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景観ウォッチング~秋和旧北国街道めぐり~
広報うえだ4月号に掲載された「景観ウォッチング~秋和旧北国街道めぐり~」にご参加ください。 広報うえだには、9:20に西部公民館に集合し、バスで秋和正福寺に行き、開会式、散策、八幡神社参道入り口で閉会式を行い、バスで西部公民館に戻る計画で、先着20人募集となっています。バスを利用する方は、都市計画課(23-5127)に申し込んでください。 地元の方は(定員外)、正福寺に9:30に集合、合流し、散策、閉会式の後は自由解散できます。希望する方はまちづくりの会(山﨑080-5108-5963)に連絡をお願いします。 秋和については、西部地域デジタルマップの下記のカテゴリーに情報が投稿されています。ご覧ください。 〈歴史文化スポット・記録〉 ・秋和地区蚕室づくりの家の変遷(小林武彦さん
2024-04-15
2
秋和地区 蚕室造りの家の変遷(2)の付表 小林武彦さんの記録
PDFの画面をクリックしてください。画面が表示されます。
2023-10-21
3
秋和地区 蚕室造りの家の変遷(2)小林武彦さんの記録
PDFの画面をクリックしてください。画面が表示されます。
2023-10-21
4
秋和地区 蚕室造りの家の変遷(1)の付表 小林武彦さんの記録
PDFの画面をクリックしてください。画像が表示されます。
2023-10-21
5
秋和地区 蚕室造りの家の変遷(1)小林武彦さんの記録
小林武彦さんの紹介 小林武彦さんは、秋和在住で今年90歳になりました。長年専売公社に勤め、全国を勤務して回りました。 中学生の頃、担任の先生の導きで、郷土史に興味持つようになり、退職後郷里に帰ってからは、上小郷土史研究会に入り調査研究に励みました。とりわけ塩尻地区近代化遺産調査事業の委員として西部地域の製糸業の歴史や先人たちの取り組みについて調査をし、事業報告書作成の中心メンバーとして活躍されました。また、西部公民館主催講座「蚕都上田ものがたり」を通して、調査・研究を深めこの記録を作成しました。 西部地域に関わる小林さんから預かった調査記録を多くの方々、特に地元に生きる若い方々に知ってもらい、この土地に刻まれた先人の労苦と逆境を跳ね返す精神を伝えたいと考え「西部地域デ
2023-10-18
6
歴史的景観ウォッチング 新町・諏訪部編 ④松尾邸
本家の母屋は建て替えたが、以前の建物は寛永年間に建てられたと伝えられている。上田城から移築されたという門と母屋の鬼瓦が残されている。 庄屋をやっていたので現在は更地になっているが南側に米蔵が並んでいた。蚕種販売をやっていて気抜きとうだつのある蚕室が残っている。現在のアリオ場所に桑畑があった。
2023-10-01
7
歴史景観ウォッチング 新町・諏訪部編 ⑤浜村邸
浜村家の分家、5代目。出身は諏訪の高島藩だと伝えられている。養蚕(2百貫目ぐらい)と蚕種と稲作をやってきた。明治年代、先祖は蚕種製造家として名を残している。建物は、明治元年に建てられた。歴史の散歩道は、私道。市が敷石を引き整備してくれた。上田市の景観賞を受賞した。 南側にも蚕室づくりの家がある。
2023-09-24
8
秋和地区 瀧澤家にあった「ねこ瓦」
先日、秋和地区の蚕種、養蚕が盛んであった頃に造られた古民家で「ねこ瓦」もあった滝澤家が、壊されて平地になったとの記事がアップされていました。瀧澤家の写真を撮ってあったので、載せます。 その頃の特徴である蚕室や土間、軒には「ねこ瓦」がありました。通路から見て東側に「ねこ瓦」2枚が見えました。 火災予防の祈願の「水」の漢字、「雲水」柄でした。 壊された事情もあったことでしょう。古文書資料と「ねこ瓦」も保存されていることを願います。
