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写真タイトル説明登録日
1御騎馬行列の豆人形御騎馬行列の豆人形この作品は御柱祭里曳の神賑わいのパレードで披露される騎馬行列を再現した豆人形です。人形は2013年に他界した故田中とくさん(下諏訪町富士見町)の作品です。旧制高等女学校で手芸などを学び、若かりし頃の恩師の教えを受けて製作。人形は15~20cmほどの大きさ、「騎馬大将」「曲傘」「草履取り」「先ほこ」「旗持ち」「長持ち」など38体が並んでいます。2022-04-20
2徳本上人名号塔(髙木薬師堂跡)徳本上人名号塔(髙木薬師堂跡)下諏訪町に4カ所ある名号塔の一つ。 「諏訪藩一村限村地図」にも記されている諏訪百番の西25番札所。明治6(1873)年に念仏堂は、高木学校になりその後下諏訪学校に合併。現在は取り壊されている。 薬師堂にあった石造物(庚申塔・三十三夜供養塔・地蔵尊)は道路わきに移し並べられている。2022-03-19
3萩倉公会所(旧萩倉学校跡)萩倉公会所(旧萩倉学校跡)明治8(1875)年「萩倉学校」として設立し、「萩倉派出所」「萩倉教場」「萩倉分校」と校名変更がなされたが、生徒数の減少によって、昭和41(1966)年に廃校となったその後萩倉青少年ホームとして使われていたが、現在は萩倉公会所に改築されている。2022-03-24
4社中学校社中学校昭和57年(1982年)4月に下諏訪中学校から分かれて開校した下諏訪社中学校。眼下に諏訪湖を望み、遥かに南アルプスと霊峰富士を望める望湖台に建つ。 「絆」を建学の精神とし、学校教育目標「強く、賢く、頼もしく」(平成23年度改定) を掲げている。2022-03-19
5犬射馬場跡標石犬射馬場跡標石犬射馬場四至ノ標石の内、北東と東南隅の写真。山王台の下に郷殿という諏訪明神大祝の屋敷(下諏訪中学校あたり)があり、この屋敷の西続き下の段を馬場(ばっぱ)といい、犬射馬場があった。鎌倉時代の武士たちは、日ごろから笠懸・流鏑馬・犬追物などの鍛錬に励んでいた。この馬場では主に犬追物を行い、またその事にまつわる祭場でもあった。江戸時代になりそれらが廃ると馬場には人家ができるなどしたため、享保18(1733)年、さらに明和6(1769)年に神社・氏子立ち合いで検地確認したという。これはその時の標石である。2022-03-19
6法泉寺法泉寺福沢山清泰院法泉寺、浄土宗の寺。室町時代に開山されたと伝えられているが、文政年間の火災のため資料を欠き詳細は不明。江戸時代から明治維新までは寺子屋として、明治7年から明治23年までは東山田学校(郷学)として使用された。門前には東山田学校跡、六地蔵菩薩を祀ってある石碑や石佛がある。前を通る道は塩尻道と呼ばれ、中山道の近道として利用されていた。道を挟んで東側を福沢川が流れている。2022-03-19
7下諏訪町役場庁舎下諏訪町役場庁舎下諏訪町の前身の下諏訪村が明治7(1874)七カ村が合併してできた(本陣方)。その後役場は明治10(1877)年に下諏訪学校、明治19(1886)年に来迎寺、明治22(1893)年には庁舎を新築し立町に移っている。その後明治26(1893)年に町制施行され、大正14(1925)年に役場庁舎を大社通に新築した(旧役場)。さらに昭和45(1970)年に現在の鷹野町の新庁舎が完成し、現在に至っている。2021-08-05
8濁流、国道を渡る濁流、国道を渡る平成18(2006)年7月19日未明の豪雨災害。 氾濫した承知川の濁流が線路を渡り、南小学校付近の道路方面に流れている。 正面に見えるのは有賀商店(現在は駐車場になっている)2020-09-09
9冠水した線路冠水した線路平成18(2006)年7月19日未明の豪雨災害。 大和電機工業㈱前のJR線路内が冠水。 承知川のはんらんで国道20号線を超えた水が一気にJRの線路へ流れ込み、数百メートル離れたイングスシナノ付近から側道に流れ出た。このためポイントが故障し、下諏訪中学校下の甲州第三踏切は遮断機が下がったままの状態になった。2020-09-09
