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写真タイトル説明登録日
1梶原塚梶原塚平安末から鎌倉時代の初頭に活躍した下社大祝・金刺盛澄の命の恩人梶原景時を祀ってある。盛澄は、木曽義仲軍の中心勢力であったため、源頼朝の怒りにふれ死罪を申し渡される。しかし彼の武技が消えるのを惜しんだ梶原景時のとりなしで、鶴岡八幡宮においてその技を披露することになった。その非凡な技量をみて頼朝は盛澄と義仲の家来六十余人の罪を許し、盛澄らは故郷へ帰ることができた。1200年に自刃した景時の人徳をしのび、盛澄が建立したと言い伝えがある。最初は四王ガード付近にあったが、何度か移転をし、現在は、菅野町会館の入口に祀られている。2023年に「地域の活力創生チャレンジ事業支援金」を活用して「菅野会館維持検討委員会」が整備をした。2024-02-03
2照光寺の仁王像(四王の由来)照光寺の仁王像(四王の由来)照光寺の仁王像は2メートルを超える本格的な中世の仏像。言い伝えによると、文明14年(1472)の大洪水で宮川安国寺から流出し、諏訪湖を漂流した後、下諏訪に打ち上げられたという。像は加須加(春日)仏師の作とも、運慶の作とも伝えられている。当初は上座堂という仏堂に安置されていたというが、後に下社神宮寺の仁王門に移された。製作年は14~15世紀とされている。明治維新で廃仏毀釈が行われ、下社神宮寺所蔵の多くの仏像が照光寺に移管された。仁王像が2体打ち上げられたことが四王の由来とされている。由来については諸説ある。下諏訪町誌民俗編に詳細が記載されている。また、位置情報には仁王門のあったと思われる場所を記載した。2023-12-17
3根(寝)入りの杉根(寝)入りの杉 下社秋宮境内に、周囲を石の玉垣(たまがき)に囲まれた杉の大樹がある。この杉は御柱に根が生えて生長したとか、弘法大師(こうぼうだいし)が参拝に来られたとき、境内に立てた杖に根が生じて生長したとも杉の挿し木に根が生えたとも伝えられている。  一説には、杉の木の枝が垂れ下がっていて木が寝入っているように見えることや、夜中になるとさらに枝を垂らして鳥居を枕にして眠り、時には寝息やいびきが聞こえることがあるといわれることなどから「寝入りの杉」ともいわれている。また、その威容(いよう)から「お宝木」ともいわれる。  この杉の木の皮をいただいて、夜泣きをする子どもの枕の下に置くと、子どもはよく眠るようになるとか、落ち葉を煎(せん)じて飲ませると子どもの夜泣きが止むともいわれている。2023-12-03
4流鏑馬流鏑馬諏訪大社下社春宮通り(大門通り)にて流鏑馬。 後ろに見えるのは春宮大門の大鳥居。2024-01-13
5奉納演武奉納演武奉納演武 下諏訪 諏訪大社下社 春宮にて 下諏訪町にある澄心館(チョウシンカン)林憲一氏による奉納演武(全剣連制定居合、夢想神伝琉、関口琉抜刀流)2024-01-13
6わんぱく相撲下社場所わんぱく相撲下社場所第36回わんぱく相撲諏訪圏大会(諏訪圏青年会議所主催、長野日報社など後援)の下社場所が諏訪大社下社秋宮八幡山土俵で行われた。4年ぶりに新型コロナ対策の制約がない通常開催に戻り、小学生約60人が白熱の取り組みを繰り広げた。子供たちは元気いっぱいで、中には3分を超える熱戦で「水入り」となる取り組みもあり、土俵際の攻防に大きな拍手が送られていた。大会は学年男女別に実施され、勝ち進めば、さらに県大会、全国大会の出場権も与えられる。2023-07-20
7桜城跡桜城跡築城の時代と居城した人については不明であるが、古くから「下社の大城」と呼ばれていたところから下社大祝の金刺氏の城であるとみられる。秋宮横の霞ヶ城が戦争に耐えきれないときには本城として使用したと思われる。2023-07-09
8山吹城山吹城諏訪大社下社の大祝であった金刺氏によって築かれた城とされている。金刺氏の居城は、下社秋宮の背後に築かれた桜城とされていたため、山吹城は、有事の際の詰め城とされている。前方に小城があり、後方に本城である大城が構えられていた。築城時期については定かでない。2023-07-09
9忠魂碑と長生橋忠魂碑と長生橋下社秋宮境内、昭和40(1965)年に長生橋左たもとに移築現在に至る。 3枚目の写真は山王台へつながる長生橋。2023-07-11
10御神渡り御神渡り諏訪湖が全面結氷し寒い夜が続くと、氷の収縮で大音響とともに亀裂が生じ割れ目に沿って氷が盛り上がる。これを御神渡りという。 御神渡は諏訪七不思議の一つとして古くから知られ、諏訪大社の祭神=建御名方命(たけみなかたのみこと)が、上社から下社の妃=八坂刀売命(やさかとめのみこと)のもとへ通われた跡といわれている。 写真は2018年春の様子。2023-01-18
11顔ハメパネル設置顔ハメパネル設置下諏訪観光協会は令和4(2022)年4月28日、下諏訪向陽高校3年生3人がデザインした顔ハメパネル3種類を町内3カ所に一基ずつ設置した。前年の中高生による模擬議会「しもすわ未来議会」で提案されたことがきっかけで実現したもの。パネルの大きさはいずれも180センチ四方、スチール製で生徒のデザイン画を拡大印刷している。JR下諏訪駅には下社里引きに合わせて行われる騎馬行列や長持ちのパレードが、おんばしら館よいさには御柱祭木落の場面が、しもすわ今昔館おいでやには秋宮境内のデザインが画かれている。2022-05-21
