下諏訪町立図書館のサイト

キーワードで探す
並び替え:

登録リスト(該当:49件)

管理番号写真タイトル説明登録日
2452歩行者天国歩行者天国広瀬町の歩行者天国。 大森接骨院の駐車場で行われたウナギのつかみ取り風景。2023-02-26
2373オサバグサ解体図オサバグサ解体図オサバグサ(ケシ科)筬葉草 北八ヶ岳では目にするが、他では未見。この個体は 御泉水の森で、蓼仙(りょうせん)の滝周回コースの途上。 機織の「筬(おさ)」にケシ科と思えない葉の形から名づけられた。 深山の木陰に生える多年草。葉は多数根生し、深く羽状に裂け、裂片は10~25対もあり、裂片の先は丸い。花茎は長さ20cm内外で、まばらに小さな白花をつけ、穂(総状花序)となる。花弁は4枚、雄しべ4、雌しべ1。 本州(北・中部)の亜高山帯に生え、1属1種の日本特産。2021-10-29
2224藤森稲荷社藤森稲荷社富部稲荷平にある小和田村藤森巻祝神の稲荷社で「小和田のお稲荷さま」と呼び富部村の人々に親しまれていた。 高島藩の藩主より諏訪湖の漁業とこの辺りを網干場として拝領し、藤森巻20軒ほどの守り神として稲荷社を祀った。 今は小和田の所有の畑はないが社は藤森巻で祀っている。御柱祭も旧慣にしたがい湖上を舟で曳いてくる。2021-12-23
1517製糸工場の面影製糸工場の面影「小湯の上」の明治初期の製糸工場の面影伝える廃屋。下諏訪本陣の家が明治10(1876)年創業した岩波製糸場の事務所(現存・2019年現在)だった建物。寄せ棟、洋風板壁で文明開化を表現したデザインだったに違いない。この工場、製糸業の激し変換の中で早々に閉鎖となったらしく、明治26(1893)年の下諏訪機械製糸工場一覧にはその名は見えない。板塀の中に座繰糸工場があった。 背景の樹木は下社秋宮の森、道の左手は秋宮スケートリンク。2021-04-21
1515オフシーズンの秋宮リンクオフシーズンの秋宮リンクふれあい広場、シーズンオフの秋宮スケートリンク。2020-03-06
1453高木町長高木町長下諏訪総合文化センターにて、向かって左から新村益雄助役・高木清允町長・藤森秀夫収入役。2020-03-06
1439町制施行100周年事業町制施行100周年事業町制100周年記念事業のひとつとして、いずみ湖公園と東俣町国有林で記念植樹が行われた。それぞれ「町民自らの手による緑豊かな空間の創造」「森林資源の造成と緑豊かな住みよい郷土づくり」を目的にいずみ湖公園にモミジを1300本・オオヤマザクラ200本を、東俣町有林には将来の御柱用材用としてモミの苗木1000本を植樹。写真はいずみ湖での植樹の様子。2020-03-06
1304森下製糸場森下製糸場大正15(1926)年創業の森下製糸場。昭和3(1928)年当時20釜。矢木町森下氏宅。№1291参照。2021-04-01
1300下諏訪共同施設下諏訪共同施設藤森今治氏が昭和9(1934)年に40釜で創業し、昭和16(1941)年に廃業した下諏訪共同施設。藤森今次氏は下諏訪町製糸協同施設組合長、後の諏訪信用金庫下諏訪支店長を務めた。2021-04-01
1296白鶴社三井製糸白鶴社三井製糸白鶴社三井製糸。久保山王台下現三井範義氏宅下大東社を経て信濃蚕業(現イングスシナノ)分工場となる。右奥には若宮神社の森、手前広場は既に三井製糸工場撤去の後。2020-03-06
1295日新社製糸場日新社製糸場日新社製糸場(林栄一)。後の山二笠原製糸場を経て日新工業(日新工業)となり、ギターの製造を行っていたが昭和 年火災により閉業現在町営御田町駐車場。奥の森は青塚その左は来迎寺。2021-04-01
