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1 蚕種の郷 「西山亅の石垣段々畑 蚕種の郷 「西山亅の石垣段々畑 2022 12月上旬、蚕種の郷のもう一方の石垣の段々畑を見に登りました。ここは、ゆうすげと蝶の里の「東山の石垣段々畑亅に対し、地元では古くから「西山の石垣段々畑亅と呼ばれていたそうです。  江戸末期〜明治の蚕種産業が栄えた時期にやはり桑園として農家の方々が、桑葉の採取に日に何度も登降していたそうです 。石垣はとても厳密に積まれていて、天に向かっています。さながら蚕種の郷のピラミッドのようだと驚き、目を見張ってしまいました。この時代の人々の知恵と惜しみない労力に敬服するばかりです。 太郎山山系のこの山から切り出された石を積み重ねています。石段は、木が生い茂り見えにくいのですが、8段まで数えられました。まだまだ有るかもしれません。  大きな石が組み立てられた所が有り、年配の方に聞くと温風2023-03-12
2民有地開墾請願書民有地開墾請願書塩尻地区では山の尾根近くまで段々畑を作り、桑が栽培されていた。明治28年11月14日付で村民18名が連署し、下塩尻区長に提出された「下塩尻区民有地開墾請願書」には、その事情が記されている。 「…今や我が国の蚕業の盛大なる様子は、山川、荒野まで桑園になっていないところはない。しかし、わが区内の民有林は、桑園として地味豊かなのにもかかわらず、依然として草刈り場とするのみで、利益を上げられないでいる。今回、同志を募り同地(別紙図面)を借受け、開墾し、益々蚕業を盛大にすることは、村を豊かにするばかりでなく、国家の恩に報いることになる。ぜひ、許可を願いたい。」  別紙には、西は岩鼻、東は高津屋まで、合計10000坪を超える山の斜面の開墾を申し出ている。2022-09-15
3だんだんばたけの石垣だんだんばたけの石垣花桃イベントでイノシシコースを歩いてきました。ところどころに石垣があります。その昔、この斜面一帯が桑園(そうえん)でした。石垣はその跡。これだけていねいに石を積んで斜面の土がくずれないようにしていたのですね!2022-05-01
4養蚕農家の生活4 桑の手入れ 養蚕農家の生活4 桑の手入れ  4月は春祭りの時期です。桑は昨年の夏蚕用に切られ、15センチほど切り残された桑棒に、切られた後に発芽した細枝をつけてボサボサになっている。この棒を株すれすれに鎌で切除する作業を株直しといいますが、お祭りの前にこの作業を済ませることが我が家の例年の習いでした。越年した桑株はかたくて鎌でそぐのは子供の力では大変でした。鎌はよく切れることが大事で、それにはちょいちょい砥(と)ぐことでした。その砥ぎ方も父から習ったのです。600坪からある桑畑の株直しは我が家にとっては大変な作業で、父母が専門にやるばかりでなく、私たち子供もお祭り前に終わらそうとがんばりました。手の中は血豆がいくつもでき、指の付け根にタコができました。  桑の芽が出る前に全桑園に春肥をやります。それには大豆かすやアンモ2021-11-15
5蚕種の郷13 衰退した養蚕製糸業蚕種の郷13 衰退した養蚕製糸業  なぜ、今、桑畑は無いのでしょうか。養蚕農家はどうなってしまったのでしょうか。 江戸後期から養蚕業は広がり、幕末に生糸が欧米に輸出されるようになると生産は一気に増加しました。大正の中頃、第一次世界大戦が始まると女性の社会進出が進み、欧米ではその足元を飾るストッキングに絹が使われ、生糸の輸出は更に増えました。この頃、生糸の価格は最高値をつけています。塩尻地区の桑園面積が最も大きくなったのも大正から昭和の初期でした。明治初期の畑の面積の4倍にもなっています。段々畑を山の急斜面に段々畑つくるばかりでなく、水田を桑畑に転換する所もありました。 ピークは昭和5年です。前年、アメリカに始まった株の大暴落は、瞬く間に世界中に広がり世界恐慌となり、生糸の輸出はストップし、養蚕農家や製糸工場2021-06-29
6蚕種の郷5 段々畑で作られていた作物は?蚕種の郷5 段々畑で作られていた作物は? 上田市誌の近現代編(2)「蚕都上田の栄光」の73Pの「桑園地地図」を見ると明治34年、太郎山山麓の塩尻村、上田町と記された場所は黒く塗りつぶされ、桑園になっていることがわかります。 さらに桑園は千曲川の両岸にも桑園が広がっています。今では見ることがない桑畑が、扇状地や河原、山の斜面に広がっていたのです。2021-06-25
7地域の記憶:上塩尻・段々畑の桑園地域の記憶:上塩尻・段々畑の桑園地域のありようは長い間には大きく様変わりします。昔その地域がどうであったのかを確認するにはその当時の資料が欠かせません。人の記憶の中にその様相は残っていても、第三者がそれを確認できるのはデータとして残された何らかの記録です。証言のような言葉(人の記憶)でも補えますが、それを証言してくれる映像なり、道具なり、資料なりがあってその確認ができます。 2019年2月、上塩尻のSさんのお宅を訪問しました。蚕種製造の中心地・上塩尻の古い資料をデジタルアーカイブ化しようというねらいです。 Sさんのお宅にあった一枚の写真に注目。少年たちと大人たちの集合写真です。脱穀作業を共同で行った時の記録と思います。少年たちは国民服を着ています。1940年代前半の撮影ではないかと思われます。その背後に段々畑の桑園2020-12-19
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