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1「蚕種の郷」座摩(ざますり)神社の祭礼  8「蚕種の郷」座摩(ざますり)神社の祭礼 8祭礼を執り行った宮司さんや役員の方は、「養蚕・蚕種業を生業とする人々の精神的な支えとなってきたこの神社や祭典のことを地域の人に忘れて欲しくない、地域の宝として守っていきたい。コロナ感染が収束したら、地域の皆さんが共に参加できる祭典をしたい」と思いを語ってくれました。土俵は、写真中央の二本の木の間あたりに作られていた。2022-05-03
2「蚕種の郷」座摩(ざますり)神社の祭礼 7「蚕種の郷」座摩(ざますり)神社の祭礼 7高遠直一さんの覚書から 「養蚕の衰退とともに」 『時代の変遷とはいえ、これらの祭礼もいつか行われなくなり、その後は宵祭りなどに学校の体育館での映画会、塩尻自治会経営の託児所の庭の仮設舞台での、素人演芸会や奉納踊、また本祭当日神社境内での坂城町長生楼芸妓の手踊りや、青年相撲などが行われたこともあったが、これらもだんだん時代の流れに流されて今日に至ってしまった。』 写真の土俵には、四本柱がない。服装から見ると戦後か。相撲を取っているのは子供たちのようである。養蚕が次第に下火になり、養蚕に関わる人も少なくなり、「蚕影様」の祭典が、村祭りのようになってきたか。2022-05-03
3「蚕種の郷」座摩(ざますり)神社の祭礼 3「蚕種の郷」座摩(ざますり)神社の祭礼 3座摩神社の祭礼について、明治生まれの高遠直一さんは覚書(昭和53年)でこう書いています。 『八十八夜のお祭りの当日は午前中「お舟の練り」が村内を練りまわり、辻々にて信者に繭玉、養蚕道具などの縁起物を授与し、午後は各地よりはせ参ぜる力士多数、村内抜群の力士を中心に、境内相撲場、土俵上にて奉納大相撲が挙行された。この祭りのために村内各家には親類、縁者、蚕種屋のお得意様など多数の来客あり、あげて参拝する習慣であった。』  祭礼の準備は、上塩尻の18歳から30歳までの男子全員「若い衆仲間」が、祭典余興、繭玉練り、相撲などの係りを分担して準備にあたった。写真は、新屋を出発するお練りのお舟。(大正11年)「塩尻地区写真集」より2022-05-03
4「蚕種の郷」座摩(ざますり)神社の祭礼 2「蚕種の郷」座摩(ざますり)神社の祭礼 2座摩神社の由来は、奈良時代、元正天皇の養老元(717)年、虚空蔵山の山頂に「保食神(うけもちのかみ:食物養蚕の神)」を祀り、養蚕の守護を祈ったことに始まったと伝承されています。江戸時代の寛文2(1662)年、この地に里宮を遷され、文久9(1819)年、正一位座摩神社蚕養國大神の社号を受けて現社殿が建築され、明治29(1896)年に修復、背後の大石積が施され現在に至っています。2022-05-03
5「蚕種の郷」座摩(ざますり)神社の祭礼 1「蚕種の郷」座摩(ざますり)神社の祭礼 15月3日、上塩尻の #座摩神社 の祭礼が行われました。今年は、コロナ感染のため3年ぶり、神職と役員のみでひっそりと拝礼するだけでした。しかし、昭和の半ばまでは、座摩神社の祭礼といえば、「 #蚕影様 (こかげさん:蚕の神様)のお祭」として、上田・小県はもちろんのこと、遠くは水内、高井郡をはじめとして、佐久、北上州まで鳴り響いていたそうです。  江戸時代の半ばから昭和の初期まで養蚕は、国や地域の経済、農家の生活を支える重要な仕事でした。しかし、飼育技術が確立するまでは当たり外れが大きく、運に任せることが大きい仕事でした。上塩尻は、優良な蚕種を作るともに、飼育技術の改良・普及に努め、生産量ばかりでなく、品質の面からも日本一の「 #蚕種の郷 」と言われていました。その上塩尻の「蚕影様」の祭典は、八2022-05-03