12湯けむり広場完成湯けむり広場完成下諏訪四つ角に「湯けむりひろば」が完成する。令和4(2022)年4月、下社秋宮参道の上り口の整備が進み、元武井医院のあった場所に観光客の利便性向上に役立つよう公園が作られた。2022-05-21
13春宮神楽殿に新調大注連縄春宮神楽殿に新調大注連縄下諏訪町第一区の若者を中心とした有志でつくる春遊会(中村智彦会長)は12月19日、諏訪大社下社春宮に新調した大注連縄を奉納した。同会が奉納するのは5回目で、会員は約30人。以前は総区内の中高年有志でつくる「浮島会」が制作を担っていたが、1997年から春遊会が引き継いだ。製作は春宮駐車場の一角の作業テントで10月31日から開始していた。長さは約6,3m、重さ約350kg。稲わらは約700束が使われた。2022-03-13
14下馬橋下馬橋御手洗(みたらし)川に架けられた屋根付きの反り橋で、その形から俗に太鼓橋ともよばれる。天正(1578)年の造営帳に記録があると言い、元文年間(1736~41)に修築したと伝わる。切り妻造りで簡素な内にも力強さを具えている。下社の内で最も古い建造物とされている。昔はここで下乗・下馬・籠や馬から降り、身を清めて参拝した。大社の遷座祭の時には、神の御神輿に限ってこの橋を渡る。現在は一般庶民が堂々と車に乗って昔の参道を行く姿を見ると時代の流れをつくづくを考えさせられる。2022-03-24
15浮島・夏越の大祓浮島・夏越の大祓春宮の西を流れる砥川の川中の小島は浮島と呼ばれる。 どんな大出水にも流されないことから「下社七不思議」のひとつに数えられている。この浮島に祓戸の大神を祀る浮島社は祀られていて、6月30日の夏越の祓には茅の輪が置かれて善男善女が神事の後茅の輪くぐりをする風景が見られる。2022-03-24
16浮島社浮島社浮島社。春宮の西を流れる砥川の川中の小島は浮島と呼ばれる。どんな大出水にも流されないことから「下社七不思議のひとつに数えられている。この浮島に祓戸の大神を祀る浮島社は祀られていて、6月30日の夏越の祓には茅の輪が置かれて善男善女が神事の後茅の輪くぐりをする風景が見られる。2022-03-24
17筒がゆ神事筒がゆ神事諏訪大社下社春宮、神楽殿に向かって左に筒粥殿がある。毎年1月14日夜半から15日早朝にかけて筒粥の神事が執り行われ大釜の中に米と小豆・水、それに15センチほどに切ったアシの筒44本を入れ、中央の石の囲炉裏で一晩中炊き続ける。朝、アシの筒を取り出し、一本一本の筒に入った小豆粥の状態で、その年の農作物43種の豊凶を占い、最後の一本でその年一年間の吉凶を占う。この神の占いに誤りはないと、下社七不思議のひとつに数えられている。昔は上社でも行っていたというが現在は下社のみで行われている。2022-03-19
18御作田社御作田社旧中山道沿いにある御作田社のお田植祭の風景。春宮横の浮島社で夏越の祓が行われる同じ日の6月30日に行われる。写真は鳥居前、2坪ほどの田んぼでの御田植、御田植の前の舞の様子である。 かつては№10・11・12・74の写真の時代は、秋宮境内横の水田で祭りが行われていたと聞く。古式は旧暦6月30日だったものだが、田植え後わずかひと月で穂が実るという、「御作田の早苗」として下社の七不思議に数えられている。諏訪明神は農業神であり、このあらたかな米作りこそ明神様の本領発揮とでも言えそうである。2022-03-19
19神宮寺跡・大坊跡神宮寺跡・大坊跡下社秋宮の本持仏の千手観音を本尊に祀っていた「海岸孤絶山法性院神宮寺」の大坊(方丈)があったと言われるあたりの写真。山王閣から東南に向かって眼下に見える窪地一帯を寺域とする広大な寺であったが、廃仏毀釈によって廃寺となってしまった。2021-06-23
20いいなり地蔵いいなり地蔵誰の願いもかなえてくれるというので言成地蔵尊(いいなりじぞうそん)。かつて下社の神宮寺の境内に安置され、善男善女の信仰熱く参詣する人が絶えなかったというが、明治元(1868)年に神仏分離令が公布され、神宮寺が廃寺になったとき、萩倉に移されたが、毎日少しずつ前にあった方に移動するので信者たちは驚き、元の位置に(現在地)に安置しなおしたと伝えられる。2021-06-23
21梶原塚梶原塚平安末から鎌倉時代の初頭に活躍した下社大祝・金刺盛澄の命の恩人、梶原景時を祀ってある。供養のため宝剣を埋めて塚を造り、祭事の絶えないようにと田地を寄進し上座堂が建てられていたらしいが、その後何度か場所が移り、現在は菅野町会館の入り口に祀られている。富部から分かれた鎌倉道が近くを通っていたと町誌には書かれている。また、梶原田の地名も残っているという。2021-06-10
22若宮神社(五官)若宮神社(五官)諏訪大社下社の末社の一つ。祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)と八坂刀売命(やさかとめのみこと)との御子、十三神、天照皇大神が合祀されている。鎮座のはっきりした記録はないとされている。明治5(1872)年11月、社格を村社とされた。社殿のすぐ下に鎌倉街道が通っていたと伝えられ、整備が地元の有志によって進められている。 写真上は社殿、写真下は旧甲州海道脇に立つ若宮神社入り口の石標である。2021-06-03
