はじめての方へ
|
新規ユーザー登録
ログイン
西部地域デジタル写真展
マップ
歴史文化スポット・記録
写真記録
北国街道
気になるスポット
飲食店・食べ物
水路
山城山系
生物・植物
祭・イベント
地域活動記録
ゆうすげと蝶の里
花いっぱいの会
桜づつみホタル会
自治会・まちづくりの会
施設・公園
字界・地域の成り立ち
蚕種の郷
塩尻小学校郷土資料館
養蚕農家の生活
子ども地域たんけん隊
学びの支援
メンバー紹介
文書記録
猫瓦を愛する会
藤本蚕業歴史館(上塩尻)
並び替え:
最新順
管理番号順
タイトル順
登録日順
登録リスト(該当:139件)
≪
1
2
≫
写真
タイトル
説明
登録日
1
蚕種家滝澤秋曉「司令塔」より③
滝澤家の蚕室についてはこのように書いている。 『僕の養蚕は、いつでも2号蚕室(北側にある大蚕室)が根城で、それにあふれたのを1号蚕室(門東側の小蚕室)へ、1号に余ったのを母屋に移す。1号と母屋は母が指揮を執っている。』 屋敷と蚕室のつくりは、次のようだった。 『長屋門の東側には納屋、薪屋、味噌蔵、貯桑場が、西側には、寝室、文庫蔵、穀蔵がつながっている。母屋の北30mに東西方向に間口12間半(約22m)、奥行きは3間(約5m強)、南に1m、北に2m幅の通しの内廊下のついた2号蚕室がある。中央には玄関兼司令塔が凸出している。屋根は、18mの気抜き屋根、大屋根と廊下の屋根が3段になっているので、外から見ると2階づくりに見えるが、平屋っである。ただ、床下は1m強の上、さらに地下に60センチ掘り下げ
2023-05-22
2
蚕種家滝澤秋曉「司令塔」より②
蚕種家としての秋曉の仕事の様子はこう書かれている。 『司令塔へ籠りきるのは、製種(蚕種を造る)時で、朝のうち一通り指図をすると仕事に馴れた一人二人連れて司令塔に上がる。蚕種の注文の手紙は、1日に30通ほど、お礼や返事のはがきや手紙を書く。一方で、伝習生(蚕種製造について学びにきている若者)が(産卵)台紙に、店の印をおす。薄どり(蚕種の数が少ない)、厚どり(多い)、枠入などと仕分ける。自分は、手紙が片付くと帳簿に注文を書き入れる。』 *明治後期、郵便制度が整うと蚕種を持って出張販売することはなくなり、郵便で送り、郵便為替で代金を受け取るようになった。写真は、塩尻小学校郷土資料室に寄贈された滝澤家の蚕種の発送箱。彦太郎は秋曉の本名、寄贈者の宗太は秋曉の孫で、著作集の発行者。 入
2023-05-22
3
蚕種家滝澤秋曉「司令塔」より①
文学者滝沢秋曉は、明治29年重い脚気を患い、東京での文学活動を切り上げふるさと秋和に帰省した。その後、秋曉は作品を書きながら、家業の蚕種業にも精を出す。明治41年には、その暮らしぶりを「司令塔」という作品で発表した。 「司令塔」(滝澤秋曉著作集)から、当時の蚕種家の生活を抜き出してみた。「司令塔」とは、写真(上田市誌「上田の風土と近代文学」より)の蚕室の中央2階に見える部屋を指していて、次のように書いている。(原文通りでなく、わかり易いように手を入れた) 『2号蚕室の前面に飛び出して、下は蚕室の大玄関、はしごを上ると5畳敷の小座敷がある。東西3面は、ガラスをはめた明かり障子で、広庭を見下ろす。 養蚕中、やれ郡長だ、やれ県の役人だ、視察だなんだかんだとくる来客に、母屋に引
2023-05-22
4
滝澤秋曉邸
滝沢秋暁は、蚕種家であるとともに、上田を代表する近代文学者として文学史に名を残している。塩尻地区近代化遺産調査報告書には、以下のように紹介さている。 ・・・秋暁の生家は、蚕種業「両水館」を営み、江戸時代から関東甲信一円から奥州まで、蚕種の仕入れや、販売に出かけています。それらの旅先で入手した幅広い分野の蔵書が残されており、そういう環境で秋暁は、明治8年に生まれました。 明治28年、秋暁は「絵画修業」のため上京し、絵を学ぶかたわら雑誌「文庫」の記者となり、全国からの青少年の投稿作品の選と選評などの仕事をしながら、多くの文学者とも交流し、河井酔名、横瀬夜雨などを育てたといわれます。 しかし、明治29年9月、重い脚気のため帰省。秋和に住み、家業を手伝いながら「文庫」の批評や
2023-05-20
5
「秋和の里」の滝澤秋暁邸が更地に
しばらくぶりで秋和の北国街道を歩いた。驚いたことに「秋和の里」を代表する滝澤秋暁邸がなくなっていた。長屋門に茅葺にトタンをかけた重厚な母屋、門の東に続く気抜きを設けた蚕室、母屋の裏には庭を挟んで気抜きのついた2階建ての大きな蚕室がなくなり更地が広がっていた。 滝澤秋曉邸は、ずいぶん前から空家となっていてあちこちに痛みが出ていた。個人の力で修理は困難なことがうかがわれ、残すには行政の力が必要と思っていたところ、上田市の歴史風致維持保存計画に蚕種製造民家の調査事業が盛られ、記録だけでも残される可能性が出てきたところだった。また、西部地域デジタルマップでも歴史遺産の記録を残す呼びかけを始めたところであり、残念でたまらない。 地域の歴史を学び、じかに触れることができる歴史遺
2023-05-19
6
国登録文化財:佐藤家(三ツ引)説明看板
2023年(令和5年)3月31日付で、国登録文化財の佐藤家(三ツ引)の説明看板が、門の隣に設置されていました。 登録された年月日と9件の文化財の名前と説明が書かれています。どれも重要な内容です。 説明看板は、訪れた人々にこの地域の蚕種の歴史と有形文化財の実物の価値を知らせる大切な役割を持っている物です。 昨年、蚕種プロジェクトの方で見学会があり、研究の成果を発表されていましたが、これからも多くの人に見学してもらい、知ってもらいたいです。
2023-03-29
7
上塩尻村の総合研究シンポジウム開催2023/03/21
3月21日(火)、上田東急REIホテルで「『近世上田藩上塩尻村の総合研究Ⅱ』出版記念国際公開シンポジウム」が開催されました。 旧上塩尻村(現在の上田市上塩尻)では、江戸時代から蚕種製造が盛んとなり、それを背景に市場経済が発達し、併せて地域の共同性が育まれてきました。この日のシンポジウムは東北大学の長谷部弘先生、愛媛大学の高橋基泰先生らの研究グループによる上塩尻村研究の成果報告会です。 学術的でかなり硬派のシンポジウムにもかかわらず当日は発表者も含め40名近い参加がありました。旧佐藤宗家(代々当主が藤本善右衛門を名乗った佐藤一族の宗家)の史料をはじめとして、上塩尻の各家々や上塩尻文庫蔵の資史料などから歴史的な背景が解き明かされた研究が披露されました。 <当日のプログラム>敬称略 ①開会
2023-03-26
8
「ねこ瓦の会亅誕生❣❣
西部塩尻まちづくり通信 第7号 令和5年3月10日発行の裏表紙、お知らせ欄に「ねこ瓦の会誕生亅の記事を載せて頂くことが出来ました。 記事の内容は、先にデジタルマップに書いて来たように、会発足のきっかけや活動の内容、メンバー等を紹介しています。まちづくりの先輩方や蚕種プロジェクトの皆さん、筒けんさん、公民館職員の皆さん、等に背中を押してもらったり、地域の方に情報をもらうなど、皆さんのお陰でした。 今後も西部塩尻地域、市民の皆さんと「りんくる亅して楽しい、学べる、動けるまちづくりをしていきたいと思っています。 宜しくお願いします。
2023-03-22
9
蚕種の郷 「西山亅の石垣段々畑
2022 12月上旬、蚕種の郷のもう一方の石垣の段々畑を見に登りました。ここは、ゆうすげと蝶の里の「東山の石垣段々畑亅に対し、地元では古くから「西山の石垣段々畑亅と呼ばれていたそうです。 江戸末期〜明治の蚕種産業が栄えた時期にやはり桑園として農家の方々が、桑葉の採取に日に何度も登降していたそうです 。石垣はとても厳密に積まれていて、天に向かっています。さながら蚕種の郷のピラミッドのようだと驚き、目を見張ってしまいました。この時代の人々の知恵と惜しみない労力に敬服するばかりです。 太郎山山系のこの山から切り出された石を積み重ねています。石段は、木が生い茂り見えにくいのですが、8段まで数えられました。まだまだ有るかもしれません。 大きな石が組み立てられた所が有り、年配の方に聞くと温風
2023-03-12
10
藤本蚕業歴史館でオンライン講座を開きました
2022年12月~2023年2月、上塩尻の藤本蚕業歴史館を会場に「藤本蚕業歴史館で学ぶデジタルアーキビスト養成リスキル/リカレント講座」を開催しました。 藤本蚕業歴史館には10,000点を超える資料・文献が保管されています。これまでは書庫に収蔵されているもののほとんど誰もがその存在すら知りませんでした。藤本蚕業プロジェクトがそれらの資料の目録と一部の資料をデジタル化し、インターネットに公開しました。この講座はそれらを情報源に、またデジタルアーカイブを具体的にどのように作ったかを受講者の皆様に学んでもらいました。受講者数は約50名です。オンラインにより藤本蚕業歴史館で全国から学んでいただく講座開催は初めての画期的な試みです。 講座の内容は全て動画に記録しました。講義資料も含め、以下のページからネット公
