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1デジタルアーカイブの作業様子デジタルアーカイブの作業様子今回、10月20日(水)から10月29日(金)のうちの5日間にかけて、塩尻小学校の郷土資料館にて、デジタルアーカイブの撮影が行われ、そのお手伝いをさせていただきました。ただ撮影をするだけでなく、道具を撮影するためのスタジオのような場所を作るなどの工夫を行いながら撮影が行われ、そういった道具や資料などの実物をデジタル化するにあたってのやり方を学ぶことが出来ました。2021-12-08
2養蚕農家の生活12 手伝いを通して一人前に 養蚕農家の生活12 手伝いを通して一人前に この桑しょいというのが、自分の力がどれだけあるようになったかを知るバロメーターでした。去年は一わだったのに、今年は二わしょえるようになった。早く兄や父と同じくらいしょえるようになりたいものだと思ったものです。  桑束三ばをしょえるようになったのは、6年生の夏蚕の時でした。今日こそはと桑束をしばる「すがい」を三つ持って山の畑に行きました。父と同じくらいの束三ばを作り、背負子につけました。つけ終わったときは、皆帰りかけており、私が一人残りました。腰を下ろして背負子に肩を入れ、さて力を入れて立とうとしましたが立てません。前の桑株にすがったり、あっちこっちとずって歩きようやく足をぶるぶるさせて立ち上がりました。嫌な坂道も注意して下り、石垣の上の細道も気を張って過ぎ、途中の休み場も下2021-11-15
3養蚕農家の生活9 ヒキ拾い養蚕農家の生活9 ヒキ拾い 庭起き1週間をこえるころになると、蚕は太ぶとと大きくなり、急に桑を食わなくなります。そして首のあたりからあめ色に透きはじめ、首を上に伸ばして何かを探すようにうごめきはじめます。この状態を「ヒキた」と言い、一刻の猶予もできません。まごまごしていると蚕座に糸をかけ始めるからです。このような状況は、親たちは長年の経験で、隣近所で蚕の進んでいる家、遅れている家があり、そう忙しくない家等「えいっこ」(手伝いのしあい)できる家にお願いしておいて、互いに手伝いっこするのです。  朝早くから箔や蚕巣を庭に運び出して「ヒキ拾い」(蚕を蚕巣にいれてやる)の用意をしていると、お手伝いの人が4.5人来てくれて、一番進んでいる前の蚕室からヒキ拾いを始めます。拾うのは手の早い女衆、蚕を箔に撒いて蚕巣を立2021-11-15
4養蚕農家の生活8 桑取り養蚕農家の生活8 桑取り 春蚕用の桑畑は私の家の近くにありましたので、桑切はそうたいへんではありません。切り取ったところから畝間(うねま)をかきあげしては株直しをしました。  蚕飼いが始まると、村の中は急に桑取に出かけるおばあさんたちの往来が繁くなり、そこらで立ち話をする風景が目につき、その言葉の中に「お家のお蚕様は」とか「おら家のしょうは」と蚕に敬語をつける話がよく聞かれます。また、それほどにありがたい虫であり、また、この虫の成長いかんで家の経済が左右されるとなると飼い主の責任は大変に重く、その技術の難しさもあるわけで、毎日のように養蚕教師が一軒ごと巡回指導して歩きましたが、飼主は心配で、よその家の様子と我が家の様子を比べたくなるのです。そして、少しでも我が家の良さを知りたいのです。        2021-11-15