2023-06-07
9
滝澤秋曉「司令塔」より⑤
手塩にかけて育てた蚕が繭になった時(収繭)の喜びをこう書いている。 『5齢になって、蚕が部屋という部屋にいきわたって、予定の籠数をも通り越していく。この時、いろんな連中が来る。教員に引率された蚕業学校の生徒、支那人の留学生、役人や組合の技師、入れ替わり、立ち代わり応接も大抵なことじゃない。しかし、いい蚕を飼っているという確信があるから、案内しても気が引けることはない。 朝3時に起きて、午前午後とも休憩1回約30分ずつ、昼寝が1時間、夜寝るのが11時。いよいよ蚕をまぶし(蚕に繭を作らせるために、ワラで作った個室)に入れ、美しい繭が、蚕室の屋根裏から床板の上まで真っ白くきらびやかに満ち渡るのを見ると、いやだいやだと言い続けたのはどこの誰かという気持ちになる。 4月下旬から9月上
2023-06-04
10
滝澤秋曉「司令塔」より④
「司令塔」の中で、最もページがさかれているのは、養蚕の仕事だ。明治末期 の養蚕の様子と人を使って養蚕に打ち込む姿が生き生きと描かれている。 『4月中旬か5月の初めに蚕は出る。掃きたてた(卵からふ化したて)当座は、蚕籠数もごく少ないが、眠(蚕は成長過程で4回脱皮する。脱皮の際、桑を食べず、静止している状態を眠という。眠と眠の間を齢といい、4眠5齢で繭をつくる。この間おおよそ30日程度)を重ねるにしたがって、恐ろしく殖えてきて、5室が残らずふさがるのも30日そこそこのうちだ。 僕は掃きたて以来蚕室の常番だが、蚕が2室を増えると、母屋から宿直の助手を連れてくる。妻と妹、2人して2号室の泊り番をする。 にぎやかでいいのは寝がけに給桑(桑を与える)する時だ。母や、下男や、炊事当番の女ども
2023-06-04
11
蚕種家滝澤秋曉「司令塔」より③
滝澤家の蚕室についてはこのように書いている。 『僕の養蚕は、いつでも2号蚕室(北側にある大蚕室)が根城で、それにあふれたのを1号蚕室(門東側の小蚕室)へ、1号に余ったのを母屋に移す。1号と母屋は母が指揮を執っている。』 屋敷と蚕室のつくりは、次のようだった。 『長屋門の東側には納屋、薪屋、味噌蔵、貯桑場が、西側には、寝室、文庫蔵、穀蔵がつながっている。母屋の北30mに東西方向に間口12間半(約22m)、奥行きは3間(約5m強)、南に1m、北に2m幅の通しの内廊下のついた2号蚕室がある。中央には玄関兼司令塔が凸出している。屋根は、18mの気抜き屋根、大屋根と廊下の屋根が3段になっているので、外から見ると2階づくりに見えるが、平屋っである。ただ、床下は1m強の上、さらに地下に60センチ掘り下げ
2023-05-22
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蚕種家滝澤秋曉「司令塔」より①
文学者滝沢秋曉は、明治29年重い脚気を患い、東京での文学活動を切り上げふるさと秋和に帰省した。その後、秋曉は作品を書きながら、家業の蚕種業にも精を出す。明治41年には、その暮らしぶりを「司令塔」という作品で発表した。 「司令塔」(滝澤秋曉著作集)から、当時の蚕種家の生活を抜き出してみた。「司令塔」とは、写真(上田市誌「上田の風土と近代文学」より)の蚕室の中央2階に見える部屋を指していて、次のように書いている。(原文通りでなく、わかり易いように手を入れた) 『2号蚕室の前面に飛び出して、下は蚕室の大玄関、はしごを上ると5畳敷の小座敷がある。東西3面は、ガラスをはめた明かり障子で、広庭を見下ろす。 養蚕中、やれ郡長だ、やれ県の役人だ、視察だなんだかんだとくる来客に、母屋に引
2023-05-22
13
滝澤秋曉邸
