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写真タイトル説明登録日
1徳本上人の名号塔(赤砂崎)徳本上人の名号塔(赤砂崎)下諏訪町に4カ所ある名号塔の一つです。 赤砂墓地の入口右手に「南無阿弥陀佛」と刻まれた念佛徳本直筆の碑(写真二枚目)念佛徳本は宝暦8(1758)年和歌山に生まれた名高い行者、関東地方一帯を行脚布教した。諏訪には、舟にて湖水の西岸から赤砂の地に至る。 土橋源蔵宅に立ち寄り宿泊した際に「南無阿弥陀佛」と二幅書かれそのうちの一枚を使い源蔵が碑を造ったという。2021-12-21
2国道142号線の通行止め国道142号線の通行止め令和3(2021)年13日から15日にかけての大雨の影響で、新町上の国道142号線の路面が一部陥没し通行止めとなった。町は道路崖下の約40世帯に避難指示を発令した。陥没地点は来迎寺と慈雲寺の中間で、西側が崖、道路下は大久保沢が流れている。町によると陥没は縦約5m、横約6m、深さ約5mだという。崩落は15日朝から始まったとみられ、町には午前7時50分頃「歩道の一部が陥没している」との通報があったという。同8時30分から通行止めとなり、9時15分位は崖下の新町下と東町下の一部地域約40世帯約80人に避難指示が発令された。このうち20世帯47人は町が用意した町内の宿泊施設に避難し、残りは親戚等の家に避難した。復旧工事は令和4(2022)年の御柱祭の前には完了したいとしている。2021-11-10
3レンゲツツジ解体図レンゲツツジ解体図レンゲツツジ(ツツジ科)蓮華躑躅 「蓮華」:大きく鮮やかに、枝先に固まって咲く様が、美しい蓮(はす)を思わせる。 「躑躅」:昔、中国で「羊躑躅」(羊がつつじを食べて、足ずりし、酩酊する)との漢名が日本に伝わる中で、「羊」が取れてしまい、「躑躅(てきちょく)」のみ残った。  ※躑躅①足ぶみすること②ためらうこと③つつじ(広辞苑) 全木、花・葉も有毒、密もしかり。 草原・牧場にレンゲツツジが群生するのは、牛や馬が食べないため、有毒成分は嘔吐・痙攣を起こす。キレンゲツツジ(黄色)、コウレンゲ(濃朱色)、帯紅黄色(カバレンゲ)、ウラジロレンゲツツジ(葉裏が白)2022-03-15
4スミレの仲間スミレの仲間上から ・プリケアナ  北米産でパピリオナケアの仲間。白花の基部は紅紫色で紫条が入り、二色咲きとなる。繫殖力が旺盛で、庭先から逸出したものが野生化して各所で群生を見る。 ・パピリオナケア  北アメリカ原産で、スミレマニアなどの手によって、各地に広まっている。濃い紫色だが、側弁に毛が多く、花弁の基部は白く見える。 ・アカネスミレ  丘陵地~山地の路傍や林緑など向陽地から半陰地に自生する。花は中形の濃紫~紅紫色~紫青~薄色・白色と変異がある。全体的に多毛で、側弁、距、子房にまで毛がある。距は細長く花色にほぼ等しい。 ・タチツボスミレ  全土の海岸線から標高2000m前後までの草地~落葉樹林の向陽地~陰地・乾燥地~半湿地など生息範囲が広い。個体数も多いために花の色・葉の形態などに2022-06-12
5矢木町会館と矢木神社矢木町会館と矢木神社矢木町会館と矢木神社。かつてはこの西の春宮大門通り一帯は矢木の馬場と呼ばれ、金刺氏一族が流鏑馬を競ったところだと伝えられている。武田信玄はその儀式の断絶を惜しみ、再興のために舞童に対して装束を寄進しているという。2022-03-24
6神明館・神明社神明館・神明社神明館については№1173を参照していただきたい。神明館入り口に祀られている「神明神社」は大正12(1923)年に区民の寄付によって建立し、毎年10月10日を例大祭としている。なお、神社前には道祖神も建てられている。そもそもこの地区は「流れ」と呼ばれた砥川・鋳物師川・福沢川・十四瀬川の洪水常習地帯で、住宅ができたのは明治9(1876)年からで特に明治23(1890)年現国道20号線が開通してから戸数が増えてきた。新しい街だからこそ神明社は大事に守られてきたのだと思われる。2022-03-19
7神宮寺跡・大坊跡神宮寺跡・大坊跡下社秋宮の本持仏の千手観音を本尊に祀っていた「海岸孤絶山法性院神宮寺」の大坊(方丈)があったと言われるあたりの写真。山王閣から東南に向かって眼下に見える窪地一帯を寺域とする広大な寺であったが、廃仏毀釈によって廃寺となってしまった。2021-06-23