6だんだんばたけの石垣だんだんばたけの石垣花桃イベントでイノシシコースを歩いてきました。ところどころに石垣があります。その昔、この斜面一帯が桑園(そうえん)でした。石垣はその跡。これだけていねいに石を積んで斜面の土がくずれないようにしていたのですね!2022-05-01
7蚕種製造民家群3 現存する蚕種製造民家蚕種製造民家群3 現存する蚕種製造民家上塩尻の養蚕家屋については、1989~92(平成元~4)年に工学院大学の研究チームが大規模な調査を行い23軒が調査対象となっている。また、平成14年に近代化遺産活用計画策定のための地域調査チームによる現地調査では、気抜きのない養蚕家屋も入れて37軒を対象にしている。 現在、気抜きの備わる蚕室を持つ民家は19軒、他に気抜きはないが、喚起のため窓を大きくして蚕室として使われていた家屋が数軒、近年、取り壊されたり、建て替えられたりした家屋が10軒弱あるが、狭い北国街道や小路に面しているため、工事が難しいこともあり、内部を改修するなど手を入れ、現在も住居として使われている家屋が少なくない。  写真は、緑点は蚕種製造民家、改築されたが景観に配慮して気抜き施した家屋もある。赤点は、平成14年の調2022-04-03
8上塩尻蚕種製造民家群2 蚕種製造の中心地:上塩尻「大村」の景観上塩尻蚕種製造民家群2 蚕種製造の中心地:上塩尻「大村」の景観蚕種製造の中心地上塩尻「大村」は、扇状地の斜面の50000㎡ほどの狭い土地に100戸ほどの民家が集中し、その半数以上が養蚕をし、蚕種製造を営む集落だった。 門構え、土塀、気抜き屋根を持つ白壁の総二階の蚕室を持つ江戸から明治にかけて建築された大きな蚕種製造民家が、狭い小路を挟んで立ち並ぶ景観は、他に例を見ない。写真は、 気抜きの屋根の並ぶ蚕種製造民家群を裏山から撮ったもの。手前の山の下を左右に北国街道が通る。2022-04-03
9〈秋和〉不思議な街並み 5〈秋和〉不思議な街並み 5秋和の北国街道は直線的だが、道幅が狭いため大軍の進軍は難しい。家々の間口の幅が同程度なのも人工的に作られたからだろう。街道に面して出入口を作らず、小路から出入りし、時には小路に隠れて敵を迎え撃つ。小路を50mほど奥に入ると家並の裏に東西に走る小路があり、街道から見られずに移動ができる。間口いっぱいに建てられた家は、江戸末期から養蚕・蚕種業が盛んになり、広い蚕室を確保する確保するために改築されたものではないか。 西脇や新町のように城下町に近い村は、時代が下がると町屋化し、商いのために道に面して入口を設けるようになった。秋和は農が主で店も宿もほとんどなく、旅人に出入口を開く必要もなかったのではないか。むしろ、背後にある田や山麓や河川敷にある桑畑に通うには、家にわきにある小路が重宝2022-03-23
10養蚕農家の生活13  繭価(まゆか)の大暴落(だいぼうらく)養蚕農家の生活13  繭価(まゆか)の大暴落(だいぼうらく) 昭和5年は、米国の不景気によって繭価が大暴落し、1貫1円90銭となり、東北の繭糸であまりの安値に業(ごう)を煮やした人が競りを流し、上田まで持ち下して競りにかけたところ前より安値でそこも流して持ち帰り、川久保橋から神川に押しあけて家に帰ったなんて話も聞きました。  繭価の安値は幾年も続いて私たちが6年生で行く直江津旅行も中止となり、高2の時の東京旅行ももちろん中止でした。村費による先生たちの給料も不払いとか減額給付といった話も聞きました。また、上小の青年団が電気料の不払い運動もやりました。  繭価はいくら安くてもこの道しか現金収入のない農家は、来年の蚕飼いのために高い肥料や蚕種、蚕具の購入資金に窮し、人から借りてまでも用意せざる得ませんでした。 引用文献    「大正から昭和へー町や2021-11-15