滝沢秋暁は、蚕種家であるとともに、上田を代表する近代文学者として文学史に名を残している。塩尻地区近代化遺産調査報告書には、以下のように紹介さている。 ・・・秋暁の生家は、蚕種業「両水館」を営み、江戸時代から関東甲信一円から奥州まで、蚕種の仕入れや、販売に出かけています。それらの旅先で入手した幅広い分野の蔵書が残されており、そういう環境で秋暁は、明治8年に生まれました。 明治28年、秋暁は「絵画修業」のため上京し、絵を学ぶかたわら雑誌「文庫」の記者となり、全国からの青少年の投稿作品の選と選評などの仕事をしながら、多くの文学者とも交流し、河井酔名、横瀬夜雨などを育てたといわれます。 しかし、明治29年9月、重い脚気のため帰省。秋和に住み、家業を手伝いながら「文庫」の批評や
2023-05-20
14
「秋和の里」の滝澤秋暁邸が更地に
しばらくぶりで秋和の北国街道を歩いた。驚いたことに「秋和の里」を代表する滝澤秋暁邸がなくなっていた。長屋門に茅葺にトタンをかけた重厚な母屋、門の東に続く気抜きを設けた蚕室、母屋の裏には庭を挟んで気抜きのついた2階建ての大きな蚕室がなくなり更地が広がっていた。 滝澤秋曉邸は、ずいぶん前から空家となっていてあちこちに痛みが出ていた。個人の力で修理は困難なことがうかがわれ、残すには行政の力が必要と思っていたところ、上田市の歴史風致維持保存計画に蚕種製造民家の調査事業が盛られ、記録だけでも残される可能性が出てきたところだった。また、西部地域デジタルマップでも歴史遺産の記録を残す呼びかけを始めたところであり、残念でたまらない。 地域の歴史を学び、じかに触れることができる歴史遺
2023-05-19
15
蚕種の里「上塩尻」(6)藤本蚕業歴史館とアーカイブサイト
★
藤本蚕業アーカイブ
(デジタル文書) ★
藤本蚕業歴史館アーカイブ
(史料目録) 藤本工業社屋2階に「藤本蚕業歴史館」が開設されています。2009年に開設されました。蚕種製造家だった旧佐藤宗家(藤本善右衛門)は1908年(明治41年)、企業体「藤本蚕業」に発展します。歴史館の建物は1927年、藤本蚕業の蚕室として建設された歴史的な建造物です。 同館は文書館(アーカイブス)と展示室(博物館相当)を併せ持つ複合的施設であることから「歴史館」と名付けられました。 見学は事前に予約が必要です。ただし常時、館内の見学、史料閲覧ができるよう『藤本蚕業アーカイブ』(次の2サイト)がインターネットに公開されています。
2023-02-02
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蚕種の里「上塩尻」(5)佐藤家住宅と旧佐藤宗家
蚕種の里「上塩尻」を代表する蚕種製造家は藤本善右衛門です。旧佐藤宗家の当主が代々藤本善右衛門を世襲してきました。1897年に刊行された『日本博覧図』には藤本善右衛門(佐藤宗家)の屋敷、宗家に隣接する分家の「佐藤尾之七」の屋敷の銅版画が収録されています。 佐藤宗家の更地となった屋敷跡からはその屋敷がいかに大きかったかがわかります。現存する蚕室も希少な建造物です。 「佐藤尾之七邸宅」は現存し「佐藤家住宅(三ツ引)」として上塩尻では初めての国登録有形文化財となりました。
2023-02-02
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蚕種の里「上塩尻まちあるき」①