2023-03-08
11
常磐城の古屋の「ねこ瓦亅
常磐城(祝町大通り〜新町)の散策中に、蚕種に関係する古民家、蔵の「ねこ瓦亅の他に古屋や物置らしきものに掲げられている「ねこ瓦亅を見つけました。かなり古く、摩耗していますが、一番古いのではないかと思われる佇まいです。 当時の「平瓦亅の技法と絵柄のようです。 風雨に耐えながら、佇み、時を過ごしている姿です。 この「ねこ瓦亅達も保存されて、安堵してもらいたいと思いました。
2023-03-02
12
常磐城地域の「ねこ瓦亅
春の陽気となった先日、常磐城地区(祝町大通り〜新町)の散策をしてきました。 歴史の路や寺院、延命地蔵等興味深い処が沢山ありました。 初めてゆっくり歩きましたが、古い蚕種に関係のあると思われる瓦の古民家や蔵、小屋、を見つけ、「ねこ瓦亅もそこに有りました。私にとっては、新しい発見でした。 永くそこに掲げられ、老朽、摩耗している様子もありますが、蔵の手入れをされて、立派に掲げられ続けているものもあり、どれも価値と愛着を感じました。 通りの古民家は、お店に使われているような処もあり、今後も保存されて行くことを願います。ねこの耳ではなく、頭が二本線の帽子を被った形は、登録文化財の佐藤家と同じ斬新なDesignです。
2023-03-02
13
西小5年2組、繭体験講座②
角真綿作りに続いて、昔は各家庭で行われていた座繰りの実演を見せてもらい、ランプシェードを作る体験に移りました。 お湯でほぐれた3粒の繭からミゴボウキで糸を引き上げ、3本をまとめ、透明のプラスチックのコップに巻き付けていくと生糸の繊細な色と模様がコップの表面を覆っていきました。ただ、1粒の繭から繰れる糸は、1300~1500m。コップにすべてを巻き付けるには2時間がかかるとのことで、続きは家に持ち帰って家族とやってもらうことにし、体験講座は終了しました。きっと、家族で交代しながら糸を繰ったことでしょう。 自分たちが育てた蚕が繭になり、その繭を糸にし、作品にするする経験は、子どもたちにとって満足感のある学習のまとめになったのではないでしょうか。そして、昔、上田にはそんな蚕との生活があっ
2023-02-28
14
西小5年2組、繭体験講座①
西小5年2組では、春に蚕を飼育し、繭をとる学習をしました。その繭を使って「角真綿と座繰りランプ」を作る体験を「繭友」の皆さんの支援で行いました。 「繭友」の皆さんは、上田が誇る蚕糸業の歴史と文化を多くの人に伝えたいと願い、養蚕、製糸、織物などを体験するとともに学校や公民館で糸繰りや織物の体験講座を開催しています。 蚕が1匹、2匹と数えるのではなく、1頭、2頭と数えるのは、昔の人にとってそれだけ、大事であった証(あかし)であること。繭から糸にするには、お湯で柔らかくした繭を広げて真綿にし、よりをかけて糸にする「紡(つむ)ぐ:紬糸」方法と数個の繭から糸を引き出し、より合わせて糸にする「繰(く)る:生糸」方法があること。紬糸は、織物の横糸に、生糸は、縦糸に使われるということを
2023-02-28
15
蚕種の郷のNewretro
国登録文化財の佐藤家北側の北国街道には、古くからの気抜きの古民家や蔵が立ち並んでいますが、通るたびに目につくのは、「ねこ瓦亅と同時に蔵の窓(通気孔?)の軒を支えている建具の部分です。 当時は、未だ高価で流通が少なかった金属製のきれいな模様柄であったり、金属ではなく、木製のものでもシンプルで、気品を感じます。 「ねこ瓦亅もそうですが、古くて新しい感覚を覚えるNewretroと言うところでしょうか
2023-02-26
16
白い北国街道 2023 2月
2/10 雪がしんしんと降り、辺りが白い景色に変わりつつあります。 北国街道の街並み、蚕種の郷の気抜き古民家群、登録文化財の佐藤家もねこ瓦も雪の白い佇まいと化しました。 見慣れた通りも違う美しさと情緒をかもし出しています。 雪かきも大変ですが、一息つくと身近なところにある豊かさを再認識です。
2023-02-12
17
改めて「ねこ瓦亅 2023 2月
先日、蚕種の勉強をする機会があり、上田の歴史に精通している方とお会いしました。 歴史を勉強するに当たり、古くから残っているもの、文書を勉強するに当たり、それがその時代の日本や世界情勢に影響された痕跡を残しながら、姿を留めている事を認識することが大切とのお話でした。 例えば、戦争や国の政策、産業、民衆の文化や暮らし等、影響の内容は、色々有ります。それが今後に繋がる教訓や方向が見えてくるという内容でした。 蚕種は知っていても、「ねこ瓦亅を知らない方が多い事も分かりました。 この地域の「ねこ瓦亅を改めて歴史を伝える貴重な存在であり、その価値は、他の古文書や古建築同様、とうていお金に換算ものでないと感じ入りました。 それをデザイン、創作、掲げた想いを伝え、保存していく
2023-02-05
18
藤本蚕業アーカイブ/古い地図をデジタル化してみる
話:前川道博(長野大学教授、藤本蚕業プロジェクト代表) 上塩尻にある藤本蚕業歴史館は藤本蚕業に残された悉皆(しっかい)資料を収蔵しています。明治・大正期の分県地図もその一つ。100年ほど昔の日本の各地の様子が当時の地図から手に取るようによくわかります。誰もが詳細にそれらの地図を読めるようにその一部をデジタル化しネット公開しました。 これらの地図は『藤本蚕業アーカイブ』でご覧いただけます。小学生からご年配の方々まで思う存分に古い資料を楽しめます! →
https://d-commons.net/fujimoto-arch/
2023-02-02
19
藤本蚕業歴史館の特選史料紹介(竹中丈二[長野大学学生])
話:竹中丈二(長野大学企業情報学部前川ゼミ) 藤本蚕業歴史館に収蔵されている史料の中で、学生目線で特に関心を引かれた『アサヒグラフ/二、二六事件画報』(1936年)のどこが面白いのかを解説しています。 「藤本蚕業歴史館で学ぶデジタルアーキビスト養成講座」から(2022/12/10記録) 掲載元:
実践講座1:地域資料活用によるキュレーション講座[第1回]
2023-02-02
20
蚕種の里「上塩尻」(6)藤本蚕業歴史館とアーカイブサイト
★
藤本蚕業アーカイブ
(デジタル文書) ★
藤本蚕業歴史館アーカイブ
(史料目録) 藤本工業社屋2階に「藤本蚕業歴史館」が開設されています。2009年に開設されました。蚕種製造家だった旧佐藤宗家(藤本善右衛門)は1908年(明治41年)、企業体「藤本蚕業」に発展します。歴史館の建物は1927年、藤本蚕業の蚕室として建設された歴史的な建造物です。 同館は文書館(アーカイブス)と展示室(博物館相当)を併せ持つ複合的施設であることから「歴史館」と名付けられました。 見学は事前に予約が必要です。ただし常時、館内の見学、史料閲覧ができるよう『藤本蚕業アーカイブ』(次の2サイト)がインターネットに公開されています。
2023-02-02
21
蚕種の里「上塩尻」(5)佐藤家住宅と旧佐藤宗家
蚕種の里「上塩尻」を代表する蚕種製造家は藤本善右衛門です。旧佐藤宗家の当主が代々藤本善右衛門を世襲してきました。1897年に刊行された『日本博覧図』には藤本善右衛門(佐藤宗家)の屋敷、宗家に隣接する分家の「佐藤尾之七」の屋敷の銅版画が収録されています。 佐藤宗家の更地となった屋敷跡からはその屋敷がいかに大きかったかがわかります。現存する蚕室も希少な建造物です。 「佐藤尾之七邸宅」は現存し「佐藤家住宅(三ツ引)」として上塩尻では初めての国登録有形文化財となりました。
2023-02-02
22
蚕種の里「上塩尻」(4)蚕種の里の研究と展示
「蚕種の里」として知られていた上塩尻の歴史と文化は有識者・学者に研究されてきました。その中では1989-1992年の工学院大学山崎弘研究室による蚕種製造民家の調査が先駆的です。杉仁氏は江戸時代、上塩尻の蚕種製造家は高い教養を持ち、日本各地の人々と「俳諧」の趣味を通して交流していたという驚くべき文化史を探求しました。 国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)には卓越した蚕種の里「上塩尻」を紹介したコーナーまで設けられています。
2023-02-02
23
蚕種の里「上塩尻」(3)すぐれた蚕種製造家を輩出
上塩尻の歴史の中でも特筆されることは日本を代表する蚕種製造家を輩出したことです。塚田与右衛門(つかだよえもん)、清水金左衛門(しみずきんざえもん)、藤本善右衛門縄葛(ふじもとぜんえもんつなね)は特に有名です。
2023-02-02
24
蚕種の里「上塩尻」(2)蚕種製造ってなに?
