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1「蚕種の郷」座摩(ざますり)神社の祭礼  8「蚕種の郷」座摩(ざますり)神社の祭礼 8祭礼を執り行った宮司さんや役員の方は、「養蚕・蚕種業を生業とする人々の精神的な支えとなってきたこの神社や祭典のことを地域の人に忘れて欲しくない、地域の宝として守っていきたい。コロナ感染が収束したら、地域の皆さんが共に参加できる祭典をしたい」と思いを語ってくれました。土俵は、写真中央の二本の木の間あたりに作られていた。2022-05-03
2「蚕種の郷」座摩(ざますり)神社の祭礼 7「蚕種の郷」座摩(ざますり)神社の祭礼 7高遠直一さんの覚書から 「養蚕の衰退とともに」 『時代の変遷とはいえ、これらの祭礼もいつか行われなくなり、その後は宵祭りなどに学校の体育館での映画会、塩尻自治会経営の託児所の庭の仮設舞台での、素人演芸会や奉納踊、また本祭当日神社境内での坂城町長生楼芸妓の手踊りや、青年相撲などが行われたこともあったが、これらもだんだん時代の流れに流されて今日に至ってしまった。』 写真の土俵には、四本柱がない。服装から見ると戦後か。相撲を取っているのは子供たちのようである。養蚕が次第に下火になり、養蚕に関わる人も少なくなり、「蚕影様」の祭典が、村祭りのようになってきたか。2022-05-03
3「蚕種の郷」座摩(ざますり)神社の祭礼 6「蚕種の郷」座摩(ざますり)神社の祭礼 6 写真は、化粧まわしをつけ村中を練りまわしてきた力士の行列。場所は小学校の裏あたりか。拍子木を持つ呼び出しも見える。「塩尻地区写真集」より2022-05-03
4「蚕種の郷」座摩(ざますり)神社の祭礼 5「蚕種の郷」座摩(ざますり)神社の祭礼 5 写真は、境内での大相撲の様子。江戸大相撲より免許を受けた四本柱に屋根をつけた立派な土俵上で行われている取り組みを群がる人々が応援している。拝殿の壁も取り払われて桟敷席になっている。子供相撲から始まって、三人抜き、五人抜きの相撲、化粧まわしをつけた力士が土俵に並んでのそろい踏み、道化相撲が終わると大関の土俵入り。そして、三役の取り組みが終わるころには一日が終わる。「塩尻地区写真集」より2022-05-03
5「蚕種の郷」座摩(ざますり)神社の祭礼 4「蚕種の郷」座摩(ざますり)神社の祭礼 4写真は、村中を引き回される山車。芸者衆が乗って音曲を奏でているように見える。 後ろの山車は、繭玉を投げている。繭玉と引き換えにお札がもらえる。繭玉の中には福引の札が混じっていて、拾った人は、賞品をもらえる。「塩尻地区写真集」より2022-05-03
6「蚕種の郷」座摩(ざますり)神社の祭礼 3「蚕種の郷」座摩(ざますり)神社の祭礼 3座摩神社の祭礼について、明治生まれの高遠直一さんは覚書(昭和53年)でこう書いています。 『八十八夜のお祭りの当日は午前中「お舟の練り」が村内を練りまわり、辻々にて信者に繭玉、養蚕道具などの縁起物を授与し、午後は各地よりはせ参ぜる力士多数、村内抜群の力士を中心に、境内相撲場、土俵上にて奉納大相撲が挙行された。この祭りのために村内各家には親類、縁者、蚕種屋のお得意様など多数の来客あり、あげて参拝する習慣であった。』  祭礼の準備は、上塩尻の18歳から30歳までの男子全員「若い衆仲間」が、祭典余興、繭玉練り、相撲などの係りを分担して準備にあたった。写真は、新屋を出発するお練りのお舟。(大正11年)「塩尻地区写真集」より2022-05-03
7「蚕種の郷」座摩(ざますり)神社の祭礼 2「蚕種の郷」座摩(ざますり)神社の祭礼 2座摩神社の由来は、奈良時代、元正天皇の養老元(717)年、虚空蔵山の山頂に「保食神(うけもちのかみ:食物養蚕の神)」を祀り、養蚕の守護を祈ったことに始まったと伝承されています。江戸時代の寛文2(1662)年、この地に里宮を遷され、文久9(1819)年、正一位座摩神社蚕養國大神の社号を受けて現社殿が建築され、明治29(1896)年に修復、背後の大石積が施され現在に至っています。2022-05-03
8「蚕種の郷」座摩(ざますり)神社の祭礼 1「蚕種の郷」座摩(ざますり)神社の祭礼 15月3日、上塩尻の #座摩神社 の祭礼が行われました。今年は、コロナ感染のため3年ぶり、神職と役員のみでひっそりと拝礼するだけでした。しかし、昭和の半ばまでは、座摩神社の祭礼といえば、「 #蚕影様 (こかげさん:蚕の神様)のお祭」として、上田・小県はもちろんのこと、遠くは水内、高井郡をはじめとして、佐久、北上州まで鳴り響いていたそうです。  江戸時代の半ばから昭和の初期まで養蚕は、国や地域の経済、農家の生活を支える重要な仕事でした。しかし、飼育技術が確立するまでは当たり外れが大きく、運に任せることが大きい仕事でした。上塩尻は、優良な蚕種を作るともに、飼育技術の改良・普及に努め、生産量ばかりでなく、品質の面からも日本一の「 #蚕種の郷 」と言われていました。その上塩尻の「蚕影様」の祭典は、八2022-05-03
9だんだんばたけの石垣だんだんばたけの石垣花桃イベントでイノシシコースを歩いてきました。ところどころに石垣があります。その昔、この斜面一帯が桑園(そうえん)でした。石垣はその跡。これだけていねいに石を積んで斜面の土がくずれないようにしていたのですね!2022-05-01
10上塩尻蚕種製造民家群4 蚕種製造民家「清水卓爾氏宅」④上塩尻蚕種製造民家群4 蚕種製造民家「清水卓爾氏宅」④大沢の扇状地の扇端には湧水を利用した七つの池があり、かつては生活用水や蚕具を洗うのに使われた。門の外、左下に湧水がある。今も残る3か所の一つである。水神様を祭る祠には、慶長3年とあり歴史の古さを教えてくれる。2022-04-03
11上塩尻蚕種製造民家群4 蚕種製造民家「清水卓爾氏宅」③上塩尻蚕種製造民家群4 蚕種製造民家「清水卓爾氏宅」③土蔵の下に鉄筋入りのコンクリートで作られた地下室がある。夏でも室温が低いため、風穴の代わりに種紙に産み付けられた蚕種を保存し、ふ化の時期を遅らせた。 写真は、屋根に設けた気抜きを天窓のように採光に利用している。天井が高く、太い梁が力強さを感じさせる開放的な空間となっている。2022-04-03
