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写真タイトル説明登録日
1D51 蒸気機関車D51 蒸気機関車1963(昭和38)年~1967(昭和42)年ごろの岡谷市長地地区に隣接しの赤砂の中央線の風景。下諏訪町の砥川から横河川の間で撮影したもので飯田線から旧型電車とキハ58の準急、D51客車列車、80系電車などが見られた。また西大路通りの開通は1950(昭和55)年   写真は中央線岡谷~下諏訪間 上り列車 辰野~神手話間が部分電化され中央線に乗り入れて来た頃の写真でD51が客車を牽いていた この場所も住宅、工場のためよく見えるところではなくなった。2024-02-11
2SL モノクロSL モノクロ100周年記念で西大路ガード上を行くD51498 モノクロ撮影2024-02-07
3「あさま」色の車両「あさま」色の車両1997(平成9)~1998(平成10)年 信越線から来た189系「あさま」色の車両が「あずさ」に使用された。 写真上 2005(平成17)年11月撮影 183系特急電車  181系の次に中央線に配置された特急車で国鉄色最後の特急だった。その後クリームと赤い線の入ったグレードアップ車、長野色に変化したが2005年現在も千葉の車両が時々乗り入れている。             写真下 2012(平成24)年 5月3日撮影 何かの臨時列車 エンブレムなし。 2024-02-06
4花火列車花火列車諏訪湖祭湖上花火大会開催時は、普段は都心で走行しているれっさyが応援に來る。こちらは中央線快速列車に使用されている201系。 ※ 諏訪湖湖上花火大会も他の花火大会と同様、多数の花火客に対応するため臨時列車が運転されます。 特に諏訪湖湖上花火大会開催時は、周辺に配置されている車両のみでは足りないため、都心で走行している車両も駆けつけます。普段その列車が走行しない地域で運転されるため、その珍しさから多くの鉄道ファンが撮影に訪れます。撮影者も花火打ち上げまで暇つぶしのためしばらくその様子を眺めていました。(百瀬氏)2024-01-28
5記念切手記念切手下諏訪観光協会発行の下諏訪駅100周年記念切手シート。 昭和40ー50年代撮影のSLの切手。2024-01-13
6D51蒸気機関車D51蒸気機関車撮影者の自宅からの撮影。 社東町は現在は住宅が立ち並び以前ほどの見通しはなく、絵にはならないが一度はどうしても撮りたかった一枚。2023-12-19
7羽田家慰霊祭羽田家慰霊祭和田嶺東餅屋にある、羽田家祖先の墳墓の改修を行った。供養塔の開眼式・祖霊祭の参列者の記念撮影。2023-02-26
8長野県水産試験場長野県水産試験場昭和15(1940)年6月、下原小字蚊無川(春宮南西・浮島の南)に長野県水産試験場が建設された。この時本館と試験地が設置、同時に富部下の漁業組合の幼魚地を借用。翌16(1941)年高浜旅館の温泉プールを買収し、試験地とする。 写真は昭和17(1942)年侍従を迎えて撮影。2023-02-18
9床屋さん研修風景床屋さん研修風景御田町「イイジマ理髪店」研修風景。 カメラ(8mmカメラ?)で撮影している男性は先々代の飯島床屋の店主さん。 窓の向こう側に見えるのは「荒井書店」現在は「ちいとこ商店」になっている。2023-02-23
10子どもみこし子どもみこし子どもみこがお舟祭りの日に披露。 国道20号、友之町附近での撮影。2023-02-23
11ユキワリソウ解体図ユキワリソウ解体図ユキワリソウ(サクラソウ科)雪割草 1枚目:ユキワリソウ  低山帯~亜高山帯の岩場や草地に生え、高さ10~15cm。名は雪が解ける直後に開花するから。白花品をシロバナユキワリソウという。 2枚目:オオミスミソウ(キンポウゲ科)  山地の木陰に生える。3~4月に開花し葉は越冬して花後に新葉に変わる。花色は変異が多い。  葉の形や大きさでスハマソウ、ミスミソウにわける。 3枚目:ユキワリソウ葉裏 新潟ユキワリソウ街道で有名な花は、実はミスミソウ・オオミスミソウをいう。下段左写真はオオミスミソウ。また、同右写真の葉裏はユキワリソウで、金色に輝く。ユキワリソウは八方尾根で、7月17日撮影分2021-11-11
12諏訪女子学園諏訪女子学園諏訪女子学園前にて記念撮影。2021-08-26
13下諏訪駅構内下諏訪駅構内JRの下諏訪駅。岡谷方面からの撮影。 下諏訪駅開設100周年を記念して、SLが走った時の下諏訪駅の風景。E257系「特急あずさ」、E351系「スーパーあずさ」3番線にはSL「D51」が待機している。2023-10-21
14春の浮島春の浮島医王渡橋(いおうどばし)から川の中ほどにある浮島(うきしま)を望む。夏は子どもたちの川遊びの大切な場所となる。 撮影日は御柱年で、東山田地区の小宮の御柱のための飾り付けがされているのが見える。2021-02-23
15お祭りと子どもお祭りと子ども祭りの記念写真、大人は着物姿の正装、 子どもたちは祭り支度で長持ちの杖を持っている。 御田町劇場前での撮影。2022-06-12
16下諏訪上空(西赤砂付近)下諏訪上空(西赤砂付近)赤砂上空から西赤砂(砥川右岸)を撮影していると思われる。写真右上に鷹の橋と砥川が見える。中央(写真右上から左下へ)を走る道の北側(写真上方)には田んぼが広がっているが、現在は一般県道岡谷・下諏訪線が東西に、西大路通りが南北に新しく開設されている。西大路通りは写真のほぼ中央やや上あたり、現在の西赤砂信号まで整備され、地域の景観はずいぶん変化している。なお、十四瀬川が写真左上から道路を横切って右下に流れている。写真では黒っぽく筋のように見えている。また、写真左上や右下にリンゴ園と思われる果樹園らしき景観も確認できる。2021-04-18
