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1上塩尻村の総合研究シンポジウム開催2023/03/21上塩尻村の総合研究シンポジウム開催2023/03/213月21日(火)、上田東急REIホテルで「『近世上田藩上塩尻村の総合研究Ⅱ』出版記念国際公開シンポジウム」が開催されました。 旧上塩尻村(現在の上田市上塩尻)では、江戸時代から蚕種製造が盛んとなり、それを背景に市場経済が発達し、併せて地域の共同性が育まれてきました。この日のシンポジウムは東北大学の長谷部弘先生、愛媛大学の高橋基泰先生らの研究グループによる上塩尻村研究の成果報告会です。 学術的でかなり硬派のシンポジウムにもかかわらず当日は発表者も含め40名近い参加がありました。旧佐藤宗家(代々当主が藤本善右衛門を名乗った佐藤一族の宗家)の史料をはじめとして、上塩尻の各家々や上塩尻文庫蔵の資史料などから歴史的な背景が解き明かされた研究が披露されました。 <当日のプログラム>敬称略 ①開会2023-03-26
2蚕種の里「上塩尻」(6)藤本蚕業歴史館とアーカイブサイト蚕種の里「上塩尻」(6)藤本蚕業歴史館とアーカイブサイト藤本蚕業アーカイブ(デジタル文書) ★藤本蚕業歴史館アーカイブ(史料目録) 藤本工業社屋2階に「藤本蚕業歴史館」が開設されています。2009年に開設されました。蚕種製造家だった旧佐藤宗家(藤本善右衛門)は1908年(明治41年)、企業体「藤本蚕業」に発展します。歴史館の建物は1927年、藤本蚕業の蚕室として建設された歴史的な建造物です。 同館は文書館(アーカイブス)と展示室(博物館相当)を併せ持つ複合的施設であることから「歴史館」と名付けられました。 見学は事前に予約が必要です。ただし常時、館内の見学、史料閲覧ができるよう『藤本蚕業アーカイブ』(次の2サイト)がインターネットに公開されています。2023-02-02
3蚕種の里「上塩尻」(5)佐藤家住宅と旧佐藤宗家蚕種の里「上塩尻」(5)佐藤家住宅と旧佐藤宗家蚕種の里「上塩尻」を代表する蚕種製造家は藤本善右衛門です。旧佐藤宗家の当主が代々藤本善右衛門を世襲してきました。1897年に刊行された『日本博覧図』には藤本善右衛門(佐藤宗家)の屋敷、宗家に隣接する分家の「佐藤尾之七」の屋敷の銅版画が収録されています。 佐藤宗家の更地となった屋敷跡からはその屋敷がいかに大きかったかがわかります。現存する蚕室も希少な建造物です。 「佐藤尾之七邸宅」は現存し「佐藤家住宅(三ツ引)」として上塩尻では初めての国登録有形文化財となりました。2023-02-02
4蚕種の里「上塩尻」(4)蚕種の里の研究と展示蚕種の里「上塩尻」(4)蚕種の里の研究と展示「蚕種の里」として知られていた上塩尻の歴史と文化は有識者・学者に研究されてきました。その中では1989-1992年の工学院大学山崎弘研究室による蚕種製造民家の調査が先駆的です。杉仁氏は江戸時代、上塩尻の蚕種製造家は高い教養を持ち、日本各地の人々と「俳諧」の趣味を通して交流していたという驚くべき文化史を探求しました。 国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)には卓越した蚕種の里「上塩尻」を紹介したコーナーまで設けられています。2023-02-02
5蚕種の里「上塩尻」(3)すぐれた蚕種製造家を輩出蚕種の里「上塩尻」(3)すぐれた蚕種製造家を輩出上塩尻の歴史の中でも特筆されることは日本を代表する蚕種製造家を輩出したことです。塚田与右衛門(つかだよえもん)、清水金左衛門(しみずきんざえもん)、藤本善右衛門縄葛(ふじもとぜんえもんつなね)は特に有名です。2023-02-02