10萩倉分教場(萩倉分校)萩倉分教場(萩倉分校)明治8(1875)年に開校した萩倉文教場(分校)は本校へ統合し教育効果を高めるため、昭和41(1966)年4月2日、92年の長い歴史を閉じました。ここは小学4年までの児童約700人が子らまで学びました。紫綬褒章を受けたメンデル遺伝学の権威篠遠喜人氏はこの分校の出身。 廃校後は青年ホームとなり青年活動の拠点となった。また、農繁期には季節保育園や民謡の練習小中学校の行事等多くの人々が利用した。現在この場所には萩倉公会所が建てられている。2022-04-12
11下諏訪小学校下諏訪小学校写真上は下諏訪小学校(現下諏訪南小学校の旧校舎)の校門と玄関。写真下は諏訪湖方面からの撮影、学校のまわりは田んぼに囲まれている。 下諏訪学校の「南校」(低学年)が南四王に開設されたのは大正12(1923)年である。さらに昭和22(1947)年に戦後の新しい戦後教育制度のもと「下諏訪小学校」が発足している。また、児童の増加から昭和46(1971)年には新たに「下諏訪北小学校」が開設され、それまでの「下諏訪小学校」は「下諏訪南小学校」として新しい歴史を刻んできている。2022-01-20
12諏訪女子学園諏訪女子学園入り口に「諏訪女子学園」の看板がある。 諏訪女子学園は、昭和42(1967)年度に西弥生町(富士見橋下)旧自動車練習場跡1.000坪を買収して新築工事に着手、体育館竣工と同時に入校し、続いて昭和43(1968)年3月に本館が落成した。 高等部(高等学校)、専門部(短大)がおかれた。学校組織は学園長阿木翁助(写真手前左端;日本放送作家協会理事長)、校長浜倫久以下職員17名、生徒は5学級234名であった。2021-12-26
13街並み街並み旧甲州街道(甲州道中)、下諏訪中学校近くの建物、建物横に見える長い棒ははざかけ棒と思われるが、土壁とともに懐かしさを感じさせる。2020-03-06
14街並み街並み旧甲州街道(甲州道中)。上久保(下諏訪中学校)付近の街並み。このカーブの先右には土田墓地がある。2020-03-06
15駒形稲荷駒形稲荷社ヶ丘団地は字駒形と呼ばれる地籍で、古く朝廷へ御用の馬を献上する勅使牧が置かれていたといわれる(萩倉の牧)。駒形は古代馬の形像を崇拝した最も原始的な信仰で、萩倉牧の馬神を祀る神社として創立されたものだろうといわれている。社中学校の北方に「馬飼場」という字名も残っている。2020-03-06
16野球大会出場前日野球大会出場前日諏訪中学校野球部主催の郡下の野球大会が毎年春秋二季行われ、小学生ばかりではなく父兄も町村の人々もその勝敗に熱中した。諏訪中の校庭に集まるのは全郡下のほとんどの小学校で学校の規模の大小を問わず各1チームを編成して参加した。長い伝統に輝く大会だった。岡谷や川岸の小学校もみな歩いて行った。下諏訪からも往復三里も遠しとせずに応援に出かけたという。2020-03-06
17下諏訪小学校増築記念下諏訪小学校増築記念「下諏訪小學校増築落成記念、昭和二十三年十二月二十八日」。2020-03-06
18町制施行100周年事業町制施行100周年事業育てたアマゴを砥川に放流する下諏訪北小学校の児童たち。2020-03-06
19町制施行100周年事業町制施行100周年事業町制施行100周年記念下諏訪町植樹祭の垂れ幕と下諏訪北小学校の旗が見える。町の理事者(高木町長など)の姿も見える。下諏訪北小学校には「みどりの少年団」があり「アマゴの放流」など自然環境について学ぶ学習が行われている。2020-03-06
20高林選手高林選手高林清高選手。岡谷工業学校時代は戦争中で活躍の場はなかったが明治大学に進んでから日本を代表するスプリンターとなる。日本選手権では500mに3連覇。オリンピックで6位入賞を果たした。昭和29(1954)年日本初世界選手権札幌大会では銅メダルを獲得した。2020-03-06
21記念写真記念写真下諏訪学校。2020-03-06
22塩尻龍権現社塩尻龍権現社立木種清作と伝わる塩尻市宗賀の塩尻龍権現社。立木種清(1832~1908)は下諏訪に生まれ、立川和四郎冨昌(立川流2代目)の弟子。数々の作品の中には国宝旧開智学校の登竜門や下諏訪学校の龍門なども手がけている。2021-04-22
