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写真タイトル説明登録日
1中央デパート中央デパート国道20号線大社通り交差点(四ツ角交差点)にある衣料品店「中央デパート」は長年にわたり下諏訪町民に親しまれてきたが、令和6(2024)年3月74年の歴史に幕を下ろした。写真は開店前の店先、入口の看板。 以前は手前茶色い建物は菓子店、白い建物は文房具店、人形店、中央デパートと店が並んでいた。2024-03-26
2E233列車E233列車普段はここを走ることのない列車だが諏訪湖上花火大会、新作花火大会では首都圏の列車が臨時で花火客を乗せせて茅野-松本間を走る。 背後に見える「日本電産サンキョー」の看板も2023(令和5)年3月をもって消えた。2024-02-08
3横河川横河川右側が横河川の桜並木。 「ナショナル」の看板と電車。2024-02-12
4看板と電車看板と電車「ナショナル」の松下電器の看板だけが目立つ。 田園風景の中を走る電車。桜並木は横河川。2024-02-12
5志まや志まや横町・木下の街並みには旅館の看板が立っています。2023-10-08
6東屋終治茶屋跡東屋終治茶屋跡東屋終治は木食上人の世話役をした商人。 現在は「茶屋跡」の看板があります。2023-10-29
7菅野温泉菅野温泉大社通りの入り口付近は第三区事務所の建て替えにともない菅野温泉付近もリニューアル。中の通路や看板などは以前のままの風景です。2023-02-23
8まつや呉服店まつや呉服店まつや呉服店は現在はまつや洋品店は下諏訪町矢木東に移転している。まつや呉服店があった場所は平成12(2000)年まで荒井書店が営業していた。 旗や看板等が見え、恵比寿講で多くの人々で賑わっている。2023-01-24
9下諏訪駅と駅前通り下諏訪駅と駅前通り令和2年頃の下諏訪駅と駅前通りの様子。昔の駅舎や駅前通りの様子と比べてみていただきたい。駅舎は二階建てになり、駅前の看板は簡素になって時間の隔たりを感じることが出きる。2021-06-23
10酒屋の店先酒屋の店先田中町の中村酒店の桜町の新宅「現中村□酒店」。 店の軒下にしめ飾りがあるので、の正月の記念写真と思われる。軒下や店先には「味の素」「三ツ矢サイダー」「キリンビール」「キッコーマン」「理研清酒 新進」「電話四六二番」「焼塩小売賣所 焼塩小売賣人 中村□」「塩小売賣所 塩小売賣人 中村□」…などの看板や掛札が並んでいる。2023-02-21
11吉田養蚕伝習場吉田養蚕伝習場「吉田養蠶(蚕)傳(伝)習場」の看板がある。 岡谷市史中巻には「明治18(1885)年政府が蚕糸業組合の設立を令し、諏訪郡には蚕種・生糸の検査を行うことを主として「諏訪蚕糸業組合」が結成され、養蚕技術の普及向上にも努め上諏訪に養蚕伝習所を設けた」旨のことが書かれているが、この写真の詳細は不明である。2021-12-26
12牛山製缶所牛山製缶所看板に「創業十五週年記念 牛山製罐所」とある。店の奥に丸い缶が山と積まれている様子がわかる。 明治25~26年ころ、増沢寅之助氏がカリンの缶詰工場を操業した。自宅の裏土蔵の屋根下を利用したものだった。 使用している機械、服装等から明治末頃の写真と思われる。2021-12-26
13諏訪女子学園諏訪女子学園入り口に「諏訪女子学園」の看板がある。 諏訪女子学園は、昭和42(1967)年度に西弥生町(富士見橋下)旧自動車練習場跡1.000坪を買収して新築工事に着手、体育館竣工と同時に入校し、続いて昭和43(1968)年3月に本館が落成した。 高等部(高等学校)、専門部(短大)がおかれた。学校組織は学園長阿木翁助(写真手前左端;日本放送作家協会理事長)、校長浜倫久以下職員17名、生徒は5学級234名であった。2021-12-26
