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登録リスト(該当:16件)

写真タイトル説明登録日
1下諏訪倉庫跡・西友下諏訪店下諏訪倉庫跡・西友下諏訪店大門通の「西友下諏訪店」。かつてはここに明治33(1890)年創業の「下諏訪倉庫(株)」が明治44(1911)年に建てた土蔵の繭蔵倉庫があり、製糸業を支えてきた。その後、繭のにおいの残る館内は、下諏訪倉庫創立関係資料・風乾(自然乾燥)当時の繭保管棚や選繭台・養蚕用具・昭和6(1931)年の見本繭や生糸・機織り機・三井組製糸場その他関連の古い写真などを展示している「下諏訪倉庫蚕糸博物館」となっていた。しかし今は写真のように大型スーパーに変貌し、時代の流れが大きく風景を変えてしまっている。2022-03-24
2昔の岡谷昔の岡谷昔の岡谷。入山の倉庫。2020-03-06
3旧ダイヤ豆腐社の煙突旧ダイヤ豆腐社の煙突ダイヤ豆腐工場は現JR中央線沿い北四王に敷地面積2500坪で昭和9(1934)年に旧湖畔倉庫を買収して開設された。当時の諏訪地区特産の氷(凍り・こおり)豆腐の大半(90%)を生産していた。写真は旧ダイヤ豆腐社の煙突。2021-04-01
4萩倉のカネキ製糸場萩倉のカネキ製糸場山峡の製糸王国をしのばせる遺構、萩倉カネキ製糸所の炊事場兼工女宿舎。海抜940mの萩倉、戸数34戸の小村に、。明治12(1879)年機械製糸が導入され30年代には7工場、職工男女合わせて500人余りの製糸の町ができた。3~5層の白壁・多窓の繭倉庫が建ち並び、酒や肉の店、飲食店、銭湯から駐在所までできた。そして明治34(1901)年には町場より早く電灯がつき、明治38(1905)年には私設電話がひかれるなどシルクラッシュに湧いたが、明治38(1905)年の国鉄中央東線の開通とともに工場は町へ下り、萩倉は再び山峡の村に戻った。2022-06-12
5信濃産業の倉庫取り壊し信濃産業の倉庫取り壊しこの倉庫大正の初めころ製糸会社の繭倉として建てられ、これを移築し蚕種会社が蚕種生産用に使ってきた。黄土色の土壁五層の堂々たる構えは、かつてのシルク王国の繁栄を忍ばせる記念碑的な建物のひとつといってよいものだった。信濃蚕業(イングスシナノ)の木造五層の蚕種倉庫取り壊し。これが地上から消えて、製糸王国はさらに遥かなものになった。2021-04-01
6繭の運搬風景繭の運搬風景軽トラックで中国産の繭を町内倉庫から岡谷の工場へ運ぶ国用製糸業者。国内の繭生産量は昭和12(1937)年をピークに減少、平成元年当時、中国、北朝鮮などから年間約1,500トン輸入しており、この製糸業者も、10年ほど前から入れ始めた中国繭が、今では主体になっているという。「諏訪湖の町の平成元年」の撮影メモから、緑町の斉藤製支店前の撮影と思われる。2020-03-06
7下諏訪倉庫下諏訪倉庫大きな蚕庫から時代の流れで倉庫業に転進、倉庫の一部は蚕庫の遺品として博物館となっていたが取り壊されて、現在はスパーマーケット(西友)となった下諏訪倉庫。2020-03-06
8信濃蚕業信濃蚕業下諏訪駅東にあった信濃蚕業、現在は(株)イングスシナノに社名が変わった。2021-04-01
9製糸工場製糸工場倉庫から運ばれてきた繭とそれを選別している様子。2020-03-06
10大鳥居のある街角大鳥居のある街角春宮大門大鳥居と参道。正面は諏訪大社春宮の870mに及ぶ参道。鎌倉時代には流鏑馬が行われていたらしい。かつては見事なさわら並木で、昼なお暗い道だったという。鳥居の後方左の大きな建物は製糸時代の繭倉で平成元年は倉庫会社の倉庫になっていた。 現在は西友下諏訪店になっている。2020-03-06
11旧西友旧西友旧西友店頭風景。現在は大門通り(諏訪倉庫跡地)へ移転したがこの時は、中央通りの建物の中にあった「西友」の店舗。2020-03-06
12商業組合ビル完成記念写真商業組合ビル完成記念写真下諏訪商業協同組合は前身が下諏訪商業組合で大正13(1924)年に設立し、物品の共同購入・保管・金融業務などを行い、昭和15(1940)年に事務所・倉庫を設置していた。(現在の日本電産サンキョウ入り口の場所) さらに昭和22(1947)年に商業協同組合に改組している。写真は昭和15(1940)年の下諏訪商業組合ビル完成記念の時のものである。 その後、現在の商工会議所は昭和62(1987)年に鷹野町に新築移転している。2020-03-06
13春宮大門先石燈篭と 丸三倉庫春宮大門先石燈篭と 丸三倉庫旧中山道添の春宮大門先石灯篭(常夜灯)〔文政12年(1829)建立〕から春宮大門の銅鳥居を望む。鳥居の奥に見える屋根は第五倉庫、常夜灯横の建物は事務所。丸三倉庫現下諏訪倉庫(三井)の六号倉庫で昭和44(1969)年諏訪信用金庫下諏訪支店(信金は昭和38(1963)年四ツ角に新築、昭和44(1969)年12月現在の場所に移転した。)丸三倉庫は「倉荷証券」を発行し金融事業も手掛けた。支配人は小口文次郎他に共同倉庫、湖国倉庫(現イングスシナノ、大和電気)をも担当したが両倉庫とも「空券事件」により廃業となった。 改修後の写真№575と比較して見ていただきたい。2020-03-06
14春宮大門先石燈篭と丸三倉庫(現諏訪信金下諏訪店)春宮大門先石燈篭と丸三倉庫(現諏訪信金下諏訪店)旧中山道添の春宮大門先石灯篭(常夜灯)〔文政12年(1829)建立〕から丸三倉庫(現諏訪信用金庫下諏訪店)を左に見て、春宮大門の銅鳥居を望む。丸三倉庫№576(昭和37年)との違いが見える。2020-03-06
15駅前通駅前通下諏訪駅頭に観光協会が宮大工の手により、諏訪神社の古い御柱で鳥居を建てる。鳥居は昭和13(1938)年から昭和25(1950)年までありその後は観光看板に変わった。左手前から菅野旅館・山十組・山八製糸の倉庫、右側は米本旅館。№394と比較して見ていただきたい。2020-03-06
16萩倉のカネキ製糸場萩倉のカネキ製糸場山峡の製糸王国をしのばせる遺構、萩倉カネキ製糸所の炊事場兼工女宿舎。海抜940mの萩倉、戸数34戸の小村に、。明治12(1879)年機械製糸が導入され30年代には7工場、職工男女合わせて500人余りの製糸の町ができた。3~5層の白壁・多窓の繭倉庫が建ち並び、酒や肉の店、飲食店、銭湯から駐在所までできた。そして明治34(1901)年には町場より早く電灯がつき、明治38(1905)年には私設電話がひかれるなどシルクラッシュに湧いたが、明治38(1905)年の国鉄中央東線の開通とともに工場は町へ下り、萩倉は再び山峡の村に戻った。2021-04-21
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