5養蚕農家の生活7 蚕の世話養蚕農家の生活7 蚕の世話 桑をくれるのは1日に大ぐれは3回ですが、群れ直しで少しはくれるので5回ぐらいになったでしょうか。稚蚕の時は、割に湿気に強いのでトタン箱内で飼い、桑葉のしなびるのを防ぎましたが、大きくなると冷湿をきらうなどといい、蚕座(さんざ)(さんざ:食い残りのかす)が厚くなると蒸れる危険があるので、蚕(こ)尻(じり)(こじり:蚕の糞)取りも三齢、四齢にはちょいちょいやりました。その際、よく見ないと蚕をうっかり捨てることになりました。  庭起きになり蚕を下に放すときは、畳の間は全部畳を片付け、座敷、茶の間、勝手土間…軒下、蚕室、裏の物置と人間が寝る部屋とお勝手を残し、全部が蚕の放し飼いに使われたのです。床上にもみ殻をまき、その上に石灰をまいて蚕箔上の縄網(なわあみ)(蚕の上に網をかけ、その上に桑を乗せる2021-11-15
6養蚕農家の生活3 養蚕の準備養蚕農家の生活3 養蚕の準備 養蚕は暖かい時期に蚕を飼うことばかりでなく、その用意は冬のうちから始まりました。3月、寒いながら日も長くなりだすと父は蚕(こ)巣(す)(こす:蚕が繭を作るときにワラで編んだ巣に入れる)折りを始めました。昨年の秋の終りに田んぼのワラは全部家の裏に積み上げてあり、これを崩してワラすぐりをした一つかみのワラを簡単な箱型の器具にのせて、二本の鉄棒とばねの力で作ります。1個を作る所要時間は2分ぐらい、一時間に30個、1日に100個も作ればもうたくさんになってしまっただろうと思います。  蚕巣1個が蚕(さん)箔(ぱく)(さんぱく:1畳ほどの竹籠に敷く紙。その上で蚕を飼う)1枚用で、我が家では春蚕に350個、夏蚕に450個、残りを秋蚕、晩秋用にするので1000個の蚕巣が必要で、この蚕巣を折る作業は2021-11-15
7塩尻小学校郷土資料館7 蚕種家「佐藤尾之七邸宅」の今塩尻小学校郷土資料館7 蚕種家「佐藤尾之七邸宅」の今 写真は、資料館に版画があった蚕種家「佐藤尾之七邸宅」の今である。住む人なく閉められた門の脇に、蚕種家の屋敷だったことを紹介する説明文が掲げてある。往時の活気はうかがうべくもないが、一時代を築いた風格が漂い、「蚕種の郷」独特の景観を伝えている。1912(大正元)年の長野県の調査では、塩尻村(上塩尻、下塩尻、秋和)で県税を納めている戸数は566戸、うち蚕種製造戸数は、136戸で23.3%を占めていた。版画は当時の盛況ぶりを想像する手がかりとなっている。 今、塩尻地区でも朽ちるにまかされた蚕室や現代的な住宅に建て替わる古民家が少なくない。「気抜き」のある建物が狭い小路をはさんで軒を連ねる「蚕種の郷」の景観も雑木に覆われた段々畑同様に消えゆく時が迫ってはいないか。失ったら取り戻すことでき2021-08-12
8塩尻小学校郷土資料館6 「蚕都物語」塩尻小学校郷土資料館6 「蚕都物語」塩尻地区には江戸時代後期から養蚕、蚕種製造の先駆者が生まれている。中でも養蚕技術書「新撰養蚕秘書(しんせんようさんひしょ)」を著した塚田与右衛門(つかだようえもん1715―1810)。 新品種「信州かなす」を発見し、「蚕かいの学(かいこかいのまなび)」を著わし、養蚕技術者を育成し、組合を作り品質の向上に尽力した藤本善右衛門縄葛(ふじもとぜんえもんつなね1815-1890)。 「養蚕教弘録(ようさんきょうこうろく)」を著わすとともに、かいこの飼育には湿度の加減が難しいことから乾湿計を考案した清水金左衛門(しみずきんざえもん1823-1888)が知られている。3人は時代が近いばかりでなく、その居宅も、北国街道に沿った100メートル四方内に近接している。 ①「蚕都物語―蚕種家清水金左衛門の遥かな旅路」(しみず たか2021-08-12