11養蚕農家の生活12 手伝いを通して一人前に 養蚕農家の生活12 手伝いを通して一人前に この桑しょいというのが、自分の力がどれだけあるようになったかを知るバロメーターでした。去年は一わだったのに、今年は二わしょえるようになった。早く兄や父と同じくらいしょえるようになりたいものだと思ったものです。  桑束三ばをしょえるようになったのは、6年生の夏蚕の時でした。今日こそはと桑束をしばる「すがい」を三つ持って山の畑に行きました。父と同じくらいの束三ばを作り、背負子につけました。つけ終わったときは、皆帰りかけており、私が一人残りました。腰を下ろして背負子に肩を入れ、さて力を入れて立とうとしましたが立てません。前の桑株にすがったり、あっちこっちとずって歩きようやく足をぶるぶるさせて立ち上がりました。嫌な坂道も注意して下り、石垣の上の細道も気を張って過ぎ、途中の休み場も下2021-11-15
12養蚕農家の生活11 夏蚕、秋蚕、晩秋蚕 養蚕農家の生活11 夏蚕、秋蚕、晩秋蚕 繭かきの済んだ後の蚕巣ワラは燃やしてしまいました。  このころは田の「しつけ」も繭と並行で、田植えはほとんど他人まかせで、家中でやったことはなかったのです。  7月中旬にはまた夏蚕が始まるのです。夏蚕は子供たちの夏休みと重なり、暑くて飼育が容易なので、我が家では重点をここに置くのです。  庭起きともなると桑は1キロも道のりのある小玉の丘陵まで切りに行くのです。父母姉2人兄2人に私の7人の1ケ分隊が、みな背負子をしょって水上の田の細いあぜ道、しかも高い石垣の細いあぜ道を一列になって行くのです。この行列は私たちだけではありません。 ほとんどの家がこの丘上に桑畑を持っているのです。細道を進んでいくと早い家ではもう桑をしょってこの道を帰ってくるのです。そこで道をよけて通してやるのが大変でした2021-11-15
13養蚕農家の生活10 繭かき・出荷 養蚕農家の生活10 繭かき・出荷  やといの入った各部屋は練炭を入れて暖をとり、繭づくりをさせる。1日たつとヒキは糸をはいて繭の形を作り、3日目には白くなってヒキは見えないようになる。  8日目には「繭かき」(繭の収穫)が始まる。非農家の女衆を3人ぐらい頼んで3日間ぐらいで終わらすのです。繭は20貫(75㎏)もたまればこれを「たて」(繭を入れる袋)に入れ、父は二つの「たて」を天秤で担ぎ、兄は「たて」を背負子でしょって東北(本原)の繭糸(けんし)会社の競(せ)り市(いち)に持って行くのです。私は後について見に行きます。  繭糸(会社)には大勢の人が白い「たて」を持ちよって競りに出す順番を待っています。「ぼて」(大きな竹籠)に繭をあけ、競り台まで運ぶと、係りの男が大きな声で「○○の上等まい」と呼びながら競り台に繭をあけます。する2021-11-15
14養蚕農家の生活9 ヒキ拾い養蚕農家の生活9 ヒキ拾い 庭起き1週間をこえるころになると、蚕は太ぶとと大きくなり、急に桑を食わなくなります。そして首のあたりからあめ色に透きはじめ、首を上に伸ばして何かを探すようにうごめきはじめます。この状態を「ヒキた」と言い、一刻の猶予もできません。まごまごしていると蚕座に糸をかけ始めるからです。このような状況は、親たちは長年の経験で、隣近所で蚕の進んでいる家、遅れている家があり、そう忙しくない家等「えいっこ」(手伝いのしあい)できる家にお願いしておいて、互いに手伝いっこするのです。  朝早くから箔や蚕巣を庭に運び出して「ヒキ拾い」(蚕を蚕巣にいれてやる)の用意をしていると、お手伝いの人が4.5人来てくれて、一番進んでいる前の蚕室からヒキ拾いを始めます。拾うのは手の早い女衆、蚕を箔に撒いて蚕巣を立2021-11-15
