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1水路の歴史〜矢出沢川、堀越せぎ、上田城水路の歴史〜矢出沢川、堀越せぎ、上田城5年生の水路探検では、西小横の堀越せぎを水門から東へさかのぼり、八幡の近くで矢出沢川から水を取り入れている様子、西方面へ抗秋和せぎに沿って歩き、秋和の方に続いている様子を確認しました。   そして6年生になり、さらに西小横の堀越せぎの本流をさかのぼって秋和せぎに合流する様子、水門から南に進み、矢出沢川が駅前を通る枡網用水と交差するところの様子も見ました。  また、歴史についても興味を持ち、詳しい方に話を聞いたり、石碑を調べたり、本で調べたりしました。探検で知り合った地域の方にお借りした「鎌原の歴史」には、僕たちが知りたかった水路の歴史が詳しく書かれていました。         そこには、江戸時代初期、上田城主が仙石氏の時代の様子が書かれていました。僕たちは、5年の時に見つけた2023-03-09
2上塩尻蚕種製造民家群1 蚕種製造の中心地:上塩尻「大村」上塩尻蚕種製造民家群1 蚕種製造の中心地:上塩尻「大村」明治30年発行の「長野県小県郡熱心蚕種製造家一覧」には、上田町を中心に郡下163戸の蚕種製造家の氏名が記載されている。その2/3の107戸は、旧塩尻村(上塩尻58,下塩尻20、秋和29)がしめている。塩尻とともに西部地域に属する(鎌原7,諏訪部2)も加えると上田盆地の西部、千曲川北岸が蚕種製造の中心だったことがわかる。 上塩尻の中でも53戸の蚕種製造家が集中している「大村」(字:北側・南側)は、千曲川と虚空蔵山に挟まれた大沢の扇状地の斜面で、千曲川の洪水を受けにくく、江戸時代には信越、北陸を結ぶ北国街道が通っていた。上塩尻村の中心である「大村」は、扇状地の上部を北国街道が西の扇端部に向かって下り、平坦部を通る国道18号線とがけ下で交わる西端地点を頂点し、東500mの塩尻小学校の西縁とそこから北に向2022-04-03
32019西部地域まちあるき:和田龍酒造2019西部地域まちあるき:和田龍酒造 2019年4月の西部地域まちあるきで見聞した場所の一つが和田龍酒造(北国街道沿い、鎌原)です。 明治20年創業以来地元の方々に愛され続け、現在では上田市、さらに長野県を超えて全国でその名を轟かせています。 和田社長の温和な人柄の中にお酒への熱い情熱を感じました。2021-01-29
4鎌原自治会館鎌原自治会館旧北国街道の通りにあります。少し置く側に建てられているのでわかりづらいですが、小さな自治会館です。2020-10-22
5旧北国街道(下紺屋町·鎌原·西脇·新町)旧北国街道(下紺屋町·鎌原·西脇·新町)旧北国街道の道の写真です。新町ら辺からは少しずつカーブもあり完全な直線ではないですが、二の丸通りから入ってしばらくはきれいな直線となっています。2020-10-22
6山極勝三郎生家 (やまぎわかつさぶろうせいか)山極勝三郎生家 (やまぎわかつさぶろうせいか)1863年(文久3年)上田藩士山本順兵衛政策の三男として 裏鎌原(現北大手)で生まれた。16歳の時に上田藩卸典医、山極吉哉家の養子となった。明治21年東京大学医学部を首席で卒業した。ドイツに留学し、1915年(大正4年)ウサギの耳にコールタールを塗り、人工癌の発生に成功した。 世界的な癌学者として知られノーベル医学賞候補にもなった。今でも癌研究では「世界の山極博士」である。1930年 (大正5年)急性肺炎で亡くなる。67歳であった。2020-01-10
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