キーワードで探す
並び替え:

登録リスト(該当:42件)

写真タイトル説明登録日
1梶原塚梶原塚平安末から鎌倉時代の初頭に活躍した下社大祝・金刺盛澄の命の恩人梶原景時を祀ってある。盛澄は、木曽義仲軍の中心勢力であったため、源頼朝の怒りにふれ死罪を申し渡される。しかし彼の武技が消えるのを惜しんだ梶原景時のとりなしで、鶴岡八幡宮においてその技を披露することになった。その非凡な技量をみて頼朝は盛澄と義仲の家来六十余人の罪を許し、盛澄らは故郷へ帰ることができた。1200年に自刃した景時の人徳をしのび、盛澄が建立したと言い伝えがある。最初は四王ガード付近にあったが、何度か移転をし、現在は、菅野町会館の入口に祀られている。2023年に「地域の活力創生チャレンジ事業支援金」を活用して「菅野会館維持検討委員会」が整備をした。2024-02-03
2みそなめ地蔵みそなめ地蔵東山田にある地蔵。地元の人は「みそなめ地蔵」「庄塚のばばあ」と呼んでいる。歯が痛いとき、生みそをお供えすると歯の痛みを抑えてくれるというお地蔵さまで、痛みが落ち着くと地蔵にお茶を備えてお礼参りをしたという。また、咳き込むときには焼き味噌を供えたという。東山田権殿林(ごんどのばやし)墓地上野古田家墓地内に、形の小さい横穴式石槨の一部が露出おり、その開口部に地蔵が半ば土に埋まっている。個人の墓地敷地内につき、参拝には配慮が必要である。2023-11-26
3唐糸・万寿姫五輪供養塔唐糸・万寿姫五輪供養塔唐糸は、手塚太郎光盛の娘で万寿は唐糸の娘。唐糸は十八歳の時に鎌倉に召し出された。光盛は義仲に従っていた。源頼朝が義仲を討とうとしている計画を知った唐糸は、頼朝を討つ機会をうかがっていたが捕らえられてしまう。十二歳の万寿姫は、母唐糸を助けようと素性を隠し鎌倉に出て頼朝の館に仕えた。万寿姫は頼朝の前で舞を奉納し、頼朝に「褒美」と言われた万寿姫は母唐糸の身代わりになりたいと願い出た。驚いた頼朝は孝行に免じ許し、母子ともに信濃の国に帰ることができた。唐糸と万寿は諏訪に帰ったのち、霞ヶ城の一部に館をつくって暮らしたという室町時代の「お伽草子」23編の一つ「唐糸草子」の言い伝えに基づいて建立した二人を祀る供養塔。2023-07-13
4松本藩士の墓松本藩士の墓元治元(1864)年、水戸浪士と高島・松本両藩の樋橋合戦の際、松本藩の戦死者4名を葬った墓である。建立は松本藩の隊長であった稲村元良で、当初浪士塚の近くに埋葬したところ、高島藩から反対されこの地に改葬されたという。2023-07-09
5衣紋坂衣紋坂御田町信号付近(衣文坂)から青塚の森を見る。2023-07-07
6山王台山王台 秋宮横山王台は「手塚太郎光盛(金刺盛澄の弟)」の居城跡。のちに比叡山王社を勧請(かんじょう)したので山王台とも呼ばれている。弓の名手として知られる兄金刺盛澄の像が建立されている。この場所は霞ケ城館(かすみがじょうやかた)・山王閣・青年図書館・公園・現在は駐車場になっている。 山王閣   開業 1965年  (昭和40)  閉館 2017年  (平成29)3月31日2023-07-29
7継子神7 地図継子神7 地図本地図は参考文献にあげてある「継子神と矢木の里」を出典とする。同文献の記述によると「今から三百二十年ほど前(延宝元年)の下ノ原集落図には、奥城と思われる位置に「ママコガミノ木」と記されている 。それから二百年たった明治八年の集落図にもその大木が図指され 、「 御維新につき村にて伐る 」とある。「 下の原誌」にはこれを三両三分で売却したとあるから 、よほどの大木であったことがわかる 。この一連の記録から 、この頃まだ奥城をしのばせる森もあって 、塚守のように 大木がたっていた景を考えるのが自然のようである。」2023-04-01