1292昭栄製糸昭栄製糸明治42(1909)年創業の昭栄製糸(小口竹吾)。昭和3(1928)年当時743釜。大正9(1920)年第一次大戦後の恐慌、大正12(1923)年関東大震災、昭和4・5年世界的大恐慌等が製糸業へ大打撃を与える。やがて山十組は破綻、営業の継続を依頼会社整理の抵当権者(安田銀行)がバックアップ、昭和6(1931)年山十※組下諏訪製糸が昭栄製糸となった。その後、昭和32(1957)年、下諏訪町の工場誘致により跡地に三協精機(現日本電産サンキョー)が上諏訪より誘致された。 煙突と煙突の間の森は下社秋宮。2021-04-01
1270赤砂飛行場赤砂飛行場赤砂飛行場。飛行機の周りに人々が集まっている様子。昭和3(1928)年1月、諏訪飛行協会を結成。3月に格納庫ができる。4月6日藤森飛行士が赤砂に着陸、翌4(1929)年には、複葉機で郡内を飛ぶなどした。 赤砂飛行場は大正11(1922)年に造られた「臨水園」という公園に誕生し、格納庫が作られ、約300mの舗装されていない滑走路があった。飛行機は写真にあるように複葉のプロペラ機で、片山、藤森、井上、篠崎という四人のパイロットがいたという話が残っている。2020-03-06
1214飛行訓練飛行訓練飛行機の機体下にロープが見える。水上からの離発着を試みているようだ。湖での飛行訓練。 昭和3(1928)年1月、諏訪飛行協会を結成。3月に格納庫ができる。4月6日藤森飛行士が赤砂に着陸、翌4(1929)年には、複葉機で郡内を飛ぶなどした。2022-05-21
1210飛行訓練飛行訓練湖での飛行訓練。昭和3(1928)年1月、諏訪飛行協会を結成。3月に格納庫ができる。4月6日藤森飛行士が赤砂に着陸、翌4(1929)年には、複葉機で郡内を飛ぶなどした。2021-12-26
1209赤砂飛行場赤砂飛行場赤砂飛行場。昭和3(1928)年1月、諏訪飛行協会を結成。3月に格納庫ができる。4月6日藤森飛行士が赤砂に着陸、翌4(1929)年には、複葉機で郡内を飛ぶなどした。2021-12-26
1208赤砂飛行場赤砂飛行場赤砂飛行場。昭和3(1928)年1月、諏訪飛行協会を結成。3月に格納庫ができる。4月6日藤森飛行士が赤砂に着陸、翌4(1929)年には、複葉機で郡内を飛ぶなどした。2020-03-06
1117村祭り村祭り熊野神社の例大祭風景。鎮守の森に残る江戸時代の行屋(ぎょうや)の前庭で甘酒がふるまわれた。こ行屋は江戸時代の修験道で行者の修行の場所として建てられたもので熊野神社参道の西側にあった。この行屋は町指定の文化財となっている。 天気の良い日には、この行屋の前から日本の標高№1,2,3の山が見える。1番はもちろん富士山で3,776メートル、2番は南アルプス北岳3,193メートル、3番は同じく間ノ岳3190メートル(穂高岳と同じ標高)である。 №1116.1117.1118.1119は東山田の村祭り関係。2020-03-06
1095うらかめやうらかめや4階の展望風呂から秋宮の森や諏訪湖が眺められる、江戸時代からの宿「うらかめや」。2020-03-06
1069最後の専業漁師最後の専業漁師諏訪湖最後の専業漁師藤森さん、赤砂崎、砥川のほとりに住み、漁業一筋に生きてきた69歳(平成元年現在)、湖が自然破壊でだめになり仲間たちは漁業に見切りをつけ転職していった。「埋め立てで湧くように殖えた湖がだめになったという。漁協の稚魚放流をしているが水草帯がつぶされ水生昆虫など魚のえさも少なくなり、水揚げの70%を占めるワカサギも生育が悪い」という。漁は週3日しか許されていない。№1068参照。2021-04-01