12上塩尻蚕種製造民家群4 蚕種製造民家「清水卓爾氏宅」②上塩尻蚕種製造民家群4 蚕種製造民家「清水卓爾氏宅」②門を入って右側(東側)の2階建ての蚕室は、江戸時代に造られ、1階は居宅、2階蚕室として使われていた。西側の母屋は、明治29年に増築され、1階は居宅、2階は蚕室で、昭和20年代まで蚕を飼育していた。国の登録文化財に指定された佐藤尾之七邸と同じ、木曽上田村の棟梁、武居初太郎が建てた。  写真は、西側の母屋。気抜きの他に屋根の下に通風孔が設けられている。現在は、内部を改修して3世代の家族が暮らしている。2022-04-03
13上塩尻蚕種製造民家群4 蚕種製造民家「清水卓爾氏宅」①上塩尻蚕種製造民家群4 蚕種製造民家「清水卓爾氏宅」①旧北国街道を西に向かい新幹線の高架をくぐり、座摩神社の参道を過ぎ、坂を登り始めると左側に気抜きの屋根の二棟が迎えてくれる。一段下がったところにあるため、2階の蚕室の大きな窓や塗壁、気抜きのために屋根の上に小屋根(越屋根)を設けた蚕種製造民家が見えてくる。Google earthではまだ見ることができるが、数年前まで、街道の右側にも3軒の蚕種製造民家が並んでおり、「蚕種の郷」の入り口にふさわしい景観がみられた。2022-04-03
14蚕種製造民家群3 現存する蚕種製造民家蚕種製造民家群3 現存する蚕種製造民家上塩尻の養蚕家屋については、1989~92(平成元~4)年に工学院大学の研究チームが大規模な調査を行い23軒が調査対象となっている。また、平成14年に近代化遺産活用計画策定のための地域調査チームによる現地調査では、気抜きのない養蚕家屋も入れて37軒を対象にしている。 現在、気抜きの備わる蚕室を持つ民家は19軒、他に気抜きはないが、喚起のため窓を大きくして蚕室として使われていた家屋が数軒、近年、取り壊されたり、建て替えられたりした家屋が10軒弱あるが、狭い北国街道や小路に面しているため、工事が難しいこともあり、内部を改修するなど手を入れ、現在も住居として使われている家屋が少なくない。  写真は、緑点は蚕種製造民家、改築されたが景観に配慮して気抜き施した家屋もある。赤点は、平成14年の調2022-04-03
15上塩尻蚕種製造民家群2 蚕種製造の中心地:上塩尻「大村」の景観上塩尻蚕種製造民家群2 蚕種製造の中心地:上塩尻「大村」の景観蚕種製造の中心地上塩尻「大村」は、扇状地の斜面の50000㎡ほどの狭い土地に100戸ほどの民家が集中し、その半数以上が養蚕をし、蚕種製造を営む集落だった。 門構え、土塀、気抜き屋根を持つ白壁の総二階の蚕室を持つ江戸から明治にかけて建築された大きな蚕種製造民家が、狭い小路を挟んで立ち並ぶ景観は、他に例を見ない。写真は、 気抜きの屋根の並ぶ蚕種製造民家群を裏山から撮ったもの。手前の山の下を左右に北国街道が通る。2022-04-03
16上塩尻蚕種製造民家群1 蚕種製造の中心地:上塩尻「大村」上塩尻蚕種製造民家群1 蚕種製造の中心地:上塩尻「大村」明治30年発行の「長野県小県郡熱心蚕種製造家一覧」には、上田町を中心に郡下163戸の蚕種製造家の氏名が記載されている。その2/3の107戸は、旧塩尻村(上塩尻58,下塩尻20、秋和29)がしめている。塩尻とともに西部地域に属する(鎌原7,諏訪部2)も加えると上田盆地の西部、千曲川北岸が蚕種製造の中心だったことがわかる。 上塩尻の中でも53戸の蚕種製造家が集中している「大村」(字:北側・南側)は、千曲川と虚空蔵山に挟まれた大沢の扇状地の斜面で、千曲川の洪水を受けにくく、江戸時代には信越、北陸を結ぶ北国街道が通っていた。上塩尻村の中心である「大村」は、扇状地の上部を北国街道が西の扇端部に向かって下り、平坦部を通る国道18号線とがけ下で交わる西端地点を頂点し、東500mの塩尻小学校の西縁とそこから北に向2022-04-03
17〈秋和〉不思議な街並み 5〈秋和〉不思議な街並み 5秋和の北国街道は直線的だが、道幅が狭いため大軍の進軍は難しい。家々の間口の幅が同程度なのも人工的に作られたからだろう。街道に面して出入口を作らず、小路から出入りし、時には小路に隠れて敵を迎え撃つ。小路を50mほど奥に入ると家並の裏に東西に走る小路があり、街道から見られずに移動ができる。間口いっぱいに建てられた家は、江戸末期から養蚕・蚕種業が盛んになり、広い蚕室を確保する確保するために改築されたものではないか。 西脇や新町のように城下町に近い村は、時代が下がると町屋化し、商いのために道に面して入口を設けるようになった。秋和は農が主で店も宿もほとんどなく、旅人に出入口を開く必要もなかったのではないか。むしろ、背後にある田や山麓や河川敷にある桑畑に通うには、家にわきにある小路が重宝2022-03-23
18〈秋和〉不思議な街並み 2〈秋和〉不思議な街並み 2①街道に面して入口のある家が少ない。  旧家の多くは、入口や玄関が街道に面していない。東西にある小路に門を設け入口としている。街道に背を向けている南側の家ばかりでなく、北側にある家も同様で、南に庭があっても塀で囲み、街道から母屋が見えにくい。近年、改築された家の多くは、街道に面して入口や駐車場を設けている。 ②街道に面して、旧家の間口の幅がほぼ10~12mほどで、広狭の差が少ない。 文人で蚕種家だった滝澤秋暁生家は例外的に20mほど。 ③どの家も間口の幅いっぱいに家が建てられている。 家々は、間口の幅いっぱいに家が建てられている。また、街道に寄せぎりぎりの位置に建てられているため、街道の南側は家が高い壁のように立ち並んでいる。 写真の家は、左手の小路に向かって門のある家。右手が2022-03-23
19〈秋和〉不思議な街並み 1〈秋和〉不思議な街並み 1秋和集落は、旧北国街道に沿って東西1kmほどの街村を形成している。昭和16年に国道が集落の南にできたため、道幅狭く、通過車両少なく、道路に沿って水路のある街道の面影が残っている。道の両側には戦前まで蚕種製造を生業としてきた気抜きのある民家も多かったが、近年は、改築する家が増え、独特の景観も失われつつある。昔の景観を思い出しながら街並みを歩くと、不思議な点に気づいた。 写真は、西から東を望む。右手の建物は、街道の面影を残す旧中島銀行。左手は、改築された家々2022-03-23
20蚕種の行商蚕種の行商2022-02-17