晴天に恵まれた11月26日(土)、藤本蚕業プロジェクト主催の「上塩尻まちあるき」が、30余名が参加して行われ、登録有形文化財「佐藤家」、藤本(佐藤宗家)蚕室、原久史氏宅(旧馬場籐四郎邸)、清水卓爾氏宅(旧清水喜左衛門邸)、東福寺檀家信徒会館(旧滝澤邸)、加賀藩お休み処(清水氏宅)、小岩井紬工房などを巡った。 案内役のプロジェクトメンバー、ゲストのマーティン・モリス先生(千葉大学名誉教授)のほかに、持ち主や地域の皆さんによる説明、普段は入ることができない邸宅の庭まで見学でき、時間を超過しての内容濃い町あるきとなった。 参加した方々は、気抜きのある蚕種製造民家が集中し、見事な石垣が北国街道沿いに築かれている町なみに、蚕種の生み出した富の豊かさを感得していた。 詳しくは、「
2022-11-26
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佐藤家住宅・旧佐藤宗家県見学会②
信大の勝俣先生は、蚕室特有のつくりについて、温度、湿度、光を蚕の生育や時季に合わせてどのように調節するかがポイントであると話され、佐藤宗家の蚕室には、ここで開発されたことが他の地域に広まったのか、他に学び積極的に取り入れたのか、明治中期の蚕室のつくりについて先駆的な工夫や設備が見られるとその一つ一つを示しながら説明してくださいました。 地元の山崎民子さんは、可愛い猫(面)瓦から蚕種製造にかけた塩尻の人々の願いが伝わってくるし、また、その思いを次代にも伝えていきたいと話されました。 藤本蚕業プロジェクトでは、11月26日に「蚕種の里『上塩尻』まちあるき」を計画しています。今回の講師の先生のお話の詳しい内容は、情報サイト『藤本蚕業アーカイブ』をご覧ください。
2022-10-29
19
佐藤家住宅・旧佐藤宗家県見学会①
10月29日、藤本蚕業プロジェクト(代表:長野大学前川先生)主催の見学会が行われました。 佐藤家住宅の国指定有形登録文化財登録にご尽力された信大の梅干野(ほやの)先生は、江戸時代中期に始まった蚕種製造業の発展に伴い、明治になって屋敷がどのように拡張、増改築されたか建物にふれながら話されました。江戸時代には、2室だった蚕室が、明治になって9室に増え、他にはあまり見られない消毒室まで設けられています。 石垣や土壁など地元の素材を使った蚕種製造民家が狭い地域に今も多数残る上塩尻の景観は、日本の原風景ともいうべきであり、その価値を今後も訴えていきたいとの熱い思いの伝わる話でした。
2022-10-29
20
2009年開館当時の藤本蚕業歴史館
★写真:2009年10月蚕都上田プロジェクトが実施した見学ツアーの様子 上田市上塩尻に「藤本蚕業歴史館」が開館したのが2009年10月です。今年2022年、早いものでそれから13年近くが経ちます。日本一の蚕種(蚕の卵)の製造地だった上塩尻の中でも一番の中心的な蚕種製造企業だったのが「藤本蚕業」(現在の藤本工業の前身)です。藤本蚕業歴史館は藤本蚕業の蚕室を再利用して開設しました。同社所蔵の膨大な社内文書も保全されています。一般に馴染みがない「蚕種」や上塩尻の背景を知る上で欠かせない情報源となる施設です。 13年経過すると当時はご健在だった方もお亡くなりになった方やリタイアして活動から遠ざかられた方もいます。その時の記録が希少な記録となってきました。
2022-08-31
21
上塩尻蚕種製造民家群8 佐藤隆一邸①
佐藤宗家「藤本」の分家にあたる。明治39年、祖父が、後継ぎがなく絶家となった分家筋のこの家を買い取った。天保9(1839)年に建てられたと記録があるが、総2階建で気抜き屋根(越屋根)が貫いていることから、明治以降建て直したのではないかと考えられる。2階の東側の壁には、卯建(うだつ)がある。卯建は、他に数軒みられるだけで珍しい。 昭和15~16年頃まで、2階を蚕室として利用してきた。代々、藤本蚕業株式会社の経営に携わっており、藤本宗家が昭和2年焼失したため、藤本関係の古文書を裏の土蔵に保管してきた。西側の奥には門があり、今は別の持ち主のものだが、隠居部屋となっていた。