17キクイタダキキクイタダキ「キクイタダキ」キクイタダキ科 全長10cm 翼開長15cm 日本で一番小さい鳥。菊の花びらを頭頂にのせたように見られこの名がついた、葉先の小さな昆虫を捕食するのでチョコチョコと動き撮影しずらい。2021-03-04
18旧庁舎前にて旧庁舎前にて旧下諏訪町役場前での記念撮影。 写真前列中央に高木十吉氏が映っている。2021-12-26
19秋宮一の御柱秋宮一の御柱諏訪大社下社秋宮一の御柱。 御柱の根元の様子が現在と違う。 撮影年月日等不明。2021-05-03
20第三区騎馬奉納第三区騎馬奉納戦後初めての御柱祭。友之町の未舗装国道にて撮影。 後方に屯所の火の見櫓が見える。2022-06-09
21三井組表彰式三井組表彰式製糸業を営んでいた表彰記念撮影。2022-01-18
22みどり幼稚園みどり幼稚園下諏訪協会では戦前の昭和10(1925)年から文部省公認下諏訪幼稚園として経営していたが、戦時中は下諏訪町保育所に吸収され、園舎は軍工場に使用されていた。戦後は昭和26(1951)年仮免許で再び幼稚園を始め、翌27(1952)年文部省管轄下にある教育施設として、県知事の認可を得て「みどり幼稚園」と改名した。この年平成2(1990)年は戦後の幼稚園開園から40年目にあたる。園舎の軒に「開園記念バザー」の幕も見える。2020-09-08
23下諏訪町東国民学校下諏訪町東国民学校校門の右の石柱に「下諏訪町東国民學校」、左の石柱に「下諏訪青年學校」「下諏訪實科高等學校」とある。 東国民學校はそれまでの下諏訪尋常高等小學校から昭和16(1941)年に名称変更されている。下諏訪青年學校は昭和10(1935)年に下諏訪實業補習學校と青年訓練所が統合して設立している。下諏訪實科高等學校は大正15(1926)年に通年性補習學校から改称されている。写真は昭和16(1941)年に東国民學校となったときに門柱の名札が付け替えられたとき撮影されたものと推察する。2023-02-26
24樋橋敬老会樋橋敬老会「紀元二千六百年 敬老會記念 主催樋橋青年會」昭和15年の大典の時の記念写真と思われるが、撮影場所は判断できていない。  2022-01-13
25里曳き里曳き昭和37年御柱祭里曳き。 八幡坂(大社通り)の横には祭りの提灯が見える。 火の見やぐらが見えることから、現在の八幡坂高札ひろば附近での撮影。2021-05-03
26下諏訪小学校下諏訪小学校写真上は下諏訪小学校(現下諏訪南小学校の旧校舎)の校門と玄関。写真下は諏訪湖方面からの撮影、学校のまわりは田んぼに囲まれている。 下諏訪学校の「南校」(低学年)が南四王に開設されたのは大正12(1923)年である。さらに昭和22(1947)年に戦後の新しい戦後教育制度のもと「下諏訪小学校」が発足している。また、児童の増加から昭和46(1971)年には新たに「下諏訪北小学校」が開設され、それまでの「下諏訪小学校」は「下諏訪南小学校」として新しい歴史を刻んできている。2022-01-20
27撮影会撮影会撮影会風景、後ろに片倉館とSBC放送の建物が映っている、場所は諏訪市の湖岸2022-04-19
28結婚式結婚式松葉屋(千尋館)で行われた結婚式の記念写真で撮影場所は広間や屋外など。 年代はどちらも昭和初期のもの。2022-01-13
29和田峠の切通し工事和田峠の切通し工事明治28(1895)年8月(明治10年掘削の峠の)頂上を掘り下げて新道(現142号線)を作った。明治27(1894)年からの改修が始まりこの工事は丁場を分割し多くの作業員が入った。工事はレールを布設しトロッコによる土砂運搬が行われ工事効率も上がった。トロッコによる作業員は松本監獄から出張してきた人々だった。写真は上田から来た写真師の撮影によるものです。2023-04-15
30記念写真記念写真諏訪大社下社秋宮神楽殿横にて撮影。2021-12-26
31お舟祭りお舟祭り夏の遷座祭(お舟祭り)、下諏訪駅前の広場で騎馬行列が勢ぞろいしての記念撮影。第一区・第三区の騎馬が一緒に写っているのは珍しい。後ろに見える駅前の大鳥居は明神型の鳥居で、昭和25年に御柱の古材を使って建て替えられたもの。この鳥居は昭和31年ネオン塔に取り替えられた。「広瀬町誌」には昭和33年の写真と記載されているが、民聲新聞等を調査した結果、33年にはすでにネオン塔になっていることが判明した。2021-05-03
32旧博愛館前で記念撮影旧博愛館前で記念撮影富部地域の脱穀風景。現在の公民館駐車場。富部公民館は庄屋をつとめていた津金家の屋敷があった。2022-05-24
33記念写真記念写真男子生徒のみで撮影。足元には雪が見える、生徒は学生服姿・長靴・雪下駄・靴など様々。詳細不詳。徽章は梶の葉に「中」とある。2022-05-12
34記念撮影記念撮影お祝いの集まり、皆さん正装をして記念撮影。2023-03-02
35神前結婚神前結婚秋宮幣拝殿にて記念撮影。2022-01-19