8オカトラノオオカトラノオ山地の草原に生え、花が虎の尾に似ている。 サクラソウ科の仲間で多年草で茎の上部にはまだらに毛があり、下部は赤色を帯びる。2022-01-19
9エビラシダエビラシダシダ類も種類が多いが、本種はやや特異な形。 ワラビもシダでしたね。 別名ジクオレシダ、産地帯の林内の湿った岩壁に着生する夏緑性のシダ葉は長さ10~20cmで葉身は三角状卵型、単羽状深裂、葉身と葉柄は約120度の角度でつきます。 準絶滅危惧の植物で県内では諏訪・佐久・木曽・松本などで分布しています。2022-01-26
10エゾリンドウエゾリンドウ湿地にみられ、クキ全体に花を付ける。これを園芸種として育てられている。 山地や亜高山帯の湿地に生える多年草。2022-01-26
11ウメバチソウウメバチソウ王冠のような黄色い仮雄しべがトレードマークで、中の雄しべは順に開く。 山のふもとや日の当たる湿地帯に生える多年草。2022-01-16
12コマドリコマドリ「コマドリ」ヒタキ科 全長14cm 翼開長21cm 日本三鳴鳥の一種。張りのあるさえずりが「ヒン、カラカラカラ」と馬のいななきを連想させ「駒鳥」の名がついた。亜高山の針葉樹林帯などに棲み昆虫やクモなどを捕食する。2021-03-04
13秋葉山の展望台秋葉山の展望台秋葉山に設けられた展望台。水月会で戦後の昭和21(1946)年1月から水月園の復興に着手、28(1953)年4月秋葉山一帯を公園化することを条件に下諏訪町に寄付。町では秋葉山に展望台を設け自動車道を開きつつじ・かえで・桜を植えた。2021-12-26
14キヨメ漁キヨメ漁氷下のキヨメ漁。刺し網の一種。地上のくもの糸やカスミ網のように水中に帯状に屏風のように立て横に長く張っておき、回遊してくる魚を網に絡ませたり、さしたりしてとる。網目の大きさによって捕る魚が異なるが、写真のキヨメの網目は1.5~4cm内外である。高さ50cm~1m、長さ12、3mの網を何枚か継ぎ足して張り、わかさぎ・はや・ひがい・もろ・あかうおを捕る。同じ網でも網目の粗いものは「タケタカ」といって鯉・大ぶな・なまずなどをねらった。2021-04-04
15女工さん女工さん昔の岡谷 工女さん。帯を締め羽織も羽織も羽織来ていることから工場の休みの日の撮影か(後ろに見えるのは揚げ返し場)。2023-02-26
16女工さん女工さん製糸工場の女工さんたち。若い女性に混じって後方に年配の女性も見える。きものの柄に年齢差が見える。 下の写真は帯を締め羽織も羽織も羽織来ていることから工場の休みの日の撮影か(後ろに見えるのは揚げ返し場)。2021-04-21
17砥川河口の橋砥川河口の橋完成した砥川河口橋。橋の右岸(写真左手)にはわかさぎの孵化場がある。当時は左岸に町営プールがあり、その北側にはホテルが3社あった。この橋は湖岸管理道路としての架橋で幅6メートル、長さ32メートル。これに伴い湖岸約1.7キロメートルに高さ1メートルの築堤が始まった。その後この一帯は、赤砂崎公園として多目的グラウンドや多目的広場、ヘリポートなどに再整備されている。2020-03-06
18町の教会町の教会町中の小さな教会堂。昭和51(1930)年に信者によって建てられた。急傾斜の屋根の切妻造り、側面に濡れ縁がつくというコロニア風の外観を持つ木造建築。「日本基督教団下諏訪桜町教会」と称されてきたが、昭和63(1988)年単立の「下諏訪キリスト教会」となった。このころ信者は約30世帯だったという。2020-03-06
19県道岡谷・下諏訪線県道岡谷・下諏訪線湖に近い新開地の県道。いわゆる「ジャスコ通り」。湖畔の美田地帯が土地計画事業で生まれ変わった。20m幅の県道沿いに大型店が進出し、この地方でも指折りの商店街に成長した。2020-03-06
20ジョギングロードジョギングロード完成したジョギングロード。埋立地の町道湖岸通り線を5憶3200万円かけて改良した。3m幅のジョギング道・緑地帯・車道・並木・自転車・歩行者道という構成でで22m、道路は整備された。2021-04-01
21菅野温泉菅野温泉市街中心地にある区営温泉「菅野温泉」の入り口。表通り(国道142号線)からトンネルのような通路を経て湯に至るあたり、独特の雰囲気が漂う。坂の上にある財産区の浴場とは違って、第三区という平地部の地区が、近代製糸業が盛んになり始めた明治18(1885)年、財産区から湯をひいて、秋宮の参道・八幡坂の坂下に開設した。このあたり一帯を古くから友の町といい、昔は下諏訪宿の外れだったが、このころは町の北部地区を代表する商店街になっていた。2020-03-06
