラの様子です。 この写真を撮影した2020年9月22日の早朝は5頭ほどのアサギマダラがフジバカマの周りを舞っていました。 そのほかの蝶も数頭飛来していました。 アサギマダラは10月の初旬ごろまで飛来していると思いますので、ぜひご覧ください。 近くに太郎山の登山者用の駐車場もあります。2020-09-24
61西部地区探検隊[不思議な水路 10]西部地区探検隊[不思議な水路 10]『堀越堰』は先人たちの知恵と力の賜物です、今も多くの人の手で守られています。また、上流と下流は同じ水でつながっています。これからも大切にしたいものです。ゴミを捨てたり、水門をいじったりしないようにしましょう。また、浅いように見えてもかなりの水量があるので入って遊ばないでください。特に、大雨の時は危険です、近づかないでください。写真は、右側の用水路から左側の水田に水を取り入れているところです。2本の水路にはさまれた三角形の土地は、古い水の取り入れ方で「かけ樋(ひ)のこった」といいます。最近は、ほとんど見られなくなりました。2020-08-29
62第39回塩尻どんどこ祭第39回塩尻どんどこ祭塩尻商工振興会が主催で毎年上田市立塩尻小学校のグラウンドや体育館などを会場に塩尻どんどこ祭りが開催されています。地域の方の出し物や、小学生による模擬店、消防団によるラッパ吹奏や、最後にはグラウンドの真上で見え、「日本一新幹線の車窓から近くで見える打ち上げ花火」があがります。 写真は2015年8月1日に行われた第39回どんどこ祭のオープニングの様子です。2020-08-25
63COSMOSCOSMOS上塩尻を散策しながら、神社に向かう途中山のふもとにたくさんのコスモスが咲いてたので思わず写真を撮ってしまいました。2019-04-01
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