36御騎馬御騎馬東山田法泉寺にて御騎馬行列勢揃い。 江戸時代藩主が御柱を騎馬で警護したが、明治になり困って戸長会議と諏訪大社の依頼で長地村の東山田と東堀の人々で始まった。当時は衣装と道具の調達にかなり苦労したという。最初は一団体だったので、出陣・凱旋両方行っていたが、後年になって東山田が出陣騎馬を東堀が凱旋騎馬となり、東堀の騎馬が三区へ、東山田の騎馬(昭和25年解散)が一区へと受け継がれていった。法泉寺にて撮影。 1630の写真は、「東山田今昔」(16p)に掲載されており、「大正3年の騎馬行列勢揃、大将は武田尚氏小学4年」となっている。撮影年は再確認が必要。2022-05-03
37騎馬行列騎馬行列江戸時代藩主が御柱を騎馬で警護したが、明治になり困って戸長会議と諏訪大社の依頼で長地村の東山田と東堀の人々で始まった。当時は衣装と道具の調達にかなり苦労したという。最初は一団体だったので、出陣・凱旋両方行っていたが、後年になって東山田が出陣騎馬を東堀が凱旋騎馬となり、東堀の騎馬が三区へ、東山田の騎馬(昭和25年解散)が一区へと受け継がれていった。法泉寺寺にて撮影。 この写真は「東山田今昔」(16p)には、「大正3年の騎馬行列勢揃、大将は武田尚氏小学4年」となっている。撮影年は再確認が必要。2022-05-03
38御柱祭御柱祭平成二十二年度寅年諏訪大社式年造営御柱祭第三区役員・委員安全祈願。秋宮神楽殿前にて記念撮影。2021-12-26
39御田町役員御田町役員昭和7(1929)年御田町役員。(矢崎・城取・入舟・大増・有賀)長持ちの前での撮影。2021-12-26
40御柱祭里曳き御柱祭里曳き御柱祭曳行風景。 四ツ角八十二銀行前を秋宮に向かう曳行。 阿部奈良屋方面から撮影されている。2021-12-18
41秋宮境内秋宮境内秋宮境内での撮影。 後方に菊花展を行っている様子が見える。 大注連縄ははすした後か(色が灰色がかっている)。2021-12-18
42撮影会撮影会八島湿原、撮影会の写真。2020-03-06
43旧中部電力旧中部電力立町の中部電力㈱下諏訪営業所を、リノベーションをし、現在は「しもすわ今昔館おいでや」(旧諏訪湖時の科学館儀象堂)になっている。工事作業中の写真。この建物の角に「諏訪電気発祥の地」の碑がたてられている。 1枚目の写真はみなと屋側から撮影。奴の看板が見える。2020-03-06
44久保秋葉大権現久保秋葉大権現撮影の日付と「犬射馬場石柱」と説明がある写真であるが、サトーニットの裏にある久保秋葉大権現の周りの石碑群にあるではないかと思われる。(男根に模した石柱に道祖神と刻まれたものがある)2020-03-06
45消防団消防団諏訪大社下社秋宮の鳥居前。車に「特設防護」文字があり消防車の前で撮影したと思われる。消防団員の法被の襟に一から六の分団長の文字が読める。2020-03-06
46女性のスケート風景女性のスケート風景芸者さんのスケート風景。 城取氏撮影。2020-03-06
47スケートスケートアイスホッケー。№1377と同じ時の撮影か。2020-03-06
48アイスホッケーアイスホッケーアイスホッケーに興じる人々。№1415と同じ時の撮影か。2020-03-06
49英国代理大使夫妻記念撮影英国代理大使夫妻記念撮影在京中の各国大使がスケートに来湖する。写真は英国代理大使ローザ夫妻が、下諏訪駅前で記念撮影したもの。2020-03-06
50アイスホッケーアイスホッケーアイスホッケーのゴール前で記念撮影。 帽子や服装が似ている人がいて、当時のアイスホッケー愛好家の流行が感じられる。 リンクの周りには柵がなく見物人らしき人もいる。2020-03-06
51下諏訪駅下諏訪駅明治38年11月25日、中央東線が富士見駅から、岡谷駅まで開通する。この時、鉄道開通祝賀式挙行の案内状が、22日鉄道開通式委員総代小口友亀の名で発送され、25日午後1時10分下諏訪停車場構内で、祝賀式が挙行され、終わって有志の園遊会があった。写真前列の中央が、小口友亀氏である。下諏訪駅前での記念撮影。2020-03-06
52御柱祭御柱祭御柱祭。御柱の前で記念撮影。長持ちの人たちか。№1252の長持を担ぐ人物と同じ人物も写っている。2020-03-06
53昔の岡谷昔の岡谷昔の岡谷。前列の女性たちの袴のすそに白線二本がある。この二本線の入った袴について、今井久雄著「村の歳時記(三)」には、「工場の準制服ともなっていて」という記述があり、さらに「この袴をはく娘は寄宿舎の部屋長や養成工の教婦など指導的立場にいる娘たち」と書かれている。写真には説明がないのではっきりしないが、この本の記述は参考にできると思われる。2020-03-06
54朝日公園から岡谷市街地を望む朝日公園から岡谷市街地を望む昔の岡谷の市街地と製糸工場。諏訪湖と天竜川が見え、岡谷の市街地には黒い煙をあげる煙突が林立し、間に繭倉も見える。撮影は山手町の高台あたりからか、山の斜面は桑の木で埋め尽くされている。2020-03-06
55女工さん女工さん製糸工場の女工さんたち。若い女性に混じって後方に年配の女性も見える。きものの柄に年齢差が見える。 下の写真は帯を締め羽織も着ていることから工場の休みの日の撮影か(後ろに見えるのは揚げ返し場)。2021-04-21
56お舟祭りお舟祭りお舟祭。大正5(1916)年12月12日に諏訪神社が官幣大社に昇格したときの標柱が見える。このころはまだ参道は石畳であったことがわかる。 「写真が語る下諏訪の百年」117pの写真と同じころの撮影と思われる。2020-03-06