22富士遠望(夕景)富士遠望(夕景)東山田から富士遠望(夕景)(信濃医療センターから) 手前、三協精機社宅。晴れた日には下諏訪町から諏訪湖越しに富士山を望むことができ、地名に「富士見町」「富士見橋」などの名前も残っている。天候が安定し大気が澄み渡る晩春から冬にかけての眺望はよい。 それにしても、中部山岳地帯の盆地の底から、二百キロの彼方の富士山を望見できるというのは、フォッサマグナという大地溝帯(糸魚川静岡構造線)が作り出した特異な景観である。富士山も八ヶ岳も大地溝帯のまん中に噴出した火山で、、諏訪湖はその地溝帯の西縁に沿って走る断層などによって生まれた構造湖なのだという。2020-03-06
23華道教室華道教室勤め帰りに華道教室のお稽古。お師匠さんは国鉄職員の奥さんで、自宅に作業所を造り、マイクロモーターなどの線材の圧着の仕事をしていた。すわ湖工業地帯らしい風景。2020-03-06
24最後の専業漁師最後の専業漁師諏訪湖最後の専業漁師藤森さん、赤砂崎、砥川のほとりに住み、漁業一筋に生きてきた69歳(平成元年現在)、湖が自然破壊でだめになり仲間たちは漁業に見切りをつけ転職していった。「埋め立てで湧くように殖えた湖がだめになったという。漁協の稚魚放流をしているが水草帯がつぶされ水生昆虫など魚のえさも少なくなり、水揚げの70%を占めるワカサギも生育が悪い」という。漁は週3日しか許されていない。№1068参照。2021-04-01
25アカウオ釣りアカウオ釣り早朝、市街地の小川(諏訪湖に流れ込む古川の河口近く)へのぼるアカウオを釣る男性。下水道の普及で市街地を流れる川もきれいになり魚たちが戻ってきている。諏訪地方でアカウオと呼ぶのははコイ科の魚で、産卵期になると体が婚姻色で赤みを帯びてくるウグイをさすことが多い。河川に群で上がる姿が見られる。2020-03-06
26清水町付近の砥川清水町付近の砥川砥川上流を望む。砥川河床より砥川左端の清水町の家々が低くなっていて天井川の様子が分かる。砥川添いに県営住宅10世帯(5棟)ができ清水町が生まれたのは昭和22(1947)年3月である。2020-03-06
27殿村遺跡の碑殿村遺跡の碑 殿村遺跡 昭和51(1976)年高木史話会により建てられた碑。 「この一帯には縄文時代中期から後期にかけて住居群があり漁労の生活もあったことを語る貴重な遺跡である」と碑に記されいる。2020-03-06
28昭和初期の富部昭和初期の富部下諏訪町富が丘の別荘地帯で湖を見渡せる景観のよい温泉地として知られていた。富ケ丘・稲荷平・立体交差点があった(町誌上巻に詳細)2020-03-06
29下諏訪町遠望下諏訪町遠望富部の山の手から撮影。国鉄(現JR)との立体交差の始まった冬。立体交差は昭和32(1957)年5月20日開通式を行う。写真手前家並みは中山道。その上側に農耕地が広がり写真右に土田墓地、駅構内の線路、駅の手前にダイヤ豆腐の工場、画面左端には下諏訪小学校の講堂と思われる建物が見える。写真中央を中央線と国道20号線沿いの家並みが線状に見えている。遠く水田地帯、砥川、長地の集落と思われる風景が続く。2020-03-06
30室戸台風の被害室戸台風の被害昭和9(1934)年9月21日に下諏訪を襲った室戸台風により大門通りのさわら並木が倒れた。   2枚目の写真は春宮鳥居に向かい右手前に続く民家付近(現共立病院の前あたり)。 3枚目は石の鳥居前や手水舎一帯の大被害の様子。 4枚目は台風に襲われ大門通りのさわら並木の大半が倒れた下馬橋上の様子。 5枚目は春宮鳥居前の被害状況。 河西政常氏撮影。2020-03-06
31臨時国税調査員記念臨時国税調査員記念役場旧庁舎前 臨時国勢調査員記念写真。小口守一町長以下議員と役場幹部。昭和15(1940)年に発表された、第5回国税調査による下諏訪町の人口は男7670人・女9949人計17619人(世帯数3651)となっていた。2020-03-06
32製糸の町岡谷製糸の町岡谷満面に水をたたえた天竜川。明治後期の釜口橋付近で、橋脚が補強されている。大きな繭倉が建てられ、工業地帯に変貌しようとしている。2020-03-06
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