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登録リスト(該当:33件)

写真タイトル説明登録日
1本陣跡本陣跡下諏訪宿本陣遺構。本陣は最初小口氏が務めたが、のち岩波氏に代わった。文久元(1861)年の図面では、建屋280坪、建物並びに庭545坪、畳数232畳、総坪825坪と記されている。現在の本陣遺構とホテル聴泉閣かめやを合わせた敷地にあたる。 本陣の業務は大名・幕府役人の宿泊であるが、運営の費用は問屋業の収益でまかなわれた。2022-03-19
2柿蔭山房柿蔭山房アララギ派の島木赤彦(本名久保田俊彦)が明治30(1897)年から没する大正15(1926)年まで住んでいた住宅で、アララギ派の島木赤彦(本名久保田俊彦)が明治30(1897)年から没する大正15(1926)年まで住んでいた住宅で、柿蔭山房(しいんさんぼう)と呼ばれている。庭には樹齢300年のもなるという見事な枝ぶりのアカマツがある。町指定文化財となっている。2021-06-03
3イチハツイチハツアヤメの仲間で、中国原産。 園芸種で庭先で見受ける。2021-06-27
4アツモリソウアツモリソウ自生はなかなか見られないが、近くでは柿陰(しいん)山房の庭園で植栽ながら鑑賞できる。2021-03-24
5ジョウビタキジョウビタキ「ジョウビタキ」ヒタキ科 全長15cm 翼開長22cm 翼に白斑があり「紋付き鳥」とも呼ばれている。冬鳥として渡来し街中の公園や人家の庭先などにもやってくる。近年渡りをせず諏訪地方でも何件かの繁殖例がある。2021-03-04
6ウグイスウグイス「ウグイス」ウグイス科 全長15cm 翼開長21cm 日本三鳴鳥の一種。藪の中から高らかに鳴く春の風物詩で「春告げ鳥」とも言われている。鳴いていてもなかなか姿を見ることができない。冬は平地の藪などで過ごし、時には人家の庭先にも現われる。2021-03-04
7野球大会出場前日野球大会出場前日諏訪中学校野球部主催の郡下の野球大会が毎年春秋二季行われ、小学生ばかりではなく父兄も町村の人々もその勝敗に熱中した。諏訪中の校庭に集まるのは全郡下のほとんどの小学校で学校の規模の大小を問わず各1チームを編成して参加した。長い伝統に輝く大会だった。岡谷や川岸の小学校もみな歩いて行った。下諏訪からも往復三里も遠しとせずに応援に出かけたという。2020-03-06
8下諏訪町総合文化センター下諏訪町総合文化センター平成元(1989)年にオープンした下諏訪町総合文化センター前の庭。庭の中央にあるブロンズ像は立川義明作「翔」の像。立川氏は諏訪市出身、立川流立川家の子孫。なおセンターの庭の南側には「梶の木」が植え込まれている。2020-03-06
9注連縄作り注連縄作り下の原注連縄作り講習会の風景。正月をひかえ注連縄つくりの講習会が行われた。ふるさとの民俗を残そうと区の公民館主催でこの催しが毎年続けられている。2020-03-06
10和菓子屋さん和菓子屋さん賃餅(ちんもち)の注文殺到で大忙しの和菓子屋さん、餅つきも機械化で大量の注文をこなすことができる。この年の賃餅料は一升900円(切賃300円)。正月用のもちは28日に搗く家が多いが、サラリーマン家庭などでは家で搗く時間的なゆとりがないとあって、賃餅に出す家が年々増えてきていた。さらに現代にあっては、スーパーなどに出来合いの鏡餅や袋入りの餅が大量に並ぶ。2020-03-06
11村祭り村祭り熊野神社の例大祭風景。鎮守の森に残る江戸時代の行屋(ぎょうや)の前庭で甘酒がふるまわれた。こ行屋は江戸時代の修験道で行者の修行の場所として建てられたもので熊野神社参道の西側にあった。この行屋は町指定の文化財となっている。 天気の良い日には、この行屋の前から日本の標高№1,2,3の山が見える。1番はもちろん富士山で3,776メートル、2番は南アルプス北岳3,193メートル、3番は同じく間ノ岳3190メートル(穂高岳と同じ標高)である。 №1116.1117.1118.1119は東山田の村祭り関係。2020-03-06
12第10区運動会第10区運動会第10区運動会の様子。体育の日、区民運動会で楽しむ、晴天続きで、この日も汗ばむほどの好天、町内会対抗の二人三脚リレーに声援がわいた。会場は南小学校校庭。2020-03-06