23第10区運動会第10区運動会第10区運動会の様子。体育の日、区民運動会で楽しむ、晴天続きで、この日も汗ばむほどの好天、町内会対抗の二人三脚リレーに声援がわいた。会場は南小学校校庭。2020-03-06
24英語授業風景英語授業風景下中の外人講師による英語授業。下諏訪町では昭和59(1984)年度から外国人講師を雇っている。平成元(1989)年度予算は460万円。講師はカリフォルニア大学学院生(28歳)日本史専攻・柔道初段。写真は中学二年の授業風景。2020-03-06
25演奏会演奏会村の鎮守(高木津島神社)の舞屋(江戸末期の建築)で行われた小澤征爾・ロストロボーヴィッチ・桐朋学園大学生の弦楽アンサンブル。一行は飛騨白川村、伊那谷大鹿村に続いて下諏訪町高木を訪れ、諏訪養護学校の子供たちにチェロ協奏曲を聴かせた。この演奏の旅、ロストロポーヴィチ(62)の希望で実現したものという。小澤征爾はこの日が55歳の誕生日だった。2020-03-06
26むらの語り部むらの語り部写真は「村の歳時記(全4巻)」著者。「ワープロで本の原稿を進める85歳」今井久雄氏。「村の歳時記」は明治・大正・昭和の下諏訪町の民族・歴史について書かれている。今井久雄氏は明治37年富部に生まれ、旧制諏訪中学校を中退した後、自宅の養蚕業に従事した。その後、下諏訪町青年会長、教育委員長、公民館長などを歴任した。2020-03-06
27北小「はだしの生活」北小「はだしの生活」下諏訪北小学校「はだしの生活」。下諏訪北小学校では10年ほど前から「はだしの生活」に取り組み、運動会もはだしで行っていた。2020-03-06
28高木西区画整理地高木西区画整理地湖を見はらす山の手に、組合施行の区画整理事業で造成された宅地。分譲は入札で3.3hm当たり32万5000円の値がついた。高木西区画整理地。写真の後方に見える赤い屋根は元の諏訪養護学校。2020-03-06
29社中1年生植樹祭社中1年生植樹祭社中生の植樹祭。学校周辺に「ガマズミ」などの実のなる木を植える社中1年生。社中生の体操着は写真のぐり^ンのものから現在は違うデザインに変わっている。2020-03-06
30少年野球開会式少年野球開会式町の少年野球開会式の入場行進。参加チームはA(6年生がいるチーム)13、B(5年生以下のみ)10、少年野球は子どもたちの人気だった。会場は下諏訪南小学校校庭。2020-03-06
31諏訪実高下諏訪分校閉校式諏訪実高下諏訪分校閉校式諏訪実高下諏訪分校閉校式の日の校舎と記念碑。分校の跡地は現在下諏訪中学校の屋根付きプールとなっている。2020-03-06
32謝恩会謝恩会小学校6年間の感謝を込めて体育館で謝恩会。下諏訪北小学校。2020-03-06
33授業風景授業風景下諏訪中学校3年生の国語の授業。小口崇博先生の授業風景。2020-03-06
34下諏訪中学校下諏訪中学校下諏訪中学校の職員室。この日は参観日で、職員室の予定黒板には、午前は自由参観、午後は学年学級懇談会の予定が書かれている。2020-03-06
35下諏訪北小卒業式下諏訪北小卒業式小学校の卒業式、在校生に送られて式場を去る卒業生。町内二つの小学校で429人が巣立った前年より15人増だが平成元年度からは減少に転じた。2020-03-06
36犬射馬場、上馬場の標石。犬射馬場、上馬場の標石。諏訪大社の神官は上代末から中世までは武士であった。そのため練武の場を設けて武技を練り、神事にも取り入れられていた。犬射馬場は神殿の西続きにあり、現在も上馬場(かみばっぱ)の名を残している。享保18(1733)年検地をし、四隅に標石(武居入りから出土している「六方石」が使われている)が立てられた。東西約152m南北約73m周囲約450m。(下諏訪町の文化財には455m、下諏訪町の歴史には488mなどの記述も見える) 「下諏訪町の文化財」には、東北隅の標石は「享保十八癸巳年三月改、明和六己巳八月廿五日御宮奉行氏子方立会改候所、享保年中検地之節(境)目石書付。当社馬場依是南江。依是西江。」 北西隅の標石は「享保十八癸巳年三月改、従是東江八十三間二尺。当社之馬場従是南江四拾間二尺。」 東南隅の標石は「当社之馬場従是北江三2020-03-06