蚕種製造は「蚕の卵」を生産する産業です。蚕の卵は養蚕農家で育てる蚕を育てるためになくてはなりません。蚕の卵の多くを上塩尻で製造し、全国の養蚕農家に提供していました。 蚕糸業は昔日本の基幹産業でした。蚕の一生に沿って、蚕の卵(蚕種製造)→繭(養蚕)→生糸(製糸)と製造工程が分かれていました。 蚕の卵は孵化(ふか)が近づくと青紫色に変化します。上塩尻で蚕種製造は行われなくなりましたが、上田では現在もなお上田蚕種株式会社が蚕種製造を行っています。
2023-02-02
25
蚕種の里「上塩尻」(1)数多く残る蚕種製造民家
かつては日本一の蚕種製造地であった上塩尻では多くの家々で「蚕の卵」を製造する蚕種業が営まれていました。上塩尻には現在も数多くの蚕種製造民家が残り、地元の方々はそれらの古い民家をリフォームするなどして大切に保全活用しています。
2023-02-02
26
蚕種の里「上塩尻」の歴史と文化遺産を未来へ(講演)2023/01/18
長野県建築士会上小支部等合同新年会で上塩尻に関する講演をしました。 ★講演:蚕種の里「上塩尻」の歴史と文化遺産を未来へ YouTube/60分
前川道博(長野大学企業情報学部教授、藤本蚕業プロジェクト代表) 2023/01/18 会場:上田東急REIホテル 江戸時代から蚕種製造の中心地だった上塩尻は優れた蚕種製造家を輩出してきました。各家々で蚕種製造が営まれ、現在も数多くの蚕種製造民家が残っています。城下町や宿場町など江戸時代の面影を残す歴史的景観地区は全国に数多くありますが、「蚕種製造民家群」の織り成す歴史的景観は上塩尻にしかありません。その特異性、希少性はかけがえがありません。 私にとっても上塩尻の大切さを紹介するよい機会をいただきました。上塩尻の魅力の再発見につながれば幸
2023-02-02
27
秋和にも猫瓦
先日、秋和の街歩きをしてきました。 街歩きの目的は猫瓦探索でした。街歩きの結果、合計7つの猫瓦を発見することができました。この結果から秋和でも養蚕が盛んであったことが分かりました。 発見した猫瓦の文様、絵柄についてはまた紹介していきたいと思います。
2023-01-16
28
「今、記録しておきたいこの町なみ、歴史的景観」 プロジェクトについて
趣旨 上田市西部地域は、古代、都と東国を結ぶ東山道の東信濃の入口でした。近世は江戸と日本海岸地方を結ぶ北国街道が通る交通の要衝でした。 近世、この地に上田城を築いた真田氏によって、西部地域は「城下囲い」の集落として山すそのあった集落が城下の西入口に移住させられ、城下の外堀として改修された矢出沢川とともに城下の防備の役割を果たしました。 洪水によってたびたび被害を受けた千曲川に近い土地は、近世、水害に強い桑が植えられ、養蚕が盛んになりました。岩鼻から吹き込む強い西風は、桑に産み付けられ蚕を殺す蛆蝿の卵を振り落とし良質な桑「歩桑(ぶぐわ)」が育つため、蚕を掛け合わせて「蚕種」をとる蚕種業が盛んになりました。東北地方の養蚕先進地に学んだ上塩尻の蚕種家からは、養蚕技術の改良や
2022-12-20
29
蝶の里 一年の振り返り 秋、冬編
蝶の里では、秋の作業で、藤袴や百日草、ひまわりを刈り取り、器械で刻み、それを次年度の追肥とする作業を行いました。一年の終わりの作業です。 そして今は、刈り取られ、耕やされた後の静かな様子を見せています。動物も昆虫も植物も静かに冬を過ごします。 後ろの蚕種の石垣の段々畑も植物が枯れて、姿を見せています。よく見ると、生い茂って伸びていた笹やアレチウリ、クズなどが、会員の手により少しずつ刈り取られ、綺麗な姿になって来ています。 冬に訪れて、静かな里を観察することもまた、違った趣の風景に出会えるかも知れません。
2022-12-13
30
蚕種の郷の石垣の多様性
蚕種の郷の石垣は、北国街道沿いの家や蔵の土台や道路、神社に続く階段、水路の壁、石碑、太郎山山系麓の段々畑から、それを保守する長く続く石壁等、沢山の遺構として残っています。 今、温暖化により、草木が生い茂り、コロナ社会で人々も手入れで入ることもほとんど無くなり、奥の方は、中々見えにくくなりました。しかしながら、よく目を凝らしてみてみると、里山の周辺の物は、観察することができます。 北国街道沿いのものは、江戸時代に遡るとか。加賀の殿様の通る道でしたから、落ちてこないように住民たちは、苦心して労力を注いだ事が伺えます。段々畑のそれは、当時の蚕種を支える大切な桑を作り、運ぶ重要な物でした。 また、坐摩神社は、その産業の発展を祈願したり、住民の色々な祈願の大切なところでした。
2022-12-04
31
蚕種の里「意見交換会」
まちあるきに続いて、塩尻公民館に場を移してマーティン・モリス先生(千葉大名誉教授)による「英国における古建築の保存と活用」についてのお話があった。 はじめに、日本人には、古いものは、時間がたつとなくなってしまうのが当然というあきらめがある。英国には、古建築と景観を保全・活用するという生活文化があり、保存の対象となっている古建築の数も圧倒的に多い。「古建築に生きている歴史を見ることが、一番の楽しみ。古建築は、私たちのものではない、預かっているものであり、壊さなけれなければ、次代に渡すことができる」という思いで、古い建物を、修復、再生し、住み、活用して保存する活動が活発に行われているとのこと。民家園を作り、各地の代表的な古民家を移築し、保存しています。あとはどうなろうとも知
2022-11-26
32
蚕種の里「上塩尻まちあるき」①
晴天に恵まれた11月26日(土)、藤本蚕業プロジェクト主催の「上塩尻まちあるき」が、30余名が参加して行われ、登録有形文化財「佐藤家」、藤本(佐藤宗家)蚕室、原久史氏宅(旧馬場籐四郎邸)、清水卓爾氏宅(旧清水喜左衛門邸)、東福寺檀家信徒会館(旧滝澤邸)、加賀藩お休み処(清水氏宅)、小岩井紬工房などを巡った。 案内役のプロジェクトメンバー、ゲストのマーティン・モリス先生(千葉大学名誉教授)のほかに、持ち主や地域の皆さんによる説明、普段は入ることができない邸宅の庭まで見学でき、時間を超過しての内容濃い町あるきとなった。 参加した方々は、気抜きのある蚕種製造民家が集中し、見事な石垣が北国街道沿いに築かれている町なみに、蚕種の生み出した富の豊かさを感得していた。 詳しくは、「
2022-11-26
33
佐藤家住宅・旧佐藤宗家県見学会②
信大の勝俣先生は、蚕室特有のつくりについて、温度、湿度、光を蚕の生育や時季に合わせてどのように調節するかがポイントであると話され、佐藤宗家の蚕室には、ここで開発されたことが他の地域に広まったのか、他に学び積極的に取り入れたのか、明治中期の蚕室のつくりについて先駆的な工夫や設備が見られるとその一つ一つを示しながら説明してくださいました。 地元の山崎民子さんは、可愛い猫(面)瓦から蚕種製造にかけた塩尻の人々の願いが伝わってくるし、また、その思いを次代にも伝えていきたいと話されました。 藤本蚕業プロジェクトでは、11月26日に「蚕種の里『上塩尻』まちあるき」を計画しています。今回の講師の先生のお話の詳しい内容は、情報サイト『藤本蚕業アーカイブ』をご覧ください。
2022-10-29
34
佐藤家住宅・旧佐藤宗家県見学会①
10月29日、藤本蚕業プロジェクト(代表:長野大学前川先生)主催の見学会が行われました。 佐藤家住宅の国指定有形登録文化財登録にご尽力された信大の梅干野(ほやの)先生は、江戸時代中期に始まった蚕種製造業の発展に伴い、明治になって屋敷がどのように拡張、増改築されたか建物にふれながら話されました。江戸時代には、2室だった蚕室が、明治になって9室に増え、他にはあまり見られない消毒室まで設けられています。 石垣や土壁など地元の素材を使った蚕種製造民家が狭い地域に今も多数残る上塩尻の景観は、日本の原風景ともいうべきであり、その価値を今後も訴えていきたいとの熱い思いの伝わる話でした。
2022-10-29
35
上塩尻 段々畑と花畑
明治、大正、昭和の初期頃、塩尻、秋和地域は蚕糸業のうち蚕種製造が盛んな地域でした。 地域の里山は中腹まで段々畑が形成され、桑が植えられていたと聞いています。 しかし、今となってはそういった段々畑は雑木林化してしまっていてどうなっているかよくわからないのが現状です。 そんな中、上塩尻の有志の方々で、段々畑を復元している方々がいらっしゃいます。 今回は、復元している箇所のうち花畑が広がっているところを撮影しました。 地域の歴史が残るところを整備してくださる方々に感謝ですね!
