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登録リスト(該当:6件)

管理番号写真タイトル説明登録日
2437徳本上人名号塔(髙木薬師堂跡)徳本上人名号塔(髙木薬師堂跡)下諏訪町に4カ所ある名号塔の一つ。 「諏訪藩一村限村地図」にも記されている諏訪百番の西25番札所。明治6(1873)年に念仏堂は、高木学校になりその後下諏訪学校に合併。現在は取り壊されている。 薬師堂にあった石造物(庚申塔・三十三夜供養塔・地蔵尊)は道路わきに移し並べられている。2022-03-19
1124浪人塚の例祭浪人塚の例祭浪人塚の例祭、塚を守っている樋橋部落のご老人たち。毎年この時期には供養祭をしている。明治4(1871)年に諏訪藩が建てた墓碑には6人の名が刻まれている。幕末元治元(1864)年10月20日、京都を目ざす水戸の天狗党約800人の軍勢と和田峠の樋橋で待ち伏せた諏訪・松本藩連合軍とがぶつかった樋橋戦争の水戸側の戦死者11人を葬ってある浪人塚。2020-03-06
1104鷹匠の家 岡村家鷹匠の家 岡村家岡村家住宅。鷹匠の家、諏訪では珍しい曲がり屋づくりである。数年前に、茅葺から瓦屋根に変えたが、他は江戸時代のつくりを守っている。鎌倉時代、一時期、幕府が諏訪神社以外の鷹狩りを禁じた。そんな伝統を継ぐ諏訪藩のお鷹匠の家である。画人天竜道人はこの家の離れに住んで、鷹の四季の姿を写生したと伝えられている。2021-04-15
558万治の石仏 下の原念仏講万治の石仏 下の原念仏講浮島横の万治(まんじ)の石仏。この写真は大正15(1926)年に河西政常氏により撮影されたもの。地元の人々は「あみだ様」「みたらしの石仏」と呼んで信心を続けてきた。下の原念仏講では長く万治石仏前で念仏の行事を行ってきた。 伝説では高島藩三代藩主忠晴候が春宮に石の鳥居を寄進しようとしたとき、石工がノミを入れると石から血が出たと伝えられ、のち石に阿弥陀如来と刻んで供養したという話も伝えられる。 石仏の側面に「万治三年」の年号や、「願主明誉浄光・心誉廣春」と刻まれていること、万治3(1660)年から70年後の諏訪藩主手元絵図には石仏ではなく「えぼし岩」と書かれていることなどから、木喰行者弾誓(たんせい)一派の信者が残したものではないかとする見方もある。 石仏としては首と胴がちぐはぐであったり、胸に袈裟と2020-03-06
503鷹匠の家 岡村家鷹匠の家 岡村家鷹匠の家 岡村家。諏訪藩の鷹匠であり、天竜道人も出入りしたという、富部字本郷の士族岡村家(曲屋まがりや)。左が客室、右は居間。2020-03-06
242和田嶺合戦90年祭和田嶺合戦90年祭元治元(1864)年、総勢1000人の水戸浪士軍は尊皇攘夷の実行を迫るため中山道を上って来た。11月20日、これを迎え撃つ諏訪藩・松本藩と雨中の戦いとなった。この合戦の戦死者は諏訪藩6名、松本藩4名、浪士軍10数名であった。のちに両軍戦没者を慰霊する浪人塚が立てられた。 和田嶺合戦90年祭。昭和29(1954)年10月20日撮影。2020-03-06
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