2022-06-18
22
上塩尻蚕種製造民家群6 佐藤宗家「藤本」邸宅の第一蚕室 ④
気抜き屋根の下は、床がすのこ状で2階の空気が抜ける屋根裏部屋となっている。信大の先生や学生が来て調査中。2階の部屋の外は、南側も北側も1間ほどのベランダになっていて、桑の葉や蚕具などを上げ下ろしできるようになっている。
2022-05-30
23
上塩尻蚕種製造民家群6 佐藤宗家「藤本」邸宅の第一蚕室 ③
1階、2階に合わせて4室の蚕室がある。高い天井を太い梁が支え、床は高く、暖房のため埋薪炉(まいしんろ)が施されている。1階の埋薪炉は、すのこの床の下に、横1m、縦2.8m、深さ80㎝ほどの大きさで、石を組み合わせて作られている。3段ぐらいに丸太を敷き詰め、間をもみ殻で埋め、上を石灰で覆い2か所に火をつけると、少しずつ4週間ほど燃え続けた。遅霜の心配のある春蚕(5月上旬から)の飼育には、暖房が必要だが、これほどの規模の設備はあまり見られない。2階にも規模は小さいが掘りごたつの状の埋薪がある。
2022-05-30
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上塩尻蚕種製造民家群7 佐藤宗家「藤本」邸宅の銅版画 ②
写真は、佐藤宗家「藤本」の明治中頃の様子を描いた「藤本善右衛門邸宅」(「日本博覧図」M30年発行 上田市立博物館蔵より)の銅版画である。居宅は昭和2年に焼失し、現在残るのは門と右側の2階建土蔵とその手前の2階建第一蚕室・第2蚕室、土蔵2棟のみである。敷地は600坪ほどでこのあたりでは最も広いが、蚕種製造民家が立ち並ぶ狭い扇状地では、これ以上の敷地を確保することは難しかったのではないだろうか。周りはぼかされているが、実際には狭い小路があるだけで蚕種製造民家が軒を並べている。
2022-05-30
25
上塩尻蚕種製造民家群6 佐藤宗家「藤本」の第一蚕室 ①
藤本とは、佐藤本家の意味で、江戸中期の寛文年間(1661年~1673年)より、蚕種製造をしてきた。代々、養蚕や蚕種製造技術の開発・向上・啓蒙に力を注ぎ、全国一の「蚕種の郷」の基礎を築いた。明治以降も蚕種の品質向上に努め、藤本蚕業合名会社をつくり、今に至る。この蚕室は、明治23年に西筑摩郡新開村の古畑源重源昌富によって建造された。
2022-05-30
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上塩尻蚕種製造民家群5 国の登録有形文化財「佐藤家住宅(三ツ引)」②
写真は、門を入って右手奥にある江戸時代に建てられた茅葺を鉄板で覆った平屋の主屋。右側は明治になって増築された2階建瓦葺、気抜きの屋根のある蚕室。主屋の裏に平屋茅葺(鉄板仮葺)の奥上段(座敷棟)がある。江戸末期から明治期に蚕種業が盛んになるにつれ、次々に増築改修され、蚕室は9部屋をかぞえるようなになった。蚕室づくりの家は、養蚕のために温度や湿度管理に注意が払われ、天井は高く、開口部は大きいが、壁を厚くするため、夏涼しく、冬もあまり寒くないという。 今後、いつまで、保存、管理ができるか心配されている。
2022-05-30
27
上塩尻蚕種製造民家群5 国の登録有形文化財「佐藤家住宅(三ツ引)」①
佐藤家は先祖が室町時代に栃木県からやってきたと伝えられている。文禄4(1595)年の千曲川洪水で流された元宿から現在の山すその地に移り、江戸時代中期から蚕種製造を始めた。佐藤宗家「藤本」の分家にあたる。江戸時代には庄屋を務め、昭和の中期まで蚕種業を営んでいた。 江戸時代後期から明治時代にかけて建築された主屋、蚕室、物置、消毒室、文庫蔵、穀蔵、味噌蔵、屋敷神、門の9棟がR3年6月に国の登録有形文化財に登録された。 写真は、東南の方向から。気抜きのある2階建ての蚕室、門、物置が並んでいる。デジタル・マップの「塩尻小学校郷土資料館5」にあげた銅版画、佐藤尾之七邸宅(日本博覧図 明治30年発行)の現在の姿であるが、物置が2階建てになり、消毒室が増築されている。門の前の通りの奥には、佐藤宗家
