キーワードで探す
並び替え:

登録リスト(該当:36件)

写真タイトル説明登録日
1徳本上人の名号塔(浪人塚)徳本上人の名号塔(浪人塚)下諏訪町に4カ所ある名号塔の一つ。幕末の動乱期、尊王攘夷の熱意に燃えた武田耕雲斎(こうううんさい)率いる水戸の天狗党浪人隊が、尊攘の心情を京都にいる一橋慶喜に訴えるため上洛の途についた。中山道の要所でもある下諏訪宿は藩主忠誠が幕閣入りしていたこともあり激戦の場となり被害も大きかった。この戦いを和田合戦・砥沢口合戦・樋橋戦争と呼ぶ。戦いの後、千草山のふもとに亡くなった浪士を改葬し塚を作ったこれが浪人塚で当時は戦死塚といった。2022-03-19
2諏訪大社下社秋宮諏訪大社下社秋宮諏訪大社秋宮の現存する最古の写真。日露戦争に出征する人々の戦勝祈願の幟がはためく。当時の狛犬の姿はなく、現在のような大きな注連縄もない。2021-12-26
3諏訪大社下社秋宮諏訪大社下社秋宮狛犬も戦争に行った?昭和5年清水多嘉示氏政策の狛犬は銅製のため戦争中の金属回収の国策により戦地へ供出され、主のない台座が見られるのみとなった。またこの写真には、神楽殿に戦後奉納されるようになる大注連縄はもちろんまだない。2021-12-26
4片倉製糸の運動会片倉製糸の運動会昭和10年頃の写真で、片倉製糸の運動会と記録されている。写真右下のオルガンに合わせて若い女性(女工)が裸足で集団演技をしている。万国旗の中心に飛行機の模型がつるされ、垂れ幕には「皇国興廃此一戦在女□□子一層奮励努力せよ」(日露戦争の時の日本海海戦時のスローガンをもじっている)と書かれ、戦時色が色濃く出ている。2022-06-09
5記念写真記念写真旭日旗・国旗が見え、服装(軍服・国民服)などから戦争中の写真では?詳細不明。2021-12-18
6高林選手高林選手高林清高選手。岡谷工業学校時代は戦争中で活躍の場はなかったが明治大学に進んでから日本を代表するスプリンターとなる。日本選手権では500mに3連覇。オリンピックで6位入賞を果たした。昭和29(1954)年日本初世界選手権札幌大会では銅メダルを獲得した。2020-03-06
7建設中の鉄骨警鐘楼建設中の鉄骨警鐘楼昭和3(1928)年8月に屯所に鉄骨の警鐘楼を建築し消防内容は充実していった。写真は建設途中の様子。この鉄骨警鐘楼は戦争中に金属回収で撤去され、木製の火のみやぐらになった。2020-03-06
8鉄骨警鐘楼鉄骨警鐘楼太平洋戦争末期になると、兵器にするため民間の鉄材を供出する運動があり、第一分団の屯所の上に建てられていた火の見やぐらも倒されて供出された。昭和18(1943)年金属供出で取り壊す前の記念写真。2020-03-06
9健勝祈願ののぼり健勝祈願ののぼり太平洋戦争中に出征軍人の武運長久を祈って幟を屋敷内に建てた。幟は諏訪大社宮司に書いて貰うのが多かった。神朝臣(かみあそん)守矢真幸敬書と見える。2020-03-06
10出征兵士を送る出征兵士を送る秋宮境内、沢山の幟旗が立つ、出征兵士を送る光景。15年戦争(満州事変・日中戦争・太平洋戦争)で戦死した町民は533名と記録がある。(町政要覧より)2020-03-06
11入一通信入一通信入一(いりいち)通信(株)の洋館風の事務所。前進は明治43(1910)年発足の入一組製糸所。そのまた前身は明治34年創業の入○(イリマル)組製糸所。最盛期の大正10(1921)年は1150釜と町内きっての大手工場となり、茨城・静岡と町内に分工場を持っていた。太平洋戦争中製糸技術を生かして通信機用コイル・トランスの生産に転換した。2021-04-01
12南信日日新聞諏訪支局南信日日新聞諏訪支局この町で創刊された地方新聞南信日日新聞諏訪支局のスタッフ支局長・記者3人・事務員一人が勤務。記事はワープロ打ち、電話回線で送稿。この新聞社の前身「南信評論」が明治30年下諏訪町で創刊、月刊誌を発行(後に週刊誌へ)その後明治34年(1901)年「月刊諏訪新報」、その後、「南信日日新聞」と名を変え、さらに「長野日報」となった。本社を諏訪市へ移したのは日露戦争勃発の明治37年(1904)年、この頃日刊紙となっている。2020-03-06
13浪人塚の例祭浪人塚の例祭浪人塚の例祭、塚を守っている樋橋部落のご老人たち。毎年この時期には供養祭をしている。明治4(1871)年に諏訪藩が建てた墓碑には6人の名が刻まれている。幕末元治元(1864)年10月20日、京都を目ざす水戸の天狗党約800人の軍勢と和田峠の樋橋で待ち伏せた諏訪・松本藩連合軍とがぶつかった樋橋戦争の水戸側の戦死者11人を葬ってある浪人塚。2020-03-06