6蚕種の里「上塩尻」(2)蚕種製造ってなに?蚕種の里「上塩尻」(2)蚕種製造ってなに?蚕種製造は「蚕の卵」を生産する産業です。蚕の卵は養蚕農家で育てる蚕を育てるためになくてはなりません。蚕の卵の多くを上塩尻で製造し、全国の養蚕農家に提供していました。 蚕糸業は昔日本の基幹産業でした。蚕の一生に沿って、蚕の卵(蚕種製造)→繭(養蚕)→生糸(製糸)と製造工程が分かれていました。 蚕の卵は孵化(ふか)が近づくと青紫色に変化します。上塩尻で蚕種製造は行われなくなりましたが、上田では現在もなお上田蚕種株式会社が蚕種製造を行っています。2023-02-02
7蚕種の里「上塩尻」(1)数多く残る蚕種製造民家蚕種の里「上塩尻」(1)数多く残る蚕種製造民家かつては日本一の蚕種製造地であった上塩尻では多くの家々で「蚕の卵」を製造する蚕種業が営まれていました。上塩尻には現在も数多くの蚕種製造民家が残り、地元の方々はそれらの古い民家をリフォームするなどして大切に保全活用しています。2023-02-02
8蚕種の里「上塩尻」の歴史と文化遺産を未来へ(講演)2023/01/18蚕種の里「上塩尻」の歴史と文化遺産を未来へ(講演)2023/01/18長野県建築士会上小支部等合同新年会で上塩尻に関する講演をしました。 ★講演:蚕種の里「上塩尻」の歴史と文化遺産を未来へ YouTube/60分  前川道博(長野大学企業情報学部教授、藤本蚕業プロジェクト代表)  2023/01/18 会場:上田東急REIホテル 江戸時代から蚕種製造の中心地だった上塩尻は優れた蚕種製造家を輩出してきました。各家々で蚕種製造が営まれ、現在も数多くの蚕種製造民家が残っています。城下町や宿場町など江戸時代の面影を残す歴史的景観地区は全国に数多くありますが、「蚕種製造民家群」の織り成す歴史的景観は上塩尻にしかありません。その特異性、希少性はかけがえがありません。 私にとっても上塩尻の大切さを紹介するよい機会をいただきました。上塩尻の魅力の再発見につながれば幸2023-02-02
9蚕種の里「意見交換会」蚕種の里「意見交換会」 まちあるきに続いて、塩尻公民館に場を移してマーティン・モリス先生(千葉大名誉教授)による「英国における古建築の保存と活用」についてのお話があった。  はじめに、日本人には、古いものは、時間がたつとなくなってしまうのが当然というあきらめがある。英国には、古建築と景観を保全・活用するという生活文化があり、保存の対象となっている古建築の数も圧倒的に多い。「古建築に生きている歴史を見ることが、一番の楽しみ。古建築は、私たちのものではない、預かっているものであり、壊さなけれなければ、次代に渡すことができる」という思いで、古い建物を、修復、再生し、住み、活用して保存する活動が活発に行われているとのこと。民家園を作り、各地の代表的な古民家を移築し、保存しています。あとはどうなろうとも知2022-11-26
10蚕種の里「上塩尻まちあるき」①蚕種の里「上塩尻まちあるき」① 晴天に恵まれた11月26日(土)、藤本蚕業プロジェクト主催の「上塩尻まちあるき」が、30余名が参加して行われ、登録有形文化財「佐藤家」、藤本(佐藤宗家)蚕室、原久史氏宅(旧馬場籐四郎邸)、清水卓爾氏宅(旧清水喜左衛門邸)、東福寺檀家信徒会館(旧滝澤邸)、加賀藩お休み処(清水氏宅)、小岩井紬工房などを巡った。  案内役のプロジェクトメンバー、ゲストのマーティン・モリス先生(千葉大学名誉教授)のほかに、持ち主や地域の皆さんによる説明、普段は入ることができない邸宅の庭まで見学でき、時間を超過しての内容濃い町あるきとなった。  参加した方々は、気抜きのある蚕種製造民家が集中し、見事な石垣が北国街道沿いに築かれている町なみに、蚕種の生み出した富の豊かさを感得していた。  詳しくは、「2022-11-26
