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登録リスト(該当:19件)
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1
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写真
タイトル
説明
登録日
1
2023/6/2 常磐町洪水予防対応
令和5年、6月2日 台風2号と線状降水帯による豪雨が予報された。 常磐町では、2010年8月2日、集中豪雨(時間最大雨量56㎜、累計82㎜)よって用水路を溢れた水は、道路を場所によっては60センチという深さで流れ、床上、床下浸水50戸超という洪水被害をもたらしたこともあり、以下のように洪水予防対応をした。 タイムライン 6/1 17:33 市:大雨への備えをお願いします。 6/2 6:00 →朝から雨。町内見回り、水門3か所開ける。 9:10 市: 長野気象台発表 「大雨警報・雷注意報・洪水注意報、土砂災害(レベル3)洪水(レベル2)」 →次第に雨強くなる。町内見回り、小水門2か所開ける。 13:20 →大雨警報の発表の可能性強くなる。西小南の矢出沢川への水門が開放を確認。 13:58 市
2023-06-05
2
還暦を迎えた常磐町④どんど焼き
常磐町のどんど焼きは、自治会誕生から17年目の昭和54(1979)年、道路が舗装され、側溝が整備され、街灯がつくなど環境整備が終わり、ママさんバレーボールチームが誕生し、第1回の文化祭が始まったころでした。子どもたちの願いが大人に、そして、自治会に伝わり何とかしてやろうと始まったそうです。それから48回、場所は変わりながらも一度も休むことなく、続いてきました。 材料の調達、やぐらの立て方などは、子どものころのふるさとでの経験を思い出し、知恵を出し合いながら進めたそうです。今日にいたるまで、世代を超えて伝えられてきました。そして、今後も伝えられていくことでしょう。
2023-01-10
3
蚕種の郷の石垣の多様性
蚕種の郷の石垣は、北国街道沿いの家や蔵の土台や道路、神社に続く階段、水路の壁、石碑、太郎山山系麓の段々畑から、それを保守する長く続く石壁等、沢山の遺構として残っています。 今、温暖化により、草木が生い茂り、コロナ社会で人々も手入れで入ることもほとんど無くなり、奥の方は、中々見えにくくなりました。しかしながら、よく目を凝らしてみてみると、里山の周辺の物は、観察することができます。 北国街道沿いのものは、江戸時代に遡るとか。加賀の殿様の通る道でしたから、落ちてこないように住民たちは、苦心して労力を注いだ事が伺えます。段々畑のそれは、当時の蚕種を支える大切な桑を作り、運ぶ重要な物でした。 また、坐摩神社は、その産業の発展を祈願したり、住民の色々な祈願の大切なところでした。
2022-12-04
4
下塩尻 桜づつみホタル水路への桜並木
下塩尻に桜づつみホタル水路があります。 そこへと続く堤防道路に桜並木が続いています。 春の季節になるとお弁当を持ってきて楽しんでいるかたもいらっしゃいます。
2022-05-12
5
〈秋和〉不思議な街並み 1
秋和集落は、旧北国街道に沿って東西1kmほどの街村を形成している。昭和16年に国道が集落の南にできたため、道幅狭く、通過車両少なく、道路に沿って水路のある街道の面影が残っている。道の両側には戦前まで蚕種製造を生業としてきた気抜きのある民家も多かったが、近年は、改築する家が増え、独特の景観も失われつつある。昔の景観を思い出しながら街並みを歩くと、不思議な点に気づいた。 写真は、西から東を望む。右手の建物は、街道の面影を残す旧中島銀行。左手は、改築された家々
2022-03-23
6
イノシシコースの秘密(ひみつ)
みんなが歩いてきたイノシシコースは「死人郷路(しびとごうろ)」という名前がついています。 これは大昔の戦争、上田原の合戦(うえだはらのかっせん)で亡(な)くなった人たちの骨が、明治の人が井戸を掘(ほ)ったときに沢山(たくさん)でてきたことからこのような名前が付けられました。 また、郷路というのは石が「ごろごろ」している「道路」という意味が込められています。 もしかしたら、今でも土を掘ったら骸骨(がいこつ)が出てくるかもしれません・・・
2021-04-15
7
思わぬ洪水2「ちょっと降ると水害でした」(常磐町30周年誌より)
昭和39年8月の集中豪雨では、2時間ばかりの間に合計105.4mmの降水量があり、常磐町一帯に浸水被害を受けたことは、古くからの住人の脳裡に刻まれています。 常磐町ができたころの様子が30周年誌に載っています。「以前はよく水害がありました。ちょっと降ると水害でした。団地の中を流れる田用水が氾濫するのです」。その理由について「この団地は緑ヶ丘地区に比べるとずいぶん低いんですね。極端ないい方をすると『なべ』の底みたいにこの辺が一番低い。中でも西団地は特に低い。山に近いから西のほうが高いと思っていたんですが、川が山の方角へ向かって流れるわけだから山ぎわのほうが低い」と語っています。写真は、常磐団地ができたばかりの頃の様子です。東側は緑ヶ丘まで一面の水田です。道路も水路も舗装されていません。
2021-01-23
8
思わぬ洪水1「あっという間に道路が川に」