13家庭婦人バレーボールリーグの開会式家庭婦人バレーボールリーグの開会式家庭婦人バレーボールリーグ開会式。参加チーム数は15は前年と同じ。昭和48(1973)年の全国大会で町の代表チームがブロック優勝し平均年齢が最高ということで総理大臣賞を受けた栄光の歴史を誇るが、そのときのメンバーも現役で活躍している。2020-03-06
14少年野球開会式少年野球開会式町の少年野球開会式の入場行進。参加チームはA(6年生がいるチーム)13、B(5年生以下のみ)10、少年野球は子どもたちの人気だった。会場は下諏訪南小学校校庭。2020-03-06
15第7保育園(所)入園式第7保育園(所)入園式第7保育園(所)入園式。統廃合のため今年度限りで廃園が決まった。この保育園は昭和49(1974)年開園していた。園庭には総合遊具が設置さてていた。第4・7保育園は統廃合の後一つ浜地籍(農協スタンド近く)に新しい保育園ができた。現みずべ保育園。写真は最後の入園式に焼てきた親子。2020-03-06
16蕉鹿庵前の酒宴蕉鹿庵前の酒宴写真は大正15(1926)年10月31日撮影、水月会が蕉鹿庵の前で観楓会を開いた時のもの。写真裏に右から中村春吉、中村尚(其梅)、吉沢兼之助(晩雪)河西庄三郎、中村卯一郎(如佛)、中村橲一、中村茂重(柳月)、浜平三郎(木章)、林巻平(渓月)中村牧五郎(梅屋)と名前が記録されている。 大正4(1915)年天龍道人壱百年忌記念事業にあたって慈雲寺庭前に天龍道人の詩碑を建て、遺墨展を開いた。この時、水月園の正岡子規碑左手にの観月堂のある平の一角に蕉鹿庵を茶室として建設した。8坪ほどの茶室風の建物で、句会やお花見などに利用されたが、昭和25(1950)年の台風により倒壊し除去された。 ちなみに焦鹿というのは天龍道人が愛用した「焦鹿」という言葉に由来している。。2020-03-06
17和田義盛の刀石和田義盛の刀石明治37(1904)年古峠(旧中山道)の石小屋下にあった和田義盛の刀石が、水月会員の出払で慈雲寺中庭に移された。この石は砥川石(安山岩)の側面に刀を突き通したという穴が三つあいている、(樹形と推定される)鉱物学的に貴重なもの。和田義盛は鎌倉時代初め(1147-1213)の人。侍所別当だったが北条氏と対立し挙兵したが、一族とともに滅ぼされた。2020-03-06
18柴金桃あずまや柴金桃あずまや小口正衛は第2代村長、第5代町長を務めた人。趣味が広く柴庭庵金桃と称し俳句をした。柴金桃は後年の俳号である。武居台地の先端部、宮司家宅裏の柴金桃あずまや。「名月や虫の髭ふる草の上」の句碑が赤砂砥川先の赤砂公民館前に残されている。2020-03-06
19宮坂喜十先生胸像宮坂喜十先生胸像昭和4(1929)年11月18日、宮坂喜十先生謝恩会で胸像を下諏訪小学校南校の校庭入口に建立。昭和18(1943)年3月10日、大東亜戦争で供出したが、昭和26(1951)年10月7日ブロンズに復元する。製作者武井直也。宮坂喜十先生が教職についたのは明治18(1885)年以来44年間ひとすじに教育に尽くしてきた。下諏訪の初等教育の原点を担ったお一人である。「下諏訪の史話」「諏訪大神の信仰」などの郷土史の著者でもある。2020-03-06
20金馬簾(きんばれん)披露式金馬簾(きんばれん)披露式写真後ろの建物は明治9(1876)年建築の下諏訪学校。第3回金馬簾(きんばれん)披露式が明治37(1904)年9月23日下諏訪学校校庭にて挙行されたときの記念撮影。下諏訪町消防組は公設消防としてその功績が認められ、明治35(1902)年10月23日金馬簾一条の使用を許された。馬簾とは纏(まとい)の飾りのこと。2020-03-06
21本陣庭園本陣庭園中山道随一の名園と称される本陣の庭園。現在の庭園は江戸時代中期に整えられたものというが、各地の名石を集め自然の地形を利用し、秋宮の森や周囲の山を借景にして、承知側から引水した水を利用した本格的築庭式石庭園と紹介されている。特に京風の建物からの眺めは春のつつじ、新緑、初夏のあやめ、さつきの紅葉、雪景色など四季折々に楽しめる。 もともとこの庭園は、本陣六代目岩波太郎左衛門が、伊豆韮山の江川太郎左衛門のもとに遊び、帰りてつくりしもので、御小休所も同時に建てられたと伝えられている。 №587参照。2020-03-06