9塩尻小学校郷土資料館5 蚕種家の居宅塩尻小学校郷土資料館5 蚕種家の居宅①版画「佐藤尾之七邸宅」:蚕種を製造販売する蚕種家(たねや)の居宅を描いた版画1896(明治29)年。 練り塀に囲まれた広い敷地の中に幾つもの建物がある。中央の母屋は、平屋だが大きなかやぶきで、座敷で主人が来客と話をしている。右手に続く2階建てかわらぶきの建物の窓には家人か使用人が見え、居室や事務所か。建物の壁が右側の塀とつながり、大きな門に続く。門を入ると左手には2階建てかわらぶきの蚕室が見える。蚕室の中には蚕棚が重なり、内外で数人が立ち働いている。蚕室の屋根には換気用の煙だしの「気抜き」の小屋根がついている。門の右手の小ぶりの2階建ては、雇人の部屋か。中央の広庭は、作業場になっており数人が働いている。母屋の左、左右を2階建ての練り壁の蔵と奥の塀で囲まれた一画は、庭木の植えられた庭園の2021-08-12
10塩尻小学校郷土資料館4 蚕種販売(2)塩尻小学校郷土資料館4 蚕種販売(2)②印刷原版、北塩尻駅開業、発送箱:種紙を保管にした袋の表には、「うまく」育つようにと馬の絵が画かれている。明治中期までは種紙を入れた種箱を背負いそれぞれの得意先「種場」を行商していたが、信越線が開通すると上田駅や坂城駅を利用するようになった。大正9年には地元の寄付金で北塩尻駅(現西上田駅)ができ、桑や種繭、蚕種の輸送に貢献した。また、発送箱に入れ郵送で送られる蚕種も多くなった。2021-08-12
11塩尻小学校郷土資料館4 蚕種販売(1)塩尻小学校郷土資料館4 蚕種販売(1)①蚕種製造鑑札:蚕種の品質を保証するために江戸時代に上田藩から規則を守り、鑑札を持って商いをするように命令が出ている。明治になり蚕種が高値で輸出されるようになると、粗悪品も出回るようになり、製造、販売には免許鑑札が必要になった。2021-08-12
12塩尻小学校郷土資料館3 蚕種製造道具塩尻小学校郷土資料館3 蚕種製造道具①平付枠板、枠板、種紙、たねの黒枠:蚕種は、繭を出荷しないで、マユの殻を破りう化したオスとメスのガを交尾させ、種紙に卵(1匹が500個ほど)を産み付けさせる。明治の中ごろまでは「平づけ」といって半紙大の種紙に80匹ほどのガをはなって自由に産卵させた(1枚に4万個ほど)。明治の中ごろから微粒子病の予防のため、産卵した母ガがわかるように台紙に数字を入れた28のわくを作、一匹ずつわくの中で産卵させる。産卵を終えた母ガを検査し、病気が見つかれば、その数字の蚕種だけ交換する「わくづけ」が広まった。昭和に入ると産卵の終わった台紙を水に浸し、はがれ落ちた卵を乾燥して容器容れて出荷する「バラ蚕種」という製造法も生まれた。 ②自動鑑別機、雌雄分離機:大正期になると中国やヨーロッパのカイコとかけあわせて両2021-08-12
13塩尻小学校郷土資料館2 養蚕道具(2)塩尻小学校郷土資料館2 養蚕道具(2)蚕の飼育にかかわる道具 ①さいせい機:カイコは春になり、暖かくなるとふ化する。風穴などを使い低温で保存しておいた種(卵)を、催青機で摂氏25℃に保ってやると11日目には殻を破ってふ化する。 ②はきたて羽、はきたてばし:ふ化したばかりの幼虫の体長は3㎜ほど。これを鳥の羽で竹を編んだかごに移すことを「はきたて」という。 ③かいこあみ、きゅうそう台、おき棚:カイコは、畳1畳ほどのかいこあみの上でクワを食べて約4週間かけて大きくなる。その間に4回脱皮する。かいこあみは、世話をするとき以外は10段ほどのおき棚に納めておく。 ④こすおり機、回転ぞく、けばとり機:4回脱皮してから8日程でクワを食べなくなったカイコは、マユを作らせるために「個室」(ぞく)に入れる。昔はワラを使い、こすおり機で作っていたが、戦2021-08-12