21<ruby>埋薪<rt>まいしん</rt></ruby>のある<ruby>藤本<rt>ふじもと</rt></ruby>の<ruby>蚕室<rt>さんしつ</rt></ruby>(<ruby>上塩尻<rt>かみしおじり</rt></ruby>)埋薪まいしんのある藤本ふじもと蚕室さんしつ(上塩尻かみしおじり)蚕種製造さんしゅせいぞう中心地ちゅうしんちだった上塩尻かみしおじりでもその筆頭ひっとう蚕種製造家さんしゅせいぞうかであった藤本ふじもと(佐藤本家さとうほんけ)の蚕室さんしつ蚕種製造さんしゅせいぞう使つかわれました。かいこ成育せいいく大敵たいてきさむさをふせぐため、床下ゆかした埋薪まいしんと呼ばれるオンドルのような暖房施設だんぼうしせつそなわっています。2022-01-18
22西上田駅 「まゆの里」の案内板西上田駅 「まゆの里」の案内板 しなの鉄道西上田駅北口広場にある「まゆの里」の案内板です。「蚕飼の郷」として繁栄した塩尻地区を、北国街道沿いを中心に歴史的遺産や伝承文化を紹介したものです。西上田駅を起点に散策してみませんか。ひよっとしたら、加賀のお殿様の行列と遭遇するかもしれませんよ。 ※ 平成20年度わがまち魅力アップ応援事業で作製したとのことです。(令和3年再製)2021-12-16
23養蚕農家の生活13  繭価(まゆか)の大暴落(だいぼうらく)養蚕農家の生活13  繭価(まゆか)の大暴落(だいぼうらく) 昭和5年は、米国の不景気によって繭価が大暴落し、1貫1円90銭となり、東北の繭糸であまりの安値に業(ごう)を煮やした人が競りを流し、上田まで持ち下して競りにかけたところ前より安値でそこも流して持ち帰り、川久保橋から神川に押しあけて家に帰ったなんて話も聞きました。  繭価の安値は幾年も続いて私たちが6年生で行く直江津旅行も中止となり、高2の時の東京旅行ももちろん中止でした。村費による先生たちの給料も不払いとか減額給付といった話も聞きました。また、上小の青年団が電気料の不払い運動もやりました。  繭価はいくら安くてもこの道しか現金収入のない農家は、来年の蚕飼いのために高い肥料や蚕種、蚕具の購入資金に窮し、人から借りてまでも用意せざる得ませんでした。 引用文献    「大正から昭和へー町や2021-11-15
24養蚕農家の生活12 手伝いを通して一人前に 養蚕農家の生活12 手伝いを通して一人前に この桑しょいというのが、自分の力がどれだけあるようになったかを知るバロメーターでした。去年は一わだったのに、今年は二わしょえるようになった。早く兄や父と同じくらいしょえるようになりたいものだと思ったものです。  桑束三ばをしょえるようになったのは、6年生の夏蚕の時でした。今日こそはと桑束をしばる「すがい」を三つ持って山の畑に行きました。父と同じくらいの束三ばを作り、背負子につけました。つけ終わったときは、皆帰りかけており、私が一人残りました。腰を下ろして背負子に肩を入れ、さて力を入れて立とうとしましたが立てません。前の桑株にすがったり、あっちこっちとずって歩きようやく足をぶるぶるさせて立ち上がりました。嫌な坂道も注意して下り、石垣の上の細道も気を張って過ぎ、途中の休み場も下2021-11-15
25養蚕農家の生活11 夏蚕、秋蚕、晩秋蚕 養蚕農家の生活11 夏蚕、秋蚕、晩秋蚕 繭かきの済んだ後の蚕巣ワラは燃やしてしまいました。  このころは田の「しつけ」も繭と並行で、田植えはほとんど他人まかせで、家中でやったことはなかったのです。  7月中旬にはまた夏蚕が始まるのです。夏蚕は子供たちの夏休みと重なり、暑くて飼育が容易なので、我が家では重点をここに置くのです。  庭起きともなると桑は1キロも道のりのある小玉の丘陵まで切りに行くのです。父母姉2人兄2人に私の7人の1ケ分隊が、みな背負子をしょって水上の田の細いあぜ道、しかも高い石垣の細いあぜ道を一列になって行くのです。この行列は私たちだけではありません。 ほとんどの家がこの丘上に桑畑を持っているのです。細道を進んでいくと早い家ではもう桑をしょってこの道を帰ってくるのです。そこで道をよけて通してやるのが大変でした2021-11-15
26養蚕農家の生活10 繭かき・出荷 養蚕農家の生活10 繭かき・出荷  やといの入った各部屋は練炭を入れて暖をとり、繭づくりをさせる。1日たつとヒキは糸をはいて繭の形を作り、3日目には白くなってヒキは見えないようになる。  8日目には「繭かき」(繭の収穫)が始まる。非農家の女衆を3人ぐらい頼んで3日間ぐらいで終わらすのです。繭は20貫(75㎏)もたまればこれを「たて」(繭を入れる袋)に入れ、父は二つの「たて」を天秤で担ぎ、兄は「たて」を背負子でしょって東北(本原)の繭糸(けんし)会社の競(せ)り市(いち)に持って行くのです。私は後について見に行きます。  繭糸(会社)には大勢の人が白い「たて」を持ちよって競りに出す順番を待っています。「ぼて」(大きな竹籠)に繭をあけ、競り台まで運ぶと、係りの男が大きな声で「○○の上等まい」と呼びながら競り台に繭をあけます。する2021-11-15
27養蚕農家の生活9 ヒキ拾い養蚕農家の生活9 ヒキ拾い 庭起き1週間をこえるころになると、蚕は太ぶとと大きくなり、急に桑を食わなくなります。そして首のあたりからあめ色に透きはじめ、首を上に伸ばして何かを探すようにうごめきはじめます。この状態を「ヒキた」と言い、一刻の猶予もできません。まごまごしていると蚕座に糸をかけ始めるからです。このような状況は、親たちは長年の経験で、隣近所で蚕の進んでいる家、遅れている家があり、そう忙しくない家等「えいっこ」(手伝いのしあい)できる家にお願いしておいて、互いに手伝いっこするのです。  朝早くから箔や蚕巣を庭に運び出して「ヒキ拾い」(蚕を蚕巣にいれてやる)の用意をしていると、お手伝いの人が4.5人来てくれて、一番進んでいる前の蚕室からヒキ拾いを始めます。拾うのは手の早い女衆、蚕を箔に撒いて蚕巣を立2021-11-15
28養蚕農家の生活8 桑取り養蚕農家の生活8 桑取り 春蚕用の桑畑は私の家の近くにありましたので、桑切はそうたいへんではありません。切り取ったところから畝間(うねま)をかきあげしては株直しをしました。  蚕飼いが始まると、村の中は急に桑取に出かけるおばあさんたちの往来が繁くなり、そこらで立ち話をする風景が目につき、その言葉の中に「お家のお蚕様は」とか「おら家のしょうは」と蚕に敬語をつける話がよく聞かれます。また、それほどにありがたい虫であり、また、この虫の成長いかんで家の経済が左右されるとなると飼い主の責任は大変に重く、その技術の難しさもあるわけで、毎日のように養蚕教師が一軒ごと巡回指導して歩きましたが、飼主は心配で、よその家の様子と我が家の様子を比べたくなるのです。そして、少しでも我が家の良さを知りたいのです。        2021-11-15
