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1蚕種の里「上塩尻」の歴史と文化遺産を未来へ(講演)2023/01/18蚕種の里「上塩尻」の歴史と文化遺産を未来へ(講演)2023/01/18長野県建築士会上小支部等合同新年会で上塩尻に関する講演をしました。 ★講演:蚕種の里「上塩尻」の歴史と文化遺産を未来へ YouTube/60分  前川道博(長野大学企業情報学部教授、藤本蚕業プロジェクト代表)  2023/01/18 会場:上田東急REIホテル 江戸時代から蚕種製造の中心地だった上塩尻は優れた蚕種製造家を輩出してきました。各家々で蚕種製造が営まれ、現在も数多くの蚕種製造民家が残っています。城下町や宿場町など江戸時代の面影を残す歴史的景観地区は全国に数多くありますが、「蚕種製造民家群」の織り成す歴史的景観は上塩尻にしかありません。その特異性、希少性はかけがえがありません。 私にとっても上塩尻の大切さを紹介するよい機会をいただきました。上塩尻の魅力の再発見につながれば幸2023-02-02
2蚕種の里「意見交換会」蚕種の里「意見交換会」 まちあるきに続いて、塩尻公民館に場を移してマーティン・モリス先生(千葉大名誉教授)による「英国における古建築の保存と活用」についてのお話があった。  はじめに、日本人には、古いものは、時間がたつとなくなってしまうのが当然というあきらめがある。英国には、古建築と景観を保全・活用するという生活文化があり、保存の対象となっている古建築の数も圧倒的に多い。「古建築に生きている歴史を見ることが、一番の楽しみ。古建築は、私たちのものではない、預かっているものであり、壊さなけれなければ、次代に渡すことができる」という思いで、古い建物を、修復、再生し、住み、活用して保存する活動が活発に行われているとのこと。民家園を作り、各地の代表的な古民家を移築し、保存しています。あとはどうなろうとも知2022-11-26
3民有地開墾請願書民有地開墾請願書塩尻地区では山の尾根近くまで段々畑を作り、桑が栽培されていた。明治28年11月14日付で村民18名が連署し、下塩尻区長に提出された「下塩尻区民有地開墾請願書」には、その事情が記されている。 「…今や我が国の蚕業の盛大なる様子は、山川、荒野まで桑園になっていないところはない。しかし、わが区内の民有林は、桑園として地味豊かなのにもかかわらず、依然として草刈り場とするのみで、利益を上げられないでいる。今回、同志を募り同地(別紙図面)を借受け、開墾し、益々蚕業を盛大にすることは、村を豊かにするばかりでなく、国家の恩に報いることになる。ぜひ、許可を願いたい。」  別紙には、西は岩鼻、東は高津屋まで、合計10000坪を超える山の斜面の開墾を申し出ている。2022-09-15
4蚕種の郷13 衰退した養蚕製糸業蚕種の郷13 衰退した養蚕製糸業  なぜ、今、桑畑は無いのでしょうか。養蚕農家はどうなってしまったのでしょうか。 江戸後期から養蚕業は広がり、幕末に生糸が欧米に輸出されるようになると生産は一気に増加しました。大正の中頃、第一次世界大戦が始まると女性の社会進出が進み、欧米ではその足元を飾るストッキングに絹が使われ、生糸の輸出は更に増えました。この頃、生糸の価格は最高値をつけています。塩尻地区の桑園面積が最も大きくなったのも大正から昭和の初期でした。明治初期の畑の面積の4倍にもなっています。段々畑を山の急斜面に段々畑つくるばかりでなく、水田を桑畑に転換する所もありました。 ピークは昭和5年です。前年、アメリカに始まった株の大暴落は、瞬く間に世界中に広がり世界恐慌となり、生糸の輸出はストップし、養蚕農家や製糸工場2021-06-29
5蚕種の郷11 先人たちの努力と工夫蚕種の郷11 先人たちの努力と工夫 蚕種は、半紙大の蚕種紙に一粒並べに産卵されたままの状態で販売されました。農閑期になると蚕種業者は、生産した蚕種紙を背負ってお得意先の養蚕農家を回り、前年に渡した種紙の代金を受け取り、翌年用の蚕種紙を渡して周りました。良い繭がたくさん取れれば、その秘訣を聞き、取れなければ飼育方法を指導する蚕種業者は養蚕の優れた技術指導員でもありました。また、塩尻では、養蚕技術の改良や新品種の育成、組合を作って質の悪い蚕種が出回るのを防ぐなど品質向上の取り組みも行われ、蚕種の郷としての評判を支えました。幕末、外国との貿易が始まると塩尻の蚕種は、蚕の病気で養蚕業が全滅の危機に瀕していたイタリアやフランスにも輸出され、1枚3両から4両でいくらでも売れたそうです。 小さくて高価、また高度の技術で製造さ2021-06-25
6蚕種の郷10 蚕種製造に欠かせない歩桑(ぶぐわ)の栽培蚕種の郷10 蚕種製造に欠かせない歩桑(ぶぐわ)の栽培蚕の餌となる桑は、他の樹木と違って、その根を地中深く伸ばします。千曲川の洪水に流されることもなく、急斜面でも地下水を吸収して成長できるので干ばつにも強いのです。また、洪水は上流から肥えた土を供給してくれました。 さらに、岩鼻から吹き出す強風は、蚕の害虫カイコノウジバエの卵を桑の葉からふりおとしてくれます。そのため塩尻地区の河原や扇状地、山の斜面に育つウジバエの卵を産み付けられていない桑「歩桑(ぶぐわ)」は、蚕種製造には、欠かせないものでした。   写真は、バイパスののり面に桑の実を食べた鳥の糞から育った桑の葉2021-06-25
7蚕種の郷8 養蚕から蚕種製造へ蚕種の郷8 養蚕から蚕種製造へ塩尻では、豊臣秀吉の時代、文禄4年(1595年)の千曲川大洪水で壊滅的な被害を受け、水害に強い桑を植え、養蚕が始まったと伝えられています。江戸時代は、米を年貢として取り立てていたので田に他の作物を作ることは禁止されていましたが、しばしば水害に襲われる河原の畑や急な斜面の段々畑に桑を植え、蚕を飼うことは許されていました。中期には、稲作の合間に始めた養蚕の中でも蚕種製造に力を入れるようになり、後期には本場の奥州(東北地方)を追い越し、日本一の蚕種の生産地となりました。写真は、昭和20年ころ養蚕作業の様子(塩尻地区写真集より)です。養蚕は手がかかる仕事が多く、家族総出で作業しました。学校は、「蚕休み」にして子たちも手伝いました。写真は、蚕が作った繭を前に置かれた藁で作った「まぶし2021-06-25
8蚕種の郷4 戦前の写真には蚕種の郷4 戦前の写真には 写真は、「支那事変の戦没者村葬の様子(昭和12.13年)」(塩尻地区写真集)です。会場は今の塩尻小学校の校庭です。背後にみえる山腹には中ほどまで石垣と段々畑が広がっているのがよく分かります2021-06-25
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