14塩尻小学校郷土資料館2 養蚕道具(1)塩尻小学校郷土資料館2 養蚕道具(1)カイコの飼料となるクワの収穫にかかわる道具 ①くわこき、くわつめ、くわつみかご:クワの葉をつみ、運んでくる。 ②くわきりがま、くわこき機:クワを枝ごと切ってきて、葉を一度につむ。 ③くわきりほうちょう、くわきり器:カイコが小さいうちは、クワの葉を刻んで与える。2021-08-12
15塩尻小学校郷土資料館1 郷土資料館はタイムカプセル塩尻小学校郷土資料館1 郷土資料館はタイムカプセル 塩尻小学校郷土資料館は、1961(昭和36)年、PTAや地元自治会の協力で各家庭から寄付された農具、養蚕道具、製糸道具、織機、衣料日用品、昔の旅の服装用具、昔の新聞、雑誌、書籍、楽器、写真、古文書、土器や石器など約280点を空き教室に展示して始まった。その後、周年記念事業等で整備充実が図られ、1995(平成7)年には校舎改築にあわせて独立した郷土資料館が完成した。塩尻地区が「蚕種の郷」だったことから、他に見られない蚕種製造にかかわる貴重な資料が集められていている。展示品の中から蚕種製造にかかわる資料(太字で表記)を紹介する。写真は、塩尻小学校郷土資料館。右は桑の木。2021-08-12
162019西部地域まちあるき:藤本蚕業歴史館2019西部地域まちあるき:藤本蚕業歴史館 2019年6月14日に行われた西部地域まちあるき(上塩尻)では、藤本蚕業歴史館を見学しました。 かつて「蚕都」と呼ばれた上田市の中で、蚕種製造の中心地だった上塩尻。そしてその総元締めであったのがこの藤本工業(藤本蚕種)です。 館内には資料だけではなく当時の備品等も保管されており、タイムスリップが可能であれば蚕種製造をしたいと思いました。2021-01-29
17地域の記憶:上塩尻・段々畑の桑園地域の記憶:上塩尻・段々畑の桑園地域のありようは長い間には大きく様変わりします。昔その地域がどうであったのかを確認するにはその当時の資料が欠かせません。人の記憶の中にその様相は残っていても、第三者がそれを確認できるのはデータとして残された何らかの記録です。証言のような言葉(人の記憶)でも補えますが、それを証言してくれる映像なり、道具なり、資料なりがあってその確認ができます。 2019年2月、上塩尻のSさんのお宅を訪問しました。蚕種製造の中心地・上塩尻の古い資料をデジタルアーカイブ化しようというねらいです。 Sさんのお宅にあった一枚の写真に注目。少年たちと大人たちの集合写真です。脱穀作業を共同で行った時の記録と思います。少年たちは国民服を着ています。1940年代前半の撮影ではないかと思われます。その背後に段々畑の桑園2020-12-19
18Excellent上田、上塩尻見学:藤本蚕業歴史館Excellent上田、上塩尻見学:藤本蚕業歴史館2019/10/31、長野大学で私が担当する1年生の課題発見ゼミⅡ「Excellent上田」で、かつて蚕種製造の中心地だった上塩尻を訪れました。最初に訪れたのが藤本蚕業歴史館です。この建物は昭和初期、藤本蚕業の蚕種製造施設として建てられたものです。現在この建物の2階が文書・資料の保管所兼展示スペースとして使われています。 館内には1990年前半の上塩尻集落のミニチュア模型があります。上塩尻を俯瞰するのに役立ちます。 上塩尻の藤本は、代々当主が藤本善右衛門を名乗った蚕種製造家・佐藤本家を引き継いで明治期、企業となります。藤本蚕業歴史館には企業としての藤本蚕業の文書が多数残されているだけでなく、前身の佐藤本家の文書、資料も多数残されています。江戸期の藤本善右衛門保右が著した蚕書『蚕かひの学』の版木が残されて2020-12-19