2022-09-22
36
民有地開墾請願書
塩尻地区では山の尾根近くまで段々畑を作り、桑が栽培されていた。明治28年11月14日付で村民18名が連署し、下塩尻区長に提出された「下塩尻区民有地開墾請願書」には、その事情が記されている。 「…今や我が国の蚕業の盛大なる様子は、山川、荒野まで桑園になっていないところはない。しかし、わが区内の民有林は、桑園として地味豊かなのにもかかわらず、依然として草刈り場とするのみで、利益を上げられないでいる。今回、同志を募り同地(別紙図面)を借受け、開墾し、益々蚕業を盛大にすることは、村を豊かにするばかりでなく、国家の恩に報いることになる。ぜひ、許可を願いたい。」 別紙には、西は岩鼻、東は高津屋まで、合計10000坪を超える山の斜面の開墾を申し出ている。
2022-09-15
37
桑の段々畑 石垣を復元
「ゆうすげと蝶の里の会」の取り組みを伝える2010年1月31日の信濃毎日新聞。 10年以上にわたる同会の活動のおかげで「蚕種の郷」の桑の段々畑の姿が残され、花が咲き、蝶が舞い、子どもたちの声が響いている。しかし、会員の高齢化もあり手が十分に回らなくなっている。 「求む‼若い力」
2022-09-15
38
有形文化財(佐藤家)のねこ瓦
登録有形文化財 佐藤家の東門に掲げられているねこ瓦です。ふくろうの絵柄で、デザインが斬新です。ふくろうは、猫と同様にねずみを摂り、蚕種を守ってくれる象徴です。 塀や門の外から見ることができるねこ瓦は4個、中には7個有ります。 文化財として登録された9棟と共にねこ瓦も大切な文化財です。改めて見学をして、歴史も深く知りたいと思いました。
2022-09-13
39
石垣段々畑の様子
蝶の里の太朗山に続く石垣の段々畑は、木が大きくなり、それを覆う葛やアレチウリ等で見えなくなっています。上に続く道は、何とか通れ、登山者も登っているようです。 以前は、地域の人々が手入れをして保全していましたが、今は、温暖化で木や植物の成長が早く、手入れ作業も困難を極めているのが実情です。 蚕種の里で栄えた美しい石垣段々畑……とても残念ですが、課題を浮き彫りにしています。
2022-09-10
40
2009年開館当時の藤本蚕業歴史館
★写真:2009年10月蚕都上田プロジェクトが実施した見学ツアーの様子 上田市上塩尻に「藤本蚕業歴史館」が開館したのが2009年10月です。今年2022年、早いものでそれから13年近くが経ちます。日本一の蚕種(蚕の卵)の製造地だった上塩尻の中でも一番の中心的な蚕種製造企業だったのが「藤本蚕業」(現在の藤本工業の前身)です。藤本蚕業歴史館は藤本蚕業の蚕室を再利用して開設しました。同社所蔵の膨大な社内文書も保全されています。一般に馴染みがない「蚕種」や上塩尻の背景を知る上で欠かせない情報源となる施設です。 13年経過すると当時はご健在だった方もお亡くなりになった方やリタイアして活動から遠ざかられた方もいます。その時の記録が希少な記録となってきました。
2022-08-31
41
旧 蚕業試験場
今の上田西高校は昔の蚕業試験場でした。 蚕のえさとなる桑畑が一面に広がっていたそうです。 今の信州大学繊維学部は、上田蚕糸専門学校。 今の上田東高校は、小県蚕業学校だったそうです。 母の話によると昔私の家がある場所も桑畑だったそうです。
2022-08-16
42
岩鼻
岩鼻を通って吹く強い風がお蚕さんのえさとなる桑の木につく害虫を落としてくれたそうです。 昔は学校から帰ると裏山へ桑の葉をとりに行くのが子どもたちの仕事だったそうです。
2022-08-16
43
上田蚕種株式会社
この会社では蚕の卵(蚕種)や幼虫を売っているそうです。 私が2年生の時に育てたお蚕さんは、ここから来たのかな?と思いました。 お蚕さんに毎日新しい桑の葉をあげました。 夜になるとお蚕さんが桑の葉を食べる音がよく聞こえました。 なかなかうまく育たなくて、病気になって死んでしまうお蚕さんも多かったです。 1匹だけ蛾になりました。 最初は気持ち悪かったけど、だんだん慣れてきて、育ってくれてうれしかったです。
2022-08-13
44
常田館製糸場
製糸場とはお蚕のまゆから生糸を作る工場です。 湯で煮て柔らかくしたまゆから糸を引き出します。 (常田館製糸場 パンフレットより) 奥に見える煙突がお湯をわかしていた跡です。 左手のまゆ倉は5階建てです。 貴重なまゆを守るために扉は4重になっていたそうです。
2022-08-13
45
猫がわら
猫の耳のような形をしたかわらは猫がわらです。 猫は蚕の神様です。理由は、猫が蚕を食べるねずみを追い払ってくれるからです。 水と書いてあるのは,火災予防のおまじないです。
2022-08-13
46
別所 氷沢の風穴(こおりざわのふうけつ)
昔蚕の卵(蚕種さんしゅ)の保存のために使われた場所。 階段に足を踏み入れた途端に、ひんやりした空気に包まれていた。 暑い夏の日なのに、階段を降りた場所の気温は約5℃に保たれている。 昔はここに蚕の卵を置いて孵化するのを防ぎながら保管していた。 入って行く道は熊が出そうな山道で、こんな場所までお蚕さんの卵を運んでいたいたのがすごいなと思いました。
2022-08-13
47
猫瓦とは(サンプル2)
猫瓦というのは、蚕を育てる中でネズミに食べられないようにするために屋根の端に飾られているものです。ネズミにとってネコは天敵であることから、瓦の形がネコとなっていて、猫瓦と言われているそうです。
2022-07-19
48
これなんだろう?
