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1藤本蚕業歴史館・館内整備藤本蚕業歴史館・館内整備藤本蚕業歴史館では近現代の史料を多数収蔵しています。通常は閉館しています。史料をご覧になりたい方、館内を見学したい方はまずはネット上のデジタルミュージアム「藤本蚕業デジタルコモンズ」をご覧ください。ご自宅からでもどこからでも、またいつでも自由にバーチャル入館できます。 ★藤本蚕業デジタルコモンズ https://d-commons.net/fujimoto-dc/ 今年度(2023年度)は、館内をフリーWi-Fi環境にした他、見学や史料閲覧などでご来場いただく方にも役立つよう各部屋に閲覧コーナーを設けました。また「蚕都上田」を知る大型の吊るし地図を設置しました。4月からは来館いただける機会を増やしていきます。2024-03-28
2秋和地区 蚕室造りの家の変遷(1)小林武彦さんの記録秋和地区 蚕室造りの家の変遷(1)小林武彦さんの記録小林武彦さんの紹介  小林武彦さんは、秋和在住で今年90歳になりました。長年専売公社に勤め、全国を勤務して回りました。  中学生の頃、担任の先生の導きで、郷土史に興味持つようになり、退職後郷里に帰ってからは、上小郷土史研究会に入り調査研究に励みました。とりわけ塩尻地区近代化遺産調査事業の委員として西部地域の製糸業の歴史や先人たちの取り組みについて調査をし、事業報告書作成の中心メンバーとして活躍されました。また、西部公民館主催講座「蚕都上田ものがたり」を通して、調査・研究を深めこの記録を作成しました。  西部地域に関わる小林さんから預かった調査記録を多くの方々、特に地元に生きる若い方々に知ってもらい、この土地に刻まれた先人の労苦と逆境を跳ね返す精神を伝えたいと考え「西部地域デ2023-10-18
3学生が「藤本蚕業史料」についてキモノマルシェで発表学生が「藤本蚕業史料」についてキモノマルシェで発表キモノマルシェ2023では藤本蚕業プロジェクト、長野大学前川ゼミによりゆたかや2階において「信州の蚕糸を知ろう 蚕の卵からキモノまで」コーナーを設け、着物愛好家の皆様などにキモノの背景となる蚕糸業と上塩尻にある藤本蚕業歴史館の史料をご紹介しました。 学生2名が発表もしたので、動画でお聞きください。藤本蚕業歴史館には蚕糸業関係の文書ばかりでなく、大正・昭和期の雑誌などもあります。社員日誌は本邦初公開といっても過言ではない貴重な文書です。史料の一部は以下のサイトからも公開していますよ! ★藤本蚕業アーカイブ ▼竹中丈二/藤本蚕業史料の魅力 ▼久保山遥/藤本蚕業社員日誌 2023-10-11
4キモノマルシェ、街なかで開催❣❣ No1キモノマルシェ、街なかで開催❣❣ No1 2023 10月1日、キモノマルシェ in信州上田が、信州着物の似合うまちネット主催で行われました。上田市海野町商店街一帯にその日は、着物姿の人々が大勢参加されました。  今日では、日常着として中々手を通すことがない着物ですが、着付けや着物レンタル、フリマ、和小物制作体験、茶の湯、着物ファッションショー、学生さんの特別ブース、「蚕の卵から着物まで」のスライドショー等の企画がされました。  ベトナムの研修生さんやグローバル研究会さんも着物で参加されていました。  老若男女の着物姿は、とても素敵でした。  私は、着物屋さんで行われた和小物作成に参加しました。 繭友さんの繭からの糸取りの実演と繭のStrapづくり、 須坂クラシック美術館学芸員さん達の香袋づくり、 上塩尻元宿原さん達の紬の組紐編みとStrap2023-10-03
