キーワードで探す
並び替え:

登録リスト(該当:20件)

写真タイトル説明登録日
1国道142号線の通行止め国道142号線の通行止め令和3(2021)年13日から15日にかけての大雨の影響で、新町上の国道142号線の路面が一部陥没し通行止めとなった。町は道路崖下の約40世帯に避難指示を発令した。陥没地点は来迎寺と慈雲寺の中間で、西側が崖、道路下は大久保沢が流れている。町によると陥没は縦約5m、横約6m、深さ約5mだという。崩落は15日朝から始まったとみられ、町には午前7時50分頃「歩道の一部が陥没している」との通報があったという。同8時30分から通行止めとなり、9時15分位は崖下の新町下と東町下の一部地域約40世帯約80人に避難指示が発令された。このうち20世帯47人は町が用意した町内の宿泊施設に避難し、残りは親戚等の家に避難した。復旧工事は令和4(2022)年の御柱祭の前には完了したいとしている。2021-11-10
2休石休石富部村(第十区)の西、久保村境を流れる小川に沿って、旧道から分かれて下る家下道(いえしたみち)が鉄道を越すところに立つ野面(のずら)の六角棒状の土坂石(つっさかいし)で「休み石」と呼ばれている。 度重なる工事等で元の石はなくなってしまった。現在は別の石がおかれている。2021-12-23
3貯湯タンク跡貯湯タンク跡大正の末から昭和にかけ「富ヶ丘」と名付け高級別荘地にと計画をした大久保氏と宮坂氏。髙木の湖中に源泉を求め豊富高温な温泉を延々2㎞、高い鉄道の土手を押し上げこのタンクに貯えた。はじめに「富ヶ丘温泉」で営業を始めた。タンクにいっぱいになるとお湯は外に溢れ出し地域の人々も恩恵を受けた。残根なことに昭和初期の大不況にあい成功しなかった。2021-12-23
4柿蔭山房柿蔭山房アララギ派の島木赤彦(本名久保田俊彦)が明治30(1897)年から没する大正15(1926)年まで住んでいた住宅で、アララギ派の島木赤彦(本名久保田俊彦)が明治30(1897)年から没する大正15(1926)年まで住んでいた住宅で、柿蔭山房(しいんさんぼう)と呼ばれている。庭には樹齢300年のもなるという見事な枝ぶりのアカマツがある。町指定文化財となっている。2021-06-03
5久保街道石碑群久保街道石碑群久保街道、サトーニットの北側の道を北の方にもぼっていくと、石仏や石碑を集めた一角がある。御柱に囲まれて、ひときわ大きな秋葉大権現の石碑と並んで、蚕玉神、道祖神、二十三夜講などの石造物が所狭しと置かれている。古くは近くにお堂があったと言われている。これらの中には、男根を模した石柱に道祖神と刻み込まれたものもあり、古く先人の信仰の姿を知ることができる。2021-06-03
6武居桜武居桜諏訪大社秋宮の東、下諏訪向陽高校に向かう向陽坂の途中にある老桜。花は一重の淡紅色で鮮やかな名木で、町の天然記念物に指定されている。この桜を地元の人は「苗間桜」と呼び、春早く咲いて陽気木となり、苗間作りの目当てとされてきた。樹高およそ11mで、樹齢はおよそ300年とされている。日光博物館の久保田博士によるとエドヒガン、別名アズマヒガン・タチヒガンとされた。平成6年樹木医の指導の下外科手術をし、根元に施肥を行っている。さらに平成14年には銅板で覆って保護をしている。2021-02-23
7久保秋葉大権現久保秋葉大権現撮影の日付と「犬射馬場石柱」と説明がある写真であるが、サトーニットの裏にある久保秋葉大権現の周りの石碑群にあるではないかと思われる。(男根に模した石柱に道祖神と刻まれたものがある)2020-03-06
8街並み街並み旧甲州街道(甲州道中)。上久保(下諏訪中学校)付近の街並み。このカーブの先右には土田墓地がある。2020-03-06
9柿陰山房柿陰山房柿陰山房「島木赤彦の家」。アララギ派歌人であった島木赤彦(本名久保田俊彦)の住まい跡。この柿蔭山房で多くの優れた歌を残しました。秋には柿の実と山房の美しい風景が赤彦の想いと重なります。「柿蔭山房」(しいんさんぼう)の名前の由来は、古くからこの地には柿の木が多く、歌を発表するとき、赤彦自ら「柿の村人」と号したことからといわれています。2020-03-06