57鯉養殖の網イケス鯉養殖の網イケス網イケスによる鯉の養殖は、諏訪湖が発祥の地。昭和39(1964)年から下諏訪の漁業者たちによって事業化されたが昭和53(1978)年の104面をピークに減り続け、撮影当時は40面。鯉養殖の網いけすが並ぶ平成元年の諏訪湖。2020-03-06
58砥川土手砥川土手砥川の土手富士見橋付近から諏訪湖に向かって撮影。林工業(西弥生町)の看板が見えるが、ここには弥生町にあった旧諏訪女子学園があった。2020-03-06
59西赤砂の交差点西赤砂の交差点西赤砂交差点風景。西大路交差点からm上諏訪方面の坂道を撮影。2020-03-06
60繭の運搬風景繭の運搬風景軽トラックで中国産の繭を町内倉庫から岡谷の工場へ運ぶ国用製糸業者。国内の繭生産量は昭和12(1937)年をピークに減少、平成元年当時、中国、北朝鮮などから年間約1,500トン輸入しており、この製糸業者も、10年ほど前から入れ始めた中国繭が、今では主体になっているという。「諏訪湖の町の平成元年」の撮影メモから、緑町の斉藤製支店前の撮影と思われる。2020-03-06
61三月定例町会三月定例町会三月定例町会開会直前の議場。消費税関連議案が13件あり、上程議案は平成元年度予算案49件に上った。(一般会計予算額52億3,500万円)など49件に上った。議長席より撮影。2020-03-06
62議会総務委員会議会総務委員会3月定例町会開会直前の議場(議長席から撮影)。上程議案は平成元(1989)年度予算案など49件に上った。2020-03-06
63承知川の旧発電所承知川の旧発電所承知川の旧発電所。小口製糸所。この発電所(出力60キロ)は製糸工場の私設発電所の建物。大正17(1918)年岡谷から下諏訪駅前へ進出した山十組山八製糸工場が承知川水源へ設け。水利権をめぐり農業者と紛争が起きたという話も伝えられている。 1枚目の写真は表からの撮影。2020-03-06
64水月園の花見水月園の花見お花見、女性や子どもたちの服装が当時をしのばせる。中には三味線をもった男性も見える。ごちそうは重箱に詰められている。昭和5(1930)年撮影。2020-03-06
65来迎寺旧本堂前来迎寺旧本堂前本堂前で女性や住職らと記念撮影。檀家方々。来迎寺については№626を参照。2020-03-06
66御柱山出し御柱山出し山出し記念写真。法被は「下諏訪消防組」。右後列には「救護、下諏訪消防組」の旗がある。「秋宮四之御柱」の前での撮影。柱の並んでいる様子から山出しの最終日の注連掛と思われる。2020-03-06
67赤渋山林道の橋梁施工赤渋山林道の橋梁施工昭和6(1931)年1月21日、失業者救済のため砥沢林道開削の件が上提された。国道142号線桶橋分岐砥沢山内、車道3000m巾3.7mである。写真裏には「赤渋山林道橋梁竣工記念(昭和11・7・8写)」と記録されているが、写された風景は雪景色である。撮影年月日は不明としておく。なお砥沢橋は昭和30(1955)年の完成である。2020-03-06
68蕉鹿庵前の酒宴蕉鹿庵前の酒宴写真は大正15(1926)年10月31日撮影、水月会が蕉鹿庵の前で観楓会を開いた時のもの。写真裏に右から中村春吉、中村尚(其梅)、吉沢兼之助(晩雪)河西庄三郎、中村卯一郎(如佛)、中村橲一、中村茂重(柳月)、浜平三郎(木章)、林巻平(渓月)中村牧五郎(梅屋)と名前が記録されている。 大正4(1915)年天龍道人壱百年忌記念事業にあたって慈雲寺庭前に天龍道人の詩碑を建て、遺墨展を開いた。この時、水月園の正岡子規碑左手にの観月堂のある平の一角に蕉鹿庵を茶室として建設した。8坪ほどの茶室風の建物で、句会やお花見などに利用されたが、昭和25(1950)年の台風により倒壊し除去された。 ちなみに焦鹿というのは天龍道人が愛用した「焦鹿」という言葉に由来している。。2020-03-06
69牧草地にカラマツ植栽牧草地にカラマツ植栽東俣牧草地の牧草クローバー、オーチャードの畑に唐松が植林されている。酪農に見切りをつけたためと思われる。 昭和39(1964)年の撮影。2020-03-06
70水月園水月園昭和41(1966)年撮影の水月園入口の階段付近。2020-03-06
71湯田坂より坂上を望む湯田坂より坂上を望む湯田坂下より坂上(秋宮方面)を望む。いくつか旅館の名前が見える。昭和40年撮影。2020-03-06
72砥川先砥川先昭和38(1963)年撮影の砥川先の風景。2020-03-06
73水月園の花見風景水月園の花見風景昭和4(1929)年撮影の水月園の観音堂の平での花見風景。当時の服装がよくわかる。特に着物や髷姿の婦人が目立つ。2020-03-06
74一本柳神社一本柳神社西赤砂のリンゴ畑に囲まれた一本柳神社。赤砂地区の産土神である。写真撮影当時は、享保年間に作られた「友の町絵図」にも書かれていたといわれる柳の古木が祠の横に残っていた。 現在祠には・諏訪明神・豊受比売大神・津島大神・菅原大神・多賀大神・三峯大神が祭られているほか、境内には・大陸天(だいろくてん)や道祖神、蚕玉社の石碑も祀られている。2020-03-06
75諏訪湖遠景諏訪湖遠景大正元年の撮影。諏訪湖遠望。2020-03-06
76下の原消防団 一分団下の原消防団 一分団法被に「下諏訪消防組第一部」とある。昭和13(1938)年撮影。下社春宮鳥居前。2020-03-06
77田植え田植えトラクターによる代掻きの様子。昭和42年撮影。2020-03-06
78田植え田植え田植え風景。昭和42年撮影。2020-03-06