11佐藤家住宅・旧佐藤宗家県見学会②佐藤家住宅・旧佐藤宗家県見学会② 信大の勝俣先生は、蚕室特有のつくりについて、温度、湿度、光を蚕の生育や時季に合わせてどのように調節するかがポイントであると話され、佐藤宗家の蚕室には、ここで開発されたことが他の地域に広まったのか、他に学び積極的に取り入れたのか、明治中期の蚕室のつくりについて先駆的な工夫や設備が見られるとその一つ一つを示しながら説明してくださいました。  地元の山崎民子さんは、可愛い猫(面)瓦から蚕種製造にかけた塩尻の人々の願いが伝わってくるし、また、その思いを次代にも伝えていきたいと話されました。    藤本蚕業プロジェクトでは、11月26日に「蚕種の里『上塩尻』まちあるき」を計画しています。今回の講師の先生のお話の詳しい内容は、情報サイト『藤本蚕業アーカイブ』をご覧ください。  2022-10-29
12佐藤家住宅・旧佐藤宗家県見学会①佐藤家住宅・旧佐藤宗家県見学会① 10月29日、藤本蚕業プロジェクト(代表:長野大学前川先生)主催の見学会が行われました。  佐藤家住宅の国指定有形登録文化財登録にご尽力された信大の梅干野(ほやの)先生は、江戸時代中期に始まった蚕種製造業の発展に伴い、明治になって屋敷がどのように拡張、増改築されたか建物にふれながら話されました。江戸時代には、2室だった蚕室が、明治になって9室に増え、他にはあまり見られない消毒室まで設けられています。  石垣や土壁など地元の素材を使った蚕種製造民家が狭い地域に今も多数残る上塩尻の景観は、日本の原風景ともいうべきであり、その価値を今後も訴えていきたいとの熱い思いの伝わる話でした。2022-10-29
13上塩尻蚕種製造民家群8 佐藤隆一邸④上塩尻蚕種製造民家群8 佐藤隆一邸④ 街道に面して、土塀が一部残されており、平瓦で葺き、猫瓦が飾られている。平瓦は江戸瓦とも言い、今は使われていない珍しいものである。猫瓦は、昔のものは運送トラックが通行中に破損してしまい、新しいものを送ってきたという。2022-06-18
14上塩尻蚕種製造民家群8 佐藤隆一邸③上塩尻蚕種製造民家群8 佐藤隆一邸③奥の部屋の柱には、なたでつけられた傷が残っている。明治2(1869)年、上田藩で起こった一揆「チャラ金騒動」で、質屋をしていたため一揆勢が押しかけ、打ちこわしされそうになったが、地元の人たちが「焼いてはいけない」と止めてくれという。 「チャラ金騒動」では、上田藩で庄屋や村役人、豪農商など5百数十軒が、焼き討ち、打ちこわしにあっている。2022-06-18
15上塩尻蚕種製造民家群8 佐藤隆一邸②上塩尻蚕種製造民家群8 佐藤隆一邸② 一階南側の座敷は昔のままで、西側にはめ込みの丸障子の明りとりがある。床の間には、書画の掛け軸がかけられ、落ち着きと風格が漂う。今は、3世代の家族が暮らすが、主に北側と2階を改装して生活の場としている2022-06-18