皆さんはこんな瓦を見たことがありますか? これは猫瓦といいます。 猫瓦とは、養蚕をする上で蚕がネズミに食べられてしまうことがあり、そのネズミ除けの願いを込められた瓦のこと。そのためネズミの天敵である猫がモチーフになっている。 上田市上塩尻では蚕種製造が盛んであったり、養蚕をする家が多くあった地域であるため、今でも越屋根といった養蚕特有のものが残っている。もちろん猫瓦が残る家も多くある。猫瓦はただ猫の形をしているだけではなく、文字や絵が掘られている。これらには様々な思いが込められているそうだ。
2022-07-11
49
上塩尻蚕種製造民家群8 佐藤隆一邸④
街道に面して、土塀が一部残されており、平瓦で葺き、猫瓦が飾られている。平瓦は江戸瓦とも言い、今は使われていない珍しいものである。猫瓦は、昔のものは運送トラックが通行中に破損してしまい、新しいものを送ってきたという。
2022-06-18
50
上塩尻蚕種製造民家群8 佐藤隆一邸③
奥の部屋の柱には、なたでつけられた傷が残っている。明治2(1869)年、上田藩で起こった一揆「チャラ金騒動」で、質屋をしていたため一揆勢が押しかけ、打ちこわしされそうになったが、地元の人たちが「焼いてはいけない」と止めてくれという。 「チャラ金騒動」では、上田藩で庄屋や村役人、豪農商など5百数十軒が、焼き討ち、打ちこわしにあっている。
2022-06-18
51
上塩尻蚕種製造民家群8 佐藤隆一邸②
一階南側の座敷は昔のままで、西側にはめ込みの丸障子の明りとりがある。床の間には、書画の掛け軸がかけられ、落ち着きと風格が漂う。今は、3世代の家族が暮らすが、主に北側と2階を改装して生活の場としている
2022-06-18
52
上塩尻蚕種製造民家群8 佐藤隆一邸①
佐藤宗家「藤本」の分家にあたる。明治39年、祖父が、後継ぎがなく絶家となった分家筋のこの家を買い取った。天保9(1839)年に建てられたと記録があるが、総2階建で気抜き屋根(越屋根)が貫いていることから、明治以降建て直したのではないかと考えられる。2階の東側の壁には、卯建(うだつ)がある。卯建は、他に数軒みられるだけで珍しい。 昭和15~16年頃まで、2階を蚕室として利用してきた。代々、藤本蚕業株式会社の経営に携わっており、藤本宗家が昭和2年焼失したため、藤本関係の古文書を裏の土蔵に保管してきた。西側の奥には門があり、今は別の持ち主のものだが、隠居部屋となっていた。
2022-06-18
53
上塩尻蚕種製造民家群7 藤本蚕業株式会社⑤
昭和期になると蚕種製造が近代化され冷蔵や消毒、人工ふ化室などの設備が必要となり、また、大規模化した製糸工場が、蚕種を自家製造するようになり、蚕種製造家も個人経営では対応が難しくなった。蚕種家も会社化、組合化が進み、「藤本」も藤本蚕業合名会社、藤本蚕業株式会社と経営を変え、昭和2(1927)年、扇状地の下の国道沿いの平地に大きな製造所を新築し、昭和41(1966)年まで蚕種製造を行った。現在は、藤本蚕業歴史館として江戸時代から昭和中期までの2万点余の資料や備品を保存・展示している。屋根に出ている煙突は換気設備
2022-05-30
54
上塩尻蚕種製造民家群6 佐藤宗家「藤本」邸宅の第一蚕室 ④
気抜き屋根の下は、床がすのこ状で2階の空気が抜ける屋根裏部屋となっている。信大の先生や学生が来て調査中。2階の部屋の外は、南側も北側も1間ほどのベランダになっていて、桑の葉や蚕具などを上げ下ろしできるようになっている。
2022-05-30
55
上塩尻蚕種製造民家群6 佐藤宗家「藤本」邸宅の第一蚕室 ③
1階、2階に合わせて4室の蚕室がある。高い天井を太い梁が支え、床は高く、暖房のため埋薪炉(まいしんろ)が施されている。1階の埋薪炉は、すのこの床の下に、横1m、縦2.8m、深さ80㎝ほどの大きさで、石を組み合わせて作られている。3段ぐらいに丸太を敷き詰め、間をもみ殻で埋め、上を石灰で覆い2か所に火をつけると、少しずつ4週間ほど燃え続けた。遅霜の心配のある春蚕(5月上旬から)の飼育には、暖房が必要だが、これほどの規模の設備はあまり見られない。2階にも規模は小さいが掘りごたつの状の埋薪がある。
2022-05-30
56
上塩尻蚕種製造民家群7 佐藤宗家「藤本」邸宅の銅版画 ②
写真は、佐藤宗家「藤本」の明治中頃の様子を描いた「藤本善右衛門邸宅」(「日本博覧図」M30年発行 上田市立博物館蔵より)の銅版画である。居宅は昭和2年に焼失し、現在残るのは門と右側の2階建土蔵とその手前の2階建第一蚕室・第2蚕室、土蔵2棟のみである。敷地は600坪ほどでこのあたりでは最も広いが、蚕種製造民家が立ち並ぶ狭い扇状地では、これ以上の敷地を確保することは難しかったのではないだろうか。周りはぼかされているが、実際には狭い小路があるだけで蚕種製造民家が軒を並べている。
2022-05-30
57
上塩尻蚕種製造民家群6 佐藤宗家「藤本」の第一蚕室 ①
藤本とは、佐藤本家の意味で、江戸中期の寛文年間(1661年~1673年)より、蚕種製造をしてきた。代々、養蚕や蚕種製造技術の開発・向上・啓蒙に力を注ぎ、全国一の「蚕種の郷」の基礎を築いた。明治以降も蚕種の品質向上に努め、藤本蚕業合名会社をつくり、今に至る。この蚕室は、明治23年に西筑摩郡新開村の古畑源重源昌富によって建造された。
2022-05-30
58
上塩尻蚕種製造民家群5 国の登録有形文化財「佐藤家住宅(三ツ引)」④
写真は、庭にある消火栓。 塩尻村では昭和4年、裏山の沢を水源にして水道が引かれた。当時、村長をしていたこともあり佐藤家には消火栓が設けられた。当時は、めったに見られない設備で現在も残っているのはここと佐藤宗家「藤本」だけである。
2022-05-30
59
上塩尻蚕種製造民家群5 国の登録有形文化財「佐藤家住宅(三ツ引)③
写真は、銅版画が出された後に蚕具を消毒するために増築された消毒室。内部を漆喰で塗り固め、消毒薬(ホルマリン)が外部に漏れない構造になっている。信大繊維学部にもあったそうだが、今は見られない。
2022-05-30
60
上塩尻蚕種製造民家群5 国の登録有形文化財「佐藤家住宅(三ツ引)」②
写真は、門を入って右手奥にある江戸時代に建てられた茅葺を鉄板で覆った平屋の主屋。右側は明治になって増築された2階建瓦葺、気抜きの屋根のある蚕室。主屋の裏に平屋茅葺(鉄板仮葺)の奥上段(座敷棟)がある。江戸末期から明治期に蚕種業が盛んになるにつれ、次々に増築改修され、蚕室は9部屋をかぞえるようなになった。蚕室づくりの家は、養蚕のために温度や湿度管理に注意が払われ、天井は高く、開口部は大きいが、壁を厚くするため、夏涼しく、冬もあまり寒くないという。 今後、いつまで、保存、管理ができるか心配されている。
2022-05-30
61
上塩尻蚕種製造民家群5 国の登録有形文化財「佐藤家住宅(三ツ引)」①
佐藤家は先祖が室町時代に栃木県からやってきたと伝えられている。文禄4(1595)年の千曲川洪水で流された元宿から現在の山すその地に移り、江戸時代中期から蚕種製造を始めた。佐藤宗家「藤本」の分家にあたる。江戸時代には庄屋を務め、昭和の中期まで蚕種業を営んでいた。 江戸時代後期から明治時代にかけて建築された主屋、蚕室、物置、消毒室、文庫蔵、穀蔵、味噌蔵、屋敷神、門の9棟がR3年6月に国の登録有形文化財に登録された。 写真は、東南の方向から。気抜きのある2階建ての蚕室、門、物置が並んでいる。デジタル・マップの「塩尻小学校郷土資料館5」にあげた銅版画、佐藤尾之七邸宅(日本博覧図 明治30年発行)の現在の姿であるが、物置が2階建てになり、消毒室が増築されている。門の前の通りの奥には、佐藤宗家
2022-05-30
62
上塩尻蚕種製造民家群4 蚕種製造民家「清水卓爾氏宅」⑤
写真は、「清水卓爾氏宅」の明治中頃の様子を描いた「清水喜左衛門邸宅」(「日本博覧図」M30年発行 上田市立博物館蔵より)の銅版画である。母屋(蚕室)の裏側が北国街道。街道から下り玄関に至る坂道は、実際には、人力車一台が通行できる幅で、坂も急なため、荷車の通行も大変だったと思われる。手前、松の木の下には、湧水が見える。
2022-05-30
63
上塩尻大村「蚕種の郷」研修マップ
「蚕種の郷」を学ぶとともに体感することができるコースです。研修等にご活用ください。
2022-05-27
64
上塩尻「蚕種の郷」散策マップ
西上田駅にある「上田しおじりーまゆの里」の案内看板から「蚕種の郷」の中心部分をアップしました。研修・散策にご活用ください。
2022-05-27
65
「蚕種の郷」座摩(ざますり)神社の祭礼 8