14御騎馬御騎馬春宮大門前(現国道20号)にて、騎馬勢揃い。後ろに仁丹の看板が見えるこれは現中山薬局。2022-05-12
15旧中部電力旧中部電力立町の中部電力㈱下諏訪営業所を、リノベーションをし、現在は「しもすわ今昔館おいでや」(旧諏訪湖時の科学館儀象堂)になっている。工事作業中の写真。この建物の角に「諏訪電気発祥の地」の碑がたてられている。 1枚目の写真はみなと屋側から撮影。奴の看板が見える。2020-03-06
16高浜付近高浜付近新田中線沿いにあった「サンアイ」・「諏訪湖市場」の看板付近と右手前は高浜運動公園のフェンス。2020-03-06
17湯田坂湯田坂湯田坂(坂を下りきったあたり)。鉄鋼泉・古久家・志まやの看板が坂の上方向に見える。2020-03-06
18街かど博物館街かど博物館街かど博物館の看板。「街かど博物館」は平成3(1991)年4月1日から町づくりの推進、観光活性化の一環として1号館から3号館までオープンした新しいスタイルの博物館。令和2(2020)年1月現在も6箇所ある。①「駅と祭りの資料館」下諏訪駅、②「懐古もの物語」(二葉屋酒店)、③「花屋茂七」、④「古文書館・民芸館」(中村屋)、⑤「蔵」(原酒店)、⑥「風雅舎」(みなとや旅館)。2020-03-06
19湯田坂湯田坂湯田坂。道で遊ぶ子どもたち。坂の手前左に「産婆」「山田製靴店」の看板が見える。2020-03-06
20御柱祭御柱祭御柱祭。「オーシャンウイスキー」「たばこ」の看板、バスには「岡谷駅」の文字も見える。後ろ姿の男性の法被に「岡谷」の文字。服装はみな洋装、和服は少し年齢の高い女性が着ている。2020-03-06
21御柱祭御柱祭御柱祭。左端に「奈良屋・・・」と読める看板。福ダルマに仮装した長持衆。2020-03-06
22御柱祭御柱祭御柱祭の風景。民家の二階に「中村七五郎休憩所」の看板。家の前には長持ちが置いてある。ちょうちんに「今井」の文字。2020-03-06
23売り工場売り工場昔の岡谷。売り工場「売り(貸)工場、土地9.938坪・建物4.196坪、お問い合わせの方は当事務所までお出で下い」と書かれた看板。壁の向こうは、満開の桜。2020-03-06
24お舟祭りお舟祭りお舟祭。「来八月一日午後一時より執行遷座祭並例祭・官弊大社諏訪神社社務所」の立て看板が見る。2020-03-06
25小料理屋小料理屋 御田町にあった料理や「や寿た」(やすだの表記)の建物。昭和24年の町勢要覧(ほがらかお料理やすだの広告)。1970年の商工名鑑飲食店にも店の名が載っている。 場所は衣文坂ジュミー美容室隣、道路を挟んだ御田町寄りにあった。2020-03-06
26木の下町の民家木の下町の民家木の下町の民家。秋宮側から綿の湯方面を望む。右手に「新鶴本店」の看板が見える。甲州道中はここで江戸から53里11丁、辻を左折れすれば京に向かう中山道、まっすぐ進めば中山道を春宮に向かい、さらに和田峠を越えて和田宿から江戸につながる。江戸時代は下諏訪宿の中心地だった。2020-03-06
27三協精機三協精機三協体育館で行われた、精密電子メーカー「技術交流プラザ・技術成果展」会場。一番人気は「絵描きロボット」だった。 三協精機は、昭和21(1946)年当時の北澤工業に勤めていた3人により下諏訪町に三協精機製作所として創立した。かつてはオルゴールのムーブメント製造が看板事業で、一時は世界のオルゴールムーブメントシェア80%を誇った。しかし、現在は、本体としては同事業からは撤退し、子会社の日本電産サンキョーオルゴール株式会社で取り扱っている。 平成15(2003)年に業績不振から日本電産株式会社傘下入りを発表し、社名も日本電産サンキョー株式会社となった。2020-03-06