16上塩尻蚕種製造民家群8 佐藤隆一邸①上塩尻蚕種製造民家群8 佐藤隆一邸①佐藤宗家「藤本」の分家にあたる。明治39年、祖父が、後継ぎがなく絶家となった分家筋のこの家を買い取った。天保9(1839)年に建てられたと記録があるが、総2階建で気抜き屋根(越屋根)が貫いていることから、明治以降建て直したのではないかと考えられる。2階の東側の壁には、卯建(うだつ)がある。卯建は、他に数軒みられるだけで珍しい。 昭和15~16年頃まで、2階を蚕室として利用してきた。代々、藤本蚕業株式会社の経営に携わっており、藤本宗家が昭和2年焼失したため、藤本関係の古文書を裏の土蔵に保管してきた。西側の奥には門があり、今は別の持ち主のものだが、隠居部屋となっていた。2022-06-18
17上塩尻蚕種製造民家群7 藤本蚕業株式会社⑤上塩尻蚕種製造民家群7 藤本蚕業株式会社⑤ 昭和期になると蚕種製造が近代化され冷蔵や消毒、人工ふ化室などの設備が必要となり、また、大規模化した製糸工場が、蚕種を自家製造するようになり、蚕種製造家も個人経営では対応が難しくなった。蚕種家も会社化、組合化が進み、「藤本」も藤本蚕業合名会社、藤本蚕業株式会社と経営を変え、昭和2(1927)年、扇状地の下の国道沿いの平地に大きな製造所を新築し、昭和41(1966)年まで蚕種製造を行った。現在は、藤本蚕業歴史館として江戸時代から昭和中期までの2万点余の資料や備品を保存・展示している。屋根に出ている煙突は換気設備2022-05-30
18上塩尻蚕種製造民家群6 佐藤宗家「藤本」邸宅の第一蚕室 ④上塩尻蚕種製造民家群6 佐藤宗家「藤本」邸宅の第一蚕室 ④ 気抜き屋根の下は、床がすのこ状で2階の空気が抜ける屋根裏部屋となっている。信大の先生や学生が来て調査中。2階の部屋の外は、南側も北側も1間ほどのベランダになっていて、桑の葉や蚕具などを上げ下ろしできるようになっている。2022-05-30
19上塩尻蚕種製造民家群6 佐藤宗家「藤本」邸宅の第一蚕室 ③ 上塩尻蚕種製造民家群6 佐藤宗家「藤本」邸宅の第一蚕室 ③  1階、2階に合わせて4室の蚕室がある。高い天井を太い梁が支え、床は高く、暖房のため埋薪炉(まいしんろ)が施されている。1階の埋薪炉は、すのこの床の下に、横1m、縦2.8m、深さ80㎝ほどの大きさで、石を組み合わせて作られている。3段ぐらいに丸太を敷き詰め、間をもみ殻で埋め、上を石灰で覆い2か所に火をつけると、少しずつ4週間ほど燃え続けた。遅霜の心配のある春蚕(5月上旬から)の飼育には、暖房が必要だが、これほどの規模の設備はあまり見られない。2階にも規模は小さいが掘りごたつの状の埋薪がある。2022-05-30
20上塩尻蚕種製造民家群7 佐藤宗家「藤本」邸宅の銅版画 ②上塩尻蚕種製造民家群7 佐藤宗家「藤本」邸宅の銅版画 ② 写真は、佐藤宗家「藤本」の明治中頃の様子を描いた「藤本善右衛門邸宅」(「日本博覧図」M30年発行 上田市立博物館蔵より)の銅版画である。居宅は昭和2年に焼失し、現在残るのは門と右側の2階建土蔵とその手前の2階建第一蚕室・第2蚕室、土蔵2棟のみである。敷地は600坪ほどでこのあたりでは最も広いが、蚕種製造民家が立ち並ぶ狭い扇状地では、これ以上の敷地を確保することは難しかったのではないだろうか。周りはぼかされているが、実際には狭い小路があるだけで蚕種製造民家が軒を並べている。2022-05-30
21上塩尻蚕種製造民家群6 佐藤宗家「藤本」の第一蚕室 ①上塩尻蚕種製造民家群6 佐藤宗家「藤本」の第一蚕室 ① 藤本とは、佐藤本家の意味で、江戸中期の寛文年間(1661年~1673年)より、蚕種製造をしてきた。代々、養蚕や蚕種製造技術の開発・向上・啓蒙に力を注ぎ、全国一の「蚕種の郷」の基礎を築いた。明治以降も蚕種の品質向上に努め、藤本蚕業合名会社をつくり、今に至る。この蚕室は、明治23年に西筑摩郡新開村の古畑源重源昌富によって建造された。2022-05-30