1068ワカサギの選別作業ワカサギの選別作業ワカサギの選別作業。専業漁師の藤森氏は朝3時半に出漁し6時まで投網を打ち続けて、水揚げ量は7㎏、これでも豊漁。奥さんの手を借り大急ぎで選別し、岡谷市下浜の市場へ出荷する。№1069参照。2021-04-01
987レンゲツツジの花レンゲツツジの花霧のはう奥霧ケ峰の草原に朱の色を散らすレンゲツツジの花。霧ケ峰は昭和30年代頃まで麓の農村の採草地だったため大草原が保たれてきたのだが、野焼きや、草刈が行われなくなって、最近は森林化が進み始めている。2020-03-06
978伊藤時計店伊藤時計店駅前通りの小さな時計店。店主(当時は73歳)は太平洋戦争中、兵役で病を得て諏訪赤十字病院で療養生活を送ったさい、森山汀川の指導を受けたアララギ派の歌人。昨年歌集を出版した。伊東時計店の店内と伊東憬氏。2020-03-06
969大社四つ角風景大社四つ角風景国道20号線が直角に曲がる所に和田峠を越えてきた国道142号線ぶつかる大社通り四つ角の風景。正面突きあたりが諏訪大社秋宮の森。手前の国道20号線は旧中山道で塩尻峠へ向かい、右折すれば上諏訪方面となる。四つ角風景。2020-03-06
706下諏訪宿風景下諏訪宿風景明治22(1989)年(推定)当時は、この横町・木の下・湯田町が下諏訪宿の中心街であった。写真左手前の旅籠屋が菊本(元桧物屋)で、甲州街道の終点で甲州道中と中山道合流地であった。高い火の見櫓(ヤグラ)のむこうに秋宮の森が見える。右側には桔梗屋の看板が見えている。中山道は桔梗屋前で右・立町に折れて塩尻峠に向かっている。この写真は外国人の写したもので早稲田大学図書館に所蔵されていたものを青木枝朗氏が複写したものである。 建物は宿場らしさが残っているが、軒に街灯・軒灯が見えている風景が時代の変化を思わせている。2020-03-06
636陸軍航空隊航空写真陸軍航空隊航空写真大正6(1917)年2月16日、陸軍航空隊のモーリス・ファルマン機上から撮影した下諏訪町の中心部。中央の建物が下諏訪学校、その上の森が諏訪大社秋宮、その左斜面前方に続く町並みが中山道で塩尻方面に向かっている。2020-03-06
614下諏訪全景下諏訪全景中央の森が青塚、左の森が秋宮。砥川が諏訪湖に突き出たように中洲をつくっている。2020-03-06
607ガソリンポンプ車新調ガソリンポンプ車新調下の原で寄付金で購入したガソリンポンプ。大正7(1918)年10月27年、下諏訪町消防組で秋季演習のさい、森田式ガソリンポンプ(25馬力)新調の披露式を挙げる。諏訪地方最初のガソリンポンプであった。御田劇場の向かい合いに、ポンプ置き場を新築する。写真で見る下諏訪の百年には「組頭の伊藤玉蔵が中央に見えることから大正9(1920)年3月から11(1923)年5月の間のものであろう」と書かれている。 写真の裏書には大正15年12月15日と記録されている。2020-03-06
598水月園より諏訪湖を望む水月園より諏訪湖を望む萩倉合名会社を中心に水月園より下諏訪町を望む。萩倉合名会社(現小口克郎氏宅上)萩倉の製糸創業は明治11(1888)年篠藤・小河原氏等が機械製糸を繰業し中山道による物流(鉄道未施工),豊富な森林資源、用水の便などにより発展した。しかし明治30年代の石炭の利用、明治35(1902)年の篠ノ井線の開通、明治38(1906)年中央東線が岡谷駅まで開通、森林資源の枯渇等により立地条件が逆転し明治38(1905)年春宮下へ移転し萩倉での製糸は終止符を打った。2020-03-06