祭礼を執り行った宮司さんや役員の方は、「養蚕・蚕種業を生業とする人々の精神的な支えとなってきたこの神社や祭典のことを地域の人に忘れて欲しくない、地域の宝として守っていきたい。コロナ感染が収束したら、地域の皆さんが共に参加できる祭典をしたい」と思いを語ってくれました。土俵は、写真中央の二本の木の間あたりに作られていた。
2022-05-03
66
「蚕種の郷」座摩(ざますり)神社の祭礼 7
高遠直一さんの覚書から 「養蚕の衰退とともに」 『時代の変遷とはいえ、これらの祭礼もいつか行われなくなり、その後は宵祭りなどに学校の体育館での映画会、塩尻自治会経営の託児所の庭の仮設舞台での、素人演芸会や奉納踊、また本祭当日神社境内での坂城町長生楼芸妓の手踊りや、青年相撲などが行われたこともあったが、これらもだんだん時代の流れに流されて今日に至ってしまった。』 写真の土俵には、四本柱がない。服装から見ると戦後か。相撲を取っているのは子供たちのようである。養蚕が次第に下火になり、養蚕に関わる人も少なくなり、「蚕影様」の祭典が、村祭りのようになってきたか。
2022-05-03
67
「蚕種の郷」座摩(ざますり)神社の祭礼 6
写真は、化粧まわしをつけ村中を練りまわしてきた力士の行列。場所は小学校の裏あたりか。拍子木を持つ呼び出しも見える。「塩尻地区写真集」より
2022-05-03
68
「蚕種の郷」座摩(ざますり)神社の祭礼 5
写真は、境内での大相撲の様子。江戸大相撲より免許を受けた四本柱に屋根をつけた立派な土俵上で行われている取り組みを群がる人々が応援している。拝殿の壁も取り払われて桟敷席になっている。子供相撲から始まって、三人抜き、五人抜きの相撲、化粧まわしをつけた力士が土俵に並んでのそろい踏み、道化相撲が終わると大関の土俵入り。そして、三役の取り組みが終わるころには一日が終わる。「塩尻地区写真集」より
2022-05-03
69
「蚕種の郷」座摩(ざますり)神社の祭礼 4
写真は、村中を引き回される山車。芸者衆が乗って音曲を奏でているように見える。 後ろの山車は、繭玉を投げている。繭玉と引き換えにお札がもらえる。繭玉の中には福引の札が混じっていて、拾った人は、賞品をもらえる。「塩尻地区写真集」より
2022-05-03
70
「蚕種の郷」座摩(ざますり)神社の祭礼 3
座摩神社の祭礼について、明治生まれの高遠直一さんは覚書(昭和53年)でこう書いています。 『八十八夜のお祭りの当日は午前中「お舟の練り」が村内を練りまわり、辻々にて信者に繭玉、養蚕道具などの縁起物を授与し、午後は各地よりはせ参ぜる力士多数、村内抜群の力士を中心に、境内相撲場、土俵上にて奉納大相撲が挙行された。この祭りのために村内各家には親類、縁者、蚕種屋のお得意様など多数の来客あり、あげて参拝する習慣であった。』 祭礼の準備は、上塩尻の18歳から30歳までの男子全員「若い衆仲間」が、祭典余興、繭玉練り、相撲などの係りを分担して準備にあたった。写真は、新屋を出発するお練りのお舟。(大正11年)「塩尻地区写真集」より
2022-05-03
71
「蚕種の郷」座摩(ざますり)神社の祭礼 2
座摩神社の由来は、奈良時代、元正天皇の養老元(717)年、虚空蔵山の山頂に「保食神(うけもちのかみ:食物養蚕の神)」を祀り、養蚕の守護を祈ったことに始まったと伝承されています。江戸時代の寛文2(1662)年、この地に里宮を遷され、文久9(1819)年、正一位座摩神社蚕養國大神の社号を受けて現社殿が建築され、明治29(1896)年に修復、背後の大石積が施され現在に至っています。
2022-05-03
72
「蚕種の郷」座摩(ざますり)神社の祭礼 1
5月3日、上塩尻の #座摩神社 の祭礼が行われました。今年は、コロナ感染のため3年ぶり、神職と役員のみでひっそりと拝礼するだけでした。しかし、昭和の半ばまでは、座摩神社の祭礼といえば、「 #蚕影様 (こかげさん:蚕の神様)のお祭」として、上田・小県はもちろんのこと、遠くは水内、高井郡をはじめとして、佐久、北上州まで鳴り響いていたそうです。 江戸時代の半ばから昭和の初期まで養蚕は、国や地域の経済、農家の生活を支える重要な仕事でした。しかし、飼育技術が確立するまでは当たり外れが大きく、運に任せることが大きい仕事でした。上塩尻は、優良な蚕種を作るともに、飼育技術の改良・普及に努め、生産量ばかりでなく、品質の面からも日本一の「 #蚕種の郷 」と言われていました。その上塩尻の「蚕影様」の祭典は、八
2022-05-03
73
だんだんばたけの石垣
花桃イベントでイノシシコースを歩いてきました。ところどころに石垣があります。その昔、この斜面一帯が桑園(そうえん)でした。石垣はその跡。これだけていねいに石を積んで斜面の土がくずれないようにしていたのですね!
2022-05-01
74
上塩尻蚕種製造民家群4 蚕種製造民家「清水卓爾氏宅」④
大沢の扇状地の扇端には湧水を利用した七つの池があり、かつては生活用水や蚕具を洗うのに使われた。門の外、左下に湧水がある。今も残る3か所の一つである。水神様を祭る祠には、慶長3年とあり歴史の古さを教えてくれる。
2022-04-03
75
上塩尻蚕種製造民家群4 蚕種製造民家「清水卓爾氏宅」③
土蔵の下に鉄筋入りのコンクリートで作られた地下室がある。夏でも室温が低いため、風穴の代わりに種紙に産み付けられた蚕種を保存し、ふ化の時期を遅らせた。 写真は、屋根に設けた気抜きを天窓のように採光に利用している。天井が高く、太い梁が力強さを感じさせる開放的な空間となっている。
2022-04-03
76
上塩尻蚕種製造民家群4 蚕種製造民家「清水卓爾氏宅」②
門を入って右側(東側)の2階建ての蚕室は、江戸時代に造られ、1階は居宅、2階蚕室として使われていた。西側の母屋は、明治29年に増築され、1階は居宅、2階は蚕室で、昭和20年代まで蚕を飼育していた。国の登録文化財に指定された佐藤尾之七邸と同じ、木曽上田村の棟梁、武居初太郎が建てた。 写真は、西側の母屋。気抜きの他に屋根の下に通風孔が設けられている。現在は、内部を改修して3世代の家族が暮らしている。
2022-04-03
77
上塩尻蚕種製造民家群4 蚕種製造民家「清水卓爾氏宅」①
旧北国街道を西に向かい新幹線の高架をくぐり、座摩神社の参道を過ぎ、坂を登り始めると左側に気抜きの屋根の二棟が迎えてくれる。一段下がったところにあるため、2階の蚕室の大きな窓や塗壁、気抜きのために屋根の上に小屋根(越屋根)を設けた蚕種製造民家が見えてくる。Google earthではまだ見ることができるが、数年前まで、街道の右側にも3軒の蚕種製造民家が並んでおり、「蚕種の郷」の入り口にふさわしい景観がみられた。
2022-04-03
78
蚕種製造民家群3 現存する蚕種製造民家
上塩尻の養蚕家屋については、1989~92(平成元~4)年に工学院大学の研究チームが大規模な調査を行い23軒が調査対象となっている。また、平成14年に近代化遺産活用計画策定のための地域調査チームによる現地調査では、気抜きのない養蚕家屋も入れて37軒を対象にしている。 現在、気抜きの備わる蚕室を持つ民家は19軒、他に気抜きはないが、喚起のため窓を大きくして蚕室として使われていた家屋が数軒、近年、取り壊されたり、建て替えられたりした家屋が10軒弱あるが、狭い北国街道や小路に面しているため、工事が難しいこともあり、内部を改修するなど手を入れ、現在も住居として使われている家屋が少なくない。 写真は、緑点は蚕種製造民家、改築されたが景観に配慮して気抜き施した家屋もある。赤点は、平成14年の調
2022-04-03
79
上塩尻蚕種製造民家群2 蚕種製造の中心地:上塩尻「大村」の景観
蚕種製造の中心地上塩尻「大村」は、扇状地の斜面の50000㎡ほどの狭い土地に100戸ほどの民家が集中し、その半数以上が養蚕をし、蚕種製造を営む集落だった。 門構え、土塀、気抜き屋根を持つ白壁の総二階の蚕室を持つ江戸から明治にかけて建築された大きな蚕種製造民家が、狭い小路を挟んで立ち並ぶ景観は、他に例を見ない。写真は、 気抜きの屋根の並ぶ蚕種製造民家群を裏山から撮ったもの。手前の山の下を左右に北国街道が通る。
2022-04-03
80
上塩尻蚕種製造民家群1 蚕種製造の中心地:上塩尻「大村」
明治30年発行の「長野県小県郡熱心蚕種製造家一覧」には、上田町を中心に郡下163戸の蚕種製造家の氏名が記載されている。その2/3の107戸は、旧塩尻村(上塩尻58,下塩尻20、秋和29)がしめている。塩尻とともに西部地域に属する(鎌原7,諏訪部2)も加えると上田盆地の西部、千曲川北岸が蚕種製造の中心だったことがわかる。 上塩尻の中でも53戸の蚕種製造家が集中している「大村」(字:北側・南側)は、千曲川と虚空蔵山に挟まれた大沢の扇状地の斜面で、千曲川の洪水を受けにくく、江戸時代には信越、北陸を結ぶ北国街道が通っていた。上塩尻村の中心である「大村」は、扇状地の上部を北国街道が西の扇端部に向かって下り、平坦部を通る国道18号線とがけ下で交わる西端地点を頂点し、東500mの塩尻小学校の西縁とそこから北に向