28駅前通り風景駅前通り風景駅前通り(現オルゴール通り)。秋の日差しに通りの店の看板もはっきりと見える。正面に紅葉を始めた水月園が見える。2020-03-06
29中央高速バス中央高速バス朝の中央高速バス(下諏訪バス停)。下諏訪から新宿までの所要時間は約3時間。運賃は3060円、この日8時13分発の便には女性5人が乗車。「ちょっと買い物に」という人もいた。名古屋までは3300円(約3時間20分)。12月22日からは大阪行きの運転も始まった。「メガネイガワ」「犬飼家具店」の看板も見える。2020-03-06
30ききょうやききょうや。旧宿場時代からの看板が人気の下諏訪温泉の旅館「ききょうや」。前身は旧下諏訪宿の中心、問屋場と「綿の湯」のある辻の旅籠屋で、文化2(1805)年刊の街道の案内書「木曽路名所図絵」にもその建物と看板が描かれている2020-03-06
31夜の木の下夜の木の下大社側から新鶴を見る、看板の向うは和田方面へ続く国道142号線。2020-03-06
32夏の夜の御田町夏の夜の御田町夏の夜の「御田町」交差点付近。道路左手に福田屋と右手にステップカサイの看板が見える。2020-03-06
33スケート部の陸上トレーニングスケート部の陸上トレーニング体協スケート部の陸上トレーニング。下諏訪町の保健センター駐車場を借用してのローラースケートの練習。向かいに小松工業の看板が見える。2020-03-06
34中央通りの風景中央通りの風景中央通り、手前には旧西友があった。通りには多くの看板(スナック「灯」・「丸美生肉店」・「洋服のクロサワ」など)が見える。2020-03-06
35砥川土手砥川土手オオマツヨイグサの咲く砥川の土手。富士見橋付近から諏訪湖方面を写している。2020-03-06
36砥川土手砥川土手砥川の土手富士見橋付近から諏訪湖に向かって撮影。林工業(西弥生町)の看板が見えるが、ここには弥生町にあった旧諏訪女子学園があった。2020-03-06
37世界最大のオルゴールメーカー世界最大のオルゴールメーカー世界最大のオルゴール会社・三協精機の工場風景(プリント基板製作自動機)。当時は多角化を図り、「オプトメカトロニを駆使する総合精密電子機器メーカー」を看板にしていた。 二枚目の写真は三協精機の工場のCADシステムによる回路設計風景。2021-04-01
38不二家不二家創業昭和4(1929)年老舗菓子店。店の看板「不二屋」の文字は中村不折の筆、包装紙は棟方志功の版画という優雅な和菓子店。寒気の厳しいこの地方の風土食品「氷餅」の感触を生かした「初霜」や塩釜の中に故郷の味噌の香を生かした「郷秋」などなつかしい味があった。平成の終りに閉店となってしまった不二家菓子店。2020-03-06
39夜の街夜の街平沢町の飲食店。小口ビル内の鳥将・ほおずき・なみなどの店の看板が見える。2020-03-06
40湯田坂湯田坂湯田坂、右手のオレンジの建物が旦過の湯。続いて鉄鉱泉の看板、道路北側の電柱が見える。その後環境美化がすすみ現在片側(北側)の電柱はなくなっている。2020-03-06
41高浜付近高浜付近高浜の交差点の西側。ガラス屋根は「長野県水産試験場諏訪支場アユ種苗センター」。隣の赤と緑の看板は「リファイン花岡(当時)」、手前が興和自動車販売センター㈱。2020-03-06
42みぞれで人足の途絶えた夜の街みぞれで人足の途絶えた夜の街緑町「おちか」「うな富」の看板が見える。この日、南岸低気圧によるカミ雪で、県下はすわ湖周辺がなぜかみぞれ、春の前触れのカミ風が、ひと月以上も早く訪れたのも異変だった。 二枚目の写真は、旧小松ガラスの近くの「大政」。2020-03-06