37諏訪実業高校下諏訪分校最後の授業諏訪実業高校下諏訪分校最後の授業終戦後昭和23(1948)年それまでの青年学校並びに実科高等女学校が廃され諏訪実業高校下諏訪分校が下諏訪中学校に併設された。それから約40年後、生徒が3人だけになってしまい、昭和63(1988)年度を持って閉校と決まった。この日は3月4日の卒業式を前に生徒3人が午後5時半最後の授業の席に着いた。下諏訪分校(夜間)最後の授業。2020-03-06
38学校林に植栽学校林に植栽明治39(1906)年5月12日、下諏訪小学校生徒が植林に参加。この年には赤松18万本を植栽したという。また学校林の位置が分かる地図が「写真が語る下諏訪の百年」 66pにあるので参照されたい。 学校林の植栽の様子は、明治39(1906)年5月12日の「写真が語る下諏訪の百年」88pの写真とこの明治40(1907)年4月28日付のこの写真とが大変よく似ている。山の下と山の中腹の位置が異なるが植樹するための事前に掘ってあったという穴は同じように掘られている。2020-03-06
39合宿風景合宿風景大学・高校の夏季合宿学生が温泉町の宿舎を出て運動場へ向かうところ。夏季合宿練習のため東京の高校・大学生の来町するものは戦前からあって、小学校の施設を利用していた。町が本格的に請け入れるようになったのは、戦後昭和27(1952)年ころからのこと。昭和39(1964)年には一万人を越え、14軒の旅館に合宿していた。2020-03-06
40下諏訪小学校南校下諏訪小学校南校下諏訪小学校南校雨天体操場。№650,656参照。2020-03-06
41諏訪実下諏訪分校諏訪実下諏訪分校昭和23(1948)年3月31日、それまでの青年学校並びに実科高等女学校が廃され、全日制の下諏訪実業高等学校の設置が認可され、下諏訪中学校に併設された。次いで昭和24(1949)年4月1日、諏訪実業高校に統合され下諏訪分校となった。 №627参照。2020-03-06
42宮坂喜十先生胸像宮坂喜十先生胸像昭和4(1929)年11月18日、宮坂喜十先生謝恩会で胸像を下諏訪小学校南校の校庭入口に建立。昭和18(1943)年3月10日、大東亜戦争で供出したが、昭和26(1951)年10月7日ブロンズに復元する。製作者武井直也。宮坂喜十先生が教職についたのは明治18(1885)年以来44年間ひとすじに教育に尽くしてきた。下諏訪の初等教育の原点を担ったお一人である。「下諏訪の史話」「諏訪大神の信仰」などの郷土史の著者でもある。2020-03-06
43金馬簾(きんばれん)披露式金馬簾(きんばれん)披露式写真後ろの建物は明治9(1876)年建築の下諏訪学校。第3回金馬簾(きんばれん)披露式が明治37(1904)年9月23日下諏訪学校校庭にて挙行されたときの記念撮影。下諏訪町消防組は公設消防としてその功績が認められ、明治35(1902)年10月23日金馬簾一条の使用を許された。馬簾とは纏(まとい)の飾りのこと。2020-03-06
44萩倉分教場萩倉分教場萩倉分教場落成式当日。明治8(1875)年4月下諏訪学校支校が許可となって、お堂を仮校舎として発足。明治19(1886)年3月下諏訪村・長地村組合学校、萩倉派出所となり二階校舎が施工、明治25(1892)年4月分教場と改称。明治44(1911)年分教場改築の願が上堤、翌45(1912)年落成左は教員室と教員住宅、右は教室と体操場。昭和41(1966)年4月廃校となる2020-03-06
45下諏訪尋常小学校下諏訪尋常小学校明治41(1908)年11月3日日露役前からの懸案であった建築の増築校舎が落成。下諏訪尋常小学校、後に下諏訪中学校として使用される。2020-03-06
46陸軍航空隊航空写真陸軍航空隊航空写真大正6(1917)年2月16日、陸軍航空隊のモーリス・ファルマン機上から撮影した下諏訪町の中心部。中央の建物が下諏訪学校、その上の森が諏訪大社秋宮、その左斜面前方に続く町並みが中山道で塩尻方面に向かっている。2020-03-06
47下諏訪尋常小学校雨中体操場下諏訪尋常小学校雨中体操場写真左に「下諏訪尋常小学校雨中体操場小屋組。明治四十一年四月撮影」と書かれている。2020-03-06