23ウラジロモミウラジロモミ御柱祭の御用材は下社は八島下の東俣国有林から調達される。2021-05-03
24長持ち 長持ち 「昭和十三戊虎歳御柱記念」。 諏訪大社下社、春宮鳥居前で長持ち勢ぞろいの記念写真。2021-04-13
25秋宮一の御柱秋宮一の御柱諏訪大社下社秋宮一の御柱。 御柱の根元の様子が現在と違う。 撮影年月日等不明。2021-05-03
26皇太子夫妻ご来町皇太子夫妻ご来町皇太子(現上皇様)夫妻ご来町。 明治天皇御巡幸(明治13年6月24日)から80年目の年ご結婚された皇太子殿下ご夫妻が旅行に来られた際の下社秋宮での様子。2020-09-05
27山出し山出し昭和37年諏訪大社下社御柱祭。 御柱祭山出しの風景、萩倉の村中を曳行中。 法被に「岡谷」の染め抜きがある。2021-05-03
28御柱山出し御柱山出し諏訪大社下社の山出しの木落しの場面。 詳細等は不明。2021-05-03
29東御宝殿建て替え東御宝殿建て替え御柱祭に合わせて建て替え工事が進む諏訪大社秋宮の東御宝殿。 御柱祭のたびごとに西と東の各御宝物殿が交互に建て替えられる。 昭和49年のこの年の今回は諏訪大社下社春宮・秋宮が東御宝殿、諏訪大社上社本宮は西御宝殿の建て替えが行われる。2021-05-03
30御柱祭木落し御柱祭木落し諏訪大社下社御柱祭山出し木落し坂。 年月等不明。2021-12-26
31諏訪大社下社秋宮諏訪大社下社秋宮諏訪大社秋宮の現存する最古の写真。日露戦争に出征する人々の戦勝祈願の幟がはためく。狛犬の姿はなく、現在のような大きな注連縄もない。2021-12-26
32諏訪大社下社秋宮諏訪大社下社秋宮帰ってきた狛犬。間組の神部満之助社長が黒四ダムの起工と佐久間ダムの竣工の報告に訪れ「天竜川の源流でもある諏訪湖のほとりにある諏訪大社に是非寄進したい」と奉納された。神社の案内板によると青銅製の狛犬としては日本一だという。また大注連縄も立派に奉納されている。現在の姿が整った秋宮神楽殿である。 狛犬再建については547参照。大注連縄奉納については48参照。2021-12-26
33諏訪大社下社秋宮諏訪大社下社秋宮狛犬も戦争に行った?昭和5年清水多嘉示氏政策の狛犬は銅製のため戦争中の金属回収の国策により戦地へ供出され、主のない台座が見られるのみとなった。またこの写真には、神楽殿に戦後奉納されるようになる大注連縄はもちろんまだない。2021-12-26
34記念写真記念写真諏訪大社下社秋宮神楽殿横にて撮影。2021-12-26
35大注連縄奉献大注連縄奉献戦後「日本第一大軍神」の大額が外された諏訪大社下社神楽殿。 「これでは寂しい」と地元有志が出雲大社の大注連縄保存会に指導を受け、初めて奉献したのが昭和24(1949)年。その後昭和54(1979)年まで途絶えていた。昭和54(1979)年と昭和60(1985)年に、出雲大社拝殿に大注連縄を奉献している島根県雲南市の須賀注連縄保存会の役員を迎え、御柱祭の前年に大注連縄作りの指導を受けた。 写真は昭和60(1985)年、御柱祭の新たな行事として定着させようと奉献会(約40人)が作った下社秋宮神楽殿の大注連縄奉納の時の記念写真。2021-12-18
36諏訪大社秋宮諏訪大社秋宮諏訪大社下社神楽殿。 大注連縄に赤い提灯が飾り付けられている。 神楽殿横を歩く御田植祭りの早乙女と思われる姿が見え、周りに参拝客や観光客の姿が多数見える。2021-12-18
37下社秋宮前下社秋宮前諏訪大社下社秋宮前の三井屋と大社煎餅本舗。手前に以前石畳だった名残が残っている。2020-03-06
38秋宮境内の犬射馬場石碑秋宮境内の犬射馬場石碑「當社之犬射馬場(とうしゃのいぬいばば)」と刻まれている。 犬射馬場石柱が下社秋宮境内の秋宮一の柱の脇にもある。犬射馬場とは大祝の居館(神殿:ごうどの)につづく錬武の場であり、「諏訪大明神絵詞」にもお舟祭りの後に馬場で犬追物をして祭りが終わったことが記されている。馬場(ばっば)の名称としてその名残を留めその四囲にも石柱が残されている。2020-03-06
39製糸工場の面影製糸工場の面影「小湯の上」の明治初期の製糸工場の面影伝える廃屋。下諏訪本陣の家が明治10(1876)年創業した岩波製糸場の事務所(現存・2019年現在)だった建物。寄せ棟、洋風板壁で文明開化を表現したデザインだったに違いない。この工場、製糸業の激し変換の中で早々に閉鎖となったらしく、明治26(1893)年の下諏訪機械製糸工場一覧にはその名は見えない。板塀の中に座繰糸工場があった。 背景の樹木は下社秋宮の森、道の左手は秋宮スケートリンク。2021-04-21
40消防団消防団諏訪大社下社秋宮の鳥居前。車に「特設防護」文字があり消防車の前で撮影したと思われる。消防団員の法被の襟に一から六の分団長の文字が読める。2020-03-06
