キーワードで探す
並び替え:

登録リスト(該当:4件)

写真タイトル説明登録日
1㈱マルシメ㈱マルシメ株式会社マルシメ 製糸王国の名残り、絹紡糸の原料(ペニー)製造工場。製糸工場で出る手くず(くず繭)を精錬してラップからペニーにする。。大正2(1923)年創業のこの会社、戦後は縫製部門の方が主力になっているがペニー製造の灯も守っていた。2021-03-27
2萩倉のカネキ製糸場萩倉のカネキ製糸場山峡の製糸王国をしのばせる遺構、萩倉カネキ製糸所の炊事場兼工女宿舎。海抜940mの萩倉、戸数34戸の小村に、。明治12(1879)年機械製糸が導入され30年代には7工場、職工男女合わせて500人余りの製糸の町ができた。3~5層の白壁・多窓の繭倉庫が建ち並び、酒や肉の店、飲食店、銭湯から駐在所までできた。そして明治34(1901)年には町場より早く電灯がつき、明治38(1905)年には私設電話がひかれるなどシルクラッシュに湧いたが、明治38(1905)年の国鉄中央東線の開通とともに工場は町へ下り、萩倉は再び山峡の村に戻った。2022-06-12
3信濃蚕業の倉庫取り壊し信濃蚕業の倉庫取り壊しこの倉庫は大正の初めころ製糸会社の繭倉として建てられ、これを移築し蚕種会社が蚕種生産用に使ってきた。黄土色の土壁五層の堂々たる構えは、かつてのシルク王国の繁栄を忍ばせる記念碑的な建物のひとつといってよいものだった。信濃蚕業(イングスシナノ)の木造五層の蚕種倉庫取り壊し。これが地上から消えて、製糸王国はさらに遥かなものになった。2021-04-01
4萩倉のカネキ製糸場萩倉のカネキ製糸場山峡の製糸王国をしのばせる遺構、萩倉カネキ製糸所の炊事場兼工女宿舎。海抜940mの萩倉、戸数34戸の小村に、。明治12(1879)年機械製糸が導入され30年代には7工場、職工男女合わせて500人余りの製糸の町ができた。3~5層の白壁・多窓の繭倉庫が建ち並び、酒や肉の店、飲食店、銭湯から駐在所までできた。そして明治34(1901)年には町場より早く電灯がつき、明治38(1905)年には私設電話がひかれるなどシルクラッシュに湧いたが、明治38(1905)年の国鉄中央東線の開通とともに工場は町へ下り、萩倉は再び山峡の村に戻った。2021-04-21
地図で見る


ログイン トップページへ