48明治21(1888)年の記念写真明治21(1888)年の記念写真下諏訪学校尋常科1・2年生、明治21(1888)年の写真。 和服に靴・カバンの取り合わせがほほえましい。二人の間にあるのは教科書だろうか。小松定衛先生が9才の時横町ガラス取り写真屋で写す。城取一二三写真屋にて複製。2020-03-06
49下諏訪学校野球大会優勝下諏訪学校野球大会優勝明治41(1908)年秋、諏訪中学主催野球大会に下諏訪学校が優勝。なおうしろにかざられた優勝旗には明治40(1907)年春も下諏訪学校の名が刻まれている。2020-03-06
50陸軍航空隊航空写真下諏訪学校陸軍航空隊航空写真下諏訪学校明治9年11月1日友之町字郷神殿に建築された下諏訪学校の全景、屋根は瓦ぶき硝子障子で三階の望楼の色硝子が夕日に美しく照り輝いた、左の校舎は明治30(1897)年建築の高等科校舎。2020-03-06
51下諏訪学校下諏訪学校下諏訪学校にて撮影。2020-03-06
52下諏訪尋常高等小学校玄関下諏訪尋常高等小学校玄関質実剛健なバルコニーと明治35(1902)年3月の記念撮影。後から2列目右から3人目が浜孝吉校長。2020-03-06
53下諏訪尋常高等小学校下諏訪尋常高等小学校明治9(1876)年11月建築の下諏訪学校(名称が明治20年から尋常小学校)、玄関とバルコニーと望楼が特徴。写真は大正3(1914)年卒業記念撮影。2020-03-06
54下諏訪小学校奉安殿下諏訪小学校奉安殿運動場南はじに奉安殿を竣工する。竣工式は大正13(1924)年8月。昭和21(1946)年1月に御真影を地方事務所に奉還し奉安殿も姿を消した。2020-03-06
55諏訪実高校下諏訪分校諏訪実高校下諏訪分校諏訪実業高校下諏訪分校。(現在は下諏訪中学校プールになっている) 昭和23(1948)年3月31日全日制の下諏訪実業高等学校が認可となり青年学校並びに実家高等女学校が廃された。しかし学校建設は実現に至らず、下諏訪中学校に併設された。次いで昭和24(1949)年4月1日には諏訪実業高等学校に統合され下諏訪分校となった。教科課程は普通科・被服科を置き、定時制の四年制であった。 №642参照。2020-03-06
56明新館明新館古くは行屋(お堂)があったところで、明治10(1877)年に学校建築の費用に充てるため御堂と土地を民間に売ったが、明治24(1891)年にお堂を取り壊して集会所を建て、「明新館」と名付けた。 下諏訪町最初の集会所。その後何回か改修を重ねてきたが老朽化により昭和41(1966)年現在の建物に改築されている。 写真は改築直前の昭和40(1965)年の明新館。 下原中村勝五郎の日記(日嘉恵雑書帳)に「明治24年200円にて明新館建てる」とある。玄関と平石屋根は明治32(1899)年の改修。行屋にあった十王像(町文化財)は現在同館に保存されている。2020-03-06
57陸軍航空隊航空写真陸軍航空隊航空写真陸軍航空隊よりモーリス・ファルマン式二機寒中の山地飛行並びに水上試験飛行として来諏の際に写す。下諏訪学校や国道20号線がよくわかる。2020-03-06
58陸軍航空隊航空写真陸軍航空隊航空写真航空写真。写真の中心近くに下諏訪学校の三階の望楼が分かる。旧甲州道中、旧中山道、八幡坂などの様子や秋宮鳥居周辺の戦前の建物が密集している様子がよくわかる。2020-03-06
59陸軍航空隊航空写真陸軍航空隊航空写真大正6(1917)年2月16日、陸軍航空隊モーリス・ファルマン機上から撮影した下諏訪町の中心部。寒中の山岳飛行並びに氷上試験飛行のため来諏の際の撮影。中央の建物は当時の下諏訪学校(友の町字神殿)で現在の下諏訪中学校の前身。周辺には秋宮の森・製糸工場・中央東線・国道20号線などが見える。2020-03-06