22本陣御小休御座の間本陣御小休御座の間「本陣岩波家」のパンフレットには、建築史の東大藤島名誉教授の言葉で次のように紹介されている。「(前略)…下諏訪宿の本陣岩波家の客室と庭ほど、純粋な京風を純粋の極にまでなしえた例はどこにもなく、まさに中山道中の異彩である。これほどに洗練された京風数寄屋造りは、京大工によるものとしか考えられない。…(後略)」 明治13(1880)年6月24日、明治天皇御巡幸の際は旧本陣岩波家にお小休された。なお、江戸時代末に皇女和宮が使われた上段の間は聴泉閣かめやに移築されている。2020-03-06
23四阿屋(あづまや)四阿屋(あづまや)明治25年、紫庭庵金桃(本名小口正衛 安政6年生まれ第2代村長・第5代町長)が武居の雨後庵町長の庭先へ四阿(あづまや)を建てる。この四阿は郡内の俳人を読んで句会開催するため、諏訪湖を一望できる武居の高台に建てたもの。 俳人金桃らもしばしば句会開いた武居の雨後庵前の四阿屋(あずまや)。2020-03-06
24聴泉閣カメヤホテル庭園聴泉閣カメヤホテル庭園絵葉書(下諏訪温泉かめやホテル)現聴泉閣カメヤホテルの庭園。2020-03-06
25第一保育園第一保育園久保(現下諏訪中学校庭南)に大正15(1926)年1月19日下諏訪保育園を設立。この保育園は県下保育施設の草分けだった。大正時代に入ると町の国用製糸は一層盛んになり大正14(1925)年には62工場、就業者数1240人に達した。その工女の半数が既婚で共働きが多かった。乳幼児を抱えた就業は大きな課題となっていた。大正14(1925)年6月に友之町にテスト会所した託児所を保育園として開設したものである。2020-03-06
26下諏訪中学校庭下諏訪中学校庭下諏訪中学校グラウンド(バックネット前)。2020-03-06
27野球チーム記念写真野球チーム記念写真野球チームの記念写真。写真に「早大招待野球、大正14.8.21」と書かれている。前列2列目には「WASEDA」の文字が並ぶ。大正14(1925)年4月に富部西豊の岩波春海氏(早稲田出身)の労によって早稲田を招いて親善試合を行った。結果は14対2、大学レベルの強さをまざまざと見せつけられ大差で敗れた。2020-03-06
28慈雲寺庭園慈雲寺庭園慈雲寺の庭園は「中村勝五郎日記」によると天保8(1837)年に築庭されたものという。その後、何度か改修、拡張がされ現在の姿となっている。水月公園山稜を借景とし、園池を中心とした多数の庭石が組まれ閑静な景観をみせている。町内に残る見事な庭園のひとつといってよい。庭園改修記念の写真。2020-03-06
29家族写真家族写真家族写真、「親子7人」「兄弟4人。2021-04-06
30輦(れん)輦(れん)慈雲寺山門の参道入口から左手の裏に設置されていた輦(れん)。弔いの時、棺おけをこれに入れて担いで墓まで行った。春宮も前を通ることは許されなかったので、石段を登って慈雲寺へ入った。寺の前の庭を3回まわって、死者の方向感覚を失くしてから墓へ向かったと伝わる。2020-03-06
31総合運動場総合運動場ガスタンクの上から撮影した総合運動場全景。球場では大会が開催されていて、多くの観客が観戦している。当時庭球コートは6面、バレーボールコートは3面がとれたという。陸上競技場はまだできていない。2枚組み写真。町営総合運動場の完成は昭和24(1949)年8月。陸上競技場完成は昭和36(1961)年11月5日である。 ちなみにこの敷地は中央車輌株式会社所有地(旧鐘紡敷地)の整理にあたって町が買収したものである。2020-03-06
32広瀬町町少年団広瀬町町少年団広瀬町少年団の団旗完成記念写真。昭和12(1937)年7月7日に支那事変が勃発。この時、町内の組長や在郷軍人等の要望により結成、小学1年から高等科2年の男子全員が毎週日曜日の朝6時に新道(三国座通り)へ集合、駆け足で諏訪大社秋宮へ必勝祈願し、その後帰町して町内道路と駅庭の清掃を実施した。そろいの帽子と腕章に少年たちの真摯(しんし)な眼(まなざし)が並ぶ。2021-04-15
33みどり幼稚園みどり幼稚園新町下にあったみどり幼稚園の園庭にて撮影。 保護者・園関係者の記念写真。 前列中央は園長の山田与八氏。 下諏訪教会では戦前の昭和10(1935)年から幼稚園経営をしていたが戦争中は町保育所に吸収され園舎は軍事工場に使用されていた。 戦後の昭和26(1951)年仮免許で始め、再び幼稚園を翌年正式の設立認可を得てみどり幼稚園と改名した。 2020-03-06
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