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写真タイトル説明登録日
1承知川の石橋承知川の石橋道沿いの石垣に埋め込まれているこの大きな石は、かつて近くを流れる承知川の石橋に使われていたと伝えられている。重量およそ13tで輝石安山岩の一枚岩である。言い伝えでは武田信玄が川中島の合戦に際し、諏訪大社の千手観音に戦勝を祈願して社殿の建て替えと千手堂に三重塔の建立を約束した。合戦の帰途、信玄がこの橋を渡ろうとすると馬が動こうとしない。信玄は約束を思い出し、下馬して「神のお告げ承知つかまつり候」と申し上げたという。この伝承から承知川と呼ばれるようになったという。また石に刻まれた線刻が信玄の隠し財産の場所を示す地図になっているという話も伝わっていて、歴史ロマンを醸し出す場所になっている。2021-06-03
2明治天皇駐輦址明治天皇駐輦址明治13(1880)年、明治天皇は甲信地方の民情視察を行った。6月24日、石投げ場に車を止められ、諏訪湖の風景をめでられ、漁撈をご覧になられた。この日は小雨であったが、漁師たちは目のした3尺の大鯉を献上したという。後日「明治天皇駐輦(ちゅうれん)の記念碑」を建立した。 ちなみに、石投げ場の名前は、ここから石を投げれば諏訪湖に届くところから生まれた名称である。2021-12-26
3水月園花見風景水月園花見風景明治35(1902)年に下ノ原の俳人らにより、水月園の開園と水月会が発足した。会の運動の一環として月見堂の建設、句碑が建立された。また桜・楓などが植樹され諏訪地方随一の桜の名所となった。2020-03-06
4水月園観音堂水月園観音堂明治35(1902)年12月10日水月会が会員32名で慈雲寺を会場に発足した。この年慈雲寺裏の金比羅山を開山し龍湖の句碑を建て水月園と命名した。また桜樹、楓200本を植え芭蕉・蕪村の句碑も建立。明治40(1907)年には観音堂を建て、子規の句碑を建てた。明治42(1909)年5月には碧倍桐来諏にあたり、水月会に招待した。その後、曽良の句碑を建てたり園域を拡大しつつじの植栽をするなどして整備されてきた。明治28(1895)年には町に寄付され「水月公園」と改称されている。写真は水月園観月堂の葉書。2020-03-06
5宮坂喜十先生胸像宮坂喜十先生胸像昭和4(1929)年11月18日、宮坂喜十先生謝恩会で胸像を下諏訪小学校南校の校庭入口に建立。昭和18(1943)年3月10日、大東亜戦争で供出したが、昭和26(1951)年10月7日ブロンズに復元する。製作者武井直也。宮坂喜十先生が教職についたのは明治18(1885)年以来44年間ひとすじに教育に尽くしてきた。下諏訪の初等教育の原点を担ったお一人である。「下諏訪の史話」「諏訪大神の信仰」などの郷土史の著者でもある。2020-03-06
6芭蕉句碑芭蕉句碑明治27(1894)年4月20日、萩倉観音堂坂登口(落合橋畔) 、芭蕉の句碑が建立。「雪ちるや穂屋のすすきの刈の残し」は芭蕉200年忌に下原の山田正倫(正之丞)ら9名」が発起で建立。2020-03-06
7片倉二代銅像片倉二代銅像第2代片倉翁銅像の写真絵葉書。 昭和10(1935)年に下諏訪や川岸村などの尽力により建立が決定した。 この時は宝生橋も裏参道の堀割に架設されている。 しかし、昭和18(1943)年金属回収のため撤去されてしまった。2020-03-06
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