2022-04-03
81
〈秋和〉不思議な街並み 5
秋和の北国街道は直線的だが、道幅が狭いため大軍の進軍は難しい。家々の間口の幅が同程度なのも人工的に作られたからだろう。街道に面して出入口を作らず、小路から出入りし、時には小路に隠れて敵を迎え撃つ。小路を50mほど奥に入ると家並の裏に東西に走る小路があり、街道から見られずに移動ができる。間口いっぱいに建てられた家は、江戸末期から養蚕・蚕種業が盛んになり、広い蚕室を確保する確保するために改築されたものではないか。 西脇や新町のように城下町に近い村は、時代が下がると町屋化し、商いのために道に面して入口を設けるようになった。秋和は農が主で店も宿もほとんどなく、旅人に出入口を開く必要もなかったのではないか。むしろ、背後にある田や山麓や河川敷にある桑畑に通うには、家にわきにある小路が重宝
2022-03-23
82
〈秋和〉不思議な街並み 2
①街道に面して入口のある家が少ない。 旧家の多くは、入口や玄関が街道に面していない。東西にある小路に門を設け入口としている。街道に背を向けている南側の家ばかりでなく、北側にある家も同様で、南に庭があっても塀で囲み、街道から母屋が見えにくい。近年、改築された家の多くは、街道に面して入口や駐車場を設けている。 ②街道に面して、旧家の間口の幅がほぼ10~12mほどで、広狭の差が少ない。 文人で蚕種家だった滝澤秋暁生家は例外的に20mほど。 ③どの家も間口の幅いっぱいに家が建てられている。 家々は、間口の幅いっぱいに家が建てられている。また、街道に寄せぎりぎりの位置に建てられているため、街道の南側は家が高い壁のように立ち並んでいる。 写真の家は、左手の小路に向かって門のある家。右手が
2022-03-23
83
〈秋和〉不思議な街並み 1
秋和集落は、旧北国街道に沿って東西1kmほどの街村を形成している。昭和16年に国道が集落の南にできたため、道幅狭く、通過車両少なく、道路に沿って水路のある街道の面影が残っている。道の両側には戦前まで蚕種製造を生業としてきた気抜きのある民家も多かったが、近年は、改築する家が増え、独特の景観も失われつつある。昔の景観を思い出しながら街並みを歩くと、不思議な点に気づいた。 写真は、西から東を望む。右手の建物は、街道の面影を残す旧中島銀行。左手は、改築された家々
2022-03-23
84
蚕種の行商
2022-02-17
85
埋薪
まいしん
のある
藤本
ふじもと
の
蚕室
さんしつ
(
上塩尻
かみしおじり
)
蚕種製造
さんしゅせいぞう
の
中心地
ちゅうしんち
だった
上塩尻
かみしおじり
でもその
筆頭
ひっとう
の
蚕種製造家
さんしゅせいぞうか
であった
藤本
ふじもと
(
佐藤本家
さとうほんけ
)の
蚕室
さんしつ
。
蚕種製造
さんしゅせいぞう
に
使
つか
われました。
蚕
かいこ
の
成育
せいいく
に
大敵
たいてき
の
寒
さむ
さを
防
ふせ
ぐため、
床下
ゆかした
に
埋薪
まいしん
と呼ばれるオンドルのような
暖房施設
だんぼうしせつ
が
備
そな
わっています。
2022-01-18
86
西上田駅 「まゆの里」の案内板
しなの鉄道西上田駅北口広場にある「まゆの里」の案内板です。「蚕飼の郷」として繁栄した塩尻地区を、北国街道沿いを中心に歴史的遺産や伝承文化を紹介したものです。西上田駅を起点に散策してみませんか。ひよっとしたら、加賀のお殿様の行列と遭遇するかもしれませんよ。 ※ 平成20年度わがまち魅力アップ応援事業で作製したとのことです。(令和3年再製)
2021-12-16
87
養蚕農家の生活13 繭価(まゆか)の大暴落(だいぼうらく)
昭和5年は、米国の不景気によって繭価が大暴落し、1貫1円90銭となり、東北の繭糸であまりの安値に業(ごう)を煮やした人が競りを流し、上田まで持ち下して競りにかけたところ前より安値でそこも流して持ち帰り、川久保橋から神川に押しあけて家に帰ったなんて話も聞きました。 繭価の安値は幾年も続いて私たちが6年生で行く直江津旅行も中止となり、高2の時の東京旅行ももちろん中止でした。村費による先生たちの給料も不払いとか減額給付といった話も聞きました。また、上小の青年団が電気料の不払い運動もやりました。 繭価はいくら安くてもこの道しか現金収入のない農家は、来年の蚕飼いのために高い肥料や蚕種、蚕具の購入資金に窮し、人から借りてまでも用意せざる得ませんでした。 引用文献 「大正から昭和へー町や
2021-11-15
88
養蚕農家の生活12 手伝いを通して一人前に
この桑しょいというのが、自分の力がどれだけあるようになったかを知るバロメーターでした。去年は一わだったのに、今年は二わしょえるようになった。早く兄や父と同じくらいしょえるようになりたいものだと思ったものです。 桑束三ばをしょえるようになったのは、6年生の夏蚕の時でした。今日こそはと桑束をしばる「すがい」を三つ持って山の畑に行きました。父と同じくらいの束三ばを作り、背負子につけました。つけ終わったときは、皆帰りかけており、私が一人残りました。腰を下ろして背負子に肩を入れ、さて力を入れて立とうとしましたが立てません。前の桑株にすがったり、あっちこっちとずって歩きようやく足をぶるぶるさせて立ち上がりました。嫌な坂道も注意して下り、石垣の上の細道も気を張って過ぎ、途中の休み場も下
2021-11-15
89
養蚕農家の生活11 夏蚕、秋蚕、晩秋蚕
繭かきの済んだ後の蚕巣ワラは燃やしてしまいました。 このころは田の「しつけ」も繭と並行で、田植えはほとんど他人まかせで、家中でやったことはなかったのです。 7月中旬にはまた夏蚕が始まるのです。夏蚕は子供たちの夏休みと重なり、暑くて飼育が容易なので、我が家では重点をここに置くのです。 庭起きともなると桑は1キロも道のりのある小玉の丘陵まで切りに行くのです。父母姉2人兄2人に私の7人の1ケ分隊が、みな背負子をしょって水上の田の細いあぜ道、しかも高い石垣の細いあぜ道を一列になって行くのです。この行列は私たちだけではありません。 ほとんどの家がこの丘上に桑畑を持っているのです。細道を進んでいくと早い家ではもう桑をしょってこの道を帰ってくるのです。そこで道をよけて通してやるのが大変でした
2021-11-15
90
養蚕農家の生活10 繭かき・出荷
やといの入った各部屋は練炭を入れて暖をとり、繭づくりをさせる。1日たつとヒキは糸をはいて繭の形を作り、3日目には白くなってヒキは見えないようになる。 8日目には「繭かき」(繭の収穫)が始まる。非農家の女衆を3人ぐらい頼んで3日間ぐらいで終わらすのです。繭は20貫(75㎏)もたまればこれを「たて」(繭を入れる袋)に入れ、父は二つの「たて」を天秤で担ぎ、兄は「たて」を背負子でしょって東北(本原)の繭糸(けんし)会社の競(せ)り市(いち)に持って行くのです。私は後について見に行きます。 繭糸(会社)には大勢の人が白い「たて」を持ちよって競りに出す順番を待っています。「ぼて」(大きな竹籠)に繭をあけ、競り台まで運ぶと、係りの男が大きな声で「○○の上等まい」と呼びながら競り台に繭をあけます。する
2021-11-15
91
養蚕農家の生活9 ヒキ拾い
庭起き1週間をこえるころになると、蚕は太ぶとと大きくなり、急に桑を食わなくなります。そして首のあたりからあめ色に透きはじめ、首を上に伸ばして何かを探すようにうごめきはじめます。この状態を「ヒキた」と言い、一刻の猶予もできません。まごまごしていると蚕座に糸をかけ始めるからです。このような状況は、親たちは長年の経験で、隣近所で蚕の進んでいる家、遅れている家があり、そう忙しくない家等「えいっこ」(手伝いのしあい)できる家にお願いしておいて、互いに手伝いっこするのです。 朝早くから箔や蚕巣を庭に運び出して「ヒキ拾い」(蚕を蚕巣にいれてやる)の用意をしていると、お手伝いの人が4.5人来てくれて、一番進んでいる前の蚕室からヒキ拾いを始めます。拾うのは手の早い女衆、蚕を箔に撒いて蚕巣を立
2021-11-15
92
養蚕農家の生活8 桑取り