589本陣庭園本陣庭園中山道随一の名園と称される本陣の庭園。現在の庭園は江戸時代中期に整えられたものというが、各地の名石を集め自然の地形を利用し、秋宮の森や周囲の山を借景にして、承知側から引水した水を利用した本格的築庭式石庭園と紹介されている。特に京風の建物からの眺めは春のつつじ、新緑、初夏のあやめ、さつきの紅葉、雪景色など四季折々に楽しめる。 もともとこの庭園は、本陣六代目岩波太郎左衛門が、伊豆韮山の江川太郎左衛門のもとに遊び、帰りてつくりしもので、御小休所も同時に建てられたと伝えられている。 №587参照。2020-03-06
582下諏訪温泉の光景下諏訪温泉の光景左に「かめやホテル」右に「まるや」の看板、正面に秋宮の森が見える。 止まっている車は、昭和33(1958)年から製造・販売された「スバル360」と思われる。 昭和52年12月複写2020-03-06
581下諏訪温泉の光景下諏訪温泉の光景岡谷製糸勃興期の下諏訪温泉街の情景。明治末期街道(立町)の突き当たりは綿の湯。綿の湯はこれまで前面が外湯で一般に開放され、裏面には銭湯があったが、外湯を第二区消防屯所に改修する。綿の湯の屋根越しに見えるのは「かめやホテル」、その裏手の森は「旧本陣岩波家」の屋敷木である。綿の湯の左手前は「ききょうや」「みなとや」で、左手前には「丸屋」の各旅館があった。写真右下に「諏訪電機株式会社」と思われる看板が見える。諏訪電気株式会社は明治30(1897)年設立で現在の「おいでや」の前に記念碑が建っている。2020-03-06
579秋宮鳥居前の松葉屋(後の千尋館)秋宮鳥居前の松葉屋(後の千尋館)写真下には「松葉屋料理店 官幣中社諏訪大社下社鳥居前」と書かれている。諏訪大社は大正5(1916)年12月12日、官幣大社に昇格している。秋宮鳥居右奥には合名会社三井組製糸の第四工場。(明治9(1876)年から大正10(1921)年頃)(現社務所)手前は松葉屋料理店(後の千尋館)。その手前は旧柳沢家(現若松氏経営の土産品店)三井家は嘉永2(1849)年座繰機器を入れて土蔵前に庇を出して「座繰製糸」を始めた。後に明治9(1876)年「山王台」下にて本格操業、明治13(1880)年には三井仁平衛・増沢市郎兵衛・岩本甚蔵・岩波甚吉・小口森蔵等共同座繰場「白鶴社」を平沢町(現青雲館北)に立ち上げた。2020-03-06
568陸軍航空隊航空写真陸軍航空隊航空写真陸軍航空隊よりモーリス・ファルマン式二機寒中の山地飛行並びに水上試験飛行として来諏の際に写す。下諏訪学校や国道20号線がよくわかる。2020-03-06
566昭和7年航空写真昭和7年航空写真中央の白い屋根が青年図書館。その向うの黒い建物が霞城館2020-03-06
565明治9年下諏訪集落図絵明治9年下諏訪集落図絵明治9(1876)年の下諏訪集落図絵。明治9年7月15日に筑摩県に提出した「下諏訪村誌」挿入の下諏訪村の全景。この当時は三角八町といって、下諏訪村の主な往環は、湯の町通り・友之町・春宮大門通りと甲州道中で、その他は耕地。右下の橋は、旧中山道の大橋で、現在の富士見橋はこの数十メートル上流の明治23(1890)年施工した新道20号線にかかっている。左手前の森は春宮で鳥居前の立木が大門通りのさわら並木。2020-03-06
