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登録リスト(該当:33件)

管理番号写真タイトル説明登録日
2313フジウツギフジウツギこれもめったにお目にかかれないが、猛毒。落葉低木で、1~1.5m。水月奥で。2021-10-10
1900お花見お花見水月園のお花見風景、仮装行列が出ている。年月等不明。2020-08-02
1859水月公園さくらまつり水月公園さくらまつり戦後、「水月公園さくらまつり」で行われていた「広告コンクール」の一風景。2022-03-13
1755秋葉山の展望台秋葉山の展望台秋葉山に設けられた展望台。水月会で戦後の昭和21(1946)年1月から水月園の復興に着手、28(1953)年4月秋葉山一帯を公園化することを条件に下諏訪町に寄付。町では秋葉山に展望台を設け自動車道を開きつつじ・かえで・桜を植えた。2021-12-26
1143第一配水池第一配水池町上水道第一配水池。2020-03-06
1131駅前通り風景駅前通り風景駅前通り(現オルゴール通り)。秋の日差しに通りの店の看板もはっきりと見える。正面に紅葉を始めた水月園が見える。2020-03-06
1120上水道配水池上水道配水池町上水道配水池の内部(写真上)・集水井(写真下)の点検作業の様子。2020-03-06
1073観月句会観月句会中秋の名月、下の原区の水月会(明治35年発足)の観月句会。春は観桜句会を催している。いずれも句会の後一献傾けて楽しむ。句会は親睦の場でもある。d会場は明新館。2020-03-06
1009萩倉林道開通式萩倉林道開通式萩倉林道開通式。延長3970m、足掛け8年かけて完成した。総事業費3億1100万、円道幅は平均4m下諏訪町水月公園上と萩倉を結ぶ新設林道。写真は萩倉から峠に入る林道の入り口に建てられた記念碑の前。2020-03-06
946水月園花見風景水月園花見風景明治35(1902)年に下ノ原の俳人らにより、水月園の開園と水月会が発足した。会の運動の一環として月見堂の建設、句碑が建立された。また桜・楓などが植樹され諏訪地方随一の桜の名所となった。2020-03-06
722水月園の花見水月園の花見お花見、女性や子どもたちの服装が当時をしのばせる。中には三味線をもった男性も見える。ごちそうは重箱に詰められている。昭和5(1930)年撮影。2020-03-06
710秋葉山秋葉山配水池から見た秋葉山。2020-03-06
699蕉鹿庵前の酒宴蕉鹿庵前の酒宴写真は大正15(1926)年10月31日撮影、水月会が蕉鹿庵の前で観楓会を開いた時のもの。写真裏に右から中村春吉、中村尚(其梅)、吉沢兼之助(晩雪)河西庄三郎、中村卯一郎(如佛)、中村橲一、中村茂重(柳月)、浜平三郎(木章)、林巻平(渓月)中村牧五郎(梅屋)と名前が記録されている。 大正4(1915)年天龍道人壱百年忌記念事業にあたって慈雲寺庭前に天龍道人の詩碑を建て、遺墨展を開いた。この時、水月園の正岡子規碑左手にの観月堂のある平の一角に蕉鹿庵を茶室として建設した。8坪ほどの茶室風の建物で、句会やお花見などに利用されたが、昭和25(1950)年の台風により倒壊し除去された。 ちなみに焦鹿というのは天龍道人が愛用した「焦鹿」という言葉に由来している。。2020-03-06
680和田義盛の刀石和田義盛の刀石明治37(1904)年古峠(旧中山道)の石小屋下にあった和田義盛の刀石が、水月会員の出払で慈雲寺中庭に移された。この石は砥川石(安山岩)の側面に刀を突き通したという穴が三つあいている、(樹形と推定される)鉱物学的に貴重なもの。和田義盛は鎌倉時代初め(1147-1213)の人。侍所別当だったが北条氏と対立し挙兵したが、一族とともに滅ぼされた。2020-03-06
679水月園観音堂水月園観音堂明治35(1902)年12月10日水月会が会員32名で慈雲寺を会場に発足した。この年慈雲寺裏の金比羅山を開山し龍湖の句碑を建て水月園と命名した。また桜樹、楓200本を植え芭蕉・蕪村の句碑も建立。明治40(1907)年には観音堂を建て、子規の句碑を建てた。明治42(1909)年5月には碧倍桐来諏にあたり、水月会に招待した。その後、曽良の句碑を建てたり園域を拡大しつつじの植栽をするなどして整備されてきた。明治28(1895)年には町に寄付され「水月公園」と改称されている。写真は水月園観月堂の葉書。2020-03-06
677水月園水月園昭和41(1966)年撮影の水月園入口の階段付近。2020-03-06
670水月園の花見風景水月園の花見風景昭和4(1929)年撮影の水月園の観音堂の平での花見風景。当時の服装がよくわかる。特に着物や髷姿の婦人が目立つ。2020-03-06
