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登録リスト(該当:7件)
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1
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写真
タイトル
説明
登録日
1
徳本上人名号塔(髙木薬師堂跡)
下諏訪町に4カ所ある名号塔の一つ。 「諏訪藩一村限村地図」にも記されている諏訪百番の西25番札所。明治6(1873)年に念仏堂は、高木学校になりその後下諏訪学校に合併。現在は取り壊されている。 薬師堂にあった石造物(庚申塔・三十三夜供養塔・地蔵尊)は道路わきに移し並べられている。
2022-03-19
2
六地蔵尊
昭和の初め頃まで葬式は野辺の送りなどと言われ、り行列新仏を神輿で担ぎ行列をそろえ上の段の「おまわり場」で旦那寺(だんなでら)の和尚様から引導(いんどう)してもらった。この地蔵様はそこに祀られていたが、葬儀の様式が変わり使われなくなり、若宮墓地への登り口へ移された。
2021-12-23
3
かなやき地蔵・来迎寺
来迎寺境内にある銕鐃(かなやき)地蔵にちなむかねと銕鐃地蔵の伝説を大和作内がブロンズ像にしたもの。 かねという奉公娘が弁当を地蔵に備えていたのを主人の妻に叱られ火箸で額にやけどを負わされたが、地蔵が身代わりとなったことで女主人は改心。やがてかねは都に出、和泉式部となったという伝承。境内には地蔵尊が祀られているお堂があり、一年に一度御開帳されている。
2022-03-19
4
いいなり地蔵
誰の願いもかなえてくれるというので言成地蔵尊(いいなりじぞうそん)。かつて下社の神宮寺の境内に安置され、善男善女の信仰熱く参詣する人が絶えなかったというが、明治元(1868)年に神仏分離令が公布され、神宮寺が廃寺になったとき、萩倉に移されたが、毎日少しずつ前にあった方に移動するので信者たちは驚き、元の位置に(現在地)に安置しなおしたと伝えられる。
2021-06-23
5
かなやき地蔵御開帳
「かなやき地蔵」御開帳。信心深い下女おかねが地蔵尊に救われ、都に上って和泉式部になったという説話が伝えられている。この日一年に一度かなやき地蔵が御開帳になる。
2020-03-06
6
来迎寺
知恩院を本山とする浄土宗寺院で引接山聖聚院来迎寺という。寺の由緒によれば天文10(1541)年草創という。 来迎寺は明治40(1907)年10月7日の火災で本堂、庫裡を失ったので、翌年東筑摩洗馬村の廃寺を移して庫裡として、昭和11(1936)年本堂を再建(棟梁立石初三郎)、同32(1957)年鐘楼、梵鐘をつくる。同寺の鉄焼(かなやき)地蔵尊とお堂は町の文化財に指定されている。 山門左手前の道路は明治29(1957)年に開さくされた中山道の新道(お花見新道・国道)である。
2020-03-06
7
下社神宮寺方丈跡の石垣
かつて下社秋宮の東側には下社神宮寺が16200坪とも言われた境内に仏殿千手堂や三重塔、仁王門、弥勒堂、方丈が建立され、たくさんの院坊が付属していた。 明治維新の時、太政官布告明治元(1968)年大政奉還で「神仏判然令」により仏教が排撃を受け、仏像の一部は他の寺に逃れたものもあったが、下社神宮寺は破却されてしまった。 写真は高台にあった下社神宮寺大坊方丈の石垣の跡である。(現言成地蔵尊横の石垣)
2020-03-06
≪
1
≫
来迎寺(2)
いいなり地蔵(2)
和泉式部(2)
若宮(1)
地蔵菩薩(1)
銕鐃地蔵(1)
神宮寺跡(1)
六地蔵(1)
薬師堂(1)
名号碑(1)
石造物(1)
高木(1)
念仏堂(1)
来迎寺境内(1)
御開帳(1)
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