15養蚕農家の生活8 桑取り養蚕農家の生活8 桑取り 春蚕用の桑畑は私の家の近くにありましたので、桑切はそうたいへんではありません。切り取ったところから畝間(うねま)をかきあげしては株直しをしました。  蚕飼いが始まると、村の中は急に桑取に出かけるおばあさんたちの往来が繁くなり、そこらで立ち話をする風景が目につき、その言葉の中に「お家のお蚕様は」とか「おら家のしょうは」と蚕に敬語をつける話がよく聞かれます。また、それほどにありがたい虫であり、また、この虫の成長いかんで家の経済が左右されるとなると飼い主の責任は大変に重く、その技術の難しさもあるわけで、毎日のように養蚕教師が一軒ごと巡回指導して歩きましたが、飼主は心配で、よその家の様子と我が家の様子を比べたくなるのです。そして、少しでも我が家の良さを知りたいのです。        2021-11-15
16養蚕農家の生活7 蚕の世話養蚕農家の生活7 蚕の世話 桑をくれるのは1日に大ぐれは3回ですが、群れ直しで少しはくれるので5回ぐらいになったでしょうか。稚蚕の時は、割に湿気に強いのでトタン箱内で飼い、桑葉のしなびるのを防ぎましたが、大きくなると冷湿をきらうなどといい、蚕座(さんざ)(さんざ:食い残りのかす)が厚くなると蒸れる危険があるので、蚕(こ)尻(じり)(こじり:蚕の糞)取りも三齢、四齢にはちょいちょいやりました。その際、よく見ないと蚕をうっかり捨てることになりました。  庭起きになり蚕を下に放すときは、畳の間は全部畳を片付け、座敷、茶の間、勝手土間…軒下、蚕室、裏の物置と人間が寝る部屋とお勝手を残し、全部が蚕の放し飼いに使われたのです。床上にもみ殻をまき、その上に石灰をまいて蚕箔上の縄網(なわあみ)(蚕の上に網をかけ、その上に桑を乗せる2021-11-15
17養蚕農家の生活6 蚕の成長 養蚕農家の生活6 蚕の成長  蚕の幼虫期間の変態(蚕は4回脱皮を繰り返して大きくなる)は、一齢(れい)一眠(みん)(一れい一みん:脱皮をする前には、動かなくなり、桑を食べなくなる。その時を眠という。)二齢二眠、三齢三眠、四齢四眠、五齢上ぞく(じょうぞく:まゆをつくる)まで春蚕は約1か月かかりました。 親たちは何齢という呼び方はしないで、一齢を「毛児(けご)(けご)」、二齢を「二つ」、三齢を「ふな」、四齢を「ふなおき」、五齢を「庭起き」と言っていました。  毛児というのは卵から出たばかりの黒い毛だらけの蟻のように見えるのでそう言い、また蟻(ぎ)蚕(さん)(ぎさん)などとも言いました。二つというのは二齢だからわかるが、三齢をふなおきと呼ぶのは意味が分かりません。庭起きというのは四齢まで箔飼(はくか)い(かいこあみの上で飼う2021-11-15
18養蚕農家の生活5 はきたて 養蚕農家の生活5 はきたて  桑の芽がほころび始めるころはどこの家でも稚(ち)蚕(さん)飼育室の用意をしました。5月はまだ寒く、稚蚕のためには温度25℃を保たなければなりませんから、温度の取りやすい部屋を選びます。よく拭き掃除をし、周りや天井に目張りをし、使う道具もよく洗い、室内、道具をホルマリン消毒します。もうこんな時期は桑の芽は4葉ぐらいに伸び、いよいよ蚕(さん)種(しゅ)は催(さい)清(せい)(さいせい:温度をかけて蚕が卵からふ化するようにする)が終わって、今まさに蚕の稚児が卵から出ようとするときに、蚕(たね)種屋(や)は農家に売り渡すのです。 私の家では暖がよくとれる部屋がなかったので、二つ休み(蚕が生まれて2回目の脱皮のあと)までは下の家の稚蚕室へお願いし共同で飼育しましたが、室内には大きな火鉢が据えられ、上等な堅2021-11-15