10町制施行100周年事業町制施行100周年事業諏訪盛澄時代行列イベントに参加する「万寿姫」「絹姫」コンテストが秋宮境内で行われた。写真左から「春姫」宮沢さん・久保田さん、五代目「万寿姫」の山田さん、「絹姫」の岩下さん、「秋姫」の武居さん・中谷さん。26人が応募24人が出場。「万寿姫」「絹姫」には海外旅行と副賞がプレゼントされた。2020-03-06
11白鶴社三井製糸白鶴社三井製糸白鶴社三井製糸。久保山王台下現三井範義氏宅下大東社を経て信濃蚕業(現イングスシナノ)分工場となる。右奥には若宮神社の森、手前広場は既に三井製糸工場撤去の後。2020-03-06
12大門先の石燈籠大門先の石燈籠旧中山道に面した春宮大門先の石燈籠(常夜燈)。 文政12(1829)年に作られ台座から6mの高さがある。高遠系の流れをくむ横川村(現岡谷市)の石工山田金右ェ門の子平蔵(和哉)の作といわれる。 発起人は上諏訪及び大阪の人でたくさんの寄進の人名のほか、石運びの手伝いとして湯之町・友之町・下ノ原・久保・武居・富部・東山田・萩倉新田・樋橋新田の村々名が刻まれている。 石材は高尾山から運び総工費五十両を要したという。  写真下のきなこ石の唐獅子は金左エ門作(現在はない)。         2021-04-22
13日露役凱旋記念撮影日露役凱旋記念撮影明治39(1906)年初春、下諏訪町の久保区で日露役出征兵の凱旋祝賀会を山王台の霞城館で行った時に玄関先での撮影。2020-03-06
14山王閣山王閣山王閣(久保海道方面からの撮影)左手の平屋の建物は諏訪湖が一望できる大浴場。武居源湯から引湯。2020-03-06
15柿陰山房柿陰山房柿陰山房(しいんさんぼう)。この茅葺の家は短歌の集団アララギ派のリーダーとして活躍をした島木赤彦(1876-1926)本名久保田俊彦の旧宅。高木集落は諏訪地方でも柿の木の多いところで赤彦は柿の実の丹(あか)が好きだったらしく「柿の村人」「柿の村舎(むらやど)」のような筆名の時期もあり、大正8・9(1919-1920)年ごろこの家を「柿陰山房」と命名した。2020-03-06
16第一保育園第一保育園久保(現下諏訪中学校庭南)に大正15(1926)年1月19日下諏訪保育園を設立。この保育園は県下保育施設の草分けだった。大正時代に入ると町の国用製糸は一層盛んになり大正14(1925)年には62工場、就業者数1240人に達した。その工女の半数が既婚で共働きが多かった。乳幼児を抱えた就業は大きな課題となっていた。大正14(1925)年6月に友之町にテスト会所した託児所を保育園として開設したものである。2020-03-06
17山王台を望む山王台を望む久保海道、国道20号付近の承知川。写真左上に山王閣(現在は無い)が見える。2020-03-06
18山王台を望む山王台を望む大正15(1926)年、久保海道付近、国道20号付近の承知川。写真左側の建物の奥は土田遺跡(土田墓地付近)。2020-03-06
19裏参道開通記念裏参道開通記念昭和15(1940)年12月29日不況対策事業で裏参道開削がほぼ完成し通行できるようになった。 さらに同18(1943)年8月10日、字三王・久保・臺の公園敷地が川岸村長より寄附があり、同19(1944)年7月秋宮裏参道が竣工した。その際の記念写真、町長初め町理事者、地域関係者が写る。現在の「ヤマモト」の横付近で撮影、坂の中ほどに現下諏訪中学校、奥に諏訪大社下社秋宮の森が見える。2020-03-06
20高木の長持連高木の長持連戦後最初の御柱祭の高木長持連。                           添付名簿後列左から 田中健三、久保田十吉、尾口友三、田中庄一、長谷辰男、中列左から大和大八、長崎則男、小口一郎、前列左から田中忠雄、大和剛、小口永吉、長川秋男、小平明2020-03-06
地図で見る


ログイン トップページへ