79代掻き代掻き人力による代ふみの様子。富部下字浜辺。昭和42年5月撮影。2020-03-06
80金馬簾(きんばれん)披露式金馬簾(きんばれん)披露式写真後ろの建物は明治9(1876)年建築の下諏訪学校。第3回金馬簾(きんばれん)披露式が明治37(1904)年9月23日下諏訪学校校庭にて挙行されたときの記念撮影。下諏訪町消防組は公設消防としてその功績が認められ、明治35(1902)年10月23日金馬簾一条の使用を許された。馬簾とは纏(まとい)の飾りのこと。2020-03-06
81陸軍航空隊航空写真陸軍航空隊航空写真大正6(1917)年2月16日、陸軍航空隊のモーリス・ファルマン機上から撮影した下諏訪町の中心部。中央の建物が下諏訪学校、その上の森が諏訪大社秋宮、その左斜面前方に続く町並みが中山道で塩尻方面に向かっている。2020-03-06
82下諏訪尋常小学校雨中体操場下諏訪尋常小学校雨中体操場写真左に「下諏訪尋常小学校雨中体操場小屋組。明治四十一年四月撮影」と書かれている。2020-03-06
83下諏訪学校野球大会優勝下諏訪学校野球大会優勝明治41(1908)年秋、諏訪中学主催野球大会に下諏訪学校が優勝。なおうしろにかざられた優勝旗には明治40(1907)年春も下諏訪学校の名が刻まれている。2020-03-06
84下諏訪学校下諏訪学校下諏訪学校にて撮影。2020-03-06
85下諏訪尋常高等小学校玄関下諏訪尋常高等小学校玄関質実剛健なバルコニーと明治35(1902)年3月の記念撮影。後から2列目右から3人目が浜孝吉校長。2020-03-06
86下諏訪尋常高等小学校下諏訪尋常高等小学校明治9(1876)年11月建築の下諏訪学校(名称が明治20年から尋常小学校)、玄関とバルコニーと望楼が特徴。写真は大正3(1914)年卒業記念撮影。2020-03-06
87省営バスによる薪炭の搬出省営バスによる薪炭の搬出省営バスで和田嶺方面の薪炭を搬出する状況。その頃は、バストラで客貨輸送をし、和田嶺方面の薪炭を搬出した(下諏訪国鉄自動車営業所前撮影)。荷台の上には薪が、その上に炭俵がつまれている。2020-03-06
88日露役凱旋記念撮影日露役凱旋記念撮影明治39(1906)年初春、下諏訪町の久保区で日露役出征兵の凱旋祝賀会を山王台の霞城館で行った時に玄関先での撮影。2020-03-06
89陸軍航空隊航空写真陸軍航空隊航空写真大正6(1917)年2月16日、陸軍航空隊モーリス・ファルマン機上から撮影した下諏訪町の中心部。寒中の山岳飛行並びに氷上試験飛行のため来諏の際の撮影。中央の建物は当時の下諏訪学校(友の町字神殿)で現在の下諏訪中学校の前身。周辺には秋宮の森・製糸工場・中央東線・国道20号線などが見える。2020-03-06
90中央東線開通下諏訪駅前記念撮影中央東線開通下諏訪駅前記念撮影明治38(1905)年11月25日中央東線が富士見駅から岡谷駅まで開通する。このとき鉄道開通祝賀式挙行の案内状が22日鉄道開通式委員総代小口友亀(写真前列中央)の名で発送、25日午後1時10分下諏訪停車場講内で、祝賀式が挙行された。写真は下諏訪駅前にて撮影。2020-03-06
91万治の石仏 下の原念仏講万治の石仏 下の原念仏講浮島横の万治(まんじ)の石仏。この写真は大正15(1926)年に河西政常氏により撮影されたもの。地元の人々は「あみだ様」「みたらしの石仏」と呼んで信心を続けてきた。下の原念仏講では長く万治石仏前で念仏の行事を行ってきた。 伝説では高島藩三代藩主忠晴候が春宮に石の鳥居を寄進しようとしたとき、石工がノミを入れると石から血が出たと伝えられ、のち石に阿弥陀如来と刻んで供養したという話も伝えられる。 石仏の側面に「万治三年」の年号や、「願主明誉浄光・心誉廣春」と刻まれていること、万治3(1660)年から70年後の諏訪藩主手元絵図には石仏ではなく「えぼし岩」と書かれていることなどから、木喰行者弾誓(たんせい)一派の信者が残したものではないかとする見方もある。 石仏としては首と胴がちぐはぐであったり、胸に袈裟と2020-03-06
92旧下諏訪町役場(立町青塚時代)旧下諏訪町役場(立町青塚時代)立町裏に下諏訪役場新築。明治22(1989)年4月1日に新しい下諏訪村が発足。同年5月31日字青塚(立町裏)に新庁舎開庁、以降大正14(1925)年に大社通りに庁舎が移転するまで36年間この庁舎で町政が取り行われた。第二回下諏訪区会議員当選記念に撮影したもの、尚明治7(1974)年下諏訪村が誕生して以降役場の変遷は以下の通りである。 【明治(1874))10月13日七ヶ村が合併して下諏訪村となる(事務取扱所は本陣方)・明治10(1877)年事務扱所を本陣から下諏訪学校下諏訪学校へ移す。・明治19(1886)年3月役場を学校から来迎寺へ移す。・明治22(1889)年5月31日立町に役場新築。・大正14(1925)年7月17日下諏訪町役場(八幡町)が竣工。】2021-04-04
93旧下諏訪町役場旧下諏訪町役場明治22(1989)年4月、町政公布とともに、同年5月青塚の南隣に下諏訪村役場へ、来迎寺から役場が移された。 写真は、大社通へ建築された新役場庁舎地鎮祭執行当日に、立町元役場西側で記念撮影したもの。2020-03-06
94旧下諏訪町役場新築落成式旧下諏訪町役場新築落成式大正14(1925)年7月18日八幡町(現大社通り)に下諏訪町役場新庁舎ができる。落成式執行当日の記念撮影。旧下諏訪町役場は現日本電産サンキョーオルゴール記念館「すわのね」になっています。2020-03-06
