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写真タイトル説明登録日
1だんだんばたけの石垣だんだんばたけの石垣花桃イベントでイノシシコースを歩いてきました。ところどころに石垣があります。その昔、この斜面一帯が桑園(そうえん)でした。石垣はその跡。これだけていねいに石を積んで斜面の土がくずれないようにしていたのですね!2022-05-01
2〈秋和〉不思議な街並み 5〈秋和〉不思議な街並み 5秋和の北国街道は直線的だが、道幅が狭いため大軍の進軍は難しい。家々の間口の幅が同程度なのも人工的に作られたからだろう。街道に面して出入口を作らず、小路から出入りし、時には小路に隠れて敵を迎え撃つ。小路を50mほど奥に入ると家並の裏に東西に走る小路があり、街道から見られずに移動ができる。間口いっぱいに建てられた家は、江戸末期から養蚕・蚕種業が盛んになり、広い蚕室を確保する確保するために改築されたものではないか。 西脇や新町のように城下町に近い村は、時代が下がると町屋化し、商いのために道に面して入口を設けるようになった。秋和は農が主で店も宿もほとんどなく、旅人に出入口を開く必要もなかったのではないか。むしろ、背後にある田や山麓や河川敷にある桑畑に通うには、家にわきにある小路が重宝2022-03-23
3養蚕農家の生活11 夏蚕、秋蚕、晩秋蚕 養蚕農家の生活11 夏蚕、秋蚕、晩秋蚕 繭かきの済んだ後の蚕巣ワラは燃やしてしまいました。  このころは田の「しつけ」も繭と並行で、田植えはほとんど他人まかせで、家中でやったことはなかったのです。  7月中旬にはまた夏蚕が始まるのです。夏蚕は子供たちの夏休みと重なり、暑くて飼育が容易なので、我が家では重点をここに置くのです。  庭起きともなると桑は1キロも道のりのある小玉の丘陵まで切りに行くのです。父母姉2人兄2人に私の7人の1ケ分隊が、みな背負子をしょって水上の田の細いあぜ道、しかも高い石垣の細いあぜ道を一列になって行くのです。この行列は私たちだけではありません。 ほとんどの家がこの丘上に桑畑を持っているのです。細道を進んでいくと早い家ではもう桑をしょってこの道を帰ってくるのです。そこで道をよけて通してやるのが大変でした2021-11-15
4養蚕農家の生活8 桑取り養蚕農家の生活8 桑取り 春蚕用の桑畑は私の家の近くにありましたので、桑切はそうたいへんではありません。切り取ったところから畝間(うねま)をかきあげしては株直しをしました。  蚕飼いが始まると、村の中は急に桑取に出かけるおばあさんたちの往来が繁くなり、そこらで立ち話をする風景が目につき、その言葉の中に「お家のお蚕様は」とか「おら家のしょうは」と蚕に敬語をつける話がよく聞かれます。また、それほどにありがたい虫であり、また、この虫の成長いかんで家の経済が左右されるとなると飼い主の責任は大変に重く、その技術の難しさもあるわけで、毎日のように養蚕教師が一軒ごと巡回指導して歩きましたが、飼主は心配で、よその家の様子と我が家の様子を比べたくなるのです。そして、少しでも我が家の良さを知りたいのです。        2021-11-15
5養蚕農家の生活4 桑の手入れ 養蚕農家の生活4 桑の手入れ  4月は春祭りの時期です。桑は昨年の夏蚕用に切られ、15センチほど切り残された桑棒に、切られた後に発芽した細枝をつけてボサボサになっている。この棒を株すれすれに鎌で切除する作業を株直しといいますが、お祭りの前にこの作業を済ませることが我が家の例年の習いでした。越年した桑株はかたくて鎌でそぐのは子供の力では大変でした。鎌はよく切れることが大事で、それにはちょいちょい砥(と)ぐことでした。その砥ぎ方も父から習ったのです。600坪からある桑畑の株直しは我が家にとっては大変な作業で、父母が専門にやるばかりでなく、私たち子供もお祭り前に終わらそうとがんばりました。手の中は血豆がいくつもでき、指の付け根にタコができました。  桑の芽が出る前に全桑園に春肥をやります。それには大豆かすやアンモ2021-11-15
6養蚕農家の生活2 桑の状態や水田の仕事、働き手に合わせて養蚕農家の生活2 桑の状態や水田の仕事、働き手に合わせて 私の家では桑畑を春(はる)蚕(ご)用に400坪(1320㎡)、夏(なつ)蚕(ご)、秋(あき)蚕(ご)用に600坪(1980㎡)をあてていたようです。なぜ夏蚕に重点をおいたかというに、春は気温が低く温度をとる養蚕には不向きであり、しかも養蚕期間が長いという不利と水田の「しつけ」(田植え)時期と重なるからです。また、夏期は子供たちの学校の長期休業という戦力の当てがあるからです。              『養蚕業について』西沢吉次郎著から  写真は、開校当時の塩尻小学校。桑畑に囲まれている。奥に見ええる山にも段々畑が広がっている。子供たちも養蚕の大事な労働力だった。(復刻版塩尻時報扉より)2021-10-15
