キーワードで探す
並び替え:

登録リスト(該当:47件)

写真タイトル説明登録日
1祝神稲荷社祝神稲荷社富部村本郷に祀られた、村内・宮坂巻の「祝神(いわいがみ)稲荷社」。 昭和61(1986)年の御柱祭の後不慮の禍で無残に倒壊折損した。 鳥居には長い由緒があり、富部村中のの信仰に深いつながあった。2021-12-23
2博愛館博愛館自由民権運動・青年会の活動が活発になった明治の時代、活動の拠点となる場所を求めるこえが強くなり、他の地区でも新しい集会所が次々に建てられた。神風社(青年会)の建議を受け明治40(1907)年5月に落成した。総工費1343円、全額区民95戸の寄付金で賄われた。 現在建物はなく駐車場になっている。2021-12-23
3力石力石昔、富部地区は農家がほとんどで、力自慢の若者が多かった。当時は娯楽も少なく、若者たちは夜分など三々五々村の辻に集まり踊りを楽しん去り、この力石をあげてその腕力を競った。重さは65㎏、玄米一俵とほぼ同じ。2021-12-23
4休石休石富部村(第十区)の西、久保村境を流れる小川に沿って、旧道から分かれて下る家下道(いえしたみち)が鉄道を越すところに立つ野面(のずら)の六角棒状の土坂石(つっさかいし)で「休み石」と呼ばれている。 度重なる工事等で元の石はなくなってしまった。現在は別の石がおかれている。2021-12-23
5藤森稲荷社藤森稲荷社富部稲荷平にある小和田村藤森巻祝神の稲荷社で「小和田のお稲荷さま」と呼び富部村の人々に親しまれていた。 高島藩の藩主より諏訪湖の漁業とこの辺りを網干場として拝領し、藤森巻20軒ほどの守り神として稲荷社を祀った。 今は小和田の所有の畑はないが社は藤森巻で祀っている。御柱祭も旧慣にしたがい湖上を舟で曳いてくる。2021-12-23
6若宮社標若宮社標富部地区(第十区)の高台にある若宮神社の鳥居の横にある若宮様の社標。現在この社標碑は甲州街道沿いに立っている。2021-12-23
7蚕影山神社蚕影山神社富部村(現在の第十区)の若宮神社の境内に一間半(約2.72m)四面の茅葺きの社殿を造り「蚕影山(こかげやま)神社」を祀った。2021-12-23
8武居祝家のかり墓武居祝家のかり墓諏訪明神の神官には「物忌令(ぶっきれい)」という厳しい掟の為、式年の御柱年に一族に不幸があった場合は家塁代(るいだい)の墓には納めず引導もせずに、かり墓に入れ穢れがないものとして御柱祭に奉仕し、その後本墓で本葬を営むことなっていた。その墓はごく狭くわずかに弓を回した内と決められていた。ここは、大祝、武居祝金刺氏のものだ。墓の場所は富部上の字「角石(かどいし)」にあり、今は荒れ果ててしまった。2021-12-23
9若宮源湯と湯神碑若宮源湯と湯神碑戦後上総(かずさ)掘り方式で昭和38(1963)年八月に自噴、「若宮源湯」と命名。地域の発展と福祉の向上をうたって、昭和39(1964)年6月「富部温泉」ができた。この碑を祀り繁栄を祈った。温泉は第十区の区有温泉として広く利用されていたが、平成19(2007)年3月末に廃業した。2021-12-23
10道祖神と庚申の碑道祖神と庚申の碑これらの碑はもとは村の辻に祀られれ、村人たちの厚い信仰を受けていた。 博愛館の新築の頃は前庭に飾られ、富部温泉ができると庭の北隅へ移り(昭和39(1964)年6月)、新しい公民館ができ現在の場所に移りました。2022-06-08
11中山道一里塚(五十五里塚)中山道一里塚(五十五里塚)下諏訪町には、一里塚が4か所置かれていた。甲州道中の53里塚(富部)、中山道の53里塚(西餅屋下)、54里塚(町屋式上)とこの写真の55里塚である。かつては街道両側に塚や根張りの良い木が植えられていたが、現在は標石が建てられているばかりである。2021-08-03
12梶原塚梶原塚平安末から鎌倉時代の初頭に活躍した下社大祝・金刺盛澄の命の恩人、梶原景時を祀ってある。供養のため宝剣を埋めて塚を造り、祭事の絶えないようにと田地を寄進し上座堂が建てられていたらしいが、その後何度か場所が移り、現在は菅野町会館の入り口に祀られている。富部から分かれた鎌倉道が近くを通っていたと町誌には書かれている。また、梶原田の地名も残っているという。2021-06-10
13甲州道中一里塚(五十三里塚)甲州道中一里塚(五十三里塚)富部にある甲州道中一里塚。江戸日本橋から五十三里、甲州道中最後の一里塚である・ここから十余町(およそ1㎞余)で下諏訪宿に至り、綿の湯前で中山道に合流する。2021-06-03
14旧博愛館前で記念撮影旧博愛館前で記念撮影富部地域の脱穀風景。現在の公民館駐車場。富部公民館は庄屋をつとめていた津金家の屋敷があった。2022-05-24
15柴舟柴舟夏の遷座祭。柴舟の上の「媼(おうな)の人形」。 釣竿を持った翁(おきな)との1対を相向かいに柴舟に乗せる。これら人形については諸説あり、神の拠り代であるとの説がある。富部地区を中心とした「人形の会」によって毎年製作される。柴舟に幔幕が張られていないことから、製作中と思われる。製作は春宮境内で行われるが、部材には大型のセットと小型のセットがあり、その年の御頭郷によりいずれを使用するか決定される。現在は諏訪地方を10の地区にわけて御頭郷を輪番でまわしているが、中世には信濃の国全土の氏子の務めであった。2021-12-18
16鎌倉街道鎌倉街道小湯の上に残る鎌倉街道。現在「鎌倉街道」(鎌倉道)は諏訪市大和から高木集落の下を通り富部・武居・下の原・慈雲寺裏を経て砥川を渡り、東山田など、町周辺の山付きの村の標高の高いところを通り、ところどころに道筋を残している。2020-03-06
17新井製糸場新井製糸場富部新井製糸所。 新井喜多(喜助)。2021-04-01
18山岡氏山岡氏山岡操氏。製糸を始めた富部(十区)の士族。 山岡家には立派な屋敷図と城壁のような石垣が残っている。また山岡氏は明治6(1873)年3月に大小区政が敷かれた時、第十三大区小五区の戸長も務めた。2020-03-06
19御柱祭御柱祭御柱祭の風景。長持ち衆。富部長持ではないか?衣装・白塗りが雲助長持ちに見える。2020-03-06
20舟道舟道富部地区に残っていた舟道と漁業者の家。山の手を通る甲州街道から高まま(高浜)の入り江の舟止(ふなと)へ降りる舟道が通じ、これにそって半農半漁の村が形成されていたのだが、舟道も旧国道20号線(手前の道)と鉄道で断ち切られ、漁業もすっかり衰えて、平成元(1989)年には、昔の面影が残るのもこの家くらいしかなくなってしまった。この写真では船道は建物に向かって右の小路にあった。№1133参照。2020-03-06
地図で見る

キーワード

ログイン トップページへ