41綿の湯綿の湯大正13(1924)年着任した柳沢警部補から、衛生保安の立場上、三湯(綿の湯・児湯・旦過の湯)とも改築の急務を力説されて、第二区では「綿の湯」をはじめ、三湯の改築に取りかかることになり、まず綿の湯から着手することになった。写真は大正14(1925)年8月、旧中山道沿い突き当たりの立町に建て直された綿の湯である。この時、階下は消防屯所で二階は集会所とし、二階屋上に火の見の望楼をのせた。 綿の湯はこの後、昭和35(1960)年に鉄筋コンクリート建築に改築されている。 綿の湯には伝説が2つ伝わっている。一つは建御名方命(たけみなかたのみこと)の妃である八坂刀売命(やさかとめ)が上社から下社へ住まいを移す際、上社前の温泉の湯を化粧綿に浸み込ませて持参し、下社前に置くとそこから湯が沸き出たというもの。もう一つは、穢れ2020-03-06
42時代行列時代行列春宮から秋宮へ祭神を遷座するお舟祭りのでのひとコマ。「金刺盛澄時代行列」8月1日にあわせて行われたイベントで現在は行われていない。2020-03-06
43昭栄製糸昭栄製糸明治42(1909)年創業の昭栄製糸(小口竹吾)。昭和3(1928)年当時743釜。大正9(1920)年第一次大戦後の恐慌、大正12(1923)年関東大震災、昭和4・5年世界的大恐慌等が製糸業へ大打撃を与える。やがて山十組は破綻、営業の継続を依頼会社整理の抵当権者(安田銀行)がバックアップ、昭和6(1931)年山十※組下諏訪製糸が昭栄製糸となった。その後、昭和32(1957)年、下諏訪町の工場誘致により跡地に三協精機(現日本電産サンキョー)が上諏訪より誘致された。 煙突と煙突の間の森は下社秋宮。2021-04-01
44座繰共同組合施設座繰共同組合施設座繰共同組合施設(平沢町青雲館北)。明治13(1880)年三井、増沢、岩本、岩波、小口が共同繰糸(揚返)所「白鶴社」を創設(現下社秋宮社務所)明治21(1888)年平沢町(現)青雲館北へ移築。なお製糸共同組合白鶴社(共同出荷=揚返)は明治9(1876)年創始の組合で、明治29(1896)年12月23日の信濃毎日新聞には「・・・本年信州にて売上頭は白鶴社となり・・・」と記載されており、町内の七曜社・開栄社ととも製糸業を支える働きをしていた。2020-03-06
45座繰協同組合施設座繰協同組合施設明治13(1880)年三井・増澤・岩本・岩波・小口氏等が共同揚返(あげかえし)所「白鶴社」を創立(現下社秋宮社務所)、その後明治21(1888)年平沢町青雲館北へ移築された時の写真。2020-03-06
46御柱祭御柱祭御柱祭、里曳きの神賑わいの長持ち。女装をして担いでいる。長持ちに「一之宮御用」「小口」の文字が見える。2020-03-06
47御柱祭御柱祭御柱祭。「平野消防組・小口郷小頭」の文字が法被から読み取れる。長持ちに「一宮御用」の文字が見える2020-03-06
48お舟祭りお舟祭りお舟祭。そろいの格子柄の長持ち衣装を着た人々。長持ちの箱には下社の神文(カジノ葉)をあしらったもの(下社のカジノ葉は根の部分が5つ)見える。2020-03-06
49お舟祭りお舟祭りお舟祭。春宮下馬橋より少し下がったあたりを曳いている。(写真)左上に下馬橋の屋根が見える。曳き綱の先の細い綱が氏子の人々の間から見える。当時の人々の服装がよくわかる。2020-03-06
50お舟祭りお舟祭りお舟祭。大正5(1916)年12月12日に諏訪神社が官幣大社に昇格したときの標柱が見える。このころはまだ参道は石畳であったことがわかる。 「写真が語る下諏訪の百年」117pの写真と同じころの撮影と思われる。2020-03-06
51出征兵士を送る出征兵士を送る秋宮境内、沢山の幟旗が立つ、出征兵士を送る光景。15年戦争(満州事変・日中戦争・太平洋戦争)で戦死した町民は533名と記録がある。(町政要覧より)2020-03-06
52二年詣り二年詣り諏訪大社の二年詣り。午後11時頃から人手が急に増え12時近くには、境内は身動きできない人波で埋まった。やがて元旦午前零時、地元有線テレビのサービスによる時報が響くと、わあーっという歓声が上がり、お賽銭の雨がとんだ。 歓声を上げて賽銭を投げる人たちの様子。2020-03-06
53東山田の辻東山田の辻「蚕神」碑「道祖神」、「庚申碑」が並ぶ村の辻。養蚕が盛んだったj頃は、蚕は暮らしを支えるものとして「お蚕さま」と呼ばれていた。東山田地区は旧長地村。諏訪大社春宮とのつながりが深く、下社五官がこの里に住んだ時代もあった。古くは、正面に登る道は「人棺小路」と呼んでいたらしい。(葬列が通った道のこと)2020-03-06
54旧武居祝邸旧武居祝邸旧武居祝邸。武居祝は金刺氏滅亡後下社の神事を引き継いできた。近くには武居恵比寿社、内御霊戸社、外御霊戸社、御室社、八坂社などの社があり、諏訪大社や武居祝とのつながりが見られる。また、武居祝の屋敷地跡には、邸内に湧き出ていたといわれる清水の跡や、馬小屋があったといわれる場所、大広間のあった母屋跡、宝蔵跡、稲荷社などを訪ねて歩くことができる。2020-03-06
55人力車の花嫁と花婿人力車の花嫁と花婿大社での神前結婚式へ人力車で向かう花嫁と花婿(山王台)。秋宮外苑のホテル(山王閣・現在は無い)が下社秋宮で挙式するカップルの送迎用に購入した。2020-03-06
56宵祭り宵祭り7月31日、諏訪大社下社夏の遷座祭「お舟祭り」の宵祭りの露店風景。いつもは静かな湯の街なのだが、この日は秋宮参道に露店が軒を連ね、各地から集まった若者たちでにぎわっていた。2020-03-06