29養蚕農家の生活7 蚕の世話養蚕農家の生活7 蚕の世話 桑をくれるのは1日に大ぐれは3回ですが、群れ直しで少しはくれるので5回ぐらいになったでしょうか。稚蚕の時は、割に湿気に強いのでトタン箱内で飼い、桑葉のしなびるのを防ぎましたが、大きくなると冷湿をきらうなどといい、蚕座(さんざ)(さんざ:食い残りのかす)が厚くなると蒸れる危険があるので、蚕(こ)尻(じり)(こじり:蚕の糞)取りも三齢、四齢にはちょいちょいやりました。その際、よく見ないと蚕をうっかり捨てることになりました。  庭起きになり蚕を下に放すときは、畳の間は全部畳を片付け、座敷、茶の間、勝手土間…軒下、蚕室、裏の物置と人間が寝る部屋とお勝手を残し、全部が蚕の放し飼いに使われたのです。床上にもみ殻をまき、その上に石灰をまいて蚕箔上の縄網(なわあみ)(蚕の上に網をかけ、その上に桑を乗せる2021-11-15
30養蚕農家の生活6 蚕の成長 養蚕農家の生活6 蚕の成長  蚕の幼虫期間の変態(蚕は4回脱皮を繰り返して大きくなる)は、一齢(れい)一眠(みん)(一れい一みん:脱皮をする前には、動かなくなり、桑を食べなくなる。その時を眠という。)二齢二眠、三齢三眠、四齢四眠、五齢上ぞく(じょうぞく:まゆをつくる)まで春蚕は約1か月かかりました。 親たちは何齢という呼び方はしないで、一齢を「毛児(けご)(けご)」、二齢を「二つ」、三齢を「ふな」、四齢を「ふなおき」、五齢を「庭起き」と言っていました。  毛児というのは卵から出たばかりの黒い毛だらけの蟻のように見えるのでそう言い、また蟻(ぎ)蚕(さん)(ぎさん)などとも言いました。二つというのは二齢だからわかるが、三齢をふなおきと呼ぶのは意味が分かりません。庭起きというのは四齢まで箔飼(はくか)い(かいこあみの上で飼う2021-11-15
31養蚕農家の生活5 はきたて 養蚕農家の生活5 はきたて  桑の芽がほころび始めるころはどこの家でも稚(ち)蚕(さん)飼育室の用意をしました。5月はまだ寒く、稚蚕のためには温度25℃を保たなければなりませんから、温度の取りやすい部屋を選びます。よく拭き掃除をし、周りや天井に目張りをし、使う道具もよく洗い、室内、道具をホルマリン消毒します。もうこんな時期は桑の芽は4葉ぐらいに伸び、いよいよ蚕(さん)種(しゅ)は催(さい)清(せい)(さいせい:温度をかけて蚕が卵からふ化するようにする)が終わって、今まさに蚕の稚児が卵から出ようとするときに、蚕(たね)種屋(や)は農家に売り渡すのです。 私の家では暖がよくとれる部屋がなかったので、二つ休み(蚕が生まれて2回目の脱皮のあと)までは下の家の稚蚕室へお願いし共同で飼育しましたが、室内には大きな火鉢が据えられ、上等な堅2021-11-15
32養蚕農家の生活4 桑の手入れ 養蚕農家の生活4 桑の手入れ  4月は春祭りの時期です。桑は昨年の夏蚕用に切られ、15センチほど切り残された桑棒に、切られた後に発芽した細枝をつけてボサボサになっている。この棒を株すれすれに鎌で切除する作業を株直しといいますが、お祭りの前にこの作業を済ませることが我が家の例年の習いでした。越年した桑株はかたくて鎌でそぐのは子供の力では大変でした。鎌はよく切れることが大事で、それにはちょいちょい砥(と)ぐことでした。その砥ぎ方も父から習ったのです。600坪からある桑畑の株直しは我が家にとっては大変な作業で、父母が専門にやるばかりでなく、私たち子供もお祭り前に終わらそうとがんばりました。手の中は血豆がいくつもでき、指の付け根にタコができました。  桑の芽が出る前に全桑園に春肥をやります。それには大豆かすやアンモ2021-11-15
33養蚕農家の生活3 養蚕の準備養蚕農家の生活3 養蚕の準備 養蚕は暖かい時期に蚕を飼うことばかりでなく、その用意は冬のうちから始まりました。3月、寒いながら日も長くなりだすと父は蚕(こ)巣(す)(こす:蚕が繭を作るときにワラで編んだ巣に入れる)折りを始めました。昨年の秋の終りに田んぼのワラは全部家の裏に積み上げてあり、これを崩してワラすぐりをした一つかみのワラを簡単な箱型の器具にのせて、二本の鉄棒とばねの力で作ります。1個を作る所要時間は2分ぐらい、一時間に30個、1日に100個も作ればもうたくさんになってしまっただろうと思います。  蚕巣1個が蚕(さん)箔(ぱく)(さんぱく:1畳ほどの竹籠に敷く紙。その上で蚕を飼う)1枚用で、我が家では春蚕に350個、夏蚕に450個、残りを秋蚕、晩秋用にするので1000個の蚕巣が必要で、この蚕巣を折る作業は2021-11-15
34養蚕農家の生活2 桑の状態や水田の仕事、働き手に合わせて養蚕農家の生活2 桑の状態や水田の仕事、働き手に合わせて 私の家では桑畑を春(はる)蚕(ご)用に400坪(1320㎡)、夏(なつ)蚕(ご)、秋(あき)蚕(ご)用に600坪(1980㎡)をあてていたようです。なぜ夏蚕に重点をおいたかというに、春は気温が低く温度をとる養蚕には不向きであり、しかも養蚕期間が長いという不利と水田の「しつけ」(田植え)時期と重なるからです。また、夏期は子供たちの学校の長期休業という戦力の当てがあるからです。              『養蚕業について』西沢吉次郎著から  写真は、開校当時の塩尻小学校。桑畑に囲まれている。奥に見ええる山にも段々畑が広がっている。子供たちも養蚕の大事な労働力だった。(復刻版塩尻時報扉より)2021-10-15
35養蚕農家の生活1 西沢吉次郎さんの話養蚕農家の生活1 西沢吉次郎さんの話 上小地域から桑畑とともに養蚕農家が姿を消して久しい。蚕の飼育についての記録は残っているが、蚕とともに暮す生活の記録はあまり見当たらない。知る人もわずかになり、聞くことも難しくなっている。 上小郷土史研究会が平成2年に発行した「大正から昭和へー町や村の暮らしー」所載の西沢吉次郎さんの作品は、当地の養蚕農家の生活を描いた貴重な記録である。西部地域の記録ではないが、養蚕・蚕種製造をする農家の生活を想像する手立てとして使用することを許可してもらった。  西沢さんは1919(大正8)年、現上田市真田町本原に生まれ、子供のころの農業や養蚕の手伝いをした思い出を記録している。明治の中頃から大正、昭和初期は、繭景気が良い時代で、「米の成る田に桑の木植えて、お前食う木かくわ(桑)ぬ木か」というざ2021-10-12
