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1養蚕農家の生活10 繭かき・出荷 養蚕農家の生活10 繭かき・出荷  やといの入った各部屋は練炭を入れて暖をとり、繭づくりをさせる。1日たつとヒキは糸をはいて繭の形を作り、3日目には白くなってヒキは見えないようになる。  8日目には「繭かき」(繭の収穫)が始まる。非農家の女衆を3人ぐらい頼んで3日間ぐらいで終わらすのです。繭は20貫(75㎏)もたまればこれを「たて」(繭を入れる袋)に入れ、父は二つの「たて」を天秤で担ぎ、兄は「たて」を背負子でしょって東北(本原)の繭糸(けんし)会社の競(せ)り市(いち)に持って行くのです。私は後について見に行きます。  繭糸(会社)には大勢の人が白い「たて」を持ちよって競りに出す順番を待っています。「ぼて」(大きな竹籠)に繭をあけ、競り台まで運ぶと、係りの男が大きな声で「○○の上等まい」と呼びながら競り台に繭をあけます。する2021-11-15
2養蚕農家の生活6 蚕の成長 養蚕農家の生活6 蚕の成長  蚕の幼虫期間の変態(蚕は4回脱皮を繰り返して大きくなる)は、一齢(れい)一眠(みん)(一れい一みん:脱皮をする前には、動かなくなり、桑を食べなくなる。その時を眠という。)二齢二眠、三齢三眠、四齢四眠、五齢上ぞく(じょうぞく:まゆをつくる)まで春蚕は約1か月かかりました。 親たちは何齢という呼び方はしないで、一齢を「毛児(けご)(けご)」、二齢を「二つ」、三齢を「ふな」、四齢を「ふなおき」、五齢を「庭起き」と言っていました。  毛児というのは卵から出たばかりの黒い毛だらけの蟻のように見えるのでそう言い、また蟻(ぎ)蚕(さん)(ぎさん)などとも言いました。二つというのは二齢だからわかるが、三齢をふなおきと呼ぶのは意味が分かりません。庭起きというのは四齢まで箔飼(はくか)い(かいこあみの上で飼う2021-11-15
3養蚕農家の生活4 桑の手入れ 養蚕農家の生活4 桑の手入れ  4月は春祭りの時期です。桑は昨年の夏蚕用に切られ、15センチほど切り残された桑棒に、切られた後に発芽した細枝をつけてボサボサになっている。この棒を株すれすれに鎌で切除する作業を株直しといいますが、お祭りの前にこの作業を済ませることが我が家の例年の習いでした。越年した桑株はかたくて鎌でそぐのは子供の力では大変でした。鎌はよく切れることが大事で、それにはちょいちょい砥(と)ぐことでした。その砥ぎ方も父から習ったのです。600坪からある桑畑の株直しは我が家にとっては大変な作業で、父母が専門にやるばかりでなく、私たち子供もお祭り前に終わらそうとがんばりました。手の中は血豆がいくつもでき、指の付け根にタコができました。  桑の芽が出る前に全桑園に春肥をやります。それには大豆かすやアンモ2021-11-15
4塩尻小学校郷土資料館6 「蚕都物語」塩尻小学校郷土資料館6 「蚕都物語」塩尻地区には江戸時代後期から養蚕、蚕種製造の先駆者が生まれている。中でも養蚕技術書「新撰養蚕秘書(しんせんようさんひしょ)」を著した塚田与右衛門(つかだようえもん1715―1810)。 新品種「信州かなす」を発見し、「蚕かいの学(かいこかいのまなび)」を著わし、養蚕技術者を育成し、組合を作り品質の向上に尽力した藤本善右衛門縄葛(ふじもとぜんえもんつなね1815-1890)。 「養蚕教弘録(ようさんきょうこうろく)」を著わすとともに、かいこの飼育には湿度の加減が難しいことから乾湿計を考案した清水金左衛門(しみずきんざえもん1823-1888)が知られている。3人は時代が近いばかりでなく、その居宅も、北国街道に沿った100メートル四方内に近接している。 ①「蚕都物語―蚕種家清水金左衛門の遥かな旅路」(しみず たか2021-08-12
5蚕種の郷5 段々畑で作られていた作物は?蚕種の郷5 段々畑で作られていた作物は? 上田市誌の近現代編(2)「蚕都上田の栄光」の73Pの「桑園地地図」を見ると明治34年、太郎山山麓の塩尻村、上田町と記された場所は黒く塗りつぶされ、桑園になっていることがわかります。 さらに桑園は千曲川の両岸にも桑園が広がっています。今では見ることがない桑畑が、扇状地や河原、山の斜面に広がっていたのです。2021-06-25
62019西部地域まちあるき:藤本蚕業歴史館2019西部地域まちあるき:藤本蚕業歴史館 2019年6月14日に行われた西部地域まちあるき(上塩尻)では、藤本蚕業歴史館を見学しました。 かつて「蚕都」と呼ばれた上田市の中で、蚕種製造の中心地だった上塩尻。そしてその総元締めであったのがこの藤本工業(藤本蚕種)です。 館内には資料だけではなく当時の備品等も保管されており、タイムスリップが可能であれば蚕種製造をしたいと思いました。2021-01-29
7秋和の文庫蔵を訪ねる秋和の文庫蔵を訪ねる2020/2/17、地元の方々と学生と秋和文庫蔵を訪ねました。 秋和は蚕種製造の中心地であった塩尻村の中で、上塩尻、下塩尻と共に蚕種製造が営まれ、蚕都上田の興隆にも大きく貢献した一地域です。そうした近代の地域の背景を知る上でも地元の古い資料は欠かせないものです。 地域の文書保管のための文庫蔵の内部には明治以降の文書が段ボール箱やタンスに入れてしまわれています。具体的にどのような資料が保存されているのか、まだその目録化はされていないとのこと。しかし、これだけしっかりと明治以降の文書が残されていることはかけがえがありません。実に得難いことです。平成のものもあります。 いくつか手にした文書は「明治十八年 祭典諸事記載帳」「明治三十年度 人夫賃金支払帳 塩尻村秋和土木委員」「明治十年第三月 2020-08-25
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