57木落社例祭木落社例祭木落社例祭。木落社は諏訪大社摂社の一つで木落し坂の脇に祀られている。9月27日には午前9時に木落し坂にある木落社祭が行われ、続いて萩倉上の斧立社、さらに八島ヶ原湿原西の鷲ヶ峰麓で大元尊社祭がとり行われる。また、同日午前11時頃には旧御射山社祭が行われる。 №1087・1083・1086の写真は8月27日に諏訪大社下社の一連の行事として行われる。2020-03-06
58旧御射山旧御射山山上の聖地、旧御射山(もとみさやま)社、諏訪大社下社の奥宮の例祭、旧暦7月26日から29日にかけてこの山上に人里ができるほどの賑わいを見せたと和歌に残されている。「尾花ふく 穂屋のめぐりの一村は しばし里あり 秋の御射山」 金刺盛久の歌。旧御射山社例祭の様子。 №1087・1083・1086の写真は8月27日に諏訪大社下社の一連の行事として行われる。また、旧暦7月27日の正午に、月・日・星の三光(さんこう)を同時に拝することができたといわれ、一説では御射山山中の湿原の池に三光を映したともいわれている。この不思議な現象は諏訪神社下社の七不思議に数えられている。御射山祭は、大勢の人々が参籠(さんろう)する仮屋が穂の出た薄(すすき)で作られたことから、穂屋祭ともいわれ「穂屋野の三光」ともいわれている。2020-03-06
59斧立(よきたて)社斧立(よきたて)社斧立(よきたて)社は萩倉の奥にあり、御柱祭りの際に御神木伐採の刃物の修跋式(しゅうばつしき)を行う社。東俣の浄水場の道向かいの山脇に置かれている。この日は斧立社例祭。斧立とは・・樹木を伐採する前に山の神(大山祇神)を祀る行事。 ちなみにこの日は奥霧ヶ峰・八島ヶ原湿原にある「旧御射山社」で関係者による例祭が行われる。 №1087・1083・1086の写真は8月27日に諏訪大社下社の一連の行事として行われる。2020-03-06
60秋宮社務所秋宮社務所座卓で執務、諏訪大社下社秋宮の社務所の風景。大社の社務所は「7年に1度」の御柱祭を節目に下社⇒上社⇒下社と移して上下両社の調和を保っている。平成元(1989)年当時は上社(平成4年の大祭まで)にあり、令和2(1990)年の現在は下社に社務所が置かれている。(令和4年から上社に移される)2020-03-06
61御射山祭御射山祭御射山参り。 数えで2歳の子どもの無事成長を山の神に祈り、すすきの穂守りをもらって山をおりる。御射山祭は本来は風祭り。 八朔の祭りとつながる神事だったが、時代と共に姿を変えた。穂屋に籠って物忌みをしたことから「みさやまは夜まつり」といわれ、昔は子を負ってのお山参りも夜行われた。 このころでも夜参りを守っている人がいて、この年も夜九時ごろまで山中の御射山社を訪れる人が見られた。 写真は御射山社前の池にどじょうを放流する風景。 現在では諏訪大社下社秋宮でどじょうを放流してすます人も多くなってきた。2020-03-06
62お舟祭りの柴舟お舟祭りの柴舟諏訪大社下社の祭神の御霊代(みたましろ)は春宮と秋宮の社を2月1日と8月1日に遷座する。春(2月1日)は秋宮から春宮へ、秋(8月1日)は春宮から秋宮に遷座する。春はひっそりと静かに、夏は神霊遷座の行列の他に青芝を取り付けた巨大な柴舟に翁(おきな)媼(おうな)の神像を会い向かいに飾り曳行する。神霊奉遷の厳粛な行事と柴舟の曳行の行事が別に行われるため、祭りの中心がお舟の曳行になり、8月の遷座祭をお舟祭りとよんでいる。(四つ角付近の柴舟)2020-03-06
63お舟祭り時代行列お舟祭り時代行列下社8月の遷座祭には神霊遷座の行列や柴舟の曳行の他に御騎馬行列・長持行列(下社大祝金刺盛澄を下諏訪町長、諏訪ゆかりの名将を町小中高の校長先生などが参加し騎馬姿で町を練り歩いた)・花笠踊り・時代行列などで盛り上がり多くの人で埋め尽くされる。 このイベントは現在は行われていない。2020-03-06
64お舟祭り宵祭りお舟祭り宵祭り諏訪大社下社夏の遷座祭「お舟祭り」宵宮。いつもは静かな湯の町なのだが、この日ばかりは秋宮参道に露店が軒を連ね、諏訪盆地のあちこちから集まって来る若者達が明るい光の中に群れて、乾いた高地の夜の空気を熱くした。お舟祭り宵宮の賑わい。2020-03-06
65合宿風景合宿風景駒場高校剣道部の合宿練習風景。後ろに諏訪大社下社春宮境内東側に残る古い階段が見える。2020-03-06
66諏訪大社あやめ奉献祭諏訪大社あやめ奉献祭諏訪大社下社あやめ奉献祭の日。地元の東山田あやめ会が丹精込めて育てたハナショウブの鉢植えが、春宮神楽殿の周りに色鮮やかに並べられた。祭りでは琴と尺八の奉納もあって、普段静かな春宮もしばしの賑わいを見せた。2020-03-06
67茅の輪くぐり茅の輪くぐり諏訪大社下社の夏越(なごし)の大払い神事「茅の輪くぐり」。春宮横を流れる砥川の中の島「浮島」で行われる。茅の輪くぐりの祭りの風景。2020-03-06
68禰宜太夫家禰宜太夫家諏訪大社下社五官の一つ、禰宜太夫家の荒れ果てた屋敷。この年8月21日失火のため消失。下社五官とは大祝・禰宜太夫・擬祝・副祝をいう。2020-03-06
69諏訪大社節分祭諏訪大社節分祭春をつげる諏訪大社下社の「節分祭」の様子。恒例の宝投げに沢山の手が福をつかもうとしている。赤鬼・青鬼が登場しその浸入を防ごうと神官が立ちふざかるしぐさなど見ていて楽しい行事である。2020-03-06
