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写真タイトル説明登録日
1183系特急電車183系特急電車183系特急電車 181系の次に配置された特急電車で国鉄色最後の特急だった。 その後クリームと赤い線の入ったグレードアップ車、長野色などに変化したが2005(平成17)年の今年も千葉の車両が時々乗り入れてくる。2024-02-15
2回送列車回送列車先頭車両はC12、岡谷へ向かう回送列車、EF13は最後尾2024-02-14
3蒸気機関車最後の日蒸気機関車最後の日中央線下諏訪赤砂付近  蒸気機関車最後のころ D5129混合列車 辰野から上諏訪まで部分電化した年で、架線が張られている。 上諏訪からD51が消える1年8か月前で、この「カマ(蒸気機関車)」にはその後、函館本線で行き合っている。 40年後この場所はそのころの面影は全くない。2024-02-12
4C12 回送列車C12 回送列車先頭はC12、岡谷へ向かう回送列車、EF13は最後尾。2024-02-11
5「あさま」色の車両「あさま」色の車両1997(平成9)~1998(平成10)年 信越線から来た189系「あさま」色の車両が「あずさ」に使用された。 写真上 2005(平成17)年11月撮影 183系特急電車  181系の次に中央線に配置された特急車で国鉄色最後の特急だった。その後クリームと赤い線の入ったグレードアップ車、長野色に変化したが2005年現在も千葉の車両が時々乗り入れている。             写真下 2012(平成24)年 5月3日撮影 何かの臨時列車 エンブレムなし。 2024-02-06
6パノラマエクスプレスアルプスパノラマエクスプレスアルプス165系「パノラマアルプス」国鉄最後の年に改造された、 「団臨車(団体専用臨時列車)」用の列車で、展望車のあるジョイフルトレイン。 何回か乗ったがとても良い列車であった。(百瀬氏)2024-01-25
7テレホンカードテレホンカード国鉄(日本国有鉄道)最後の記念のテレホンカード。 このカードは昭和62年4月に国鉄分割民営化されたときに作られた。2023-12-28
8蒸気機関車C12蒸気機関車C12回送列車を牽いて中央東線「下諏訪駅」を出発する。 入れ替え用のC12が空車の8両の客車を持って走るこの列車は諏訪で最後に見られた列車。 現在この汽車は下諏訪町に保存されている。2023-11-29
9石投げ場を行くC12石投げ場を行くC12雪の日の朝、諏訪湖畔(石投げ場)を行く533回送列車。上諏訪機関区最後のSL仕業、また石投げ場は明治38(1970)年に山崩れががあった。 ※「C12型式SL」(国鉄蒸気機関車C12)は簡易線用として1932年にC10・C11型が進出できない簡易線区で使用することを目的とした小型近代タンク式、線区の建設や完成後の使用を目的とした軽量小型の機関車。 画期的な製造技術を採用し、軸重軽減・製造コスト削減、メンテナンスコスト等も低減した強力な機関車で戦後までの16年間に293両が生産された。2023-11-26
10中川旅館中川旅館下諏訪宿の最後の旅籠、現在は中川旅館として営業しています。2023-10-31
11筒がゆ神事筒がゆ神事諏訪大社下社春宮、神楽殿に向かって左に筒粥殿がある。毎年1月14日夜半から15日早朝にかけて筒粥の神事が執り行われ大釜の中に米と小豆・水、それに15センチほどに切ったアシの筒44本を入れ、中央の石の囲炉裏で一晩中炊き続ける。朝、アシの筒を取り出し、一本一本の筒に入った小豆粥の状態で、その年の農作物43種の豊凶を占い、最後の一本でその年一年間の吉凶を占う。この神の占いに誤りはないと、下社七不思議のひとつに数えられている。昔は上社でも行っていたというが現在は下社のみで行われている。2022-03-19
12甲州道中一里塚(五十三里塚)甲州道中一里塚(五十三里塚)富部にある甲州道中一里塚。江戸日本橋から五十三里、甲州道中最後の一里塚である・ここから十余町(およそ1㎞余)で下諏訪宿に至り、綿の湯前で中山道に合流する。2021-06-03
13町営プール町営プール赤砂の砥川河口横にあった旧町営プール、シーズン最後の日。現在は防災公園になっている。2020-03-06