22上塩尻蚕種製造民家群5 国の登録有形文化財「佐藤家住宅(三ツ引)」④上塩尻蚕種製造民家群5 国の登録有形文化財「佐藤家住宅(三ツ引)」④ 写真は、庭にある消火栓。 塩尻村では昭和4年、裏山の沢を水源にして水道が引かれた。当時、村長をしていたこともあり佐藤家には消火栓が設けられた。当時は、めったに見られない設備で現在も残っているのはここと佐藤宗家「藤本」だけである。2022-05-30
23上塩尻蚕種製造民家群5 国の登録有形文化財「佐藤家住宅(三ツ引)③上塩尻蚕種製造民家群5 国の登録有形文化財「佐藤家住宅(三ツ引)③ 写真は、銅版画が出された後に蚕具を消毒するために増築された消毒室。内部を漆喰で塗り固め、消毒薬(ホルマリン)が外部に漏れない構造になっている。信大繊維学部にもあったそうだが、今は見られない。2022-05-30
24上塩尻蚕種製造民家群5 国の登録有形文化財「佐藤家住宅(三ツ引)」②上塩尻蚕種製造民家群5 国の登録有形文化財「佐藤家住宅(三ツ引)」② 写真は、門を入って右手奥にある江戸時代に建てられた茅葺を鉄板で覆った平屋の主屋。右側は明治になって増築された2階建瓦葺、気抜きの屋根のある蚕室。主屋の裏に平屋茅葺(鉄板仮葺)の奥上段(座敷棟)がある。江戸末期から明治期に蚕種業が盛んになるにつれ、次々に増築改修され、蚕室は9部屋をかぞえるようなになった。蚕室づくりの家は、養蚕のために温度や湿度管理に注意が払われ、天井は高く、開口部は大きいが、壁を厚くするため、夏涼しく、冬もあまり寒くないという。 今後、いつまで、保存、管理ができるか心配されている。2022-05-30
25上塩尻蚕種製造民家群5 国の登録有形文化財「佐藤家住宅(三ツ引)」①上塩尻蚕種製造民家群5 国の登録有形文化財「佐藤家住宅(三ツ引)」① 佐藤家は先祖が室町時代に栃木県からやってきたと伝えられている。文禄4(1595)年の千曲川洪水で流された元宿から現在の山すその地に移り、江戸時代中期から蚕種製造を始めた。佐藤宗家「藤本」の分家にあたる。江戸時代には庄屋を務め、昭和の中期まで蚕種業を営んでいた。 江戸時代後期から明治時代にかけて建築された主屋、蚕室、物置、消毒室、文庫蔵、穀蔵、味噌蔵、屋敷神、門の9棟がR3年6月に国の登録有形文化財に登録された。 写真は、東南の方向から。気抜きのある2階建ての蚕室、門、物置が並んでいる。デジタル・マップの「塩尻小学校郷土資料館5」にあげた銅版画、佐藤尾之七邸宅(日本博覧図 明治30年発行)の現在の姿であるが、物置が2階建てになり、消毒室が増築されている。門の前の通りの奥には、佐藤宗家2022-05-30
26上塩尻蚕種製造民家群4 蚕種製造民家「清水卓爾氏宅」⑤上塩尻蚕種製造民家群4 蚕種製造民家「清水卓爾氏宅」⑤ 写真は、「清水卓爾氏宅」の明治中頃の様子を描いた「清水喜左衛門邸宅」(「日本博覧図」M30年発行 上田市立博物館蔵より)の銅版画である。母屋(蚕室)の裏側が北国街道。街道から下り玄関に至る坂道は、実際には、人力車一台が通行できる幅で、坂も急なため、荷車の通行も大変だったと思われる。手前、松の木の下には、湧水が見える。2022-05-30
27上塩尻蚕種製造民家群4 蚕種製造民家「清水卓爾氏宅」④上塩尻蚕種製造民家群4 蚕種製造民家「清水卓爾氏宅」④大沢の扇状地の扇端には湧水を利用した七つの池があり、かつては生活用水や蚕具を洗うのに使われた。門の外、左下に湧水がある。今も残る3か所の一つである。水神様を祭る祠には、慶長3年とあり歴史の古さを教えてくれる。2022-04-03