春蚕用の桑畑は私の家の近くにありましたので、桑切はそうたいへんではありません。切り取ったところから畝間(うねま)をかきあげしては株直しをしました。 蚕飼いが始まると、村の中は急に桑取に出かけるおばあさんたちの往来が繁くなり、そこらで立ち話をする風景が目につき、その言葉の中に「お家のお蚕様は」とか「おら家のしょうは」と蚕に敬語をつける話がよく聞かれます。また、それほどにありがたい虫であり、また、この虫の成長いかんで家の経済が左右されるとなると飼い主の責任は大変に重く、その技術の難しさもあるわけで、毎日のように養蚕教師が一軒ごと巡回指導して歩きましたが、飼主は心配で、よその家の様子と我が家の様子を比べたくなるのです。そして、少しでも我が家の良さを知りたいのです。
2021-11-15
93
養蚕農家の生活7 蚕の世話
桑をくれるのは1日に大ぐれは3回ですが、群れ直しで少しはくれるので5回ぐらいになったでしょうか。稚蚕の時は、割に湿気に強いのでトタン箱内で飼い、桑葉のしなびるのを防ぎましたが、大きくなると冷湿をきらうなどといい、蚕座(さんざ)(さんざ:食い残りのかす)が厚くなると蒸れる危険があるので、蚕(こ)尻(じり)(こじり:蚕の糞)取りも三齢、四齢にはちょいちょいやりました。その際、よく見ないと蚕をうっかり捨てることになりました。 庭起きになり蚕を下に放すときは、畳の間は全部畳を片付け、座敷、茶の間、勝手土間…軒下、蚕室、裏の物置と人間が寝る部屋とお勝手を残し、全部が蚕の放し飼いに使われたのです。床上にもみ殻をまき、その上に石灰をまいて蚕箔上の縄網(なわあみ)(蚕の上に網をかけ、その上に桑を乗せる
2021-11-15
94
養蚕農家の生活6 蚕の成長
蚕の幼虫期間の変態(蚕は4回脱皮を繰り返して大きくなる)は、一齢(れい)一眠(みん)(一れい一みん:脱皮をする前には、動かなくなり、桑を食べなくなる。その時を眠という。)二齢二眠、三齢三眠、四齢四眠、五齢上ぞく(じょうぞく:まゆをつくる)まで春蚕は約1か月かかりました。 親たちは何齢という呼び方はしないで、一齢を「毛児(けご)(けご)」、二齢を「二つ」、三齢を「ふな」、四齢を「ふなおき」、五齢を「庭起き」と言っていました。 毛児というのは卵から出たばかりの黒い毛だらけの蟻のように見えるのでそう言い、また蟻(ぎ)蚕(さん)(ぎさん)などとも言いました。二つというのは二齢だからわかるが、三齢をふなおきと呼ぶのは意味が分かりません。庭起きというのは四齢まで箔飼(はくか)い(かいこあみの上で飼う
2021-11-15
95
養蚕農家の生活5 はきたて
桑の芽がほころび始めるころはどこの家でも稚(ち)蚕(さん)飼育室の用意をしました。5月はまだ寒く、稚蚕のためには温度25℃を保たなければなりませんから、温度の取りやすい部屋を選びます。よく拭き掃除をし、周りや天井に目張りをし、使う道具もよく洗い、室内、道具をホルマリン消毒します。もうこんな時期は桑の芽は4葉ぐらいに伸び、いよいよ蚕(さん)種(しゅ)は催(さい)清(せい)(さいせい:温度をかけて蚕が卵からふ化するようにする)が終わって、今まさに蚕の稚児が卵から出ようとするときに、蚕(たね)種屋(や)は農家に売り渡すのです。 私の家では暖がよくとれる部屋がなかったので、二つ休み(蚕が生まれて2回目の脱皮のあと)までは下の家の稚蚕室へお願いし共同で飼育しましたが、室内には大きな火鉢が据えられ、上等な堅
2021-11-15
96
養蚕農家の生活4 桑の手入れ
4月は春祭りの時期です。桑は昨年の夏蚕用に切られ、15センチほど切り残された桑棒に、切られた後に発芽した細枝をつけてボサボサになっている。この棒を株すれすれに鎌で切除する作業を株直しといいますが、お祭りの前にこの作業を済ませることが我が家の例年の習いでした。越年した桑株はかたくて鎌でそぐのは子供の力では大変でした。鎌はよく切れることが大事で、それにはちょいちょい砥(と)ぐことでした。その砥ぎ方も父から習ったのです。600坪からある桑畑の株直しは我が家にとっては大変な作業で、父母が専門にやるばかりでなく、私たち子供もお祭り前に終わらそうとがんばりました。手の中は血豆がいくつもでき、指の付け根にタコができました。 桑の芽が出る前に全桑園に春肥をやります。それには大豆かすやアンモ
2021-11-15
97
養蚕農家の生活3 養蚕の準備
養蚕は暖かい時期に蚕を飼うことばかりでなく、その用意は冬のうちから始まりました。3月、寒いながら日も長くなりだすと父は蚕(こ)巣(す)(こす:蚕が繭を作るときにワラで編んだ巣に入れる)折りを始めました。昨年の秋の終りに田んぼのワラは全部家の裏に積み上げてあり、これを崩してワラすぐりをした一つかみのワラを簡単な箱型の器具にのせて、二本の鉄棒とばねの力で作ります。1個を作る所要時間は2分ぐらい、一時間に30個、1日に100個も作ればもうたくさんになってしまっただろうと思います。 蚕巣1個が蚕(さん)箔(ぱく)(さんぱく:1畳ほどの竹籠に敷く紙。その上で蚕を飼う)1枚用で、我が家では春蚕に350個、夏蚕に450個、残りを秋蚕、晩秋用にするので1000個の蚕巣が必要で、この蚕巣を折る作業は
2021-11-15
98
養蚕農家の生活2 桑の状態や水田の仕事、働き手に合わせて
私の家では桑畑を春(はる)蚕(ご)用に400坪(1320㎡)、夏(なつ)蚕(ご)、秋(あき)蚕(ご)用に600坪(1980㎡)をあてていたようです。なぜ夏蚕に重点をおいたかというに、春は気温が低く温度をとる養蚕には不向きであり、しかも養蚕期間が長いという不利と水田の「しつけ」(田植え)時期と重なるからです。また、夏期は子供たちの学校の長期休業という戦力の当てがあるからです。 『養蚕業について』西沢吉次郎著から 写真は、開校当時の塩尻小学校。桑畑に囲まれている。奥に見ええる山にも段々畑が広がっている。子供たちも養蚕の大事な労働力だった。(復刻版塩尻時報扉より)
2021-10-15
99
養蚕農家の生活1 西沢吉次郎さんの話
上小地域から桑畑とともに養蚕農家が姿を消して久しい。蚕の飼育についての記録は残っているが、蚕とともに暮す生活の記録はあまり見当たらない。知る人もわずかになり、聞くことも難しくなっている。 上小郷土史研究会が平成2年に発行した「大正から昭和へー町や村の暮らしー」所載の西沢吉次郎さんの作品は、当地の養蚕農家の生活を描いた貴重な記録である。西部地域の記録ではないが、養蚕・蚕種製造をする農家の生活を想像する手立てとして使用することを許可してもらった。 西沢さんは1919(大正8)年、現上田市真田町本原に生まれ、子供のころの農業や養蚕の手伝いをした思い出を記録している。明治の中頃から大正、昭和初期は、繭景気が良い時代で、「米の成る田に桑の木植えて、お前食う木かくわ(桑)ぬ木か」というざ
2021-10-12
100
塩尻小学校郷土資料館7 蚕種家「佐藤尾之七邸宅」の今
写真は、資料館に版画があった蚕種家「佐藤尾之七邸宅」の今である。住む人なく閉められた門の脇に、蚕種家の屋敷だったことを紹介する説明文が掲げてある。往時の活気はうかがうべくもないが、一時代を築いた風格が漂い、「蚕種の郷」独特の景観を伝えている。1912(大正元)年の長野県の調査では、塩尻村(上塩尻、下塩尻、秋和)で県税を納めている戸数は566戸、うち蚕種製造戸数は、136戸で23.3%を占めていた。版画は当時の盛況ぶりを想像する手がかりとなっている。 今、塩尻地区でも朽ちるにまかされた蚕室や現代的な住宅に建て替わる古民家が少なくない。「気抜き」のある建物が狭い小路をはさんで軒を連ねる「蚕種の郷」の景観も雑木に覆われた段々畑同様に消えゆく時が迫ってはいないか。失ったら取り戻すことでき
2021-08-12
≪
1
2
≫
上塩尻(9)
歴史(6)
蚕種製造(5)
藤本蚕業歴史館(5)
建築(4)
藤本蚕業(3)
塩尻地区(3)
藤本(2)
西部地域(2)
まちあるき(2)
蚕種製造業(2)
蚕種製造民家(2)
秋和の里(1)
#蚕種の郷(1)
産業(1)
共同社会(1)
蚕糸業(1)
#蚕影様(1)
花桃イベント(1)
蚕種(1)
イノシシコース(1)
滝澤秋曉邸(1)
#座摩神社の祭礼(1)
市場経済(1)
近代(1)
二・二六事件(1)
全国(1)
アサヒグラフ(1)
近代史(1)
雑誌(1)
桑畑(1)
展示室(1)
蚕都上田(1)
町並み(1)
文書館(1)
デジタルアーカイブ(1)
地図(1)
蚕(1)
蚕種製造民家群(1)
秋和文庫蔵(1)
歴史的建造物(1)
見学会(1)
日本建築家協会(1)
秋和(1)
文書(1)
古建築(1)
文化財(1)
北国街道(1)
文庫蔵(1)
長野大学(1)
藤本善右衛門(1)
蚕都(1)
蚕室(1)
埋薪(1)
だんばんばたけの石垣(1)
藤本工業(1)
蔵書(1)
版木(1)
桑園(1)
地域景観(1)
蓬蘆書屋(1)
養蚕(1)
ログイン
トップページへ