36塩尻小学校郷土資料館7 蚕種家「佐藤尾之七邸宅」の今塩尻小学校郷土資料館7 蚕種家「佐藤尾之七邸宅」の今 写真は、資料館に版画があった蚕種家「佐藤尾之七邸宅」の今である。住む人なく閉められた門の脇に、蚕種家の屋敷だったことを紹介する説明文が掲げてある。往時の活気はうかがうべくもないが、一時代を築いた風格が漂い、「蚕種の郷」独特の景観を伝えている。1912(大正元)年の長野県の調査では、塩尻村(上塩尻、下塩尻、秋和)で県税を納めている戸数は566戸、うち蚕種製造戸数は、136戸で23.3%を占めていた。版画は当時の盛況ぶりを想像する手がかりとなっている。 今、塩尻地区でも朽ちるにまかされた蚕室や現代的な住宅に建て替わる古民家が少なくない。「気抜き」のある建物が狭い小路をはさんで軒を連ねる「蚕種の郷」の景観も雑木に覆われた段々畑同様に消えゆく時が迫ってはいないか。失ったら取り戻すことでき2021-08-12
37塩尻小学校郷土資料館6 「蚕都物語」塩尻小学校郷土資料館6 「蚕都物語」塩尻地区には江戸時代後期から養蚕、蚕種製造の先駆者が生まれている。中でも養蚕技術書「新撰養蚕秘書(しんせんようさんひしょ)」を著した塚田与右衛門(つかだようえもん1715―1810)。 新品種「信州かなす」を発見し、「蚕かいの学(かいこかいのまなび)」を著わし、養蚕技術者を育成し、組合を作り品質の向上に尽力した藤本善右衛門縄葛(ふじもとぜんえもんつなね1815-1890)。 「養蚕教弘録(ようさんきょうこうろく)」を著わすとともに、かいこの飼育には湿度の加減が難しいことから乾湿計を考案した清水金左衛門(しみずきんざえもん1823-1888)が知られている。3人は時代が近いばかりでなく、その居宅も、北国街道に沿った100メートル四方内に近接している。 ①「蚕都物語―蚕種家清水金左衛門の遥かな旅路」(しみず たか2021-08-12
38塩尻小学校郷土資料館5 蚕種家の居宅塩尻小学校郷土資料館5 蚕種家の居宅①版画「佐藤尾之七邸宅」:蚕種を製造販売する蚕種家(たねや)の居宅を描いた版画1896(明治29)年。 練り塀に囲まれた広い敷地の中に幾つもの建物がある。中央の母屋は、平屋だが大きなかやぶきで、座敷で主人が来客と話をしている。右手に続く2階建てかわらぶきの建物の窓には家人か使用人が見え、居室や事務所か。建物の壁が右側の塀とつながり、大きな門に続く。門を入ると左手には2階建てかわらぶきの蚕室が見える。蚕室の中には蚕棚が重なり、内外で数人が立ち働いている。蚕室の屋根には換気用の煙だしの「気抜き」の小屋根がついている。門の右手の小ぶりの2階建ては、雇人の部屋か。中央の広庭は、作業場になっており数人が働いている。母屋の左、左右を2階建ての練り壁の蔵と奥の塀で囲まれた一画は、庭木の植えられた庭園の2021-08-12
39塩尻小学校郷土資料館4 蚕種販売(2)塩尻小学校郷土資料館4 蚕種販売(2)②印刷原版、北塩尻駅開業、発送箱:種紙を保管にした袋の表には、「うまく」育つようにと馬の絵が画かれている。明治中期までは種紙を入れた種箱を背負いそれぞれの得意先「種場」を行商していたが、信越線が開通すると上田駅や坂城駅を利用するようになった。大正9年には地元の寄付金で北塩尻駅(現西上田駅)ができ、桑や種繭、蚕種の輸送に貢献した。また、発送箱に入れ郵送で送られる蚕種も多くなった。2021-08-12
40塩尻小学校郷土資料館4 蚕種販売(1)塩尻小学校郷土資料館4 蚕種販売(1)①蚕種製造鑑札:蚕種の品質を保証するために江戸時代に上田藩から規則を守り、鑑札を持って商いをするように命令が出ている。明治になり蚕種が高値で輸出されるようになると、粗悪品も出回るようになり、製造、販売には免許鑑札が必要になった。2021-08-12
41塩尻小学校郷土資料館3 蚕種製造道具塩尻小学校郷土資料館3 蚕種製造道具①平付枠板、枠板、種紙、たねの黒枠:蚕種は、繭を出荷しないで、マユの殻を破りう化したオスとメスのガを交尾させ、種紙に卵(1匹が500個ほど)を産み付けさせる。明治の中ごろまでは「平づけ」といって半紙大の種紙に80匹ほどのガをはなって自由に産卵させた(1枚に4万個ほど)。明治の中ごろから微粒子病の予防のため、産卵した母ガがわかるように台紙に数字を入れた28のわくを作、一匹ずつわくの中で産卵させる。産卵を終えた母ガを検査し、病気が見つかれば、その数字の蚕種だけ交換する「わくづけ」が広まった。昭和に入ると産卵の終わった台紙を水に浸し、はがれ落ちた卵を乾燥して容器容れて出荷する「バラ蚕種」という製造法も生まれた。 ②自動鑑別機、雌雄分離機:大正期になると中国やヨーロッパのカイコとかけあわせて両2021-08-12
42塩尻小学校郷土資料館2 養蚕道具(2)塩尻小学校郷土資料館2 養蚕道具(2)蚕の飼育にかかわる道具 ①さいせい機:カイコは春になり、暖かくなるとふ化する。風穴などを使い低温で保存しておいた種(卵)を、催青機で摂氏25℃に保ってやると11日目には殻を破ってふ化する。 ②はきたて羽、はきたてばし:ふ化したばかりの幼虫の体長は3㎜ほど。これを鳥の羽で竹を編んだかごに移すことを「はきたて」という。 ③かいこあみ、きゅうそう台、おき棚:カイコは、畳1畳ほどのかいこあみの上でクワを食べて約4週間かけて大きくなる。その間に4回脱皮する。かいこあみは、世話をするとき以外は10段ほどのおき棚に納めておく。 ④こすおり機、回転ぞく、けばとり機:4回脱皮してから8日程でクワを食べなくなったカイコは、マユを作らせるために「個室」(ぞく)に入れる。昔はワラを使い、こすおり機で作っていたが、戦2021-08-12
43塩尻小学校郷土資料館2 養蚕道具(1)塩尻小学校郷土資料館2 養蚕道具(1)カイコの飼料となるクワの収穫にかかわる道具 ①くわこき、くわつめ、くわつみかご:クワの葉をつみ、運んでくる。 ②くわきりがま、くわこき機:クワを枝ごと切ってきて、葉を一度につむ。 ③くわきりほうちょう、くわきり器:カイコが小さいうちは、クワの葉を刻んで与える。2021-08-12