14伊藤時計店伊藤時計店駅前通りの小さな時計店。店主(当時は73歳)は太平洋戦争中、兵役で病を得て諏訪赤十字病院で療養生活を送ったさい、森山汀川の指導を受けたアララギ派の歌人。昨年歌集を出版した。伊東時計店の店内と伊東憬氏。2020-03-06
15中村竜雄氏旧居中村竜雄氏旧居この地方に多くみられる白壁にヌキを見せる造りの旧家。明治中期建築のこの家では明治期に絹織物業が営まれ、太平洋戦争後はメリヤス業の先駆けとなった。モーラー編みが創業された。当主が首都圏移住でこの年の春、所有者が替わった。2021-04-04
16翼賛壮年団(大社)参拝翼賛壮年団(大社)参拝のぼり端には諏訪郡内各町村の「翼賛壮年団」と書かれている。大日本翼賛壮年団は大政翼賛会の傘下団体の一つで昭和17(1942)年1月に結成された。各地区の若者組を退会した壮年団(組)が地域の行政にかかわる活動をしていたというがその活動は詳らかではない。その後戦時体制下にあっては戦争協力の会(大政翼賛会)として活動したところが多いという。写真は秋宮幣拝殿前と思われる。2020-03-06
17宮坂喜十先生胸像宮坂喜十先生胸像昭和4(1929)年11月18日、宮坂喜十先生謝恩会で胸像を下諏訪小学校南校の校庭入口に建立。昭和18(1943)年3月10日、大東亜戦争で供出したが、昭和26(1951)年10月7日ブロンズに復元する。製作者武井直也。宮坂喜十先生が教職についたのは明治18(1885)年以来44年間ひとすじに教育に尽くしてきた。下諏訪の初等教育の原点を担ったお一人である。「下諏訪の史話」「諏訪大神の信仰」などの郷土史の著者でもある。2020-03-06
18第一区両社詣り第一区両社詣り昭和15(1940)年9月15日。第一区両社参り。2020-03-06
19第一区両社詣り第一区両社詣り両社参り昭和16(1941)年9月21日。の昭和13(1938)年の写真と比べると子どもや婦人(女性)の人数が多いように見える。2020-03-06
20第一区両社詣り第一区両社詣り出征軍人の健康祈願のため区の主催で区民がたびたび諏訪大社の上下両社に歩いてお詣りした。写真は上社石段での記念撮影。 前列中央の男性が「日本第一軍神」の旗を持っている。 両社参りとは豊作を祈り六月一日に行われていた。 戦争中はこの日に限らず諏訪上下社に参拝した。 上社へは上諏訪の駅から歩いて参拝した。2022-03-15
21出征軍人を駅で送る出征軍人を駅で送る終戦近くなると、にぎやかな見送りは禁止となった。2020-03-06
22出征軍人を駅で送る出征軍人を駅で送る下諏訪駅で出征兵士を送る風景。日の丸の旗や出征兵士の名前を書いた幟旗がたくさん見える。終戦近くなると、にぎやかな見送りは禁止となった。2020-03-06
23戦時献金戦時献金戦時献金 昭和17(1942)年春宮の鳥居前でお舟祭の参拝者に献金をお願いしている女子青年団。「献金樽」と書かれた樽が置かれている。2020-03-06
24大詔奉戴日の行進大詔奉戴日の行進大詔奉戴日の行進(大東亜戦争のはじまった12月8日を記念し以降毎月8日を記念日として、戦意の高揚をはかった。)写真は翼賛壮年団。生徒は小学校に集合し秋宮から春宮へと行進した。この行進に参加しない者は問題視された。2020-03-06
25大詔奉戴日の行進大詔奉戴日の行進昭和17(1942)年大東亜戦争の始まった12月8日を記念して以降毎月8日を大詔奉戴日(たいしょうほうたいび)とし戦意の高揚をはかった。その日の行事として秋宮から春宮まで行進した。写真は女子青年団。2020-03-06
26奉安殿奉安殿下諏訪小学校(現中学)運動場の南端に奉安殿施工する。生徒たちは登校の際、最敬礼をして通過した。昭和21(1946)年1月御真影を地方事務所に奉環し奉安殿も姿を消した。2020-03-06
27麻の供出麻の供出昭和18(1943)年戦争末期、衣類不足を補う為軍の命令で町内の草地で麻を栽培。明新館前に大がまをしつらえて剥し繊維を供出。村人が動員されて横吹の畑麻を刈り取ったときの写真。若い人が出征し中高年者が多い。この麻が戦後まで残って麻薬の原料になると、根絶させるのに苦労した。2020-03-06