70御神輿行列御神輿行列春の遷座祭。 諏訪大社下社は春宮・秋宮の二社があるので半年毎に祭神の御霊代(ミタマシロ)を秋宮から春宮へ、春宮から秋宮へと遷座(センザ)する。二月一日(旧来は一月一日)の遷座は寒い祭りで夏の遷座(お舟祭り)のように勇壮な行事はない。ひっそり行われるので「ひっそり祭り」「こっそり祭り」と言われている。 諏訪神社独特の神器「なぎ鎌」をかかげた遷座の行列が春宮に着くと、これもまた諏訪社独特のかわやなぎの玉串百本が神前へ捧げられた。 昔は旧暦一月一日の祭りだった。 秋の遷座祭は8月1日「お舟祭り」とも呼ばれにぎやかに遷座する。2020-03-06
71諏訪大社宮司諏訪大社宮司執務中の加藤宮司。諏訪大社宮司の加藤茂さん(当時82歳)は神社本庁から迎えられた宮司は「上下社の融合に一番気を使います。でもこの土地では御諏訪様は絶対で政党も新興宗教も超越して協力してくれます。これだけはよその土地とは違います。それだけに御諏訪様は怖い神様です。」と話していた。諏訪大社は上社(諏訪市・茅野市)下社(下諏訪町)に分かれているうえ、上・下両社とも二つのお社から成るというややこしさがあり、古くは上・下両社が血の抗争を繰り広げたこともあって、維新後、一つの神社となったが、氏子間の対抗意識が潜在していてかじ取りは難しいらしい。2020-03-06
72筒がゆ神事筒がゆ神事神楽殿の西方にある筒粥殿。1月14日夜から15日早朝に行われる「筒がゆの神事」の様子。 諏訪大社下社(春宮)に伝わる小正月の年占いで、長さ18cmの葦の茎を44本束ねて入れた鉄釜で米・小豆の粥を夜を徹して炊きあげ、15日早暁、葦の茎を取り出し粥の入り具合でこの年の農作物の出来と「世の中」を占う神事。 この年の結果は「世の中三分七厘」(五分満点)との託宣だった。2020-03-06
73諏訪大社祈念祭諏訪大社祈念祭諏訪大社祈年祭。「祈年祭」は穀物の豊作を祈る祭り。「としごいの祭り」とも言う。下社は春宮にて行われる。2020-03-06
74諏訪大社祈念祭諏訪大社祈念祭諏訪大社祈年祭。「祈年祭」は穀物の豊作を祈る祭り。「としごいの祭り」とも言う。現在は3月17日ころ、上社が午前中、下社は午後春宮にて行われる。2020-03-06
75禰宜太夫土蔵禰宜太夫土蔵禰宜太夫屋敷土蔵。№739参照。2020-03-06
76禰宜太夫屋敷禰宜太夫屋敷諏訪大社下社五官のひとつ禰宜太夫家。当主が東京へ去り借家人が住んでいたが平成元(1989)年8月21日焼失した。2020-03-06
77記念写真秋宮記念写真秋宮諏訪大社下社神楽殿前。いつ何の記念写真かは不明。2020-03-06
78記念写真秋宮記念写真秋宮下社秋宮鳥居前。手水舎が八幡坂側にある。何の記念写真かは記録がない。2020-03-06
79下の原消防団 一分団下の原消防団 一分団法被に「下諏訪消防組第一部」とある。昭和13(1938)年撮影。下社春宮鳥居前。2020-03-06
80秋宮鳥居前の松葉屋(後の千尋館)秋宮鳥居前の松葉屋(後の千尋館)松葉屋全景。写真下に「割烹松葉屋 電話 二十六番」とある。2020-03-06
81秋宮鳥居前の松葉屋(後の千尋館)秋宮鳥居前の松葉屋(後の千尋館)写真下には「松葉屋料理店 官幣中社諏訪大社下社鳥居前」と書かれている。諏訪大社は大正5(1916)年12月12日、官幣大社に昇格している。秋宮鳥居右奥には合名会社三井組製糸の第四工場。(明治9(1876)年から大正10(1921)年頃)(現社務所)手前は松葉屋料理店(後の千尋館)。その手前は旧柳沢家(現若松氏経営の土産品店)三井家は嘉永2(1849)年座繰機器を入れて土蔵前に庇を出して「座繰製糸」を始めた。後に明治9(1876)年「山王台」下にて本格操業、明治13(1880)年には三井仁平衛・増沢市郎兵衛・岩本甚蔵・岩波甚吉・小口森蔵等共同座繰場「白鶴社」を平沢町(現青雲館北)に立ち上げた。2020-03-06
82秋宮右手の石垣秋宮右手の石垣秋宮左手の石垣。道は下諏訪宿へ入る甲州道中の江戸側の 入り口である。石垣正面の曲がり角は宿場への枡形お部分で番屋が置かれていた。2020-03-06
83秋宮神楽殿秋宮神楽殿「諏訪大社神楽殿及日本一駒犬」と写真下に書かれている。昭和6(1931)年9月18日には満州事変戦勝祈願も行われている。狛犬(駒犬)は昭和5(1930)年11月吉日に竣工。神楽殿をかこむようにしめ縄飾られている。現在の神楽殿正面の大しめ縄は戦後からのものである。 この狛犬は、昭和19年(1944)9月金属回収の国策により供出されたままであったが、間(はざま)組神部万之助社長により、昭和35(1960)年10月12日、秋宮神楽殿の狛犬が復元献納され、奉納除幕式が行われた。狛犬の作者は原村出身の清水多嘉示(たかし)。現在の狛犬の説明には「青銅製の狛犬としては日本一」と紹介されている。2020-03-06
84秋宮鳥居前秋宮鳥居前「(官弊大社)諏訪神社下社秋宮社頭」と書かれた写真。「日本第一大軍神 昭和七年二月」(1932年2月)ののぼり旗が見える。手水舎が現在の位置と違う場所にある。2020-03-06