60旧下諏訪町役場(立町青塚時代)旧下諏訪町役場(立町青塚時代)立町裏に下諏訪役場新築。明治22(1989)年4月1日に新しい下諏訪村が発足。同年5月31日字青塚(立町裏)に新庁舎開庁、以降大正14(1925)年に大社通りに庁舎が移転するまで36年間この庁舎で町政が取り行われた。第二回下諏訪区会議員当選記念に撮影したもの、尚明治7(1974)年下諏訪村が誕生して以降役場の変遷は以下の通りである。 【明治(1874))10月13日七ヶ村が合併して下諏訪村となる(事務取扱所は本陣方)・明治10(1877)年事務扱所を本陣から下諏訪学校下諏訪学校へ移す。・明治19(1886)年3月役場を学校から来迎寺へ移す。・明治22(1889)年5月31日立町に役場新築。・大正14(1925)年7月17日下諏訪町役場(八幡町)が竣工。】2021-04-04
61陸軍航空隊一般航空写真陸軍航空隊一般航空写真複葉機からの航空写真。下諏訪駅と下諏訪学校や秋宮の森、青塚などが見える。2020-03-06
62金桃の碑と小井川校生徒の延命地蔵金桃の碑と小井川校生徒の延命地蔵写真左の碑には「名月や虫のひげふる草の上、紫金桃」とある。この右手にあるのは、大正11(1922)年6月22日小井川小学校生徒が水泳中に遭難したため、昭和9(1934)年にその霊を慰めるために建てられた延命地蔵。尚、紫金桃(小口正衛、二代村長、3代町長)の碑は現在赤砂公会所の前に移された。2020-03-06
63富岳を望む富岳を望む絵葉書「(諏訪名所)諏訪湖より富岳を望む」。上川付近。 ボートを漕いでいる様子から当時の諏訪実科中学校(現諏訪清陵高校)の生徒のようだ。2020-03-06
64ボートレースボートレース絵葉書(諏訪名所)諏訪湖上のボートレース。上川付近富士山も見える。ボートを漕いでいるのは諏訪実科中学校(現諏訪清陵高校)の生徒と思われる。2020-03-06
65第1保育園第1保育園旧下諏訪第1保育園。現第4区公会所。2020-03-06
66第一保育園第一保育園久保(現下諏訪中学校庭南)に大正15(1926)年1月19日下諏訪保育園を設立。この保育園は県下保育施設の草分けだった。大正時代に入ると町の国用製糸は一層盛んになり大正14(1925)年には62工場、就業者数1240人に達した。その工女の半数が既婚で共働きが多かった。乳幼児を抱えた就業は大きな課題となっていた。大正14(1925)年6月に友之町にテスト会所した託児所を保育園として開設したものである。2020-03-06
67下諏訪遠景下諏訪遠景諏訪湖遠景。手前下に信金御田町支店、JUSCOの赤い看板や下諏訪南小学校も見える。また諏訪湖の対岸に上川の橋も見える。2020-03-06
68下諏訪遠景下諏訪遠景諏訪湖遠景。写真手前の左側の建物は片倉製糸、右側が入一製糸、左端の樹木は秋宮の森、その隣が現下諏訪中学校。2020-03-06
69下諏訪中学校庭下諏訪中学校庭下諏訪中学校グラウンド(バックネット前)。2020-03-06
70野球チーム記念写真野球チーム記念写真野球チームの記念写真。写真に「早大招待野球、大正14.8.21」と書かれている。前列2列目には「WASEDA」の文字が並ぶ。大正14(1925)年4月に富部西豊の岩波春海氏(早稲田出身)の労によって早稲田を招いて親善試合を行った。結果は14対2、大学レベルの強さをまざまざと見せつけられ大差で敗れた。2020-03-06
71旧下諏訪町役場棟上旧下諏訪町役場棟上明治7(1974)年に下諏訪村成立した。旧本陣、下諏訪学校、来迎寺と仮役場を移転し青塚東方に新役場ができた。さらに大正14(1925)年7月18日大社通りに移転した旧下諏訪町役場。博物館の写真では、大正13(1924)年11月25日検査執行となっている。落成は翌大正14(1925)年7月18日である。2020-03-06
72航空写真 南小学校航空写真 南小学校下諏訪南小学校、新校舎・旧木造校舎、旧講堂・旧小体育館。2020-03-06
73大詔奉戴日の行進大詔奉戴日の行進大詔奉戴日の行進(大東亜戦争のはじまった12月8日を記念し以降毎月8日を記念日として、戦意の高揚をはかった。)写真は翼賛壮年団。生徒は小学校に集合し秋宮から春宮へと行進した。この行進に参加しない者は問題視された。2020-03-06
74下諏訪町遠望下諏訪町遠望富部の山の手から撮影。国鉄(現JR)との立体交差の始まった冬。立体交差は昭和32(1957)年5月20日開通式を行う。写真手前家並みは中山道。その上側に農耕地が広がり写真右に土田墓地、駅構内の線路、駅の手前にダイヤ豆腐の工場、画面左端には下諏訪小学校の講堂と思われる建物が見える。写真中央を中央線と国道20号線沿いの家並みが線状に見えている。遠く水田地帯、砥川、長地の集落と思われる風景が続く。2020-03-06
