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登録リスト(該当:18件)

写真タイトル説明登録日
1まつや呉服店まつや呉服店まつや呉服店は現在はまつや洋品店は下諏訪町矢木東に移転している。まつや呉服店があった場所は平成12(2000)年まで荒井書店が営業していた。 旗や看板等が見え、恵比寿講で多くの人々で賑わっている。2023-01-24
2御騎馬行列の豆人形御騎馬行列の豆人形この作品は御柱祭里曳の神賑わいのパレードで披露される騎馬行列を再現した豆人形です。人形は2013年に他界した故田中とくさん(下諏訪町富士見町)の作品です。旧制高等女学校で手芸などを学び、若かりし頃の恩師の教えを受けて製作。人形は15~20cmほどの大きさ、「騎馬大将」「曲傘」「草履取り」「先ほこ」「旗持ち」「長持ち」など38体が並んでいます。2022-04-20
3記念写真記念写真旭日旗・国旗が見え、服装(軍服・国民服)などから戦争中の写真では?詳細不明。2021-12-18
4町制施行100周年事業町制施行100周年事業「八島太鼓」「南無諏訪南宮法性上下大明神」の旗。No.1444の写真と同じ場所、同じ事業の会場と思われるが、場所や内容などは不明。2020-03-06
5町制施行100周年事業町制施行100周年事業町制施行100周年記念下諏訪町植樹祭の垂れ幕と下諏訪北小学校の旗が見える。町の理事者(高木町長など)の姿も見える。下諏訪北小学校には「みどりの少年団」があり「アマゴの放流」など自然環境について学ぶ学習が行われている。2020-03-06
6出征兵士を送る出征兵士を送る出征兵士を送る下諏訪駅の風景。2020-03-06
7出征兵士を送る出征兵士を送る秋宮境内、沢山の幟旗が立つ、出征兵士を送る光景。15年戦争(満州事変・日中戦争・太平洋戦争)で戦死した町民は533名と記録がある。(町政要覧より)2020-03-06
8大喪の礼の日の飲食店大喪の礼の日の飲食店昭和天皇の大喪の礼、弔旗をかかげて料理店「うな富」この日飲食店の大半が休業したため夜の街はひっそりしていた。2020-03-06
9大喪の礼の日の飲食店大喪の礼の日の飲食店昭和天皇の大喪の礼の日の飲食店。弔旗をかかげて休業した料理店「うな富」。この日飲食店の」大半が休業したため、夜の街はひっそりしていた。2020-03-06
10表彰旗授与表彰旗授与昭和36(1961)年3月3日消防庁表彰旗が下諏訪駅に到着。駅頭にて団員及び町民に対して堀内忠夫団長が挨拶。2020-03-06
11第1分団第1分団第一分団。2020-03-06
12第一区両社詣り第一区両社詣り出征軍人の健康祈願のため区の主催で区民がたびたび諏訪大社の上下両社に歩いてお詣りした。写真は上社石段での記念撮影。 前列中央の男性が「日本第一軍神」の旗を持っている。 両社参りとは豊作を祈り六月一日に行われていた。 戦争中はこの日に限らず諏訪上下社に参拝した。 上社へは上諏訪の駅から歩いて参拝した。2022-03-15
13出征軍人を駅で送る出征軍人を駅で送る下諏訪駅で出征兵士を送る風景。日の丸の旗や出征兵士の名前を書いた幟旗がたくさん見える。終戦近くなると、にぎやかな見送りは禁止となった。2020-03-06
14丸屋呉服店丸屋呉服店御田町にあった丸屋(まるや)呉服店、現在は共益金物になっている。 「連合大売出し御田町商業会」ののぼり旗も見え当時の御田町の賑わいが感じられる。 店の右端には「名実共ニ日本一福助足袋」の丸い看板も見える。 御田町通りは明治44(1921)年に新たに開かれた通りある。2021-05-03
15出征家族写真撮影関係者出征家族写真撮影関係者軍艦旗(旭日旗)と国旗が玄関前に飾られている。 写真にはないが幟も立てたとのこと。2020-03-06
16広瀬町町少年団広瀬町町少年団広瀬町少年団の団旗完成記念写真。 昭和12(1937)年7月7日に支那事変が勃発。 この時、町内の組長や在郷軍人等の要望により結成、小学1年から高等科2年の男子全員が毎週日曜日の朝6時に新道(三国座通り)へ集合、駆け足で諏訪大社秋宮へ必勝祈願し、その後帰町して町内道路と駅庭の清掃を実施した。そろいの帽子と腕章に少年たちの真摯(しんし)な眼(まなざし)が並ぶ。2021-04-15
17広瀬町町内会ハイキング広瀬町町内会ハイキング広瀬町町内会の八島ハイキングの際の記念写真。写っている人数と手持ちの番号旗から何台かのバスに分乗していったのか.それにしても、子どもたちの多さは今では考えられない。2020-03-06
18秋宮鳥居前集合写真秋宮鳥居前集合写真徴兵検査合格者の記念写真。 旅館の名前の入った旗があることから下諏訪温泉に宿泊した県内の人たちが多数含まれていると思われる。また、学生服を着た大学生の姿も見られる。この写真では手水舎が現在と反対側にある。手水舎は昭和28(1953)年に八幡側から千尋池側に移った。向かって右に見える道は、昭和15(1940)年以前は武居に行く唯一の道であった。また、鳥居の左側の現在千尋池となっている場所に商家などの建物が見えている。鳥居前千尋館の二階から撮影された写真である。2020-03-06
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