95奈良屋呉服店奈良屋呉服店明治前から大正まで続いた下諏訪の老舗、増沢市郎兵衛の奈良屋呉服店。屋号を染め抜いた店頭の、日よけのれんが当時の特徴。(明治年末の撮影)写真下に「信陽諏訪下諏訪友五(之)町奈良屋呉服店」とある。 なお明治25(1892)年7月には、友之町増沢市郎兵衛(奈良屋呉服店)が局長となり、同家の上隣りの別宅へ(石柱が見えている)郵便局が旧本陣岩波家より移り、翌26(1893)年に電信局が併設されていた。2020-03-06
96大社の朝大社の朝昭和5年(1930)献上された狛犬は、昭和19年(1944)9月金属回収の国策により供出されたままであったが、間(はざま)組神部万之助社長により、昭和35(1960)年10月12日、秋宮神楽殿の狛犬が復元献納され、奉納除幕式が行われた。(撮影者大槻十三春)狛犬の作者は原村出身の清水多嘉示(たかし)。青銅製の狛犬としては日本一と紹介されている。 ※昭和四十(1965)年度 特選 大社の朝(大槻十三春)2020-03-06
97砥川の大氾濫砥川の大氾濫明治38(1905)年6月19日の集中豪雨。浮島の右岸が決壊、東山田字若宮地籍へ浸水した。砥川にかかる橋のうち富士見橋をのぞいた全てが流失した惨状を数日後に撮影。この時医王渡橋流失、牛枠・木流し・杭などが見える。右手茅葺屋根は友野家。2020-03-06
98建設途中の山王閣建設途中の山王閣建設工事中の山王閣。秋宮南隣りの神宮寺大坊跡から裏側を撮影。山王閣は景勝地山王台に昭和40(1965)年12月24日、「国民宿舎下諏訪観光会館・山王閣」として施工した。残念ながら平成17(2006)年3月31日で営業を終了し、その後取り壊されている。100%かけ流しの天然温泉は「美人の湯」として知られ、諏訪湖を見下ろす展望の良さも売り物だった。武居源湯からの引湯であった。 №520,525と比較して見ていただきたい。2020-03-06
99山王閣山王閣国民宿舎山王閣を秋宮側からその正面を撮影。山王閣は景勝地山王台に昭和40(1965)年12月24日、「国民宿舎下諏訪観光会館・山王閣」として施工した。残念ながら平成17(2006)年3月31日で営業を終了し、その後取り壊されている。100%かけ流しの天然温泉は「美人の湯」として知られ、諏訪湖を見下ろす展望の良さも売り物だった。武居源湯からの引湯であった。 №521,525と比較して見ていただきたい。2020-03-06
100山王閣山王閣山王閣(久保海道方面からの撮影)左手の平屋の建物は諏訪湖が一望できる大浴場。武居源湯から引湯。2020-03-06
101春宮鳥居前の並木春宮鳥居前の並木機上から撮影した諏訪大社下社春宮の下馬橋(太鼓橋)奥のさわら並木。写真は諏訪市勝山為如氏撮影。下馬橋奥にさわら並木が見える。昭和9(1934)年の室戸台風でほとんどが倒れた。2020-03-06
102土橋家土橋家明治22(1889)年5月2日。初代村長に、土橋實也が選出された。 土波止新田(赤砂)からの土橋家を撮影。この旧家も、昭和46(1971)年大改修され貴重な文化財であったが、昔の面影は見られない。写真は表側。 2枚目は建物の裏からの撮影。2020-03-06
103官弊中社諏訪神社下社春社官弊中社諏訪神社下社春社絵葉書「(諏訪名勝)官弊中社諏訪神社下社春社」。鳥居の前に燈籠、鳥居の奥にはさわら並木が続いている。鳥居の両側には諏訪の石置き屋根が見える。 諏訪神社が官幣中社になったのは明治29(1896)年で、官幣大社に昇格したのは大正5(1916)年12月12日なので、写真はこの間に撮影されたものである。2020-03-06
104スケートスケート№4400の男性たち、秋宮の森をバックに記念撮影、パイプをくわえている男性もいる。2020-03-06
105里曳きでの記念撮影里曳きでの記念撮影諏訪大社下社の里曳きでの記念撮影。 厳しい戦況の中厳しい暮らしの中での祭を迎えた喜びの様子がうかがえる。2021-08-19
106高浜湾高浜湾昭和41年に撮影された富が丘から望む高浜湾。広い水田が広がっている。2020-03-06
107御騎馬勢揃い御騎馬勢揃い大正9(1920)年御柱祭、下の原御騎馬、 明新館前での役員記念写真。2020-03-06
108和田嶺合戦90年祭和田嶺合戦90年祭元治元(1864)年、総勢1000人の水戸浪士軍は尊皇攘夷の実行を迫るため中山道を上って来た。11月20日、これを迎え撃つ諏訪藩・松本藩と雨中の戦いとなった。この合戦の戦死者は諏訪藩6名、松本藩4名、浪士軍10数名であった。のちに両軍戦没者を慰霊する浪人塚が立てられた。 和田嶺合戦90年祭。昭和29(1954)年10月20日撮影。2020-03-06
109新盆仏壇新盆仏壇新盆の飾り。昭和2(1927)年8月10日撮影。新盆の家では仏壇と別に木で壇を作り位牌を祀り、親類などから贈られる盆提灯、盆灯篭を飾った。2020-03-06
110下の原勢揃い下の原勢揃い大正時代、下社春宮下馬橋での撮影。子どもたちも大人と同じ法被姿をしている。大人は鉢巻姿も勇ましく、威勢がよい。御柱祭の写真のようだ。 中央に別の写真の男性が転写されている。2021-04-01
111水月園お花見水月園お花見河西政常氏撮影 昭和初期のお花見の雑踏。後ろに観月堂が見える。2020-03-06