44塩尻小学校郷土資料館1 郷土資料館はタイムカプセル塩尻小学校郷土資料館1 郷土資料館はタイムカプセル 塩尻小学校郷土資料館は、1961(昭和36)年、PTAや地元自治会の協力で各家庭から寄付された農具、養蚕道具、製糸道具、織機、衣料日用品、昔の旅の服装用具、昔の新聞、雑誌、書籍、楽器、写真、古文書、土器や石器など約280点を空き教室に展示して始まった。その後、周年記念事業等で整備充実が図られ、1995(平成7)年には校舎改築にあわせて独立した郷土資料館が完成した。塩尻地区が「蚕種の郷」だったことから、他に見られない蚕種製造にかかわる貴重な資料が集められていている。展示品の中から蚕種製造にかかわる資料(太字で表記)を紹介する。写真は、塩尻小学校郷土資料館。右は桑の木。2021-08-12
45蚕種の郷13 衰退した養蚕製糸業蚕種の郷13 衰退した養蚕製糸業  なぜ、今、桑畑は無いのでしょうか。養蚕農家はどうなってしまったのでしょうか。 江戸後期から養蚕業は広がり、幕末に生糸が欧米に輸出されるようになると生産は一気に増加しました。大正の中頃、第一次世界大戦が始まると女性の社会進出が進み、欧米ではその足元を飾るストッキングに絹が使われ、生糸の輸出は更に増えました。この頃、生糸の価格は最高値をつけています。塩尻地区の桑園面積が最も大きくなったのも大正から昭和の初期でした。明治初期の畑の面積の4倍にもなっています。段々畑を山の急斜面に段々畑つくるばかりでなく、水田を桑畑に転換する所もありました。 ピークは昭和5年です。前年、アメリカに始まった株の大暴落は、瞬く間に世界中に広がり世界恐慌となり、生糸の輸出はストップし、養蚕農家や製糸工場2021-06-29
46蚕種の郷12 先人たち苦闘の印蚕種の郷12 先人たち苦闘の印とはいえ、桑畑を作るには、河原を1.5メートルも掘りあげ、石や礫を出し、竹で作った篩で振るい、大石は畑の周囲に石垣として築き、砂地にするという大変な作業が必要でした。また、段々畑を作るには、石は豊富にあるとはいえ山のがれ場から石を運び、石垣を築き、雑木を取り除き、斜面をならし、畑にしなければなりません。更に、桑の手入れや人糞などの肥料入れ、桑の収穫に何度も険しい山道を上り下りしなければなりません。「塩尻へ嫁に行くか、それとも裸で荊(いばら)を背負うか」ということわざは、厳しい自然環境の中、必死に生き抜いてきた先人の苦闘を教えてくれいるのではないでしょうか。そして、雑木に覆われた段々畑は、苦闘の印です。河原の畑は、洪水を防ぐ連続堤防が築かれ、戦後の土地改良で広い水田に作り変えられ2021-06-25
47蚕種の郷11 先人たちの努力と工夫蚕種の郷11 先人たちの努力と工夫 蚕種は、半紙大の蚕種紙に一粒並べに産卵されたままの状態で販売されました。農閑期になると蚕種業者は、生産した蚕種紙を背負ってお得意先の養蚕農家を回り、前年に渡した種紙の代金を受け取り、翌年用の蚕種紙を渡して周りました。良い繭がたくさん取れれば、その秘訣を聞き、取れなければ飼育方法を指導する蚕種業者は養蚕の優れた技術指導員でもありました。また、塩尻では、養蚕技術の改良や新品種の育成、組合を作って質の悪い蚕種が出回るのを防ぐなど品質向上の取り組みも行われ、蚕種の郷としての評判を支えました。幕末、外国との貿易が始まると塩尻の蚕種は、蚕の病気で養蚕業が全滅の危機に瀕していたイタリアやフランスにも輸出され、1枚3両から4両でいくらでも売れたそうです。 小さくて高価、また高度の技術で製造さ2021-06-25
48蚕種の郷10 蚕種製造に欠かせない歩桑(ぶぐわ)の栽培蚕種の郷10 蚕種製造に欠かせない歩桑(ぶぐわ)の栽培蚕の餌となる桑は、他の樹木と違って、その根を地中深く伸ばします。千曲川の洪水に流されることもなく、急斜面でも地下水を吸収して成長できるので干ばつにも強いのです。また、洪水は上流から肥えた土を供給してくれました。 さらに、岩鼻から吹き出す強風は、蚕の害虫カイコノウジバエの卵を桑の葉からふりおとしてくれます。そのため塩尻地区の河原や扇状地、山の斜面に育つウジバエの卵を産み付けられていない桑「歩桑(ぶぐわ)」は、蚕種製造には、欠かせないものでした。   写真は、バイパスののり面に桑の実を食べた鳥の糞から育った桑の葉2021-06-25
49蚕種の郷9 なぜ、蚕種の郷に?蚕種の郷9 なぜ、蚕種の郷に? 蚕種製造は、蚕が作った繭の殻を破って出たオスとメスの蛾を交配させて、メスの蛾に、厚手の紙(産卵台紙)に卵(蚕種)を産みつけさせます。卵を産み付けられた産卵台紙(種紙)販売するのが蚕種業です。大事なことは、卵から生まれた蚕が病気に強いか、その蚕が吐いた糸の品質が良いかです。塩尻の先人たちが生み出した蚕種は、強健であり、発育が早く桑の食い方も活発で飼いやすく、繭の形もよくそろい、糸量も多いと人気を呼び、蚕種の郷・塩尻の名が全国に知られるようになりました。  こうした品質の良い蚕種が作られるようになったのは、上田地方、とりわけ塩尻が養蚕・蚕種製造に向いた場所だったからです。 写真(「養蚕・製糸」(上田市立博物館)より)は、産卵台紙にメスの蛾が卵を産み付けている様子。白い粒が卵。卵2021-06-25
50蚕種の郷8 養蚕から蚕種製造へ蚕種の郷8 養蚕から蚕種製造へ塩尻では、豊臣秀吉の時代、文禄4年(1595年)の千曲川大洪水で壊滅的な被害を受け、水害に強い桑を植え、養蚕が始まったと伝えられています。江戸時代は、米を年貢として取り立てていたので田に他の作物を作ることは禁止されていましたが、しばしば水害に襲われる河原の畑や急な斜面の段々畑に桑を植え、蚕を飼うことは許されていました。中期には、稲作の合間に始めた養蚕の中でも蚕種製造に力を入れるようになり、後期には本場の奥州(東北地方)を追い越し、日本一の蚕種の生産地となりました。写真は、昭和20年ころ養蚕作業の様子(塩尻地区写真集より)です。養蚕は手がかかる仕事が多く、家族総出で作業しました。学校は、「蚕休み」にして子たちも手伝いました。写真は、蚕が作った繭を前に置かれた藁で作った「まぶし2021-06-25
51蚕種の郷7空前の大洪水 「戌の満水(いぬのまんすい)」蚕種の郷7空前の大洪水 「戌の満水(いぬのまんすい)」図(「上田の水害」上田市立博物館)は、寛保2年(1742)「戌の満水」による上塩尻村の被害状況を描いた絵図です。「戌の満水」では、千曲川の上流から下流まであちこちで大きな被害を受けましたが、千曲川の氾濫で上塩尻ではもともと田だった場所に石や砂が入ってしました。図の手前の灰色部分、今の「しなの鉄道」の線路より南側一帯は、1~2メートルの砂や石に埋もれてしまいました。この図の西に下塩尻が続きますが、村境まで家は流され、石や砂は3メートルにもなり、今の下塩尻の中島は、名の通り微高地になっていましたが、庄屋の家2軒を残して水に漬かったと記録されています。2021-06-25