665河東碧梧桐を囲んで句会河東碧梧桐を囲んで句会写真の下のメモに子規派、紫竹、木工外、水翁(浜孝吉)、玉羽英、李塘、鶴水、鵞水城の名が書かれている。明治42(1909)年5月河東碧梧桐の来諏にあたり、5月1日水月園(慈雲寺)で句会を開いている。写真はこの時のものか?なお碧梧桐は昭和2(1927)年ふたたび来諏している。紫竹は関一郎(M3・高木生)、木外は岩本木外(M5・高木生)、水翁は浜孝吉(慶応元年・小口村生)、玉羽英は中村幸義・・・いずれも俳句を愛した人々である。李塘は岩本長衛(下の原)、鵞水城は林重義(友之町)。2020-03-06
664水月園水月園水月園観音堂。2020-03-06
598水月園より諏訪湖を望む水月園より諏訪湖を望む萩倉合名会社を中心に水月園より下諏訪町を望む。萩倉合名会社(現小口克郎氏宅上)萩倉の製糸創業は明治11(1888)年篠藤・小河原氏等が機械製糸を繰業し中山道による物流(鉄道未施工),豊富な森林資源、用水の便などにより発展した。しかし明治30年代の石炭の利用、明治35(1902)年の篠ノ井線の開通、明治38(1906)年中央東線が岡谷駅まで開通、森林資源の枯渇等により立地条件が逆転し明治38(1905)年春宮下へ移転し萩倉での製糸は終止符を打った。2020-03-06
553大和仁平胸像大和仁平胸像水月園下にある大和仁平氏の胸像。大和仁平は12・13代町長(大正12~昭和6年在任)で新庁舎建設、水道施設などに尽力した。特に「おいしい」と折り紙つきの下諏訪の水道水を様々な困難を乗りこえ、反対を押し切って厳然と遂行した英断には特筆すべきものがある。 胸像の制作者は高木出身の大和作内氏である。2020-03-06
378慈雲寺庭園慈雲寺庭園慈雲寺の庭園は「中村勝五郎日記」によると天保8(1837)年に築庭されたものという。その後、何度か改修、拡張がされ現在の姿となっている。水月公園山稜を借景とし、園池を中心とした多数の庭石が組まれ閑静な景観をみせている。町内に残る見事な庭園のひとつといってよい。庭園改修記念の写真。2020-03-06
325第一配水池第一配水池第一配水池。下諏訪町の上水道は大和仁平町長の先見のある英断により昭和2(1927)年着工、同3(1928)年完工した。当時の町の予算の3年分の大事業だった。最大貯水量は3030立方メートル。2020-03-06
324第一配水池第一配水池町営水道布設工事は総工事費38万円で昭和2(1927)年4月16日着工、昭和3(1928)年12月25日完工。水源地を東俣国有林の川路、大鹿の自然湧水に求め集水井を経て自然流下により水月園の配水池(下の原字天白)に送水されている。写真は第一配水池。2020-03-06
322第一配水池第一配水池第一配水池。下諏訪町の上水道は大和仁平町長の先見のある英断により昭和2(1927)年着工、同3(1928)年完工した。当時の町の予算の3年分の大事業だった。最大貯水量は3030立方メートル。2020-03-06
321第一配水池第一配水池第一配水池。下諏訪町の上水道は大和仁平町長の先見のある英断により昭和2(1927)年着工、同3(1928)年完工した。当時の町の予算の3年分の大事業だった。最大貯水量は3030立方メートル。2020-03-06
290航空写真 水月霊園航空写真 水月霊園上空から見た水月園付近。紫雲閣、浄水場も見える2020-03-06
239夜のお花見夜のお花見大正3(1914)年水月会の主唱によって水月園と花見新道に初めて電灯をつけた。写真は夜のお花見、三味線を持った芸者さんもいる。2020-03-06
238水月園お花見水月園お花見観月堂前。三味線を弾く芸者さんを大勢の人が取り囲んでいる。お花見の人出は相当だったと思われる。2020-03-06
237水月園お花見水月園お花見水月園は「水月会」により開発され、明治35(1902)年に命名。明治40(1907)年旧月見堂が落成。その後昭和28(1953)年に町に移管され、昭和56(1981)年現在の観月堂が作られる(月見堂は写真の左になる)2020-03-06
236水月園お花見水月園お花見河西政常氏撮影 昭和初期のお花見の雑踏。後ろに観月堂が見える。2020-03-06
207御柱搬出御柱搬出棚木場へ集結した御柱。 5月2日に伐採された8本の御柱搬出は、入札により水月会(1区)有志が請け負い、カグラサン(シャチともいう)を使い5月12日から70日かけて完了した。その時の記念写真。2020-03-06
206御柱搬出御柱搬出棚木場へ集結した8本の御柱は、請け負った水月会で棚木場に積み重ね、この日関係町長立会いのもと、引渡しが行われた。この頃はこの後屋根を架け翌年の山出しを待った。2020-03-06
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