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登録リスト(該当:15件)

管理番号写真タイトル説明登録日
1974木落し木落し御柱祭山出しの木落坂風景。 氏子の着ている法被がみな紺色のため昭和43年以前の御柱祭り。 昭和43年から紺の印反てん(法被)が現在の下諏訪町の色染め法被(はんてん)になる。2021-05-03
1673元綱元綱山出し祭の綱上げ風景、綱を運ぶ氏子たち。 法被の襟に下諏訪町の文字が見える。2023-04-06
1633木落し木落し御柱祭、山出しの木落坂の木落しの風景。2021-12-18
1577お舟祭りお舟祭り夏の遷座祭風景。 そろいの法被姿やシャツ姿の氏子の姿が見える。 街並みは木の電柱、木造の住宅などが多く見えます。2021-12-18
1575柴舟柴舟夏の遷座祭。柴舟の上の「媼(おうな)の人形」。 釣竿を持った翁(おきな)との1対を相向かいに柴舟に乗せる。これら人形については諸説あり、神の拠り代であるとの説がある。富部地区を中心とした「人形の会」によって毎年製作される。柴舟に幔幕が張られていないことから、製作中と思われる。製作は春宮境内で行われるが、部材には大型のセットと小型のセットがあり、その年の御頭郷によりいずれを使用するか決定される。現在は諏訪地方を10の地区にわけて御頭郷を輪番でまわしているが、中世には信濃の国全土の氏子の務めであった。2021-12-18
1571お舟祭りお舟祭り夏の遷座祭、春宮の鳥居前、柴舟が春宮を出発し秋宮に向かうところ。 柴舟の周りの氏子衆は揃いのはっぴ姿。 また、警察官の制服からも時代がうかがえる。2022-05-21
1569お舟祭りお舟祭り遷座祭の柴舟が春宮の鳥居を出て秋宮に向かう様子。柴舟に下原・大社の神紋がついたちょうちんが飾られている。氏子の服装が現在の揃った姿とはだいぶ違う。2021-11-03
1476遷座の列遷座の列鉾(ほこ)を持って遷座の列を作る白丁奉仕の皆さん。2月1日と8月1日の年2回の奉仕。鉾の列の後ろに奏楽の列が続く。諏訪大社春宮を出発した直後の様子。2021-04-15
1475遷座祭遷座祭遷座の列を先導する白丁奉仕の氏子の皆さん。その後ろに赤く塗られた鳥居が飾られた御正台(みしょうだい)がつづく。御正台は大御正台と小御正台があります。さらにその後ろに錦をかけられた御霊代(みたましろ)を遷した神輿が続きます。2020-03-06
1264御柱祭御柱祭御柱祭、山出しの様子。2020-03-06
1263御柱祭御柱祭御柱祭、山出しの様子。2020-03-06
1262御柱祭御柱祭御柱祭、山出しの様子。2020-03-06
1221お舟祭りお舟祭りお舟祭。春宮下馬橋より少し下がったあたりを曳いている。(写真)左上に下馬橋の屋根が見える。曳き綱の先の細い綱が氏子の人々の間から見える。当時の人々の服装がよくわかる。2020-03-06
776諏訪大社宮司諏訪大社宮司執務中の加藤宮司。諏訪大社宮司の加藤茂さん(当時82歳)は神社本庁から迎えられた宮司は「上下社の融合に一番気を使います。でもこの土地では御諏訪様は絶対で政党も新興宗教も超越して協力してくれます。これだけはよその土地とは違います。それだけに御諏訪様は怖い神様です。」と話していた。諏訪大社は上社(諏訪市・茅野市)下社(下諏訪町)に分かれているうえ、上・下両社とも二つのお社から成るというややこしさがあり、古くは上・下両社が血の抗争を繰り広げたこともあって、維新後、一つの神社となったが、氏子間の対抗意識が潜在していてかじ取りは難しいらしい。2020-03-06
735犬射馬場、上馬場の標石。犬射馬場、上馬場の標石。諏訪大社の神官は上代末から中世までは武士であった。そのため練武の場を設けて武技を練り、神事にも取り入れられていた。犬射馬場は神殿の西続きにあり、現在も上馬場(かみばっぱ)の名を残している。享保18(1733)年検地をし、四隅に標石(武居入りから出土している「六方石」が使われている)が立てられた。東西約152m南北約73m周囲約450m。(下諏訪町の文化財には455m、下諏訪町の歴史には488mなどの記述も見える) 「下諏訪町の文化財」には、東北隅の標石は「享保十八癸巳年三月改、明和六己巳八月廿五日御宮奉行氏子方立会改候所、享保年中検地之節(境)目石書付。当社馬場依是南江。依是西江。」 北西隅の標石は「享保十八癸巳年三月改、従是東江八十三間二尺。当社之馬場従是南江四拾間二尺。」 東南隅の標石は「当社之馬場従是北江三2020-03-06
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