8継子神2継子神2継子神祠は、かつては奥城( 古墳)跡といわれる地にあり、原氏一族によって塚守されていたという。いつしか祭祀が途絶え 、その後、有縁の吉沢巻一統によって復興された 。神座は100メートル西に遷され、継子神祠として奉斎されている。「諏訪大神の信仰」宮坂喜十によれば、矢木崎の八杵命(やきねのみこと)の俗名が継子神であるという。(継子神1を参照)2023-04-01
9継子神1継子神1継子神祠は、かつては奥城( 古墳)跡といわれる地にあり、原氏一族によって塚守されていたという。いつしか祭祀が途絶え 、その後、有縁の吉沢巻一統によって復興された 。神座は100メートル西に遷され、継子神祠として奉斎されている。「諏訪大神の信仰」宮坂喜十によれば、矢木崎の八杵命(やきねのみこと)の俗名が継子神であるという。2023-04-01
10徳本上人の名号塔(浪人塚)徳本上人の名号塔(浪人塚)下諏訪町に4カ所ある名号塔の一つ。幕末の動乱期、尊王攘夷の熱意に燃えた武田耕雲斎(こうううんさい)率いる水戸の天狗党浪人隊が、尊攘の心情を京都にいる一橋慶喜に訴えるため上洛の途についた。中山道の要所でもある下諏訪宿は藩主忠誠が幕閣入りしていたこともあり激戦の場となり被害も大きかった。この戦いを和田合戦・砥沢口合戦・樋橋戦争と呼ぶ。戦いの後、千草山のふもとに亡くなった浪士を改葬し塚を作ったこれが浪人塚で当時は戦死塚といった。2022-03-19
11一里塚一里塚五街道の一つ甲州道中ははじめ甲府までであったがその後下諏訪宿まで延び中仙道と合流、この間を末(うら)街道と言った。この塚は江戸より五十三里(約212㎞)で街道最終のものだった。明治21(1888)年払い下げられ昔の姿を消した。碑は昭和37(1962)年12月に若宮倶楽部の呼びかけで建てられた。2021-12-23
12浪人塚浪人塚元治元(1864)年10月、水戸の天狗党は武田耕雲斎を総大将にして、京都にいた一橋慶喜に尊王攘夷の実行を迫るため軍を進め、11月20日に800人余りの勢力で和田峠を越えてきた。幕命を受けた高島藩は家老千野孫九郎を総大将に総動員し、松本藩350人とともにこれを迎え撃った。この合戦で戦死した者は高島藩6名、松本藩4名、浪士軍は10数名であった。明治4(1871)年、高島藩は浪士軍の戦死塚を造り変えることになり、石工山田金右ヱ門がその碑を刻んだ。現在でも慰霊祭が引き継がれ行われている。2022-03-19
13中山道一里塚(五十五里塚)中山道一里塚(五十五里塚)下諏訪町には、一里塚が4か所置かれていた。甲州道中の53里塚(富部)、中山道の53里塚(西餅屋下)、54里塚(町屋式上)とこの写真の55里塚である。かつては街道両側に塚や根張りの良い木が植えられていたが、現在は標石が建てられているばかりである。2021-08-03
14魁塚(相楽塚)魁塚(相楽塚)現在の魁塚の写真。魁塚については№1・2・3と比較し参照されたい。2021-06-23
15梶原塚梶原塚平安末から鎌倉時代の初頭に活躍した下社大祝・金刺盛澄の命の恩人、梶原景時を祀ってある。供養のため宝剣を埋めて塚を造り、祭事の絶えないようにと田地を寄進し上座堂が建てられていたらしいが、その後何度か場所が移り、現在は菅野町会館の入り口に祀られている。富部から分かれた鎌倉道が近くを通っていたと町誌には書かれている。また、梶原田の地名も残っているという。2021-06-10