85秋宮鳥居前秋宮鳥居前「官幣大社諏訪神社下社 長野県諏訪郡下諏訪町鎮座」と書かれている写真。諏訪神社は大正5(1916)年12月官幣大社に昇格した。当時は手水舎(御手洗所)が銅鳥居の右袂にあった。左奥には大空洞のある大欅があり、子どもが数人が入って遊べたという。(この欅は写真左手の官幣大社標柱の陰の大木で大正初期に枯れたという。)境内参道は自然石の石畳だった。2020-03-06
86千尋館千尋館諏訪大社下社秋宮、右手前は千尋池、その奥には手水舎が見える。正面は千尋館で現在は土産物店「専女八幡」となっている。2020-03-06
87博物館博物館昭和27(1952)年7月21日、神社と共用の博物館が、諏訪大社下社秋宮の神饌所を借用してできる。写真中央が当時の下諏訪博物館。歴代館長は昭和25(1950)年5月矢ケ崎輝雄・同29(1954)年6月三輪良三・同47(1972)年4月小口利市。写真左は昭和38(1963)年に建設された下社宝物殿。中央が下諏訪博物館で右はお守り札の授与所である。2020-03-06
88下社神宮寺方丈跡の石垣下社神宮寺方丈跡の石垣かつて下社秋宮の東側には下社神宮寺が16200坪とも言われた境内に仏殿千手堂や三重塔、仁王門、弥勒堂、方丈が建立され、たくさんの院坊が付属していた。 明治維新の時、太政官布告明治元(1968)年大政奉還で「神仏判然令」により仏教が排撃を受け、仏像の一部は他の寺に逃れたものもあったが、下社神宮寺は破却されてしまった。 写真は高台にあった下社神宮寺大坊方丈の石垣の跡である。(現言成地蔵尊横の石垣)2020-03-06
89春宮大門の並木春宮大門の並木諏訪大社下社春宮石の鳥居の中から下馬橋方面を写したもの。2020-03-06
90春宮鳥居前の並木春宮鳥居前の並木機上から撮影した諏訪大社下社春宮の下馬橋(太鼓橋)奥のさわら並木。写真は諏訪市勝山為如氏撮影。下馬橋奥にさわら並木が見える。昭和9(1934)年の室戸台風でほとんどが倒れた。2020-03-06
91八幡通り改修工事落成式。八幡通り改修工事落成式。八幡坂改修渡り初め。諏訪大社下社秋宮の銅鳥居前通り八幡町の道路拡張改修工事が完成、落成式を挙げる。新庁舎前(現在のすわのね)からその渡り始めの行列を写す。改修前は雨水に洗われて大石小石の急坂であり冬の日は氷の急坂となるので大社参道として改修案が出ていた。 このときから八幡町を大社通りと改称。2020-03-06
92青塚古墳青塚古墳青塚古墳。平地につくられた古墳で横穴廓をもち、諏訪地方唯一の前方後円墳。県指定文化財。石室は横穴式であるが古くに発掘されたため遺物などは不明。古墳の周囲から円筒埴輪も発見されている。古墳のくびれ部に青塚社があり、諏訪大社下社の末社となっている。2020-03-06
93宝生橋宝生橋諏訪大社下社秋宮から山王台をつなぐ室生橋。下の道路は武居方面へつながる。2020-03-06
94官弊中社諏訪神社下社春社官弊中社諏訪神社下社春社絵葉書「(諏訪名勝)官弊中社諏訪神社下社春社」。鳥居の前に燈籠、鳥居の奥にはさわら並木が続いている。鳥居の両側には諏訪の石置き屋根が見える。 諏訪神社が官幣中社になったのは明治29(1896)年で、官幣大社に昇格したのは大正5(1916)年12月12日なので、写真はこの間に撮影されたものである。2020-03-06
95お舟祭りお舟祭り官弊大社諏訪神社下社8月1日 御舟祭。大正15(1936)年、ちょうちんに下諏訪の文字。法被には「本郷」と染め抜かれている。下諏訪町が御頭郷の年のようだ。2020-03-06
96秋宮前手水舎秋宮前手水舎諏訪大社下社秋宮の手水舎、左奥に千尋池がある。2021-04-07
97大社通り大社通り秋宮周辺、大社通り。写真手前が下社秋宮。2020-03-06
98春宮正面春宮正面下社春宮前。立ち喰いそばの看板が見える。2020-03-06
99下社春宮下社春宮諏訪大社下社春宮の境内で夏の遷座祭「柴舟造り」の準備風景。2020-03-06
100里曳きでの記念撮影里曳きでの記念撮影諏訪大社下社の里曳きでの記念撮影。 厳しい戦況の中厳しい暮らしの中での祭を迎えた喜びの様子がうかがえる。2021-08-19
101慈雲寺梵鐘慈雲寺梵鐘慈雲寺釣梵鐘。応安元(1368)年の銘を刻む銘鐘である。総高114cm胴回り189cm径66cm厚さ7.5cmで、施主は下社大祝金刺豊久である。特に竜頭の手法が見事で県宝に指定されている。なお慈雲寺の開山は、正安2(1300)年、一山一寧(いっさんいちねい)。臨済宗の古寺である。2020-03-06
102航空写真 秋宮周辺航空写真 秋宮周辺下社秋宮の森、今はない山王閣の建物が見える。画面左下には青塚が見えている。2020-03-06
103売神祝印(メガミホオリノイン)売神祝印(メガミホオリノイン)「売神祝ノ印(めがみほうりのいん)」は諏訪大社下社の御神宝(宝印)で印筥(いんばこ)と共に昭和9(1934)年に国宝(現在は重要文化財)の指定を受けた。社伝によれば大同年間(806から810)平城天皇より下賜されたものといわれ、美しい鋳物肌を持つ銅印である。かつていったん失われ、秋宮境内の千尋池から発見されたと伝えられているが真偽は分からないという。2020-03-06
104第一区両社詣り第一区両社詣り昭和15(1940)年9月15日。第一区両社参り。2020-03-06