19養蚕農家の生活4 桑の手入れ 養蚕農家の生活4 桑の手入れ  4月は春祭りの時期です。桑は昨年の夏蚕用に切られ、15センチほど切り残された桑棒に、切られた後に発芽した細枝をつけてボサボサになっている。この棒を株すれすれに鎌で切除する作業を株直しといいますが、お祭りの前にこの作業を済ませることが我が家の例年の習いでした。越年した桑株はかたくて鎌でそぐのは子供の力では大変でした。鎌はよく切れることが大事で、それにはちょいちょい砥(と)ぐことでした。その砥ぎ方も父から習ったのです。600坪からある桑畑の株直しは我が家にとっては大変な作業で、父母が専門にやるばかりでなく、私たち子供もお祭り前に終わらそうとがんばりました。手の中は血豆がいくつもでき、指の付け根にタコができました。  桑の芽が出る前に全桑園に春肥をやります。それには大豆かすやアンモ2021-11-15
20養蚕農家の生活3 養蚕の準備養蚕農家の生活3 養蚕の準備 養蚕は暖かい時期に蚕を飼うことばかりでなく、その用意は冬のうちから始まりました。3月、寒いながら日も長くなりだすと父は蚕(こ)巣(す)(こす:蚕が繭を作るときにワラで編んだ巣に入れる)折りを始めました。昨年の秋の終りに田んぼのワラは全部家の裏に積み上げてあり、これを崩してワラすぐりをした一つかみのワラを簡単な箱型の器具にのせて、二本の鉄棒とばねの力で作ります。1個を作る所要時間は2分ぐらい、一時間に30個、1日に100個も作ればもうたくさんになってしまっただろうと思います。  蚕巣1個が蚕(さん)箔(ぱく)(さんぱく:1畳ほどの竹籠に敷く紙。その上で蚕を飼う)1枚用で、我が家では春蚕に350個、夏蚕に450個、残りを秋蚕、晩秋用にするので1000個の蚕巣が必要で、この蚕巣を折る作業は2021-11-15
21養蚕農家の生活2 桑の状態や水田の仕事、働き手に合わせて養蚕農家の生活2 桑の状態や水田の仕事、働き手に合わせて 私の家では桑畑を春(はる)蚕(ご)用に400坪(1320㎡)、夏(なつ)蚕(ご)、秋(あき)蚕(ご)用に600坪(1980㎡)をあてていたようです。なぜ夏蚕に重点をおいたかというに、春は気温が低く温度をとる養蚕には不向きであり、しかも養蚕期間が長いという不利と水田の「しつけ」(田植え)時期と重なるからです。また、夏期は子供たちの学校の長期休業という戦力の当てがあるからです。              『養蚕業について』西沢吉次郎著から  写真は、開校当時の塩尻小学校。桑畑に囲まれている。奥に見ええる山にも段々畑が広がっている。子供たちも養蚕の大事な労働力だった。(復刻版塩尻時報扉より)2021-10-15
22養蚕農家の生活1 西沢吉次郎さんの話養蚕農家の生活1 西沢吉次郎さんの話 上小地域から桑畑とともに養蚕農家が姿を消して久しい。蚕の飼育についての記録は残っているが、蚕とともに暮す生活の記録はあまり見当たらない。知る人もわずかになり、聞くことも難しくなっている。 上小郷土史研究会が平成2年に発行した「大正から昭和へー町や村の暮らしー」所載の西沢吉次郎さんの作品は、当地の養蚕農家の生活を描いた貴重な記録である。西部地域の記録ではないが、養蚕・蚕種製造をする農家の生活を想像する手立てとして使用することを許可してもらった。  西沢さんは1919(大正8)年、現上田市真田町本原に生まれ、子供のころの農業や養蚕の手伝いをした思い出を記録している。明治の中頃から大正、昭和初期は、繭景気が良い時代で、「米の成る田に桑の木植えて、お前食う木かくわ(桑)ぬ木か」というざ2021-10-12