思わぬ洪水 「あっという間に道路が川に」 平成22年(2010年)8月2日午後7時ころから降り出した雨は、午後8時半ころから集中豪雨になりました。道路はあっという間に川となり、水路に沿った家や水路がぶつかる家に流れ込み、常磐町では床上・床下浸水合わせて50棟を超える被害が発生しました。常磐町が発足して間もない昭和39年(1964年)以来の浸水被害でした。昔を知らない若い住人には、千曲川の氾濫原より高い段丘の上にあり、段丘面を深く削って流れる矢出沢川より太郎山側に数百メートル離れた常磐町が水に浸かるとは思いもよらないことでした。
2021-01-23
9
西部地区探検隊[不思議な水路11]
写真(国土地理院所蔵)は昭和22年、当時の占領軍が空中撮影したものです。西部地区の東側の扇状地(緑ヶ丘)や太郎山のすそは白っぽい色をしていて、畑作地帯です。南側を国道と北国街道が東西に走っていて、北国街道に沿って家が並んでいます。間の濃い灰色の部分、現在の常磐町と城北は、あたり一面の水田地帯です。碁盤の目のように道路が走っている(条里遺構)様子がよくわかります。道路にそって、用水路も走っています。右下に西小学校が見えます。郵便局や裁判所のあるあたりも水田になっていたことがわかります。国道の南側を矢出沢が流れ、左下で千曲川に注いでいます。右下は上田市街地です。
2021-01-12
10
旧北国街道(下紺屋町·鎌原·西脇·新町)
旧北国街道の道の写真です。新町ら辺からは少しずつカーブもあり完全な直線ではないですが、二の丸通りから入ってしばらくはきれいな直線となっています。
2020-10-22
11
西部地区探検隊[不思議な水路 1]
1 西小学校の東側道路に沿って水路があります。この水路の中にはコンクリートの仕切りがあって2本に分かれています。7月末、雨の後、歩道側の水路は学校に向かって水が流れていますが、道路側の水路には水がほとんど流れていません。なぜ2本に分かれているのでしょうか。
2020-09-02
12
西部地区探検隊[不思議な水路 9]
9 水路を見かけたら、どこから来て、どこへ流れていくか、水門はどこにあるか、どのように利用しているか探検してみてください。ふたをして道路を広げたり、トンネルで地下を通したりして見えなくなっているところもありますが必ずどこかへつながっています。(西小の地下を通る水路の取り入れ口)
2020-08-29
13
西部地区探検隊[不思議な水路 8]
4月下旬、田植えの前に水門が閉められ、右側用水路は満々と水をたたえ、太郎山に向かって流れていきます。 医療センターに向かう道路の一つ手前の交差点付近で水路は西に曲がり、網の目のように水田を潤し、水田から流れ出た水や沢水、雨水を集めながら西に流れます。東西に流れる水路も生塚で支流を北に向けて分けた後秋和の街道沿い流れ、上塩尻の入り口で山沿いを流れてきた用水路と一緒になり最後は、岩鼻手前で千曲川に流れ込みます
2020-08-28
14
西部地区探検隊[不思議な水路 6]
6 なぜ、そんな面倒なことをしているのか。実は、西小学校の東側の道路から西は秋和まで、矢出沢川から北の太郎山の麓までの平地には、古代(平安時代頃)から水田が開かれていました。今は、秋和のあたりにしか水田は残っていませんが、東西南北に等間隔に並ぶ道路やあぜ道は条里制の名残です。 山からの沢水や湧水を利用して水田がひらかれましたが、水田が広がると水が不足し江戸時代の初期の頃より矢出沢川の水を引いて使うようになりました。
2020-08-26
15
西部地区探検隊[不思議な水路 5]
5 西小学校の脇の水門に戻ります。八幡橋の下で取り入れられた用水はここでそのまま西、秋和方面に流れる用水と、太郎山から道路側の水路に流れ込む水に分かれます。矢出沢川に水を落としている水門を閉めたらどうなるでしょうか。まさか太郎山に向かって流れていく?そう、そのまさかです。8月上旬の雨の少ない時期、道路側の水路は山に向かって流れていました。 水路の高低差はほとんどないため、歩道側の水路は山からの流れる勢いで矢出沢川に、道路側の水路は矢出沢川から取り入れる用水の勢いで山に向かって流れているのです。
2020-08-26
16
西部地区探検隊[不思議な水路 3]
3 一方道路側の右水路には、矢出沢に沿って東側から流れてきた水路から大量の水が流れ込み、開いている水門から矢出沢川に流れ落ちています。太郎山から矢出沢川に向かって南北に走る2本の水路の上を立体交差して東西にもう一本の水路がとうとうと水をたたえて流れています。
2020-08-26
17
大々神楽(だいだいかぐら)
「1864年(文久4年)に神楽の諸道具が破損して再興のために村で賛助金を募り3両3分1朱のお金が集まり、新しい道具を作り八幡(やわた)の八幡(はちまん)宮様に奉納した」と古文書に記録されています。戦中、戦後には神楽の舞は中断していましたが昭和43年から保存会が結成され、地区の行事に披露したり、橋の渡り初めや道路の開通式に出演しています。 出典:「上田 しおじり」
2020-01-10
18
大日如来
天満天神宮の南の堤防道路沿いにある大日如来の石碑。このあたり一帯のことをは「大日」と地元の人は読んでいる。この石碑の前の千曲川は昔、大きなワンドになっており、そこで、子どもたちが泳いだという話も伝わる。
2019-12-20
19
北向観音道標 (きたむきかんのんみちしるべ)
1895年(明治28年)に上田橋が完成するまで 上田と別所温泉、あるいは中南信を結ぶ道路(松本街道)はここだけで 茶屋や商店が並び人々が往来して賑わっていた。 古くから重要な道路として利用されていた。
2020-01-10
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