16甲州道中一里塚(五十三里塚)甲州道中一里塚(五十三里塚)富部にある甲州道中一里塚。江戸日本橋から五十三里、甲州道中最後の一里塚である・ここから十余町(およそ1㎞余)で下諏訪宿に至り、綿の湯前で中山道に合流する。2021-06-03
17梶原塚梶原塚2021-04-22
18浪人塚の例祭浪人塚の例祭元治元(1864)年水戸藩の尊王攘夷を叫ぶ急進派(天狗党)の約800(1000)人ほどの浪士隊一行は中山道を和田峠を越えてやってきた。これに対し高島・松本両藩は幕命を受け、11月20日に樋橋で迎え撃ち激戦を広げた。戦いは戦慣れした浪士隊が両藩を打ち破り下諏訪宿に入ることになった。「和田嶺合戦」「砥沢口合戦」「樋橋合戦」などと呼ばれる。この合戦で命を落としたのは浪士勢14~5人、松本勢4人、高島勢6人であった。明治2(1869)年高島藩は浪士のために戦士塚を造り、翌年には水戸に照介して6名の名を刻んだ碑を建て供養した。その後、25・50・70・90・100年祭などを催している。2022-03-19
19浪人塚の例祭浪人塚の例祭元治元(1864)年水戸藩の尊王攘夷を叫ぶ急進派(天狗党)の約800(1000)人ほどの浪士隊一行は中山道を和田峠を越えてやってきた。これに対し高島・松本両藩は幕命を受け、11月20日に樋橋で迎え撃ち激戦を広げた。戦いは戦慣れした浪士隊が両藩を打ち破り下諏訪宿に入ることになった。「和田嶺合戦」「砥沢口合戦」「樋橋合戦」などと呼ばれる。この合戦で命を落としたのは浪士勢14~5人、松本勢4人、高島勢6人であった。明治2(1869)年高島藩は浪士のために戦士塚を造り、翌年には水戸に照介して6名の名を刻んだ碑を建て供養した。その後、25・50・70・90・100年祭などを催している。2022-03-19
20浪人塚の例祭浪人塚の例祭元治元(1864)年水戸藩の尊王攘夷を叫ぶ急進派(天狗党)の約800(1000)人ほどの浪士隊一行は中山道を和田峠を越えてやってきた。これに対し高島・松本両藩は幕命を受け、11月20日に樋橋で迎え撃ち激戦を広げた。戦いは戦慣れした浪士隊が両藩を打ち破り下諏訪宿に入ることになった。「和田嶺合戦」「砥沢口合戦」「樋橋合戦」などと呼ばれる。この合戦で命を落としたのは浪士勢14~5人、松本勢4人、高島勢6人であった。明治2(1869)年高島藩は浪士のために戦士塚を造り、翌年には水戸に照介して6名の名を刻んだ碑を建て供養した。その後、25・50・70・90・100年祭などを催している。2022-03-19
21三協精機野球部三協精機野球部三協精機の野球チームは昭和36(1961)年から昭和50(1975)年まで都合9回「都市対抗野球」に信越代表で出場している。特に昭和46(1971)年の時は準決勝まで進出し、ベスト4に入っている。また、昭和49(1974)年の第一回全日本社会人野球選手権大会では優勝し、ダイヤモンド気を手中にしている。この時三協のエース大塚は9回2アウトまでノーヒットノーランを記録していた。惜しくも9回2アウトからヒットを許し大記録はならなかったが4-0の快勝であった。監督は光沢監督であった。写真は場所、年月も不明だが、応援の様子から後楽園球場の都市対抗の一場面と推察する。2022-02-24
22水戸浪士(浪人塚)水戸浪士(浪人塚)浪人塚(水戸浪士の墓) 元治元年(1864)11月20日水戸浪人(天狗塔)の総勢千余名が、和田峠で、待受けた松本・高島藩士と争い、多数の死傷を出した。写真は水戸浪士25年祭。中央の日の丸の後方が浪人塚で、まだ木は大きくなっていない。2022-03-19
23衣文坂衣文坂中央通り(衣紋坂)を坂の上から見下ろす。奥の信号付近が三澤屋書店。写真の左手前(坂の上)は青塚古墳。2020-03-06