75宅地化する前の湖浜地区宅地化する前の湖浜地区上空から見た下諏訪南小学校。旧木造校舎、旧講堂、旧小体育館、50Mプールも見える。校舎から諏訪湖畔までは水田が広がっている。2020-03-06
76奉安殿奉安殿下諏訪小学校(現中学)運動場の南端に奉安殿施工する。生徒たちは登校の際、最敬礼をして通過した。昭和21(1946)年1月御真影を地方事務所に奉環し奉安殿も姿を消した。2020-03-06
77子どもの通学風景子どもの通学風景朝の小学生の登校風景。この頃は着物姿も普通だった。2020-03-06
78町主催戦死者葬儀(合同葬儀)町主催戦死者葬儀(合同葬儀)たれ幕には「陸軍輜重兵上等兵…」「陸軍砲兵上等兵…」「陸軍工兵伍長…」などの文字が読み取れる。「輜重兵(しちょうへい)」とは軍需品の補給や陸上運送に当たった兵のこと。町主催で行われた戦死者葬儀(4名の合同葬儀)、会場は現在の南小学校講堂。2020-03-06
79町主催戦死者葬儀町主催戦死者葬儀町主催で行われた戦死者葬儀(2名の合同葬儀)、会場は現在の南小学校講堂。たれ幕から「弔故陸軍伍長…」「弔故陸軍上等兵…」の文字が読める。2020-03-06
80町主催戦死者葬儀町主催戦死者葬儀町主催で行われた戦死者(第二次世界大戦・太平洋戦争戦没者)葬儀、会場は現在の南小学校講堂。祭壇には戒名(法名)に並んで「皇后陛下御下賜品」や「参謀総長」「教育総監」「陸軍大臣」「師団長」の文字も見える。また、たれ幕には「迎故陸軍兵長・・・英霊」などの文字も見える。2020-03-06
81下諏訪小学校南校雨天体操場建設下諏訪小学校南校雨天体操場建設下諏訪小学校南校雨天体操場(講堂)内での関係者の記念写真。平成29(2017)年11月26日市民新聞に掲載された。2020-03-06
82下諏訪小学校南校雨天体操場建設下諏訪小学校南校雨天体操場建設下諏訪小学校南校(現南小)雨天体操場(講堂)の外観を背景に関係者の記念写真 平成29(2017)年11月26日市民新聞に掲載された。「下諏訪小学校南校雨天体操場落成記念 昭和6年10月28日」。 南校は大正13(1924)年低学年収容の校舎として開設されていた。2020-03-06
83下諏訪小学校南校雨天体操場建設下諏訪小学校南校雨天体操場建設下諏訪小学校南校雨天体操場(講堂)建設。平成29(2017)年11月26日の市民新聞で紹介された写真。2020-03-06
84下諏訪小学校南校雨天体操場建設下諏訪小学校南校雨天体操場建設建設中の下諏訪小学校南校雨天体操場(講堂)建設現場(現下諏訪南小学校)。とび職の人たちが命綱も使わずに丸太で三階組の足場を組んだ。2020-03-06
85学校プール合宿選手学校プール合宿選手日本水泳連盟公認の認定証。総和38(1963)年8月1日施工と記録されている。2020-03-06
86学校プール合宿風景学校プール合宿風景完成と同時に合宿に来た選手たちと黒田町長はじめ町関係者。 福島滋雄選手と思われる。福島滋雄は身長181cmの長身のスイマーで、200M背泳ぎで2分16秒1の世界記録を樹立したり、日本選手権で1962年から1968年まで7年連続優勝したりしている。2020-03-06
87学校プール学校プール浄化用タンク施設。2020-03-06
88学校プール学校プール更衣室・トイレ棟、手前は低学年用プール。2020-03-06
89学校プール学校プール更衣室・トイレ棟、手前は低学年用プール。2020-03-06
90学校プール学校プール下諏訪南小学校プール、更衣室・トイレ棟。2020-03-06
91学校プール学校プール下諏訪南小学校プール、シャワー施設。2020-03-06
92学校プール学校プール学校プールが建設され昭和39(1964)年開場となった。手前は低学年用プール。2020-03-06
93学校プール学校プール学校プールが建設され昭和39年(1964)開場となった。プール北側を望む。2020-03-06
