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写真タイトル説明登録日
1秋和地区 蚕室造りの家の変遷(1)小林武彦さんの記録秋和地区 蚕室造りの家の変遷(1)小林武彦さんの記録小林武彦さんの紹介  小林武彦さんは、秋和在住で今年90歳になりました。長年専売公社に勤め、全国を勤務して回りました。  中学生の頃、担任の先生の導きで、郷土史に興味持つようになり、退職後郷里に帰ってからは、上小郷土史研究会に入り調査研究に励みました。とりわけ塩尻地区近代化遺産調査事業の委員として西部地域の製糸業の歴史や先人たちの取り組みについて調査をし、事業報告書作成の中心メンバーとして活躍されました。また、西部公民館主催講座「蚕都上田ものがたり」を通して、調査・研究を深めこの記録を作成しました。  西部地域に関わる小林さんから預かった調査記録を多くの方々、特に地元に生きる若い方々に知ってもらい、この土地に刻まれた先人の労苦と逆境を跳ね返す精神を伝えたいと考え「西部地域デ2023-10-18
2滝澤秋曉「司令塔」より⑤滝澤秋曉「司令塔」より⑤ 手塩にかけて育てた蚕が繭になった時(収繭)の喜びをこう書いている。     『5齢になって、蚕が部屋という部屋にいきわたって、予定の籠数をも通り越していく。この時、いろんな連中が来る。教員に引率された蚕業学校の生徒、支那人の留学生、役人や組合の技師、入れ替わり、立ち代わり応接も大抵なことじゃない。しかし、いい蚕を飼っているという確信があるから、案内しても気が引けることはない。  朝3時に起きて、午前午後とも休憩1回約30分ずつ、昼寝が1時間、夜寝るのが11時。いよいよ蚕をまぶし(蚕に繭を作らせるために、ワラで作った個室)に入れ、美しい繭が、蚕室の屋根裏から床板の上まで真っ白くきらびやかに満ち渡るのを見ると、いやだいやだと言い続けたのはどこの誰かという気持ちになる。  4月下旬から9月上2023-06-04
3滝澤秋曉邸滝澤秋曉邸 滝沢秋暁は、蚕種家であるとともに、上田を代表する近代文学者として文学史に名を残している。塩尻地区近代化遺産調査報告書には、以下のように紹介さている。 ・・・秋暁の生家は、蚕種業「両水館」を営み、江戸時代から関東甲信一円から奥州まで、蚕種の仕入れや、販売に出かけています。それらの旅先で入手した幅広い分野の蔵書が残されており、そういう環境で秋暁は、明治8年に生まれました。  明治28年、秋暁は「絵画修業」のため上京し、絵を学ぶかたわら雑誌「文庫」の記者となり、全国からの青少年の投稿作品の選と選評などの仕事をしながら、多くの文学者とも交流し、河井酔名、横瀬夜雨などを育てたといわれます。  しかし、明治29年9月、重い脚気のため帰省。秋和に住み、家業を手伝いながら「文庫」の批評や2023-05-20
4 ねこ瓦の会 地域散策 ねこ瓦の会 地域散策 2022 11月22日午前中にねこ瓦の会で上塩尻公民館前のつつ研さん前を出発し、元宿地区、下塩尻地区の散策をしました。元宿の古くから残る町並みと住宅、ねこ瓦の残る古民家、下塩尻の安政時代に設置された道祖神、名の残る住宅、ダチョウの飼育場所も見て歩きました。  会のメンバーの二人は、この地元出身で、久しぶりの散策に変わった所や、古くから残る所に懐かしさを感じながら、みんなの関心の有るところの情報交換もしながらで、楽しいものでした。冬でも風もなく、日差しも暖かく、元気に歩けました。2022-12-17
5西部地域まちあるき2019の記録西部地域まちあるき2019の記録 2018年に発足した「上田市西部地域まちづくりの会」は翌2019年度に本格始動しました。4部会の一つ「自然・生活環境部会」では地元地域の文化・歴史遺産・自然などをデジタルアーカイブ化・マップ化する活動を持続的な地域活動にしていこう、という方向で取り組みが始まりました。その活動の手始めにしたのが「西部地域まちあるき」です。 4月は西部地区(下紺屋町~生塚)、5~6月は塩尻地区(秋和・上塩尻・下塩尻)をまちあるきしました。部会のメンバーにとっては地元でありながら、地元自治会のエリアがより広域に広がった「西部地域」をお互いに詳しく見聞しあったことはなく、地元であ2020-08-25
6石垣石垣上塩尻地区に多く見られる石垣。上塩尻地区は山が近づくにつれ勾配が急になるため、石垣を組んで平たんにすることで立派な家にすることができる。この石垣からこれを作った人の奮闘が伝わってくる。歴史を体感できる場所だと思う。2020-01-10