43諏訪湖の風景諏訪湖の風景ガラス屋根は「長野県水産試験場諏訪支場アユ種苗センター」隣の赤と緑の看板は「リファイン花岡」、手前が興和自動車販売センター㈱。高浜湾の風景は埋め立てなどにより大きく様変わりしているので、他の写真と比較してその変貌ぶりを見ていただきたい。2020-03-06
44東寿司東寿司今も変わらぬ店頭の東寿司看板。2020-03-06
45東餅屋東餅屋和田峠を越える古峠道(江戸時和田峠は餅屋峠とも呼ばれていた)慶応五年の記録では中山道で樋橋上のほうろくから山かげを通ると東餅屋があった。東餅屋は五軒の茶屋があった。現在、茶屋跡には一軒のドライブイン意外建物はなく石垣によって区分された屋敷跡にはカラマツが植えられている。2020-03-06
46下諏訪商業組合下諏訪商業組合大正13(1924)年の下諏訪商業組合創立記念の時の写真。下諏訪商業組合の看板が見える。大正13年商工大臣から保証責任下諏訪商業組合の許可が出て、共同購入・保管・金融を取り扱った。№715参照。2020-03-06
47伏見屋商店伏見屋商店伏見屋商店。現在は店じまいしてしまったが、矢木東の国道20号線添いで多種の雑貨を商っていた伏見屋の店先である。店員の法被に「カネジョウ伏見屋店」の文字が染め抜かれている。看板には「伏見屋商店」とともに、「畳表・かや・荒物・□□・足袋・雑貨」などと書かれている。2020-03-06
48旅籠屋(はたごや)の看板旅籠屋(はたごや)の看板はたごやの看板。当時の下諏訪宿の看板をはじめとする資料は「宿場街道資料館」に保存展示されているのでぜひ見学に出かけていただきたい。(入場無料)2020-03-06
49下諏訪宿風景下諏訪宿風景明治22(1989)年(推定)当時は、この横町・木の下・湯田町が下諏訪宿の中心街であった。写真左手前の旅籠屋が菊本(元桧物屋)で、甲州街道の終点で甲州道中と中山道合流地であった。高い火の見櫓(ヤグラ)のむこうに秋宮の森が見える。右側には桔梗屋の看板が見えている。中山道は桔梗屋前で右・立町に折れて塩尻峠に向かっている。この写真は外国人の写したもので早稲田大学図書館に所蔵されていたものを青木枝朗氏が複写したものである。 建物は宿場らしさが残っているが、軒に街灯・軒灯が見えている風景が時代の変化を思わせている。2020-03-06
50湯田坂より坂上を望む湯田坂より坂上を望む湯田坂下より坂上(秋宮方面)を望む。いくつか旅館の名前が見える。昭和40年撮影。2020-03-06
51道路拡幅中之四ツ角道路拡幅中之四ツ角下諏訪町大社通り四つ角西の友の町本通りで道路拡張工事の始まった頃。足場のあるのが改装中の中央デパート、右角は八十二銀行と信用金庫支店(信金はその後春宮大門先へ移る)不二屋の向うにパチンコ屋(タマキ)の看板も見える。 友の町本通り街路拡張工事は、昭和37(1962)年に着工、昭和41(1966)年に竣工している。2020-03-06
52友之町本通友之町本通友之町本通拡張工事のおくれた家。 花咲町入口。写真の奥のしんきん(のち春宮大門入口へ移る)の手前にガソリンスタンドの看板も見える。 友の町本通り街路拡張工事は、昭和37(1962)年に着工、昭和41(1966)年に竣工している。2020-03-06
53旧町役場建設の看板旧町役場建設の看板八幡町に下諏町役場新庁舎が決まった。写真は「大正十三年十二月建之」「「町長大和仁平」「助役小林廣志」の文字などが読める棟札である。ちなみに落成式執行は大正(1925)14年7月18日。2020-03-06
54旧中川旅館旧中川旅館旅籠屋中川家、奥にかめやホテルの看板が見える。2020-03-06