28上塩尻蚕種製造民家群4 蚕種製造民家「清水卓爾氏宅」③上塩尻蚕種製造民家群4 蚕種製造民家「清水卓爾氏宅」③土蔵の下に鉄筋入りのコンクリートで作られた地下室がある。夏でも室温が低いため、風穴の代わりに種紙に産み付けられた蚕種を保存し、ふ化の時期を遅らせた。 写真は、屋根に設けた気抜きを天窓のように採光に利用している。天井が高く、太い梁が力強さを感じさせる開放的な空間となっている。2022-04-03
29上塩尻蚕種製造民家群4 蚕種製造民家「清水卓爾氏宅」②上塩尻蚕種製造民家群4 蚕種製造民家「清水卓爾氏宅」②門を入って右側(東側)の2階建ての蚕室は、江戸時代に造られ、1階は居宅、2階蚕室として使われていた。西側の母屋は、明治29年に増築され、1階は居宅、2階は蚕室で、昭和20年代まで蚕を飼育していた。国の登録文化財に指定された佐藤尾之七邸と同じ、木曽上田村の棟梁、武居初太郎が建てた。  写真は、西側の母屋。気抜きの他に屋根の下に通風孔が設けられている。現在は、内部を改修して3世代の家族が暮らしている。2022-04-03
30上塩尻蚕種製造民家群4 蚕種製造民家「清水卓爾氏宅」①上塩尻蚕種製造民家群4 蚕種製造民家「清水卓爾氏宅」①旧北国街道を西に向かい新幹線の高架をくぐり、座摩神社の参道を過ぎ、坂を登り始めると左側に気抜きの屋根の二棟が迎えてくれる。一段下がったところにあるため、2階の蚕室の大きな窓や塗壁、気抜きのために屋根の上に小屋根(越屋根)を設けた蚕種製造民家が見えてくる。Google earthではまだ見ることができるが、数年前まで、街道の右側にも3軒の蚕種製造民家が並んでおり、「蚕種の郷」の入り口にふさわしい景観がみられた。2022-04-03
31蚕種製造民家群3 現存する蚕種製造民家蚕種製造民家群3 現存する蚕種製造民家上塩尻の養蚕家屋については、1989~92(平成元~4)年に工学院大学の研究チームが大規模な調査を行い23軒が調査対象となっている。また、平成14年に近代化遺産活用計画策定のための地域調査チームによる現地調査では、気抜きのない養蚕家屋も入れて37軒を対象にしている。 現在、気抜きの備わる蚕室を持つ民家は19軒、他に気抜きはないが、喚起のため窓を大きくして蚕室として使われていた家屋が数軒、近年、取り壊されたり、建て替えられたりした家屋が10軒弱あるが、狭い北国街道や小路に面しているため、工事が難しいこともあり、内部を改修するなど手を入れ、現在も住居として使われている家屋が少なくない。  写真は、緑点は蚕種製造民家、改築されたが景観に配慮して気抜き施した家屋もある。赤点は、平成14年の調2022-04-03
32上塩尻蚕種製造民家群2 蚕種製造の中心地:上塩尻「大村」の景観上塩尻蚕種製造民家群2 蚕種製造の中心地:上塩尻「大村」の景観蚕種製造の中心地上塩尻「大村」は、扇状地の斜面の50000㎡ほどの狭い土地に100戸ほどの民家が集中し、その半数以上が養蚕をし、蚕種製造を営む集落だった。 門構え、土塀、気抜き屋根を持つ白壁の総二階の蚕室を持つ江戸から明治にかけて建築された大きな蚕種製造民家が、狭い小路を挟んで立ち並ぶ景観は、他に例を見ない。写真は、 気抜きの屋根の並ぶ蚕種製造民家群を裏山から撮ったもの。手前の山の下を左右に北国街道が通る。2022-04-03