5蚕種の里「上塩尻」の歴史と文化遺産を未来へ(講演)2023/01/18蚕種の里「上塩尻」の歴史と文化遺産を未来へ(講演)2023/01/18長野県建築士会上小支部等合同新年会で上塩尻に関する講演をしました。 ★講演:蚕種の里「上塩尻」の歴史と文化遺産を未来へ YouTube/60分  前川道博(長野大学企業情報学部教授、藤本蚕業プロジェクト代表)  2023/01/18 会場:上田東急REIホテル 江戸時代から蚕種製造の中心地だった上塩尻は優れた蚕種製造家を輩出してきました。各家々で蚕種製造が営まれ、現在も数多くの蚕種製造民家が残っています。城下町や宿場町など江戸時代の面影を残す歴史的景観地区は全国に数多くありますが、「蚕種製造民家群」の織り成す歴史的景観は上塩尻にしかありません。その特異性、希少性はかけがえがありません。 私にとっても上塩尻の大切さを紹介するよい機会をいただきました。上塩尻の魅力の再発見につながれば幸2023-02-02
6「今、記録しておきたいこの町なみ、歴史的景観」  プロジェクトについて「今、記録しておきたいこの町なみ、歴史的景観」 プロジェクトについて趣旨   上田市西部地域は、古代、都と東国を結ぶ東山道の東信濃の入口でした。近世は江戸と日本海岸地方を結ぶ北国街道が通る交通の要衝でした。  近世、この地に上田城を築いた真田氏によって、西部地域は「城下囲い」の集落として山すそのあった集落が城下の西入口に移住させられ、城下の外堀として改修された矢出沢川とともに城下の防備の役割を果たしました。  洪水によってたびたび被害を受けた千曲川に近い土地は、近世、水害に強い桑が植えられ、養蚕が盛んになりました。岩鼻から吹き込む強い西風は、桑に産み付けられ蚕を殺す蛆蝿の卵を振り落とし良質な桑「歩桑(ぶぐわ)」が育つため、蚕を掛け合わせて「蚕種」をとる蚕種業が盛んになりました。東北地方の養蚕先進地に学んだ上塩尻の蚕種家からは、養蚕技術の改良や2022-12-20
72009年開館当時の藤本蚕業歴史館2009年開館当時の藤本蚕業歴史館★写真:2009年10月蚕都上田プロジェクトが実施した見学ツアーの様子 上田市上塩尻に「藤本蚕業歴史館」が開館したのが2009年10月です。今年2022年、早いものでそれから13年近くが経ちます。日本一の蚕種(蚕の卵)の製造地だった上塩尻の中でも一番の中心的な蚕種製造企業だったのが「藤本蚕業」(現在の藤本工業の前身)です。藤本蚕業歴史館は藤本蚕業の蚕室を再利用して開設しました。同社所蔵の膨大な社内文書も保全されています。一般に馴染みがない「蚕種」や上塩尻の背景を知る上で欠かせない情報源となる施設です。 13年経過すると当時はご健在だった方もお亡くなりになった方やリタイアして活動から遠ざかられた方もいます。その時の記録が希少な記録となってきました。2022-08-31
8養蚕農家の生活10 繭かき・出荷 養蚕農家の生活10 繭かき・出荷  やといの入った各部屋は練炭を入れて暖をとり、繭づくりをさせる。1日たつとヒキは糸をはいて繭の形を作り、3日目には白くなってヒキは見えないようになる。  8日目には「繭かき」(繭の収穫)が始まる。非農家の女衆を3人ぐらい頼んで3日間ぐらいで終わらすのです。繭は20貫(75㎏)もたまればこれを「たて」(繭を入れる袋)に入れ、父は二つの「たて」を天秤で担ぎ、兄は「たて」を背負子でしょって東北(本原)の繭糸(けんし)会社の競(せ)り市(いち)に持って行くのです。私は後について見に行きます。  繭糸(会社)には大勢の人が白い「たて」を持ちよって競りに出す順番を待っています。「ぼて」(大きな竹籠)に繭をあけ、競り台まで運ぶと、係りの男が大きな声で「○○の上等まい」と呼びながら競り台に繭をあけます。する2021-11-15
9養蚕農家の生活6 蚕の成長 養蚕農家の生活6 蚕の成長  蚕の幼虫期間の変態(蚕は4回脱皮を繰り返して大きくなる)は、一齢(れい)一眠(みん)(一れい一みん:脱皮をする前には、動かなくなり、桑を食べなくなる。その時を眠という。)二齢二眠、三齢三眠、四齢四眠、五齢上ぞく(じょうぞく:まゆをつくる)まで春蚕は約1か月かかりました。 親たちは何齢という呼び方はしないで、一齢を「毛児(けご)(けご)」、二齢を「二つ」、三齢を「ふな」、四齢を「ふなおき」、五齢を「庭起き」と言っていました。  毛児というのは卵から出たばかりの黒い毛だらけの蟻のように見えるのでそう言い、また蟻(ぎ)蚕(さん)(ぎさん)などとも言いました。二つというのは二齢だからわかるが、三齢をふなおきと呼ぶのは意味が分かりません。庭起きというのは四齢まで箔飼(はくか)い(かいこあみの上で飼う2021-11-15