7飯綱神社飯綱神社祀神は、「宇迦之御魂神(うがのごこんしん)」で、境内には天神社と金毘羅社が合祀され、本殿、拝殿、清殿、石の鳥居が備えられています。1798年(寛政10年)の再建と伝えられ、明治6年村社となりました。板に描かれた古い絵馬、俳句の掲額があり、毎年4月に例祭が行われています。なお、参道には尾崎行雄の記念碑が昭和12年に建立され、「公正自由なる選挙は立憲自治の基礎なり」と刻まれています。出典:『上田 しおじり』/塩尻地区近代化遺産活用ガイドブック編集委員会/ 発行 上田市教育委員会 2003年3月2019-12-20
8六寸街道六寸街道北国街道岩鼻の坂城町寄りの崖の中腹にある山道です。道幅がとても狭いため6寸街道と呼ばれ、崖下の道が洪水で通れないときに利用されました。街道の中の「親不知らず子知らず」に並ぶ難所でした。 出典:『上田 しおじり』/塩尻地区近代化遺産活用ガイドブック編集委員会/ 発行 上田市教育委員会 2003年3月2020-01-10
9去来(きょらい)の句碑去来(きょらい)の句碑『岩ばなや爰にもひとり月の客』の句碑が1799年(寛政11年)に地元の俳人らによって建てられました。碑石高110cm 幅60cm 雑草が生い茂る中で訪れる人もなく岩鼻の崖下にひっそりとたたずんでいます。「向井去来」(1651年~1706年)は、長崎で生まれた江戸前期の俳人で松尾芭蕉の十高弟のひとりでした。去来の句碑は全国で9基しかないといわれ、長野県では岩鼻の句碑一つだけです。 出典:『上田 しおじり』/塩尻地区近代化遺産活用ガイドブック編集委員会/ 発行 上田市教育委員会 2003年3月2019-12-20
10天狗岩(にっこり岩)天狗岩(にっこり岩)参勤交代が行われていた頃のお話。下塩尻山根地籍を通る北国街道は、断崖絶壁の岩と千曲川の急な流れに挟まれて、街道の中でもかなりの難所といわれていました。六寸街道を無事に越すことができた殿様は、お籠から出て一休みしながら山の中腹を見上げると、何やらふっくらとした割れ目がある可愛い岩を見付けました。お殿様は国元に置いてきた奥方様を思い出して思わずニッコリしましたとサ・・・。 出典:『上田 しおじり』/塩尻地区近代化遺産活用ガイドブック編集委員会/ 発行 上田市教育委員会 2003年3月2019-12-20
11社宮神(しゃぐじ)社宮神(しゃぐじ)中島集落の西のはずれの一角。梅の古木の脇に祠が祀られています。この祠は縄文時代から農村では物を産み出す大地の精霊(産土の神・うぶすなのかみ)として信仰されてきました。 出典:『上田 しおじり』/塩尻地区近代化遺産活用ガイドブック編集委員会/ 発行 上田市教育委員会 2003年3月2019-12-20
12天満宮天満宮1771年(明和8年)の創建と伝えられ、舟形の地形が特徴です。古い絵馬や俳句の額が掲げられています。明治6年に村社になり、かつては春秋の例祭には村人の踊り、大々神楽、相撲等が奉納されました。敷地内には、福島安正書の「菅公一千年記念碑」もあります。 出典:『上田 しおじり』/塩尻地区近代化遺産活用ガイドブック編集委員会/ 発行 上田市教育委員会 2003年3月2019-12-20
13水天宮水天宮下塩尻字日月地籍に舟人の守護神、水の神、安産の神として水天宮が祀られています。千曲川水系では比較的大きな社殿と言われ、毎年9月には神主が来場して区民が例祭を行っています。 出典:『上田 しおじり』/塩尻地区近代化遺産活用ガイドブック編集委員会/ 発行 上田市教育委員会 2003年3月2019-12-20
14郡道標識と半過の渡し舟郡道標識と半過の渡し舟「半過渡船ヲ経塩田方面」の郡道標識が昭和2年下塩尻の青年団によって建てられました。渡しがあった千曲川の川幅は約50mで、昭和16年頃まで主に対岸の人々が中島地籍に田畑を耕作するために利用していました。舟番と呼ばれる人が小さな小屋にいて、両側の人々が大声で舟番に呼びかけると舟を渡してくれました。 出典:『上田 しおじり』/塩尻地区近代化遺産活用ガイドブック編集委員会/ 発行 上田市教育委員会 2003年3月2019-12-20
15上塩尻地区の蚕室建築群上塩尻地区の蚕室建築群上塩尻地区の蚕室建築群模型2019-06-14
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