52蚕種の郷6 「塩尻へ嫁に行くか、それとも裸で荊(いばら)を背負うか」蚕種の郷6 「塩尻へ嫁に行くか、それとも裸で荊(いばら)を背負うか」 昔、塩尻には「塩尻へ嫁に行くか、それとも裸で荊(いばら)を背負うか」ということわざがあったそうです。北に険しい虚空蔵山が聳え、南の千曲川に挟まれたわずかな平地は岩鼻に向かって狭くなっています。さらに堤防のない時代には、千曲川の洪水に度々襲われ、砂地や石がゴロゴロしている河原のような有様になりました。塩尻に嫁げば、裸の背に棘のある荊を背負うような苦労をするだろうと言っているのです。その塩尻の先人たちが、苦難と向き合い、営々と努力、工夫を重ねてきた証がこの河原と山麓に広がる桑畑です。2021-06-25
53蚕種の郷5 段々畑で作られていた作物は?蚕種の郷5 段々畑で作られていた作物は? 上田市誌の近現代編(2)「蚕都上田の栄光」の73Pの「桑園地地図」を見ると明治34年、太郎山山麓の塩尻村、上田町と記された場所は黒く塗りつぶされ、桑園になっていることがわかります。 さらに桑園は千曲川の両岸にも桑園が広がっています。今では見ることがない桑畑が、扇状地や河原、山の斜面に広がっていたのです。2021-06-25
54蚕種の郷4 戦前の写真には蚕種の郷4 戦前の写真には 写真は、「支那事変の戦没者村葬の様子(昭和12.13年)」(塩尻地区写真集)です。会場は今の塩尻小学校の校庭です。背後にみえる山腹には中ほどまで石垣と段々畑が広がっているのがよく分かります2021-06-25
55蚕種の郷3 航空写真に写った段々畑(2)蚕種の郷3 航空写真に写った段々畑(2)画像を拡大すると石垣の黒い線が見えてきますが、ここでは扇状地の部分だけでなく沢に沿って山の上まで白い畑が延び、段々畑になっていることがよく分かります2021-04-24
56蚕種の郷3 航空写真に写った段々畑(1)蚕種の郷3 航空写真に写った段々畑(1) 昭和22年撮影の航空写真(国土地理院)には、今は雑木に覆われている段々畑がはっきりと見えます。北に連なる太郎山山系、南には東西に流れる千曲川、左上から右下に国道18号線、右下が上田市街、中央に秋和の集落、左上に山と国道に挟まれた塩尻の集落が見えます。中央の黒い部分は水田、黒くひだになった山と水田の間の白い部分が畑です。右の大きく張り出した部分は緑が丘で、黄金沢と和合沢の複合扇状地です。山麓を西に向かうと沢の出口に小さな扇状地が並び、秋和の北西にやや大きな扇状地が見えますが、ここが前記の大藏京です。2021-04-24
57蚕種の郷 2 こんなに高いところまで!蚕種の郷 2 こんなに高いところまで!秋和の豊秋霧原野神社(大藏京)から林道を登ると次々に石垣が現れます。中には高さ10メートルを超える石垣もあります。麓から2.2km、200m登った標高650m地点、ヘリポートのある阿弥陀平の辺りまで石垣がつくられています。険しい岩峰(兎峰うさぎみね)の直下から岩がごろごろと転がっているガレ場の下です。   塩尻岩鼻の高圧線の鉄塔が立つ尾根の上には和合城跡があります。下塩尻から急な登山道をのぼり、稜線近くややなだらかになった600m辺りにも立派な石垣が並んでいます。2021-04-24
58蚕種の郷 1 雑木に覆われた石垣 蚕種の郷 1 雑木に覆われた石垣  冬、太郎山の山麓を歩くと葉を落とした木々の間から石垣が見えかくれしています。急な斜面の上部に向って幾段も並んでいます。石垣の高さは2~3m、緩やかな傾斜になっている段の上は広いところもありますが、幅1mぐらいの狭いところもありひな壇の様です。一体、誰が、いつ、何のためにこんな大変なことをしたのでしょうか。2021-04-24
592019西部地域まちあるき:藤本蚕業歴史館2019西部地域まちあるき:藤本蚕業歴史館 2019年6月14日に行われた西部地域まちあるき(上塩尻)では、藤本蚕業歴史館を見学しました。 かつて「蚕都」と呼ばれた上田市の中で、蚕種製造の中心地だった上塩尻。そしてその総元締めであったのがこの藤本工業(藤本蚕種)です。 館内には資料だけではなく当時の備品等も保管されており、タイムスリップが可能であれば蚕種製造をしたいと思いました。2021-01-29
602019西部地域まちあるき:蓬蘆書屋2019西部地域まちあるき:蓬蘆書屋 2019年6月14日に行われた西部地域まちあるき(下塩尻)では、蓬蘆(ほうろ)書屋に伺いました。 個人宅ではありますが、かつては蚕種製造を営んでいたことから家屋の造りが蚕室づくりとなっており、現在の屋敷内はご当主のお仕事の関係から蔵書の海と化しています。 見学中は歴史が流れ込む感覚を味わいました。2021-01-27
61地域の記憶:上塩尻・段々畑の桑園地域の記憶:上塩尻・段々畑の桑園地域のありようは長い間には大きく様変わりします。昔その地域がどうであったのかを確認するにはその当時の資料が欠かせません。人の記憶の中にその様相は残っていても、第三者がそれを確認できるのはデータとして残された何らかの記録です。証言のような言葉(人の記憶)でも補えますが、それを証言してくれる映像なり、道具なり、資料なりがあってその確認ができます。 2019年2月、上塩尻のSさんのお宅を訪問しました。蚕種製造の中心地・上塩尻の古い資料をデジタルアーカイブ化しようというねらいです。 Sさんのお宅にあった一枚の写真に注目。少年たちと大人たちの集合写真です。脱穀作業を共同で行った時の記録と思います。少年たちは国民服を着ています。1940年代前半の撮影ではないかと思われます。その背後に段々畑の桑園2020-12-19
62Excellent上田、上塩尻見学:藤本蚕業歴史館Excellent上田、上塩尻見学:藤本蚕業歴史館2019/10/31、長野大学で私が担当する1年生の課題発見ゼミⅡ「Excellent上田」で、かつて蚕種製造の中心地だった上塩尻を訪れました。最初に訪れたのが藤本蚕業歴史館です。この建物は昭和初期、藤本蚕業の蚕種製造施設として建てられたものです。現在この建物の2階が文書・資料の保管所兼展示スペースとして使われています。 館内には1990年前半の上塩尻集落のミニチュア模型があります。上塩尻を俯瞰するのに役立ちます。 上塩尻の藤本は、代々当主が藤本善右衛門を名乗った蚕種製造家・佐藤本家を引き継いで明治期、企業となります。藤本蚕業歴史館には企業としての藤本蚕業の文書が多数残されているだけでなく、前身の佐藤本家の文書、資料も多数残されています。江戸期の藤本善右衛門保右が著した蚕書『蚕かひの学』の版木が残されて2020-12-19