14最後の専業漁師最後の専業漁師諏訪湖最後の専業漁師藤森さん、赤砂崎、砥川のほとりに住み、漁業一筋に生きてきた69歳(平成元年現在)、湖が自然破壊でだめになり仲間たちは漁業に見切りをつけ転職していった。「埋め立てで湧くように殖えた湖がだめになったという。漁協の稚魚放流をしているが水草帯がつぶされ水生昆虫など魚のえさも少なくなり、水揚げの70%を占めるワカサギも生育が悪い」という。漁は週3日しか許されていない。№1068参照。2021-04-01
15焼き芋屋さん焼き芋屋さん軽トラックに釜を積んだやきいも屋さんこれがシーズン最後の商いで夏は焼きもろこし屋に。2020-03-06
16第7保育園(所)入園式第7保育園(所)入園式第7保育園(所)入園式。統廃合のため今年度限りで廃園が決まった。この保育園は昭和49(1974)年開園していた。園庭には総合遊具が設置さてていた。第4・7保育園は統廃合の後一つ浜地籍(農協スタンド近く)に新しい保育園ができた。現みずべ保育園。写真は最後の入園式に焼てきた親子。2020-03-06
17昭和最後日の諏訪湖昭和最後日の諏訪湖下諏訪町東赤砂湖畔から東南方、諏訪市方面を望む(湖面の標高759m)この日の午後6時33分、昭和天皇が崩御。天候は曇りから雨に。気温-1.0℃(最低)~10.2℃(最高)暖冬の朝の諏訪湖。2020-03-06
18諏訪実業高校下諏訪分校最後の授業諏訪実業高校下諏訪分校最後の授業諏訪実業高校下諏訪分校(夜間)最後の授業。№728参照。2020-03-06
19諏訪実業高校下諏訪分校最後の授業諏訪実業高校下諏訪分校最後の授業終戦後昭和23(1948)年それまでの青年学校並びに実科高等女学校が廃され諏訪実業高校下諏訪分校が下諏訪中学校に併設された。それから約40年後、生徒が3人だけになってしまい、昭和63(1988)年度を持って閉校と決まった。この日は3月4日の卒業式を前に生徒3人が午後5時半最後の授業の席に着いた。下諏訪分校(夜間)最後の授業。2020-03-06
20消防組組頭就任記念写真消防組組頭就任記念写真下諏訪各地区に私設消防組が置かれたのは明治20(1887)年、富部の若者組有志がポンプを購入してからのことである。その後、明治27(1894)年に町内を4区に分け「下諏訪組」が設置された。戦中の「警防団」を経て戦後、昭和22(1947)年に「消防団」となり活動内容の整備も行われた。写真の時は「組頭」が消防のトップで高木十吉氏は最後の「消防組頭」。(戦中は「警防団長」戦後は「消防団長」と呼ばれるようになった。)下諏訪巡査駐在所の前にて高木組頭就任記念写真。2020-03-06
21旧中川旅館旧中川旅館下諏訪宿の昔姿として残された最後の旅籠屋中川家。出粱造りやそれを支える欅の角柱が見える。この角柱には馬の手綱をつないだという金の輪がそのままになっていたといい、現在は下諏訪博物館に保管されている。 昭和51(1976)年建物は取り壊されいる。2020-03-06
22大正年間の大門通り大正年間の大門通り大門の中ほどから下馬橋を望む、何かが通るので沿道の人が出てきていたところか?撮影者の河西氏宅は下馬本屋と呼ばれ暗箱(ガラス板)を使って写真を撮影していた。当時アマチュアカメラマンといえば下馬本屋さんといわれていた。尚下馬本屋(河西氏宅)は下の原の御洗川の水を利用して、精米水車を最後まで行っていた一軒であった。2020-03-06
23中川旅館中川旅館下諏訪宿最後の旅籠中川旅館、道に面して大きな柱(離れ柱)があり牛馬を繫ぐ鉄輪がうたれていた。(現在、柱は下諏訪博物館に保存) 「中川治朗」と書かれた看板、その左右に「まねき」とよばれる、30㎝×50cmの布旗かけられている。 御嶽講のまねきが目立つが、他の講社のものも見える。 下諏訪宿の昔の姿をとどめていた中川旅館も昭和51(1976)年3月取り壊されてしまった。「2020-03-06
24中川旅館中川旅館改築前の「中川旅館」看板には「奈可川旅館」と書かれている。御嶽講の提灯が掛けられていたり、当時の街道を歩き宿泊した講や、流行した旅など庶民文化も垣間見られる。昭和51(1976)年3月、下諏訪宿の昔姿として残された最後の旅籠屋「中川家」は取り壊された。2020-03-06
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