55善光寺拝参攝取看板善光寺拝参攝取看板「摂取」とは仏教用語で特に阿弥陀仏が慈悲の力によって衆生を受け入れて救うことである。明治期善光寺宿坊常住院発行の講員証などが残されている。写真の看板には「善光寺拝参攝取講 講社掛」とある。2020-03-06
56三都講看板三都講看板江戸時代後期には旅が盛んになったが、安心して泊まれる宿選びに難儀する人も多かった。大阪の商人松屋の手代源助は誰でも安心して泊まれる旅館組合「浪花組」(のちの浪花講)を結成した。加盟宿には目印の看板をかけさせるとともに、旅人には所定の鑑札を渡し、宿泊の際には提示するようにした。浪花講をまねた講が次々作られたが「宿屋組合三都講」もその一つである。三都講は天保元(1830)年大阪河内屋茂左エ門と江戸馬喰町苅屋茂右エ門によって作られた。写真は「三都講同盟結社看板」。2020-03-06
57看板「西餅屋邸小口金右衛門」看板「西餅屋邸小口金右衛門」西餅屋は江戸時代中山道下諏訪宿と和田宿の五里十八丁の峠路に設けられた「立場(たてば)」(人馬が休息する所)であった。金右衛門、日野屋六兵衛、竹屋清右衛門、小松屋嘉助の四軒があり藩堺にあったので、ときには、穀留番所が置かれた。幕末の砥沢口合戦のときは、高島藩の作戦で焼失されたが、すぐに再建された。現在は道の「曲之手(まきのて)と茶屋あとが残っている。昭和41(1966)年11月10日小口金一郎氏より2020-03-06
58下諏訪温泉の光景下諏訪温泉の光景左に「かめやホテル」右に「まるや」の看板、正面に秋宮の森が見える。 止まっている車は、昭和33(1958)年から製造・販売された「スバル360」と思われる。 昭和52年12月複写2020-03-06
59下諏訪温泉の光景下諏訪温泉の光景岡谷製糸勃興期の下諏訪温泉街の情景。明治末期街道(立町)の突き当たりは綿の湯。綿の湯はこれまで前面が外湯で一般に開放され、裏面には銭湯があったが、外湯を第二区消防屯所に改修する。綿の湯の屋根越しに見えるのは「かめやホテル」、その裏手の森は「旧本陣岩波家」の屋敷木である。綿の湯の左手前は「ききょうや」「みなとや」で、左手前には「丸屋」の各旅館があった。写真右下に「諏訪電機株式会社」と思われる看板が見える。諏訪電気株式会社は明治30(1897)年設立で現在の「おいでや」の前に記念碑が建っている。2020-03-06
60棟札棟札新庁舎建設の看板「大正十三年十二月建之 町長大和仁平」他助役、工事監督請負人、町会議員並建築委員の名前がかかれている棟札。2020-03-06
61秋宮鳥居前秋宮鳥居前秋宮鳥居前、辻屋の看板に「参拝土産、大社飴 電話四十五番」とある。当時はみな町湯へ出かけていった、綿の湯へは秋宮社や辻屋の前を通った。2020-03-06
62宿場風景(菊本旅館前)宿場風景(菊本旅館前)宿場のおもかげ。下諏訪宿菊本旅館。看板の右下に炭俵と思われる荷がおかれている。道は舗装されておらず、道幅も狭い。2020-03-06
63諏訪自動車初期のもの諏訪自動車初期のもの林嘉平氏所蔵の諏訪自動車初期の写真。建物入り口に「高濱瀧温泉」の看板がある。2020-03-06
64昭和初期の富部昭和初期の富部下諏訪町富が丘の別荘地帯で湖を見渡せる景観のよい温泉地として知られていた。富ケ丘・稲荷平・立体交差点があった(町誌上巻に詳細)2020-03-06
65桔梗屋旅館桔梗屋旅館桔梗屋旅館の看板が見える冬の風景。2020-03-06
66桔梗屋旅館桔梗屋旅館桔梗屋旅館の玄関前。入口に「桔梗屋旅館」の文字、奥に「かめや」の文字も読むことができる。453番の男性たちと同じメンバー。2020-03-06