63JIA長野県クラブの上塩尻見学会JIA長野県クラブの上塩尻見学会2020/7/31、JIA(日本建築家協会)長野県クラブの上塩尻見学会があり、見学会のコーディネーションと当日の案内をさせていただきました。 全国的に見ても稀有な蚕種製造民家群が残る上塩尻はまだ広く知られているに至っておらず、参加者のほとんどにとっても上塩尻を見学するのは初めてのことです。建築家の方々だけあって、蚕種製造民家に対する参加者の方々の関心は高く、建築的に特徴のあるところにはたびたび視点が釘づけになっていました。 コロナ禍の情勢下で見学会を実施することとなり、主催者側では、その状況に対応した配慮もされて見学会と意見交換会がなされました。人と人の間の距離があるため、お互いの声が聴きとりにくい一面がありましたが、その辺はやむを得ません。 意見交換も貴重な機会でした。空家に移り住んでも2020-12-19
64秋和の文庫蔵を訪ねる秋和の文庫蔵を訪ねる2020/2/17、地元の方々と学生と秋和文庫蔵を訪ねました。 秋和は蚕種製造の中心地であった塩尻村の中で、上塩尻、下塩尻と共に蚕種製造が営まれ、蚕都上田の興隆にも大きく貢献した一地域です。そうした近代の地域の背景を知る上でも地元の古い資料は欠かせないものです。 地域の文書保管のための文庫蔵の内部には明治以降の文書が段ボール箱やタンスに入れてしまわれています。具体的にどのような資料が保存されているのか、まだその目録化はされていないとのこと。しかし、これだけしっかりと明治以降の文書が残されていることはかけがえがありません。実に得難いことです。平成のものもあります。 いくつか手にした文書は「明治十八年 祭典諸事記載帳」「明治三十年度 人夫賃金支払帳 塩尻村秋和土木委員」「明治十年第三月 2020-08-25
65モリス先生来訪、古建築をフィートで測るモリス先生来訪、古建築をフィートで測る2018/11/30、千葉大学のマーティン・モリス先生が上田に来訪されました。この日、塩尻地区のある古い民家を地元の方々と見聞しました。モリス先生はイギリス出身ですが、驚くほど日本の伝統建築に詳しく、訪問先の室内を簡易的に測定し、建築上の特徴などからその年代の推定までされていました。 さらに驚いたのはフィートのメジャーで寸法を測り始めたこと。よくよく考えてみればフィートと尺の単位は極めて近似しており、尺のメジャーの代わりにフィートのメジャーを使っているのだとわかりました。なるほど!です。 モリス先生は、長年上塩尻を研究されている東北大学の長谷部弘先生の研究グループでも共同研究をされたことがあり、10年以上前、上塩尻の民家を調査されたことがあります。この日は塩尻地区の何名かの方々とも意見2020-08-25
66<ruby>猫瓦<rt>ねこがわら</rt></ruby>猫瓦ねこがわらかいこべてしまうネズミをけるために上塩尻かみしおじり集落かしゅうらくではよくねこかおかたちをしたかわらられる。ねこからネズミ、ネズミからかいこへとつながるのはとても面白おもしろいとおもう。一見何いっけんなにだろうとおもうものもじつかんがえられていて、なるほどと感心かんしんさせられる。2020-01-10
67蓬蘆書屋の紹介蓬蘆書屋の紹介ここは個人宅で、「蓬蘆書屋」という名前は中国語らしい。この家の家主の方の話によると、明治33年に家主の方の曽祖父が建てたものである。先祖は村上義清の家臣で、村上家が滅びた時に越後に逃れ、江戸初期に戻って農民になったという。江戸末期には福島から上田に移った時に蚕業が盛んであったため、それをやったらとても儲かったという。2020-01-21
68下塩尻公民館下塩尻公民館下塩尻自治会は、蚕飼(こがい)の郷として栄えた北国街道筋にあたり、今も江戸、明治、大正の面影がそこかしこに残る地域です。地区は、山根地区と中島地区に分かれます。山根地区には、飯綱神社の参道、山の中腹には参勤交代でゆかりのある天狗岩、岩鼻のがけ下には向井去来の句碑があります。中島地区では、昔の岩鼻のホタル合戦の復活を目指し、ホタルの里として水辺環境の整備にあたっています。2019-12-20
69上塩尻地区の蚕室建築群上塩尻地区の蚕室建築群上塩尻地区の蚕室建築群模型2019-06-14
70沓掛英人氏宅沓掛英人氏宅25000冊の蔵書がある。歴代先生の家系。家屋は四脚門を持つ蚕室造り。2019-12-04
71智徳山正福寺(ちとくざんしょうふくじ)智徳山正福寺(ちとくざんしょうふくじ)真言宗。本尊は大日如来。742年(天平14)行基上人の開山と伝えられ、1560年(永禄3)当時の八幡社の西側より現在地に移した。1851年(嘉永4)焼失、1873年(明治6)に再建された。境内の観音堂には右手に桑を持ち、左手に蚕を乗せ、桑の葉に繭をつけた冠をかぶっているという大変珍しい姿の仏様が記られている。2019-11-22
72上塩尻の蚕室上塩尻の蚕室蚕種製造のための養蚕施設。下に埋薪(まいしん)と呼ばれる暖房の仕掛けがあるのが特徴。韓国のオンドルに似ています。2019-03-01
73藤本蚕業歴史館藤本蚕業歴史館蚕業の資料などがあり、歴史を学ぶことができます。実際に繭玉に触れることもできます。2018-12-08
74気抜きがある家気抜きがある家上塩尻を散策していると、いくつかこのように屋根のところに気抜きがある家がありました。 これは、蚕を育てるためのもので、今もこのように変わらず残っており、歴史を感じることができました2018-12-08
75小岩井紬工房小岩井紬工房小岩井紬工房の見学に行きました。 養蚕に関する文化や歴史を知ることができる親しみやすい場所でした。 機織りと聞くと、地味だったり、渋いイメージでしたが実際に見ると、カラフルでかわいいものが多く、若い人にも手に取りやすい この青と黄色の着物は、息子さんが織ったもので、このような絶妙な淡い色のバランスを出すのが、すごく難しいようでとても時間がかかったと聞きました。2018-12-08
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