112第一区両社詣り第一区両社詣り出征軍人の健康祈願のため区の主催で区民がたびたび諏訪大社の上下両社に歩いてお詣りした。写真は上社石段での記念撮影。 前列中央の男性が「日本第一軍神」の旗を持っている。 両社参りとは豊作を祈り六月一日に行われていた。 戦争中はこの日に限らず諏訪上下社に参拝した。 上社へは上諏訪の駅から歩いて参拝した。2022-03-15
113下諏訪全景下諏訪全景河西政常氏撮影。製糸工場の煙突の煙が見える。白い建物は ※丸六製糸(現在のムトー工業の位置)。2020-03-06
114米屋の初荷(下馬本屋)米屋の初荷(下馬本屋)下諏訪製糸勃興期の初荷風景。下の原下馬橋(太鼓橋)左袂の下馬本屋精米所から製糸工場に白米の初荷の様子を撮影した写真。運送会社がおかめの飾りを持って来て飾つけ、酒を飲んで初荷を祝った。2020-03-06
115子どもの川遊び子どもの川遊び中村静志に絵を描くためと依頼されて撮影したという写真。2020-03-06
116下諏訪町遠望下諏訪町遠望富部の山の手から撮影。国鉄(現JR)との立体交差の始まった冬。立体交差は昭和32(1957)年5月20日開通式を行う。写真手前家並みは中山道。その上側に農耕地が広がり写真右に土田墓地、駅構内の線路、駅の手前にダイヤ豆腐の工場、画面左端には下諏訪小学校の講堂と思われる建物が見える。写真中央を中央線と国道20号線沿いの家並みが線状に見えている。遠く水田地帯、砥川、長地の集落と思われる風景が続く。2020-03-06
117宅地化する前の湖浜地区宅地化する前の湖浜地区富部山の手から撮影。冬の高浜湾。2020-03-06
118室戸台風の被害室戸台風の被害昭和9(1934)年9月21日に下諏訪を襲った室戸台風により大門通りのさわら並木が倒れた。   2枚目の写真は春宮鳥居に向かい右手前に続く民家付近(現共立病院の前あたり)。 3枚目は石の鳥居前や手水舎一帯の大被害の様子。 4枚目は台風に襲われ大門通りのさわら並木の大半が倒れた下馬橋上の様子。 5枚目は春宮鳥居前の被害状況。 河西政常氏撮影。2020-03-06
119大門通り下馬橋~春宮大門通り下馬橋~春宮大門通りのさわら並木や下馬橋を参道南側から春宮方向に望む。河西政常氏撮影 。2020-03-06
120吉澤製材所とさわら並木吉澤製材所とさわら並木春宮前のさわら並木を西側から写したもの。春宮下馬橋の西裏手を流れる御手洗川の水力(水車)を動力として利用をした吉澤製材工所。写真の大きな立木は大門通りのさわら並木。現在は駐車場、住宅になっている。河西政常氏撮影。2020-03-06
121春宮前大門通り大正末期春宮前大門通り大正末期春宮前の大門通り下馬橋から春宮を望む、河西政常氏撮影。通りの両側にはさわら、杉、松、桜などの大木が並んでいた。明治中期の調査では計41本であったが、昭和9(1934)年の室戸台風でほとんどが倒れ、その後枯死し昭和39(1964)年には全て姿を消した。2020-03-06
122大正年間の大門通り大正年間の大門通り大門の中ほどから下馬橋を望む、何かが通るので沿道の人が出てきていたところか?撮影者の河西氏宅は下馬本屋と呼ばれ暗箱(ガラス板)を使って写真を撮影していた。当時アマチュアカメラマンといえば下馬本屋さんといわれていた。尚下馬本屋(河西氏宅)は下の原の御洗川の水を利用して、精米水車を最後まで行っていた一軒であった。2020-03-06
123小田野段丘と砥川新扇状地小田野段丘と砥川新扇状地 機上から(諏訪市勝山為如氏)撮影した諏訪大社下社春宮下馬橋(太鼓橋)。 右が春宮の森、さわら並木は昭和9年の室戸台風でほとんどが倒れ今は見られない。左上が小田野段丘で昭和37年社が丘住宅団地ができた。その下が東山田の集落。参道両側の民家は平石屋根やかやぶき屋根が多い。2020-03-06
124下諏訪小学校南校雨天体操場建設下諏訪小学校南校雨天体操場建設下諏訪小学校南校雨天体操場(講堂)内での関係者の記念写真。平成29(2017)年11月26日市民新聞に掲載された。2020-03-06
125総合運動場総合運動場ガスタンクの上から撮影した総合運動場全景。 球場では大会が開催されていて、多くの観客が観戦している。 当時庭球コートは6面、バレーボールコートは3面がとれたという。 陸上競技場はまだできていない。 2枚組み写真。 町営総合運動場の完成は昭和24(1949)年8月。 陸上競技場完成は昭和36(1961)年11月5日である。 ちなみにこの敷地は中央車輌株式会社所有地(旧鐘紡敷地)の整理にあたって町が買収したものである。2020-03-06
126御射山スキー場御射山スキー場夜明けの処女雪をふんで。 撮影両角信行氏2020-03-06
127御射山スキー場御射山スキー場御射山ヒュッテがこの頃できた。御射山ヒュッテに向かってすべるスキーヤーたち。撮影両角信行氏2020-03-06
128出征家族写真撮影関係者出征家族写真撮影関係者軍艦旗(旭日旗)と国旗が玄関前に飾られている。 写真にはないが幟も立てたとのこと。2020-03-06
129石投場から望む冬の諏訪湖石投場から望む冬の諏訪湖石投場から高木-上諏訪を望む。  高木地区、田中和男氏撮影。2020-03-06
