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タイトル順
登録日順
登録リスト(該当:9件)
≪
1
≫
管理番号
写真
タイトル
説明
登録日
1776
東明館・地鎮祭
中村勝五郎文書に「明治三十三年十二月二十六日湯田町集会所建る」とある。この集会所(東明館)は明治40(1907)年の来迎寺の火事の後間もなく焼失したので、大正4(1915)年に現在地(新町上)に再建された。 1772から1777までは東明館建て替え工事の一連の写真。この写真はこの大正4年に建てられた建物の建て替え工事のための地鎮祭の様子。なおこの工事がいつ行われたかは調査中。
2022-01-12
1774
東明館の解体作業
中村勝五郎文書に「明治三十三年十二月二十六日湯田町集会所建る」とある。この集会所(東明館)は明治40(1907)年の来迎寺の火事の後間もなく焼失したので、大正4(1915)年に現在地(新町上)に再建された。写真はこの時建設された建物を建て替える際の解体工事写真と思われる。解体前の東明館は1772から1777参照。 なお、この工事がいつ行われたかはまだ未確認。調査中。
2022-01-12
1772
東明館集会所
中村勝五郎文書に「明治三十三年十二月二十六日湯田町集会所建る」とある。この集会所(東明館)は明治40(1907)年の来迎寺の火事の後間もなく焼失したので、大正4(1915)年に現在地(新町上)に再建された。 なお、下諏訪町誌民俗編(417p)には明治32年に湯田町・新町に東明館が建てられたと書かれているので中村勝五郎の文書と一年違っている。 東明館建て替え工事の一連の写真。なおこの工事がいつ行われたかは調査中。
2020-07-23
1047
祢宜太夫邸焼失
明け方、借家人の失火から住居部分を全焼した。この家には武田晴信(信玄)安堵状など「祢宜太夫家文書」が伝えられていたが文書類は焼失。焼け残った祢宜太夫屋敷の土蔵。こちらは焼失後の写真。
2020-03-06
923
土蔵
桃井屋敷と消失前の土蔵。8月21日に焼失。「すわ湖の町の平成元年」80pには焼失した写真が掲載されている。 №1047参照。
2020-03-06
850
小路の奥にも製糸の名残
右手は昭和34・35年頃まで操業していた「ヤマカ河西製糸所」の再繰部の建物。三協精機の創業者が、昭和23(1948)年の暮れ、この工場の一部を借り受け、旋盤機などをすえつけて旗揚げを図ったが、操業開始の前夜工場を焼失、やむなく諏訪市へ工場を移して創業したというエピソードがある。
2021-04-13
792
河西製糸所
小路の奥に製糸の名残り。昭和34(1959)・35年ころまで操業していた「ヤマカ社河西製糸所」の建物。三協精機の創業者が、昭和23(1958)年の暮れ、この工場の一部を借り受け、旋盤機などをすえつけて旗揚げを図ったが、操業開始の前夜工場を焼失、やむなく諏訪市へ工場を移して創業したというエピソードがあると「諏訪湖の町の平成元年」に紹介されている。
2021-04-04
737
禰宜太夫屋敷
諏訪大社下社五官のひとつ禰宜太夫家。当主が東京へ去り借家人が住んでいたが平成元(1989)年8月21日焼失した。
2020-03-06
583
看板「西餅屋邸小口金右衛門」
西餅屋は江戸時代中山道下諏訪宿と和田宿の五里十八丁の峠路に設けられた「立場(たてば)」(人馬が休息する所)であった。金右衛門、日野屋六兵衛、竹屋清右衛門、小松屋嘉助の四軒があり藩堺にあったので、ときには、穀留番所が置かれた。幕末の砥沢口合戦のときは、高島藩の作戦で焼失されたが、すぐに再建された。現在は道の「曲之手(まきのて)と茶屋あとが残っている。昭和41(1966)年11月10日小口金一郎氏より
2020-03-06
≪
1
≫
東明館(3)
湯田町(3)
集会所(3)
小路(2)
土蔵(2)
新町(2)
看板(1)
西餅屋(1)
茶屋(1)
高島藩(1)
下諏訪宿(1)
諏訪大社(1)
五官(1)
禰宜太夫(1)
下社(1)
再繰部(1)
河西製糸所(1)
町工場(1)
祢宜太夫(1)
秋宮(1)
祢宜太夫家文書(1)
焼失(1)
武田晴信(1)
祢宜太夫屋敷(1)
新町上(1)
地鎮祭(1)
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