7養蚕農家の生活1 西沢吉次郎さんの話養蚕農家の生活1 西沢吉次郎さんの話 上小地域から桑畑とともに養蚕農家が姿を消して久しい。蚕の飼育についての記録は残っているが、蚕とともに暮す生活の記録はあまり見当たらない。知る人もわずかになり、聞くことも難しくなっている。 上小郷土史研究会が平成2年に発行した「大正から昭和へー町や村の暮らしー」所載の西沢吉次郎さんの作品は、当地の養蚕農家の生活を描いた貴重な記録である。西部地域の記録ではないが、養蚕・蚕種製造をする農家の生活を想像する手立てとして使用することを許可してもらった。  西沢さんは1919(大正8)年、現上田市真田町本原に生まれ、子供のころの農業や養蚕の手伝いをした思い出を記録している。明治の中頃から大正、昭和初期は、繭景気が良い時代で、「米の成る田に桑の木植えて、お前食う木かくわ(桑)ぬ木か」というざ2021-10-12
8蚕種の郷13 衰退した養蚕製糸業蚕種の郷13 衰退した養蚕製糸業  なぜ、今、桑畑は無いのでしょうか。養蚕農家はどうなってしまったのでしょうか。 江戸後期から養蚕業は広がり、幕末に生糸が欧米に輸出されるようになると生産は一気に増加しました。大正の中頃、第一次世界大戦が始まると女性の社会進出が進み、欧米ではその足元を飾るストッキングに絹が使われ、生糸の輸出は更に増えました。この頃、生糸の価格は最高値をつけています。塩尻地区の桑園面積が最も大きくなったのも大正から昭和の初期でした。明治初期の畑の面積の4倍にもなっています。段々畑を山の急斜面に段々畑つくるばかりでなく、水田を桑畑に転換する所もありました。 ピークは昭和5年です。前年、アメリカに始まった株の大暴落は、瞬く間に世界中に広がり世界恐慌となり、生糸の輸出はストップし、養蚕農家や製糸工場2021-06-29
9蚕種の郷12 先人たち苦闘の印蚕種の郷12 先人たち苦闘の印とはいえ、桑畑を作るには、河原を1.5メートルも掘りあげ、石や礫を出し、竹で作った篩で振るい、大石は畑の周囲に石垣として築き、砂地にするという大変な作業が必要でした。また、段々畑を作るには、石は豊富にあるとはいえ山のがれ場から石を運び、石垣を築き、雑木を取り除き、斜面をならし、畑にしなければなりません。更に、桑の手入れや人糞などの肥料入れ、桑の収穫に何度も険しい山道を上り下りしなければなりません。「塩尻へ嫁に行くか、それとも裸で荊(いばら)を背負うか」ということわざは、厳しい自然環境の中、必死に生き抜いてきた先人の苦闘を教えてくれいるのではないでしょうか。そして、雑木に覆われた段々畑は、苦闘の印です。河原の畑は、洪水を防ぐ連続堤防が築かれ、戦後の土地改良で広い水田に作り変えられ2021-06-25
10蚕種の郷6 「塩尻へ嫁に行くか、それとも裸で荊(いばら)を背負うか」蚕種の郷6 「塩尻へ嫁に行くか、それとも裸で荊(いばら)を背負うか」 昔、塩尻には「塩尻へ嫁に行くか、それとも裸で荊(いばら)を背負うか」ということわざがあったそうです。北に険しい虚空蔵山が聳え、南の千曲川に挟まれたわずかな平地は岩鼻に向かって狭くなっています。さらに堤防のない時代には、千曲川の洪水に度々襲われ、砂地や石がゴロゴロしている河原のような有様になりました。塩尻に嫁げば、裸の背に棘のある荊を背負うような苦労をするだろうと言っているのです。その塩尻の先人たちが、苦難と向き合い、営々と努力、工夫を重ねてきた証がこの河原と山麓に広がる桑畑です。2021-06-25
11蚕種の郷5 段々畑で作られていた作物は?蚕種の郷5 段々畑で作られていた作物は? 上田市誌の近現代編(2)「蚕都上田の栄光」の73Pの「桑園地地図」を見ると明治34年、太郎山山麓の塩尻村、上田町と記された場所は黒く塗りつぶされ、桑園になっていることがわかります。 さらに桑園は千曲川の両岸にも桑園が広がっています。今では見ることがない桑畑が、扇状地や河原、山の斜面に広がっていたのです。2021-06-25
12常磐町のお地蔵様常磐町のお地蔵様須波三穂神社に向かうこの一本道は昔は両側が桑畑でした。その道の入口にはひっそりとお地蔵様が立っておられます。きっと周囲の桑畑や田んぼて働く人々を日々見守られていたのでしょう。神社への道案内と共に。2020-10-26
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