19秋和の文庫蔵を訪ねる秋和の文庫蔵を訪ねる2020/2/17、地元の方々と学生と秋和文庫蔵を訪ねました。 秋和は蚕種製造の中心地であった塩尻村の中で、上塩尻、下塩尻と共に蚕種製造が営まれ、蚕都上田の興隆にも大きく貢献した一地域です。そうした近代の地域の背景を知る上でも地元の古い資料は欠かせないものです。 地域の文書保管のための文庫蔵の内部には明治以降の文書が段ボール箱やタンスに入れてしまわれています。具体的にどのような資料が保存されているのか、まだその目録化はされていないとのこと。しかし、これだけしっかりと明治以降の文書が残されていることはかけがえがありません。実に得難いことです。平成のものもあります。 いくつか手にした文書は「明治十八年 祭典諸事記載帳」「明治三十年度 人夫賃金支払帳 塩尻村秋和土木委員」「明治十年第三月 2020-08-25
20上塩尻文書/142-33上塩尻区雑書綴(1939)上塩尻文書/142-33上塩尻区雑書綴(1939)下の画像を選択すると文書(PDF形式)を表示できます。 【大分類】町村自治 【小分類】区会活動 【整理番号】142-33 【資料名】上塩尻区雑記帳 【発信者】上塩尻区 【年代】1939年(昭和14年) 【形態】綴 【数量】12020-08-17
21上塩尻文書/142-34上塩尻区協議会記録(1939)上塩尻文書/142-34上塩尻区協議会記録(1939)下の画像を選択すると文書(PDF形式)を表示できます。 【大分類】町村自治 【小分類】区会活動 【整理番号】142-34 【資料名】上塩尻区協議会記録 【発信者】上塩尻区 【年代】1941~1947年(昭和16~22年) 【形態】 【数量】12020-08-17
22上塩尻文書/144-11上塩尻堤防請負申合規約(1912)上塩尻文書/144-11上塩尻堤防請負申合規約(1912)下の画像を選択すると文書(PDF形式)を表示できます。 【大分類】町村自治 【小分類】防災 治水 【整理番号】144-11 【資料名】上塩尻堤防請負申合規約 【発信者】上塩尻区 【年代】1912年(明治45年) 【形態】綴 【数量】12020-08-17
23上塩尻文書/144-12飯島欠口堤防災害復旧関係書(1914)上塩尻文書/144-12飯島欠口堤防災害復旧関係書(1914)下の画像を選択すると文書(PDF形式)を表示できます。 【大分類】町村自治 【小分類】防災 治水 【整理番号】144-12 【資料名】飯島欠口堤防災害復旧関係書 【発信者】 【年代】1914年(大正3年) 【形態】綴 【数量】12020-08-17
24上塩尻文書/144-13飯島大花堤防図面(1914?)上塩尻文書/144-13飯島大花堤防図面(1914?)下の画像を選択すると文書(PDF形式)を表示できます。 【大分類】町村自治 【小分類】防災 治水 【整理番号】144-13 【資料名】飯島大花堤防図面 【発信者】 【年代】1914年(大正3年)? 【形態】 【数量】32020-08-16
25藤本蚕業歴史館藤本蚕業歴史館蚕業の資料などがあり、歴史を学ぶことができます。実際に繭玉に触れることもできます。2018-12-08
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