10養蚕農家の生活4 桑の手入れ 養蚕農家の生活4 桑の手入れ  4月は春祭りの時期です。桑は昨年の夏蚕用に切られ、15センチほど切り残された桑棒に、切られた後に発芽した細枝をつけてボサボサになっている。この棒を株すれすれに鎌で切除する作業を株直しといいますが、お祭りの前にこの作業を済ませることが我が家の例年の習いでした。越年した桑株はかたくて鎌でそぐのは子供の力では大変でした。鎌はよく切れることが大事で、それにはちょいちょい砥(と)ぐことでした。その砥ぎ方も父から習ったのです。600坪からある桑畑の株直しは我が家にとっては大変な作業で、父母が専門にやるばかりでなく、私たち子供もお祭り前に終わらそうとがんばりました。手の中は血豆がいくつもでき、指の付け根にタコができました。  桑の芽が出る前に全桑園に春肥をやります。それには大豆かすやアンモ2021-11-15
11塩尻小学校郷土資料館6 「蚕都物語」塩尻小学校郷土資料館6 「蚕都物語」塩尻地区には江戸時代後期から養蚕、蚕種製造の先駆者が生まれている。中でも養蚕技術書「新撰養蚕秘書(しんせんようさんひしょ)」を著した塚田与右衛門(つかだようえもん1715―1810)。 新品種「信州かなす」を発見し、「蚕かいの学(かいこかいのまなび)」を著わし、養蚕技術者を育成し、組合を作り品質の向上に尽力した藤本善右衛門縄葛(ふじもとぜんえもんつなね1815-1890)。 「養蚕教弘録(ようさんきょうこうろく)」を著わすとともに、かいこの飼育には湿度の加減が難しいことから乾湿計を考案した清水金左衛門(しみずきんざえもん1823-1888)が知られている。3人は時代が近いばかりでなく、その居宅も、北国街道に沿った100メートル四方内に近接している。 ①「蚕都物語―蚕種家清水金左衛門の遥かな旅路」(しみず たか2021-08-12
12蚕種の郷5 段々畑で作られていた作物は?蚕種の郷5 段々畑で作られていた作物は? 上田市誌の近現代編(2)「蚕都上田の栄光」の73Pの「桑園地地図」を見ると明治34年、太郎山山麓の塩尻村、上田町と記された場所は黒く塗りつぶされ、桑園になっていることがわかります。 さらに桑園は千曲川の両岸にも桑園が広がっています。今では見ることがない桑畑が、扇状地や河原、山の斜面に広がっていたのです。2021-06-25
132019西部地域まちあるき:藤本蚕業歴史館2019西部地域まちあるき:藤本蚕業歴史館 2019年6月14日に行われた西部地域まちあるき(上塩尻)では、藤本蚕業歴史館を見学しました。 かつて「蚕都」と呼ばれた上田市の中で、蚕種製造の中心地だった上塩尻。そしてその総元締めであったのがこの藤本工業(藤本蚕種)です。 館内には資料だけではなく当時の備品等も保管されており、タイムスリップが可能であれば蚕種製造をしたいと思いました。2021-01-29
14秋和の文庫蔵を訪ねる秋和の文庫蔵を訪ねる2020/2/17、地元の方々と学生と秋和文庫蔵を訪ねました。 秋和は蚕種製造の中心地であった塩尻村の中で、上塩尻、下塩尻と共に蚕種製造が営まれ、蚕都上田の興隆にも大きく貢献した一地域です。そうした近代の地域の背景を知る上でも地元の古い資料は欠かせないものです。 地域の文書保管のための文庫蔵の内部には明治以降の文書が段ボール箱やタンスに入れてしまわれています。具体的にどのような資料が保存されているのか、まだその目録化はされていないとのこと。しかし、これだけしっかりと明治以降の文書が残されていることはかけがえがありません。実に得難いことです。平成のものもあります。 いくつか手にした文書は「明治十八年 祭典諸事記載帳」「明治三十年度 人夫賃金支払帳 塩尻村秋和土木委員」「明治十年第三月 2020-08-25
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