23塩尻小学校郷土資料館6 「蚕都物語」塩尻小学校郷土資料館6 「蚕都物語」塩尻地区には江戸時代後期から養蚕、蚕種製造の先駆者が生まれている。中でも養蚕技術書「新撰養蚕秘書(しんせんようさんひしょ)」を著した塚田与右衛門(つかだようえもん1715―1810)。 新品種「信州かなす」を発見し、「蚕かいの学(かいこかいのまなび)」を著わし、養蚕技術者を育成し、組合を作り品質の向上に尽力した藤本善右衛門縄葛(ふじもとぜんえもんつなね1815-1890)。 「養蚕教弘録(ようさんきょうこうろく)」を著わすとともに、かいこの飼育には湿度の加減が難しいことから乾湿計を考案した清水金左衛門(しみずきんざえもん1823-1888)が知られている。3人は時代が近いばかりでなく、その居宅も、北国街道に沿った100メートル四方内に近接している。 ①「蚕都物語―蚕種家清水金左衛門の遥かな旅路」(しみず たか2021-08-12
24塩尻小学校郷土資料館2 養蚕道具(2)塩尻小学校郷土資料館2 養蚕道具(2)蚕の飼育にかかわる道具 ①さいせい機:カイコは春になり、暖かくなるとふ化する。風穴などを使い低温で保存しておいた種(卵)を、催青機で摂氏25℃に保ってやると11日目には殻を破ってふ化する。 ②はきたて羽、はきたてばし:ふ化したばかりの幼虫の体長は3㎜ほど。これを鳥の羽で竹を編んだかごに移すことを「はきたて」という。 ③かいこあみ、きゅうそう台、おき棚:カイコは、畳1畳ほどのかいこあみの上でクワを食べて約4週間かけて大きくなる。その間に4回脱皮する。かいこあみは、世話をするとき以外は10段ほどのおき棚に納めておく。 ④こすおり機、回転ぞく、けばとり機:4回脱皮してから8日程でクワを食べなくなったカイコは、マユを作らせるために「個室」(ぞく)に入れる。昔はワラを使い、こすおり機で作っていたが、戦2021-08-12
25塩尻小学校郷土資料館2 養蚕道具(1)塩尻小学校郷土資料館2 養蚕道具(1)カイコの飼料となるクワの収穫にかかわる道具 ①くわこき、くわつめ、くわつみかご:クワの葉をつみ、運んでくる。 ②くわきりがま、くわこき機:クワを枝ごと切ってきて、葉を一度につむ。 ③くわきりほうちょう、くわきり器:カイコが小さいうちは、クワの葉を刻んで与える。2021-08-12
26塩尻小学校郷土資料館1 郷土資料館はタイムカプセル塩尻小学校郷土資料館1 郷土資料館はタイムカプセル 塩尻小学校郷土資料館は、1961(昭和36)年、PTAや地元自治会の協力で各家庭から寄付された農具、養蚕道具、製糸道具、織機、衣料日用品、昔の旅の服装用具、昔の新聞、雑誌、書籍、楽器、写真、古文書、土器や石器など約280点を空き教室に展示して始まった。その後、周年記念事業等で整備充実が図られ、1995(平成7)年には校舎改築にあわせて独立した郷土資料館が完成した。塩尻地区が「蚕種の郷」だったことから、他に見られない蚕種製造にかかわる貴重な資料が集められていている。展示品の中から蚕種製造にかかわる資料(太字で表記)を紹介する。写真は、塩尻小学校郷土資料館。右は桑の木。2021-08-12
27蚕種の郷13 衰退した養蚕製糸業蚕種の郷13 衰退した養蚕製糸業  なぜ、今、桑畑は無いのでしょうか。養蚕農家はどうなってしまったのでしょうか。 江戸後期から養蚕業は広がり、幕末に生糸が欧米に輸出されるようになると生産は一気に増加しました。大正の中頃、第一次世界大戦が始まると女性の社会進出が進み、欧米ではその足元を飾るストッキングに絹が使われ、生糸の輸出は更に増えました。この頃、生糸の価格は最高値をつけています。塩尻地区の桑園面積が最も大きくなったのも大正から昭和の初期でした。明治初期の畑の面積の4倍にもなっています。段々畑を山の急斜面に段々畑つくるばかりでなく、水田を桑畑に転換する所もありました。 ピークは昭和5年です。前年、アメリカに始まった株の大暴落は、瞬く間に世界中に広がり世界恐慌となり、生糸の輸出はストップし、養蚕農家や製糸工場2021-06-29