28町主催戦死者葬儀町主催戦死者葬儀町主催で行われた戦死者(第二次世界大戦・太平洋戦争戦没者)葬儀、会場は現在の南小学校講堂。祭壇には戒名(法名)に並んで「皇后陛下御下賜品」や「参謀総長」「教育総監」「陸軍大臣」「師団長」の文字も見える。また、たれ幕には「迎故陸軍兵長・・・英霊」などの文字も見える。2020-03-06
29横綱吉葉山来訪横綱吉葉山来訪大相撲下諏訪場所相撲巡業記念写真。昭和32(1957)年9月に山王台で行われた諏訪大社相撲巡業。写真は横綱吉葉山{昭和22(1947)年入幕-昭和33(1958)年引退}、当時美声といわれた呼び出しの小鉄、行司式守与之助。民家に泊まった(小林家など)。左側に子ども達が立っているのは秋宮神楽殿前の狛犬の台座と思われるが戦争中供出されたままでまだ再建立されていない。吉葉山は、十両昇進前に召集され戦地で銃弾2発を浴び終戦後再び土俵に上がった。大関で全勝優勝し「雪の全勝行進」で大人気となる。しかし、病気や被弾による後遺症などで「悲劇の横綱」と呼ばれた2020-03-06
30第三区出征軍人健勝祈願記念写真第三区出征軍人健勝祈願記念写真第三区出征軍人の健勝を祈願した際の記念写真。多くの子ども、学生も動員されている。昭和10(1935)年代に消防組から消防団となり、はっぴ姿も見える。供出前の狛犬も映っている。(狛犬は昭和19(1944)年に供出。)2020-03-06
31出征軍人家族慰安会に於ける青年団仮装演劇記念写真出征軍人家族慰安会に於ける青年団仮装演劇記念写真出征軍人家族の慰安のために青年団で仮装演劇を行った。演劇は御田劇場などで開かれた。これは、3区公民館(現青雲館)において写された記念写真。 「昭和十七年 出征軍人家族慰安會記念 六月」と写真に記録されている。2020-03-06
32第三区出身軍人健勝祈願第三区出身軍人健勝祈願愛国(国防)婦人会(現婦人会)約200名が健勝祈願したときの記念写真。写真に「昭和十四年十一月三日第三区出身軍人健勝祈願・下諏訪町国防婦人会第三班」とある。昭和12(1937)年に日中戦争に入り、昭和14(1939)年は4月から米穀配給統制法公布など戦争体制化まっ只中であった。2020-03-06
33出征家族写真撮影関係者出征家族写真撮影関係者戦時中、朝日新聞では軍神の諏訪大社下社秋宮境内で出征した兵士の家族写真を撮影、戦地に送付していた。町内の写真撮影業者のうち組合加入の秋山(高札場上)・北原・城取氏の3人、アマチュアカメラマンが撮影に当たっていた。新聞社、新聞販売店、後援の役場職員も同席しての記念写真。2020-03-06
34みどり幼稚園みどり幼稚園新町下にあったみどり幼稚園の園庭にて撮影。 保護者・園関係者の記念写真。 前列中央は園長の山田与八氏。 下諏訪教会では戦前の昭和10(1935)年から幼稚園経営をしていたが戦争中は町保育所に吸収され園舎は軍事工場に使用されていた。 戦後の昭和26(1951)年仮免許で始め、再び幼稚園を翌年正式の設立認可を得てみどり幼稚園と改名した。 2020-03-06
35戦前の下諏訪小学校(現下諏訪中学校と南小学校)戦前の下諏訪小学校(現下諏訪中学校と南小学校)写真上は明治41(1908)年建築の下諏訪尋常高等小学校(現下諏訪中学校の校舎)。第二次大戦中は東国民学校と改称され、青年学校・実科高等女学校を併設していた。写真下は大正12(1923)年に四王に作られた南校(戦争中南国民学校現南小学校)の敷地に、昭和6(1931)年に不況対策事業として建設された小学校講堂である。ともに卒業アルバムの写真で、写真下の講堂の規模は県下有数であった。2020-03-06
36秋宮鳥居前集合写真秋宮鳥居前集合写真徴兵検査合格者の記念写真。旅館の名前の入った旗があることから下諏訪温泉に宿泊した県内の人たちが多数含まれていると思われる。また、学生服を着た大学生の姿も見られる。この写真では手水舎が現在と反対側にある。手水舎は昭和28(1953)年に八幡側から千尋池側に移った。右に見える道は、昭和15(1940)年以前は武居に行く唯一の道であった。また、鳥居の左側の現在千尋池となっている場所にはまだ商家などの建物が見えている。鳥居前にあった千尋館二階から撮影された写真である。2020-03-06
地図で見る

キーワード

ログイン トップページへ