24諏訪湖の漁業諏訪湖の漁業沿岸の深さ2m位の湖中へ15~20㎝の角張った石を300~400個ほど入れて丸い塚のように積み上げ、冬ごもりに集まってきた魚を捕る漁法。ヤツカ量は冬の諏訪湖で欠くことのできない漁法だったが昭和40(1964)年代に漁場が護岸工事などで失われ、行われなくなった。諏訪湖ヤツカ漁、全盛期の写真。(ヤツカは屋塚・石塚とも書く)2021-03-24
25日新社製糸場日新社製糸場日新社製糸場(林栄一)。後の山二笠原製糸場を経て日新工業(日新工業)となり、ギターの製造を行っていたが昭和 年火災により閉業現在町営御田町駐車場。奥の森は青塚その左は来迎寺。2021-04-01
26諏訪湖の漁業諏訪湖の漁業沿岸の深さ2m位の湖中へ15~20㎝の角張った石を300~400個ほど入れて丸い塚のように積み上げ冬ごもりに集まってきた魚を捕る漁法。「ヤツカ漁」は冬の諏訪湖で欠くことのできない漁法だったが昭和40(1964)年代に漁場が護岸工事などで失われ行われなくなった。諏訪湖のヤツカ漁、全盛期の写真。(ヤツカは屋塚・石塚とも書く)2020-03-06
27魁塚魁塚赤報隊幹部処刑の地、魁塚。慶応4(1868)年、江戸城後略の「官軍先鋒嚮導(きょうどう)隊」の旗を掲げて下諏訪宿入りした「官軍赤報隊」は東山道軍総督から偽官軍の烙印を押され、捕らえられた相楽総三ら幹部8人は3月3日、下諏訪宿外れの「はっつけ田」で斬首された。 魁塚正面中央の碑が相楽以下8人の墓碑、向かって左に渋谷総司贈従五位の碑、その隣が追分坂本で戦死した金原忠蔵ら4人の招魂碑。中央墓碑に向かった右が相楽総三贈正五位の碑、その右が高島藩で勤王の先駆をなした石城(いしがき)東山の招魂碑。地元の相楽会を中心に毎年4月第一日曜日に供養祭を行っている。2020-03-06
28小路の風景小路の風景路地にひっそり、旧下諏訪遊郭の建物。遊郭時代「新塚田」と呼ばれる妓楼だったという。昭和になりアパートに移築された。2020-03-06
29浪人塚の例祭浪人塚の例祭浪人塚の例祭、塚を守っている樋橋部落のご老人たち。毎年この時期には供養祭をしている。明治4(1871)年に諏訪藩が建てた墓碑には6人の名が刻まれている。幕末元治元(1864)年10月20日、京都を目ざす水戸の天狗党約800人の軍勢と和田峠の樋橋で待ち伏せた諏訪・松本藩連合軍とがぶつかった樋橋戦争の水戸側の戦死者11人を葬ってある浪人塚。2020-03-06
30坂道のある風景坂道のある風景衣紋坂を坂下から見た写真。坂の上の欅が繁っているあたりが諏訪地方唯一の前方後円墳「青塚」。そのすぐ北側を東西に通る旧中山道に沿って旧下諏訪宿が開けていた。2020-03-06
31中古車センター中古車センター新開店の中古車センター、清水モーター(株)営業所。平塚市に本社を持つ業者で、土地区画整備地の幹線道路沿線へ進出した。「東京価格」がセールスポイント。当時町内中古車販売業者は6社であった。2020-03-06
32小路の風景小路の風景路地裏にひっそりとたたずむ旧下諏訪遊郭の建物。 遊郭時代「新塚田」とよばれる妓楼だったという。昭和になりアパートに移築された。  2020-03-06
33下諏訪全景下諏訪全景中央の森が青塚、左の森が秋宮。砥川が諏訪湖に突き出たように中洲をつくっている。2020-03-06