28蚕種の郷11 先人たちの努力と工夫蚕種の郷11 先人たちの努力と工夫 蚕種は、半紙大の蚕種紙に一粒並べに産卵されたままの状態で販売されました。農閑期になると蚕種業者は、生産した蚕種紙を背負ってお得意先の養蚕農家を回り、前年に渡した種紙の代金を受け取り、翌年用の蚕種紙を渡して周りました。良い繭がたくさん取れれば、その秘訣を聞き、取れなければ飼育方法を指導する蚕種業者は養蚕の優れた技術指導員でもありました。また、塩尻では、養蚕技術の改良や新品種の育成、組合を作って質の悪い蚕種が出回るのを防ぐなど品質向上の取り組みも行われ、蚕種の郷としての評判を支えました。幕末、外国との貿易が始まると塩尻の蚕種は、蚕の病気で養蚕業が全滅の危機に瀕していたイタリアやフランスにも輸出され、1枚3両から4両でいくらでも売れたそうです。 小さくて高価、また高度の技術で製造さ2021-06-25
29蚕種の郷9 なぜ、蚕種の郷に?蚕種の郷9 なぜ、蚕種の郷に? 蚕種製造は、蚕が作った繭の殻を破って出たオスとメスの蛾を交配させて、メスの蛾に、厚手の紙(産卵台紙)に卵(蚕種)を産みつけさせます。卵を産み付けられた産卵台紙(種紙)販売するのが蚕種業です。大事なことは、卵から生まれた蚕が病気に強いか、その蚕が吐いた糸の品質が良いかです。塩尻の先人たちが生み出した蚕種は、強健であり、発育が早く桑の食い方も活発で飼いやすく、繭の形もよくそろい、糸量も多いと人気を呼び、蚕種の郷・塩尻の名が全国に知られるようになりました。  こうした品質の良い蚕種が作られるようになったのは、上田地方、とりわけ塩尻が養蚕・蚕種製造に向いた場所だったからです。 写真(「養蚕・製糸」(上田市立博物館)より)は、産卵台紙にメスの蛾が卵を産み付けている様子。白い粒が卵。卵2021-06-25
30蚕種の郷8 養蚕から蚕種製造へ蚕種の郷8 養蚕から蚕種製造へ塩尻では、豊臣秀吉の時代、文禄4年(1595年)の千曲川大洪水で壊滅的な被害を受け、水害に強い桑を植え、養蚕が始まったと伝えられています。江戸時代は、米を年貢として取り立てていたので田に他の作物を作ることは禁止されていましたが、しばしば水害に襲われる河原の畑や急な斜面の段々畑に桑を植え、蚕を飼うことは許されていました。中期には、稲作の合間に始めた養蚕の中でも蚕種製造に力を入れるようになり、後期には本場の奥州(東北地方)を追い越し、日本一の蚕種の生産地となりました。写真は、昭和20年ころ養蚕作業の様子(塩尻地区写真集より)です。養蚕は手がかかる仕事が多く、家族総出で作業しました。学校は、「蚕休み」にして子たちも手伝いました。写真は、蚕が作った繭を前に置かれた藁で作った「まぶし2021-06-25
31上塩尻の蚕室上塩尻の蚕室蚕種製造のための養蚕施設。下に埋薪(まいしん)と呼ばれる暖房の仕掛けがあるのが特徴。韓国のオンドルに似ています。2019-03-01
32小岩井紬工房小岩井紬工房小岩井紬工房の見学に行きました。 養蚕に関する文化や歴史を知ることができる親しみやすい場所でした。 機織りと聞くと、地味だったり、渋いイメージでしたが実際に見ると、カラフルでかわいいものが多く、若い人にも手に取りやすい この青と黄色の着物は、息子さんが織ったもので、このような絶妙な淡い色のバランスを出すのが、すごく難しいようでとても時間がかかったと聞きました。2018-12-08
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