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写真タイトル説明登録日
1梶原塚梶原塚平安末から鎌倉時代の初頭に活躍した下社大祝・金刺盛澄の命の恩人梶原景時を祀ってある。盛澄は、木曽義仲軍の中心勢力であったため、源頼朝の怒りにふれ死罪を申し渡される。しかし彼の武技が消えるのを惜しんだ梶原景時のとりなしで、鶴岡八幡宮においてその技を披露することになった。その非凡な技量をみて頼朝は盛澄と義仲の家来六十余人の罪を許し、盛澄らは故郷へ帰ることができた。1200年に自刃した景時の人徳をしのび、盛澄が建立したと言い伝えがある。最初は四王ガード付近にあったが、何度か移転をし、現在は、菅野町会館の入口に祀られている。2023年に「地域の活力創生チャレンジ事業支援金」を活用して「菅野会館維持検討委員会」が整備をした。2024-02-03
2隠岐のあごなし地蔵・愛宕地蔵尊隠岐のあごなし地蔵・愛宕地蔵尊 昔、神殿(ごうどの)【大祝居館(おおほうりやかた)、現下諏訪中学校地籍】の西つづきに、犬射馬場(いぬいばば)と呼ばれた練武場があり、武士たちが日々練武に励んでいた。ある日、武士の流矢が隣の空き地で遊んでいた子どもたちの中に飛び込んだ。子どもの泣き声があがり、武士が顔色を変えて駈け寄ると、子どもたちに囲まれて下あごに矢を受けられたお地蔵様が横たわっていた。抱き起こすとお地蔵様の下あごが削れ落ちたという。  村人は、子どもたちの身代わりになられたお地蔵様の功徳に感謝し、馬場に隣接して祠(ほこら)を設け、懇(ねんご)ろにおまつりして「隠岐(おき)のあごなし地蔵」と呼んだ。なぜ「隠岐」とつけたかは明らかではない。2023-12-03
3桜城跡桜城跡築城の時代と居城した人については不明であるが、古くから「下社の大城」と呼ばれていたところから下社大祝の金刺氏の城であるとみられる。秋宮横の霞ヶ城が戦争に耐えきれないときには本城として使用したと思われる。2023-07-09
4山吹城山吹城諏訪大社下社の大祝であった金刺氏によって築かれた城とされている。金刺氏の居城は、下社秋宮の背後に築かれた桜城とされていたため、山吹城は、有事の際の詰め城とされている。前方に小城があり、後方に本城である大城が構えられていた。築城時期については定かでない。2023-07-09
5武居祝家のかり墓武居祝家のかり墓諏訪明神の神官には「物忌令(ぶっきれい)」という厳しい掟の為、式年の御柱年に一族に不幸があった場合は家塁代(るいだい)の墓には納めず引導もせずに、かり墓に入れ穢れがないものとして御柱祭に奉仕し、その後本墓で本葬を営むことなっていた。その墓はごく狭くわずかに弓を回した内と決められていた。ここは、大祝、武居祝金刺氏のものだ。墓の場所は富部上の字「角石(かどいし)」にあり、今は荒れ果ててしまった。2021-12-23
6犬射馬場跡標石犬射馬場跡標石犬射馬場四至ノ標石の内、北東と東南隅の写真。山王台の下に郷殿という諏訪明神大祝の屋敷(下諏訪中学校あたり)があり、この屋敷の西続き下の段を馬場(ばっぱ)といい、犬射馬場があった。鎌倉時代の武士たちは、日ごろから笠懸・流鏑馬・犬追物などの鍛錬に励んでいた。この馬場では主に犬追物を行い、またその事にまつわる祭場でもあった。江戸時代になりそれらが廃ると馬場には人家ができるなどしたため、享保18(1733)年、さらに明和6(1769)年に神社・氏子立ち合いで検地確認したという。これはその時の標石である。2022-03-19
7梶原塚梶原塚平安末から鎌倉時代の初頭に活躍した下社大祝・金刺盛澄の命の恩人、梶原景時を祀ってある。供養のため宝剣を埋めて塚を造り、祭事の絶えないようにと田地を寄進し上座堂が建てられていたらしいが、その後何度か場所が移り、現在は菅野町会館の入り口に祀られている。富部から分かれた鎌倉道が近くを通っていたと町誌には書かれている。また、梶原田の地名も残っているという。2021-06-10
8秋宮境内の犬射馬場石碑秋宮境内の犬射馬場石碑「當社之犬射馬場(とうしゃのいぬいばば)」と刻まれている。 犬射馬場石柱が下社秋宮境内の秋宮一の柱の脇にもある。犬射馬場とは大祝の居館(神殿:ごうどの)につづく錬武の場であり、「諏訪大明神絵詞」にもお舟祭りの後に馬場で犬追物をして祭りが終わったことが記されている。馬場(ばっば)の名称としてその名残を留めその四囲にも石柱が残されている。2020-03-06
9時代行列時代行列春宮から秋宮へ祭神を遷座するお舟祭りのでのひとコマ。「金刺盛澄時代行列」8月1日にあわせて行われたイベントで現在は行われていない。2020-03-06
10お舟祭り時代行列お舟祭り時代行列下社8月の遷座祭には神霊遷座の行列や柴舟の曳行の他に御騎馬行列・長持行列(下社大祝金刺盛澄を下諏訪町長、諏訪ゆかりの名将を町小中高の校長先生などが参加し騎馬姿で町を練り歩いた)・花笠踊り・時代行列などで盛り上がり多くの人で埋め尽くされる。 このイベントは現在は行われていない。2020-03-06
11禰宜太夫家禰宜太夫家諏訪大社下社五官の一つ、禰宜太夫家の荒れ果てた屋敷。この年8月21日失火のため消失。下社五官とは大祝・禰宜太夫・擬祝・副祝をいう。2020-03-06
12慈雲寺梵鐘慈雲寺梵鐘慈雲寺釣梵鐘。応安元(1368)年の銘を刻む銘鐘である。総高114cm胴回り189cm径66cm厚さ7.5cmで、施主は下社大祝金刺豊久である。特に竜頭の手法が見事で県宝に指定されている。なお慈雲寺の開山は、正安2(1300)年、一山一寧(いっさんいちねい)。臨済宗の古寺である。2020-03-06
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