560陸軍航空隊航空写真陸軍航空隊航空写真大正6(1917)年2月16日、陸軍航空隊モーリス・ファルマン機上から撮影した下諏訪町の中心部。寒中の山岳飛行並びに氷上試験飛行のため来諏の際の撮影。中央の建物は当時の下諏訪学校(友の町字神殿)で現在の下諏訪中学校の前身。周辺には秋宮の森・製糸工場・中央東線・国道20号線などが見える。2020-03-06
539承知川扇状地と下諏訪旧市街地承知川扇状地と下諏訪旧市街地右が武居の棚田、中央の森が秋宮でその左手前は旧下諏訪宿場(湯之町)左下へ続く街道が旧加宿と友之町。 写真は複葉機、陸軍航空隊一般航空写真。2020-03-06
494赤砂飛行場赤砂飛行場昭和3(1928)年1月下諏訪町や製糸関係者等の協力で諏訪飛行協会を結成。翌年3月には格納庫ができ、4月には藤森飛行士が赤砂に着陸して同4(1929)年には郡内を飛ぶ。写真は赤砂飛行場の複葉機を使用し、和田嶺自動車㈱と富ヶ丘・高浜温泉が共同で飯田・甲府方面へ宣伝ビラまきに出発する直前。左から2人目が藤森飛行士、その右が下諏訪町に初めて自動車を持ち込んだ浜義雄氏。2020-03-06
450スケートスケート秋宮の裏手には一面桑畑が広がっている。氷上には椅子のようなものにつかまって滑る人の姿が見える。2020-03-06
442スケートスケート№4400の男性たち、秋宮の森をバックに記念撮影、パイプをくわえている男性もいる。2020-03-06
428下馬橋下馬橋下馬橋と春宮。№427の写真を見て景色の変化を比較してほしい。2020-03-06
404花見新道花見新道花見新道、左手に龍の口へ下る階段がある。右手前は慈雲寺への参道がある。正面には春宮の森が見える。2020-03-06
396大門通り大門通り春宮周辺。正面奥に春宮の森、下馬橋が見える。2020-03-06
391下諏訪遠景下諏訪遠景諏訪湖遠景。写真手前の左側の建物は片倉製糸、右側が入一製糸、左端の樹木は秋宮の森、その隣が現下諏訪中学校。2020-03-06
287航空写真 秋宮周辺航空写真 秋宮周辺下社秋宮の森、今はない山王閣の建物が見える。画面左下には青塚が見えている。2020-03-06
179小田野段丘と砥川新扇状地小田野段丘と砥川新扇状地 機上から(諏訪市勝山為如氏)撮影した諏訪大社下社春宮下馬橋(太鼓橋)。 右が春宮の森、さわら並木は昭和9年の室戸台風でほとんどが倒れ今は見られない。左上が小田野段丘で昭和37年社が丘住宅団地ができた。その下が東山田の集落。参道両側の民家は平石屋根やかやぶき屋根が多い。2020-03-06
90女子フィギュアスケート選手女子フィギュアスケート選手秋宮リンクに勢ぞろいしたフィギュアスケート選手団。 向かって右から2番目が当時トップ選手の稲田悦子選手。秋宮の脇にスケートリンクが設けられたのは明治40(1907)年(明治42年の資料もある)神社の森かげという地の利もあって結氷期間が長いため人気を集めた。 ここで日本初のフィギュア大会が行われたのが大正」11(1922)年である。2020-03-06
69裏参道開通記念裏参道開通記念昭和15(1940)年12月29日不況対策事業で裏参道開削がほぼ完成し通行できるようになった。 さらに同18(1943)年8月10日、字三王・久保・臺の公園敷地が川岸村長より寄附があり、同19(1944)年7月秋宮裏参道が竣工した。その際の記念写真、町長初め町理事者、地域関係者が写る。現在の「ヤマモト」の横付近で撮影、坂の中ほどに現下諏訪中学校、奥に諏訪大社下社秋宮の森が見える。2020-03-06
地図で見る

キーワード

ログイン トップページへ