130裏参道開通記念裏参道開通記念昭和15(1940)年12月29日不況対策事業で裏参道開削がほぼ完成し通行できるようになった。 さらに同18(1943)年8月10日、字三王・久保・臺の公園敷地が川岸村長より寄附があり、同19(1944)年7月秋宮裏参道が竣工した。その際の記念写真、町長初め町理事者、地域関係者が写る。現在の「ヤマモト」の横付近で撮影、坂の中ほどに現下諏訪中学校、奥に諏訪大社下社秋宮の森が見える。2020-03-06
131殿村遺跡発掘調査殿村遺跡発掘調査殿村遺跡発掘調査団に参加した高木史話会員。 復元住居の骨組み前等での撮影。2020-03-06
132遊覧飛行記念遊覧飛行記念遊覧飛行やビラまきを行った。プロペラにしめ飾りが飾られていることから正月前後の撮影と推察できる。2020-03-06
133カーリング大会表彰式カーリング大会表彰式秋宮スケートリンクで開催されたカーリング大会表彰式。絵葉書にしたものを撮影して引き伸ばした写真。右下には「SHIMOSUWA H・SHIROTORI」の刻印が見える。左下には一銭五厘の切手と諏訪郵便局の印(昭和7年1月21日の日付印も)が見える。2020-03-06
134秋宮スケートリンク秋宮スケートリンク秋宮リンクでアイスホッケーの試合が日本で初めて行われた。出場したのは早稲田大・慶応大・東京帝大(現東大)と地元の松本高等学校の4チームだった。 この写真が撮影されたころは石置き屋根の家屋が見られたり、北側の斜面には畑・桑畑・雪をかぶった稲わらを積み上げた稲積(にお・にょう)が見える。2020-03-06
135三国座落成記念写真三国座落成記念写真駅前から四ツ角方面の振興を目的に友之町の本通り・大社通り・菅野町・駅通りの商工業者が映画館「三国座」を建設した際の関係者の記念写真。昭和29(1954)年9月1日にオープンし、「ローマの休日」を上映した。諏訪の都座の系統で当時珍しかった洋画も上映した。昭和47(1972)年9月25日閉鎖された。館名は一般より募集した。(撮影日は下諏訪町誌参考)2020-03-06
136青年演劇青年演劇下諏訪町の青年演劇を演じていた人たち。御田劇場で演じたときに舞台で撮影された記念写真。当時、慰安目的でいろいろな場で演じていた。2020-03-06
137片倉組丸六製糸場片倉組丸六製糸場明治42(1909)年片倉組丸六製糸場で下諏訪町における創業10周年記念祝賀会当日に撮影された写真。手前の道は花見新道(御作田社より上にある道)大八車の轍が線路のように残っている。右手前の木は御作田社、左中ほどの町並みは湯田仲町、左遠方の高い建物は中学校の塔、間に見える畑は桑畑で当時は多く見られた。後方にはうっすら白く諏訪湖が広がっている。2020-03-06
138秋宮周辺航空写真秋宮周辺航空写真勝山写真館(上諏訪)が赤砂飛行場を離陸撮影した航空写真。秋宮周辺の宿場町の町並みが残っている。左下に旧町役場庁舎、左端の中あたりに中部電力前身の信州電気、その前の立町通突き当りには二階建ての綿の湯、その周りには改築前の旅館、鳥居前は当時の街道の風情が色濃く残り千尋館なども見られる。 勝山写真館では霧ケ峰強清水のスキー場の写真などを空から撮影していた。2020-03-06
139出征家族写真撮影関係者出征家族写真撮影関係者戦時中、朝日新聞では軍神の諏訪大社下社秋宮境内で出征した兵士の家族写真を撮影、戦地に送付していた。町内の写真撮影業者のうち組合加入の秋山(高札場上)・北原・城取氏の3人、アマチュアカメラマンが撮影に当たっていた。新聞社、新聞販売店、後援の役場職員も同席しての記念写真。2020-03-06
140みどり幼稚園みどり幼稚園新町下にあったみどり幼稚園の園庭にて、保護者・園関係者の記念写真。前列中央は園長の山田与八氏。 下諏訪教会では戦前の昭和10(1935)年から幼稚園経営をしていたが戦争中は町保育所に吸収され園舎は軍事工場に使用されていた。 戦後の昭和26(1951)年仮免許で始め、再び幼稚園を翌年正式の設立認可を得てみどり幼稚園と改名した。 2020-03-06
141御田植祭御田植祭諏訪大社秋宮斎殿横の駐車場の位置にあった斎田の御田植祭の様子。当時は現地に田んぼが2枚あり、下の段を使って祭事が行われた。 右側の道は向陽坂で、山王台の橋の位置から撮影した。2020-03-06
142お花見風景お花見風景御田町商店主の皆さんのお花見。当時(昭和15年頃)は芸達も多く、仮装(御田町の店主)してお花見を楽しんだ。のんきな父さんの姿も見られる。左側に見えるのは、山車である。慈雲寺下の花見新道で撮影。子どもの多くは着物姿である。2020-03-06
143岩波(旧本陣)器械製糸所岩波(旧本陣)器械製糸所本陣が経営していた「岩波器械製糸場」の内部、諏訪地方で撮影された写真の中で最も古いと思われる。 ※同製糸場は明治10(1877)年創業、本陣の裏手にあった。2021-03-23
144秋宮鳥居前集合写真秋宮鳥居前集合写真徴兵検査合格者の記念写真。 旅館の名前の入った旗があることから下諏訪温泉に宿泊した県内の人たちが多数含まれていると思われる。また、学生服を着た大学生の姿も見られる。この写真では手水舎が現在と反対側にある。手水舎は昭和28(1953)年に八幡側から千尋池側に移った。向かって右に見える道は、昭和15(1940)年以前は武居に行く唯一の道であった。また、鳥居の左側の現在千尋池となっている場所に商家などの建物が見えている。鳥居前千尋館の二階から撮影された写真である。2020-03-06
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