105春宮葺合祭下の原長持連春宮葺合祭下の原長持連大正15(1926)年5月6日。春宮葺合祭(ふきあいさい)が御柱祭りに先立って行われた時の下の原長持連の記念写真。 ちなみに、葺合祭は式年遷宮の年に宝殿遷座祭の前日に新宝殿の竣工式として行われる。下社の場合、春・秋両社の四宝殿の内一棟を造改築し、一棟の屋根葺合を行う。改築後は立柱式(当年の3月中旬以降)、葺合棟は葺合祭を行う。2020-03-06
106下の原勢揃い下の原勢揃い大正時代、下社春宮下馬橋での撮影。子どもたちも大人と同じ法被姿をしている。大人は鉢巻姿も勇ましく、威勢がよい。御柱祭の写真のようだ。 中央に別の写真の男性が転写されている。2021-04-01
107第一区両社詣り第一区両社詣り両社参り昭和16(1941)年9月21日。の昭和13(1938)年の写真と比べると子どもや婦人(女性)の人数が多いように見える。2020-03-06
108第一区両社詣り第一区両社詣り出征軍人の健康祈願のため区の主催で区民がたびたび諏訪大社の上下両社に歩いてお詣りした。写真は上社石段での記念撮影。 前列中央の男性が「日本第一軍神」の旗を持っている。 両社参りとは豊作を祈り六月一日に行われていた。 戦争中はこの日に限らず諏訪上下社に参拝した。 上社へは上諏訪の駅から歩いて参拝した。2022-03-15
109御柱伐採御柱伐採昭和6(1931)年。写真は春宮一の御柱。 諏訪大社下社御柱伐採は祭りの前年に東俣国有林にて行われる。 地響きを立て大木が倒れると、誰からともなく万歳が起きる。2020-03-06
110御柱伐採記念写真御柱伐採記念写真昭和6(1931)年5月2日春一の御柱伐採。 この木は目通り周囲3.82mの太さだったと記録に残され上下社を通して歴代3位の太い柱だった。 大正2(1913)年の申し合わせ以来春一の伐採は第一区(下の原)が担当している。2020-03-06
111木落し木落し大正15年(1926)諏訪大社下社御柱祭。 山出しの木落し風景。2020-03-06
112梅雨明け集中豪雨梅雨明け集中豪雨砥川の洪水。昭和7(1932)年7月8~11日の梅雨明けの集中豪雨で大出水。写真は浮島付近。 江戸時代に成立したと思われる下社七不思議のひとつとされる「浮島」。春宮の横を流れる砥川の中の小島で夏越しの神事が行われる島だが、濁流の中さながら浮きあがって見えている。2020-03-06
113下馬橋とさわら並木下馬橋とさわら並木官幣大社諏訪神社下社春宮下馬橋。昭和9(1934)年室戸台風の被害前のさわら並木。2020-03-06
114小田野段丘と砥川新扇状地小田野段丘と砥川新扇状地 機上から(諏訪市勝山為如氏)撮影した諏訪大社下社春宮下馬橋(太鼓橋)。 右が春宮の森、さわら並木は昭和9年の室戸台風でほとんどが倒れ今は見られない。左上が小田野段丘で昭和37年社が丘住宅団地ができた。その下が東山田の集落。参道両側の民家は平石屋根やかやぶき屋根が多い。2020-03-06
115結婚式の記念写真結婚式の記念写真諏訪大社下社秋宮での結婚式の記念写真。2020-03-06
116成人式記念写真(女性)成人式記念写真(女性)この当時、成人式は諏訪大社下社秋宮で行われていた。人数が多く記念写真は男女別に撮っていた。2020-03-06
117成人式記念写真(男性)成人式記念写真(男性)この当時、成人式は諏訪大社下社秋宮で行われていた。 人数が多く記念写真は男女別に撮っていた。2020-03-06
118裏参道開通記念裏参道開通記念昭和15(1940)年12月29日不況対策事業で裏参道開削がほぼ完成し通行できるようになった。 さらに同18(1943)年8月10日、字三王・久保・臺の公園敷地が川岸村長より寄附があり、同19(1944)年7月秋宮裏参道が竣工した。その際の記念写真、町長初め町理事者、地域関係者が写る。現在の「ヤマモト」の横付近で撮影、坂の中ほどに現下諏訪中学校、奥に諏訪大社下社秋宮の森が見える。2020-03-06
119実業団野球選手行進実業団野球選手行進実業団野球大会が鷹野町野球場で行われた。 そのときの選手団が諏訪大社下社秋宮に参拝し、その後消防団ラッパ隊の先導で球場まで行進した。2020-03-06
120出征家族写真撮影関係者出征家族写真撮影関係者戦時中、朝日新聞では軍神の諏訪大社下社秋宮境内で出征した兵士の家族写真を撮影、戦地に送付していた。町内の写真撮影業者のうち組合加入の秋山(高札場上)・北原・城取氏の3人、アマチュアカメラマンが撮影に当たっていた。新聞社、新聞販売店、後援の役場職員も同席しての記念写真。2020-03-06
121御田植祭御田植祭諏訪大社秋宮斎田の御田植祭終了後の記念写真。この頃からカラーフィルムが使用され始めて、カラー写真に人気があった。2020-03-06
122御田植祭御田植祭諏訪大社秋宮斎田の御田植祭終了後の記念写真。    舞を担当する女の子と苗を植える早乙女役の女性の服装の違いがよくわかる。2020-03-06
123御田植祭御田植祭諏訪大社秋宮斎殿横の駐車場の位置にあった斎田の御田植祭の様子。当時は現地に田んぼが2枚あり、下の段を使って祭事が行われた。 右側の道は向陽坂で、山王台の橋の位置から撮影した。2020-03-06
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