2022-05-30
28
上塩尻蚕種製造民家群4 蚕種製造民家「清水卓爾氏宅」⑤
写真は、「清水卓爾氏宅」の明治中頃の様子を描いた「清水喜左衛門邸宅」(「日本博覧図」M30年発行 上田市立博物館蔵より)の銅版画である。母屋(蚕室)の裏側が北国街道。街道から下り玄関に至る坂道は、実際には、人力車一台が通行できる幅で、坂も急なため、荷車の通行も大変だったと思われる。手前、松の木の下には、湧水が見える。
2022-05-30
29
上塩尻蚕種製造民家群4 蚕種製造民家「清水卓爾氏宅」②
門を入って右側(東側)の2階建ての蚕室は、江戸時代に造られ、1階は居宅、2階蚕室として使われていた。西側の母屋は、明治29年に増築され、1階は居宅、2階は蚕室で、昭和20年代まで蚕を飼育していた。国の登録文化財に指定された佐藤尾之七邸と同じ、木曽上田村の棟梁、武居初太郎が建てた。 写真は、西側の母屋。気抜きの他に屋根の下に通風孔が設けられている。現在は、内部を改修して3世代の家族が暮らしている。
2022-04-03
30
上塩尻蚕種製造民家群4 蚕種製造民家「清水卓爾氏宅」①
旧北国街道を西に向かい新幹線の高架をくぐり、座摩神社の参道を過ぎ、坂を登り始めると左側に気抜きの屋根の二棟が迎えてくれる。一段下がったところにあるため、2階の蚕室の大きな窓や塗壁、気抜きのために屋根の上に小屋根(越屋根)を設けた蚕種製造民家が見えてくる。Google earthではまだ見ることができるが、数年前まで、街道の右側にも3軒の蚕種製造民家が並んでおり、「蚕種の郷」の入り口にふさわしい景観がみられた。
2022-04-03
31
蚕種製造民家群3 現存する蚕種製造民家
上塩尻の養蚕家屋については、1989~92(平成元~4)年に工学院大学の研究チームが大規模な調査を行い23軒が調査対象となっている。また、平成14年に近代化遺産活用計画策定のための地域調査チームによる現地調査では、気抜きのない養蚕家屋も入れて37軒を対象にしている。 現在、気抜きの備わる蚕室を持つ民家は19軒、他に気抜きはないが、喚起のため窓を大きくして蚕室として使われていた家屋が数軒、近年、取り壊されたり、建て替えられたりした家屋が10軒弱あるが、狭い北国街道や小路に面しているため、工事が難しいこともあり、内部を改修するなど手を入れ、現在も住居として使われている家屋が少なくない。 写真は、緑点は蚕種製造民家、改築されたが景観に配慮して気抜き施した家屋もある。赤点は、平成14年の調
2022-04-03
32
上塩尻蚕種製造民家群2 蚕種製造の中心地:上塩尻「大村」の景観
蚕種製造の中心地上塩尻「大村」は、扇状地の斜面の50000㎡ほどの狭い土地に100戸ほどの民家が集中し、その半数以上が養蚕をし、蚕種製造を営む集落だった。 門構え、土塀、気抜き屋根を持つ白壁の総二階の蚕室を持つ江戸から明治にかけて建築された大きな蚕種製造民家が、狭い小路を挟んで立ち並ぶ景観は、他に例を見ない。写真は、 気抜きの屋根の並ぶ蚕種製造民家群を裏山から撮ったもの。手前の山の下を左右に北国街道が通る。
2022-04-03
33
〈秋和〉不思議な街並み 5