34旧下諏訪町役場(立町青塚時代)旧下諏訪町役場(立町青塚時代)立町裏に下諏訪役場新築。明治22(1989)年4月1日に新しい下諏訪村が発足。同年5月31日字青塚(立町裏)に新庁舎開庁、以降大正14(1925)年に大社通りに庁舎が移転するまで36年間この庁舎で町政が取り行われた。第二回下諏訪区会議員当選記念に撮影したもの、尚明治7(1974)年下諏訪村が誕生して以降役場の変遷は以下の通りである。 【明治(1874))10月13日七ヶ村が合併して下諏訪村となる(事務取扱所は本陣方)・明治10(1877)年事務扱所を本陣から下諏訪学校下諏訪学校へ移す。・明治19(1886)年3月役場を学校から来迎寺へ移す。・明治22(1889)年5月31日立町に役場新築。・大正14(1925)年7月17日下諏訪町役場(八幡町)が竣工。】2021-04-04
35旧下諏訪町役場旧下諏訪町役場明治22(1989)年4月、町政公布とともに、同年5月青塚の南隣に下諏訪村役場へ、来迎寺から役場が移された。 写真は、大社通へ建築された新役場庁舎地鎮祭執行当日に、立町元役場西側で記念撮影したもの。2020-03-06
36青塚古墳青塚古墳青塚古墳。平地につくられた古墳で横穴廓をもち、諏訪地方唯一の前方後円墳。県指定文化財。石室は横穴式であるが古くに発掘されたため遺物などは不明。古墳の周囲から円筒埴輪も発見されている。古墳のくびれ部に青塚社があり、諏訪大社下社の末社となっている。2020-03-06
37旧下諏訪町役場棟上旧下諏訪町役場棟上明治7(1974)年に下諏訪村成立した。旧本陣、下諏訪学校、来迎寺と仮役場を移転し青塚東方に新役場ができた。さらに大正14(1925)年7月18日大社通りに移転した旧下諏訪町役場。博物館の写真では、大正13(1924)年11月25日検査執行となっている。落成は翌大正14(1925)年7月18日である。2020-03-06
38航空写真 秋宮周辺航空写真 秋宮周辺下社秋宮の森、今はない山王閣の建物が見える。画面左下には青塚が見えている。2020-03-06
39和田嶺合戦90年祭和田嶺合戦90年祭元治元(1864)年、総勢1000人の水戸浪士軍は尊皇攘夷の実行を迫るため中山道を上って来た。11月20日、これを迎え撃つ諏訪藩・松本藩と雨中の戦いとなった。この合戦の戦死者は諏訪藩6名、松本藩4名、浪士軍10数名であった。のちに両軍戦没者を慰霊する浪人塚が立てられた。 和田嶺合戦90年祭。昭和29(1954)年10月20日撮影。2020-03-06
40医師、歯科医の懇新年会記念写真医師、歯科医の懇新年会記念写真医師、歯科医の芸者を上げての新年会記念写真。     向かって右より 岡野先生、一の瀬先生、二木先生(歯医者)、下条先生、塚越先生、武井先生、三輪先生。 2列目 金丸先生、林先生、女性、黒河内先生。  3列目 宮下先生、小松先生、平山先生、池田先生、中根先生。2020-03-06
41相楽祭相楽祭赤報隊浪士のお祭「相楽祭」。 後方の煙突は、昭和6(1931)年開業の昭栄製糸のもの。向かって左側に元町長の高木十吉氏の顔が見える。 右に石仏があるが、現在青雲館にある。相楽祭は明治3(1870)年に有志の喜捨百余両で相楽総三らが処刑された地(相楽塚・魁塚)に慰霊の碑をたて式典をしたことがはじまりである。その後友之町有志の運営で祭りを続け一時途切れたこともあったが復活させ、現在は相楽会が主催し毎年4月の第一日曜日に開かれている。2020-03-06
42千尋池千尋池改修工事完成の記念写真。 千尋池西側道路(現在の国道142号線)の開通に伴い千尋池は改修され、石橋が設置された。 大社関係者、横町などの地元住民、工事請負業者が並んでいる。現在は秋宮の管轄になっているが、二区の有志の皆さんが「ちひろ講」を設立し年1回の清掃奉仕や御柱祭を行っている。なお「ちひろ講」は青塚の清掃も行っている。2020-03-06
地図で見る

キーワード

ログイン トップページへ