94学校プール学校プール学校プールが建設され昭和39(1964)年開場となった。プール北側を望む。2020-03-06
95学校プール学校プール学校プールが建設され昭和38(1963)年開場となった。小プールの完成は翌年昭和39(1964)年である。南側は諏訪湖まで見渡す限り田んぼであった。2020-03-06
96花見新道から見た下諏訪花見新道から見た下諏訪花見新道の桜の向こうに手前から ※丸六製糸(現ムトウ工業)、 入一組製糸所、その向うに旧役場、下諏訪尋常高等小学校(高等小学校、実科女学校、現下諏訪中学校)、南校(現下諏訪南小学校)が見える。手前には諏訪地方特有の石置き屋根の民家も見える。2020-03-06
97図書館利用者の集合写真図書館利用者の集合写真戦前の下諏訪町青年会図書館。昭和3(1928)年に下諏訪青年会が山王台に建てた、昭和11(1936)年4月、片倉公園造成のため山王台から下中のバックネットの裏に移設された。2020-03-06
98下諏訪町消防団第3分団下諏訪町消防団第3分団第3分団記念写真。2020-03-06
99裏参道開通記念裏参道開通記念昭和15(1940)年12月29日不況対策事業で裏参道開削がほぼ完成し通行できるようになった。さらに同18(1943)年8月10日、字三王・久保・臺の公園敷地が川岸村長より寄附があり、同19(1944)年7月秋宮裏参道が竣工した。その際の記念写真、町長初め町理事者、地域関係者が写る。現在の「ヤマモト」の横付近で撮影、坂の中ほどに現下諏訪中学校、奥に諏訪大社下社秋宮の森が見える。2020-03-06
100秋宮スケートリンク秋宮スケートリンク秋宮リンクでアイスホッケーの試合が日本で初めて行われた。 出場したのは早稲田大・慶応大・東京帝大(現東大)と地元の松本高等学校の4チームだった。 この写真が撮影されたころは石置き屋根の家屋が見られたり、北側の斜面には畑(桑畑や稲わらを積んだにょうも見える)が広がっている。2020-03-06
101片倉組丸六製糸場片倉組丸六製糸場明治42(1909)年片倉組丸六製糸場で下諏訪町における創業10周年記念祝賀会当日に撮影された写真。手前の道は花見新道(御作田社より上にある道)大八車の轍が線路のように残っている。右手前の木は御作田社、左中ほどの町並みは湯田仲町、左遠方の高い建物は中学校の塔、間に見える畑は桑畑で当時は多く見られた。後方にはうっすら白く諏訪湖が広がっている。2020-03-06
102富ヶ丘から望む高浜富ヶ丘から望む高浜富ヶ丘旧道にあった桃畑(新井清水氏所有)から、高浜湾方面を望む。右側に下諏訪小学校や製糸工場、高浜の湖畔には水産試験場、網いけす、大四手網が見える。手前の山の手の畑には桑畑が広がっている。2020-03-06
103戦前の下諏訪小学校(現下諏訪中学校と南小学校)戦前の下諏訪小学校(現下諏訪中学校と南小学校)写真上は明治41(1908)年建築の下諏訪尋常高等小学校(現下諏訪中学校の校舎)。第二次大戦中は東国民学校と改称され、青年学校・実科高等女学校を併設していた。写真下は大正12(1923)年に四王に作られた南校(戦争中南国民学校現南小学校)の敷地に、昭和6(1931)年に不況対策事業として建設された小学校講堂である。ともに卒業アルバムの写真で、写真下の講堂の規模は県下有数であった。2020-03-06
104ダイヤ豆腐周辺の航空写真ダイヤ豆腐周辺の航空写真当時景気が良かったダイヤ豆腐による航空写真。現下諏訪南小学校前を通る田中線は砥川で止まっている。田中線の右端に小学校の校舎が見え、砥川の手前には昭和24(1979)年から整備されてきた総合運動所が見える。現在のジャスコ通りにあたる道沿いにはひかり味噌〈昭和28(1953)年栄町から移転〉が見える。線路下には、桑畑とりんご畑が広がっていた。2020-03-06
105中学校横の土砂崩れ中学校横の土砂崩れ下諏訪中学校第二体育館横の土砂崩れ。 「昭和40(1965)年5月下諏訪中学校第2体育館横災害記録写真。2020-03-06
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