67高浜高浜高浜。ここに温泉湧出し、旅館街があった。眺望のよさは諏訪湖周辺随一で、附近に舟遊場・釣り堀・温泉プール、水族館等があった。後ろには懐かしいボンネットバスが停まっている。 看板は「高浜釣堀」。2020-03-06
68花見新道花見新道花見新道の桜並木に「宮の上」(「宮の上」のバス停が天白の急坂の入口にある)の看板の文字が見える。現在とは違い新道北側にも桜並木が続いたり、人家がほとんどない当時の様子がよくわかる。 国道142号線が開通したのは、明治29(1896)年である。2020-03-06
69駅前通駅前通下諏訪駅前の風景。2020-03-06
70駅前通り駅前通り下諏訪駅頭に観光協会が宮大工の手により、昭和13(1938)年に諏訪神社の古い御柱で鳥居を建てる。鳥居は昭和25(1950)年に建て替えられ、その後は観光看板に変わった。左手前から菅野旅館・山十組・山八製糸の倉庫、右側は米本旅館。2020-03-06
71下諏訪遠景下諏訪遠景諏訪湖遠景。手前下に信金御田町支店、JUSCOの赤い看板や下諏訪南小学校も見える。また諏訪湖の対岸に上川の橋も見える。2020-03-06
72春宮正面春宮正面下社春宮前。立ち喰いそばの看板が見える。2020-03-06
73陸上競技場陸上競技場昭和36(1961)年完成の陸上競技場開きの看板(11月5日に式)、背後に関係者の姿が見える。2020-03-06
74丸屋呉服店丸屋呉服店御田町にあった丸屋(まるや)呉服店、現在は共益金物になっている。 「連合大売出し御田町商業会」ののぼり旗も見え当時の御田町の賑わいが感じられる。 店の右端には「名実共ニ日本一福助足袋」の丸い看板も見える。 御田町通りは明治44(1921)年に新たに開かれた通りある。2021-05-03
75佐寿中商会佐寿中商会友之町(羽田医院の国道向かい側)にあった佐寿中商会下諏訪営業所。 自転車を販売していた。正面の看板とは別に左側に「ラヂオ(ラジオ)」店内には「ナショナル」の看板も見え、電気製品も扱っていたようだ。2020-03-06
76ネオン灯完成記念写真ネオン灯完成記念写真駅前通り(現在はオルゴール通り)田村青果店前に「ネオン灯が完成したが、昭和34(1959)年の伊勢湾台風で倒壊した。「駅前通り」のネオンの下に町内の旅館の名前が揚げられている。2020-03-06
77殿村遺跡発掘調査殿村遺跡発掘調査復元住居の完成記念写真。 町理事者、町議、調査関係者。 「殿村原住民族住居跡」の看板。2020-03-06
78中央車両工業(中央工業)慰安旅行記念写真中央車両工業(中央工業)慰安旅行記念写真杖突峠の標識看板がある。トラックには中央車両工業株式会社の文字。2020-03-06
79中川旅館中川旅館下諏訪宿最後の旅籠中川旅館、道に面して大きな柱(離れ柱)があり牛馬を繫ぐ鉄輪がうたれていた。(現在、柱は下諏訪博物館に保存) 「中川治朗」と書かれた看板、その左右に「まねき」とよばれる、30㎝×50cmの布旗かけられている。 御嶽講のまねきが目立つが、他の講社のものも見える。 下諏訪宿の昔の姿をとどめていた中川旅館も昭和51(1976)年3月取り壊されてしまった。「2020-03-06
80新鶴新鶴新鶴の店先(看板が見える)左奥先には本陣. 隣は髪結い(絵つき)の看板が見える。2020-03-06
81中川旅館中川旅館改築前の「中川旅館」看板には「奈可川旅館」と書かれている。御嶽講の提灯が掛けられていたり、当時の街道を歩き宿泊した講や、流行した旅など庶民文化も垣間見られる。昭和51(1976)年3月、下諏訪宿の昔姿として残された最後の旅籠屋「中川家」は取り壊された。2020-03-06
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