秋和の北国街道は直線的だが、道幅が狭いため大軍の進軍は難しい。家々の間口の幅が同程度なのも人工的に作られたからだろう。街道に面して出入口を作らず、小路から出入りし、時には小路に隠れて敵を迎え撃つ。小路を50mほど奥に入ると家並の裏に東西に走る小路があり、街道から見られずに移動ができる。間口いっぱいに建てられた家は、江戸末期から養蚕・蚕種業が盛んになり、広い蚕室を確保する確保するために改築されたものではないか。 西脇や新町のように城下町に近い村は、時代が下がると町屋化し、商いのために道に面して入口を設けるようになった。秋和は農が主で店も宿もほとんどなく、旅人に出入口を開く必要もなかったのではないか。むしろ、背後にある田や山麓や河川敷にある桑畑に通うには、家にわきにある小路が重宝
2022-03-23
34
埋薪
まいしん
のある
藤本
ふじもと
の
蚕室
さんしつ
(
上塩尻
かみしおじり
)
蚕種製造
さんしゅせいぞう
の
中心地
ちゅうしんち
だった
上塩尻
かみしおじり
でもその
筆頭
ひっとう
の
蚕種製造家
さんしゅせいぞうか
であった
藤本
ふじもと
(
佐藤本家
さとうほんけ
)の
蚕室
さんしつ
。
蚕種製造
さんしゅせいぞう
に
使
つか
われました。
蚕
かいこ
の
成育
せいいく
に
大敵
たいてき
の
寒
さむ
さを
防
ふせ
ぐため、
床下
ゆかした
に
埋薪
まいしん
と呼ばれるオンドルのような
暖房施設
だんぼうしせつ
が
備
そな
わっています。
2022-01-18
35
養蚕農家の生活9 ヒキ拾い
庭起き1週間をこえるころになると、蚕は太ぶとと大きくなり、急に桑を食わなくなります。そして首のあたりからあめ色に透きはじめ、首を上に伸ばして何かを探すようにうごめきはじめます。この状態を「ヒキた」と言い、一刻の猶予もできません。まごまごしていると蚕座に糸をかけ始めるからです。このような状況は、親たちは長年の経験で、隣近所で蚕の進んでいる家、遅れている家があり、そう忙しくない家等「えいっこ」(手伝いのしあい)できる家にお願いしておいて、互いに手伝いっこするのです。 朝早くから箔や蚕巣を庭に運び出して「ヒキ拾い」(蚕を蚕巣にいれてやる)の用意をしていると、お手伝いの人が4.5人来てくれて、一番進んでいる前の蚕室からヒキ拾いを始めます。拾うのは手の早い女衆、蚕を箔に撒いて蚕巣を立
2021-11-15
36
養蚕農家の生活7 蚕の世話
桑をくれるのは1日に大ぐれは3回ですが、群れ直しで少しはくれるので5回ぐらいになったでしょうか。稚蚕の時は、割に湿気に強いのでトタン箱内で飼い、桑葉のしなびるのを防ぎましたが、大きくなると冷湿をきらうなどといい、蚕座(さんざ)(さんざ:食い残りのかす)が厚くなると蒸れる危険があるので、蚕(こ)尻(じり)(こじり:蚕の糞)取りも三齢、四齢にはちょいちょいやりました。その際、よく見ないと蚕をうっかり捨てることになりました。 庭起きになり蚕を下に放すときは、畳の間は全部畳を片付け、座敷、茶の間、勝手土間…軒下、蚕室、裏の物置と人間が寝る部屋とお勝手を残し、全部が蚕の放し飼いに使われたのです。床上にもみ殻をまき、その上に石灰をまいて蚕箔上の縄網(なわあみ)(蚕の上に網をかけ、その上に桑を乗せる
2021-11-15
37
養蚕農家の生活5 はきたて
桑の芽がほころび始めるころはどこの家でも稚(ち)蚕(さん)飼育室の用意をしました。5月はまだ寒く、稚蚕のためには温度25℃を保たなければなりませんから、温度の取りやすい部屋を選びます。よく拭き掃除をし、周りや天井に目張りをし、使う道具もよく洗い、室内、道具をホルマリン消毒します。もうこんな時期は桑の芽は4葉ぐらいに伸び、いよいよ蚕(さん)種(しゅ)は催(さい)清(せい)(さいせい:温度をかけて蚕が卵からふ化するようにする)が終わって、今まさに蚕の稚児が卵から出ようとするときに、蚕(たね)種屋(や)は農家に売り渡すのです。 私の家では暖がよくとれる部屋がなかったので、二つ休み(蚕が生まれて2回目の脱皮のあと)までは下の家の稚蚕室へお願いし共同で飼育しましたが、室内には大きな火鉢が据えられ、上等な堅