33上塩尻蚕種製造民家群1 蚕種製造の中心地:上塩尻「大村」上塩尻蚕種製造民家群1 蚕種製造の中心地:上塩尻「大村」明治30年発行の「長野県小県郡熱心蚕種製造家一覧」には、上田町を中心に郡下163戸の蚕種製造家の氏名が記載されている。その2/3の107戸は、旧塩尻村(上塩尻58,下塩尻20、秋和29)がしめている。塩尻とともに西部地域に属する(鎌原7,諏訪部2)も加えると上田盆地の西部、千曲川北岸が蚕種製造の中心だったことがわかる。 上塩尻の中でも53戸の蚕種製造家が集中している「大村」(字:北側・南側)は、千曲川と虚空蔵山に挟まれた大沢の扇状地の斜面で、千曲川の洪水を受けにくく、江戸時代には信越、北陸を結ぶ北国街道が通っていた。上塩尻村の中心である「大村」は、扇状地の上部を北国街道が西の扇端部に向かって下り、平坦部を通る国道18号線とがけ下で交わる西端地点を頂点し、東500mの塩尻小学校の西縁とそこから北に向2022-04-03
34蚕種の郷10 蚕種製造に欠かせない歩桑(ぶぐわ)の栽培蚕種の郷10 蚕種製造に欠かせない歩桑(ぶぐわ)の栽培蚕の餌となる桑は、他の樹木と違って、その根を地中深く伸ばします。千曲川の洪水に流されることもなく、急斜面でも地下水を吸収して成長できるので干ばつにも強いのです。また、洪水は上流から肥えた土を供給してくれました。 さらに、岩鼻から吹き出す強風は、蚕の害虫カイコノウジバエの卵を桑の葉からふりおとしてくれます。そのため塩尻地区の河原や扇状地、山の斜面に育つウジバエの卵を産み付けられていない桑「歩桑(ぶぐわ)」は、蚕種製造には、欠かせないものでした。   写真は、バイパスののり面に桑の実を食べた鳥の糞から育った桑の葉2021-06-25
35蚕種の郷9 なぜ、蚕種の郷に?蚕種の郷9 なぜ、蚕種の郷に? 蚕種製造は、蚕が作った繭の殻を破って出たオスとメスの蛾を交配させて、メスの蛾に、厚手の紙(産卵台紙)に卵(蚕種)を産みつけさせます。卵を産み付けられた産卵台紙(種紙)販売するのが蚕種業です。大事なことは、卵から生まれた蚕が病気に強いか、その蚕が吐いた糸の品質が良いかです。塩尻の先人たちが生み出した蚕種は、強健であり、発育が早く桑の食い方も活発で飼いやすく、繭の形もよくそろい、糸量も多いと人気を呼び、蚕種の郷・塩尻の名が全国に知られるようになりました。  こうした品質の良い蚕種が作られるようになったのは、上田地方、とりわけ塩尻が養蚕・蚕種製造に向いた場所だったからです。 写真(「養蚕・製糸」(上田市立博物館)より)は、産卵台紙にメスの蛾が卵を産み付けている様子。白い粒が卵。卵2021-06-25
36蚕種の郷8 養蚕から蚕種製造へ蚕種の郷8 養蚕から蚕種製造へ塩尻では、豊臣秀吉の時代、文禄4年(1595年)の千曲川大洪水で壊滅的な被害を受け、水害に強い桑を植え、養蚕が始まったと伝えられています。江戸時代は、米を年貢として取り立てていたので田に他の作物を作ることは禁止されていましたが、しばしば水害に襲われる河原の畑や急な斜面の段々畑に桑を植え、蚕を飼うことは許されていました。中期には、稲作の合間に始めた養蚕の中でも蚕種製造に力を入れるようになり、後期には本場の奥州(東北地方)を追い越し、日本一の蚕種の生産地となりました。写真は、昭和20年ころ養蚕作業の様子(塩尻地区写真集より)です。養蚕は手がかかる仕事が多く、家族総出で作業しました。学校は、「蚕休み」にして子たちも手伝いました。写真は、蚕が作った繭を前に置かれた藁で作った「まぶし2021-06-25
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