2021-11-15
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塩尻小学校郷土資料館7 蚕種家「佐藤尾之七邸宅」の今
写真は、資料館に版画があった蚕種家「佐藤尾之七邸宅」の今である。住む人なく閉められた門の脇に、蚕種家の屋敷だったことを紹介する説明文が掲げてある。往時の活気はうかがうべくもないが、一時代を築いた風格が漂い、「蚕種の郷」独特の景観を伝えている。1912(大正元)年の長野県の調査では、塩尻村(上塩尻、下塩尻、秋和)で県税を納めている戸数は566戸、うち蚕種製造戸数は、136戸で23.3%を占めていた。版画は当時の盛況ぶりを想像する手がかりとなっている。 今、塩尻地区でも朽ちるにまかされた蚕室や現代的な住宅に建て替わる古民家が少なくない。「気抜き」のある建物が狭い小路をはさんで軒を連ねる「蚕種の郷」の景観も雑木に覆われた段々畑同様に消えゆく時が迫ってはいないか。失ったら取り戻すことでき
2021-08-12
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塩尻小学校郷土資料館5 蚕種家の居宅
①版画「佐藤尾之七邸宅」:蚕種を製造販売する蚕種家(たねや)の居宅を描いた版画1896(明治29)年。 練り塀に囲まれた広い敷地の中に幾つもの建物がある。中央の母屋は、平屋だが大きなかやぶきで、座敷で主人が来客と話をしている。右手に続く2階建てかわらぶきの建物の窓には家人か使用人が見え、居室や事務所か。建物の壁が右側の塀とつながり、大きな門に続く。門を入ると左手には2階建てかわらぶきの蚕室が見える。蚕室の中には蚕棚が重なり、内外で数人が立ち働いている。蚕室の屋根には換気用の煙だしの「気抜き」の小屋根がついている。門の右手の小ぶりの2階建ては、雇人の部屋か。中央の広庭は、作業場になっており数人が働いている。母屋の左、左右を2階建ての練り壁の蔵と奥の塀で囲まれた一画は、庭木の植えられた庭園の
2021-08-12
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2019西部地域まちあるき:蓬蘆書屋
2019年6月14日に行われた西部地域まちあるき(下塩尻)では、蓬蘆(ほうろ)書屋に伺いました。 個人宅ではありますが、かつては蚕種製造を営んでいたことから家屋の造りが蚕室づくりとなっており、現在の屋敷内はご当主のお仕事の関係から蔵書の海と化しています。 見学中は歴史が流れ込む感覚を味わいました。
2021-01-27
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上塩尻地区の蚕室建築群
上塩尻地区の蚕室建築群模型
2019-06-14
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沓掛英人氏宅
25000冊の蔵書がある。歴代先生の家系。家屋は四脚門を持つ蚕室造り。
2019-12-04
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上塩尻の蚕室
蚕種製造のための養蚕施設。下に埋薪(まいしん)と呼ばれる暖房の仕掛けがあるのが特徴。韓国のオンドルに似ています。
2019-03-01
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