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管理番号写真タイトル説明登録日
1541旦過の湯旦過の湯湯田坂の風景、オレンジ色の建物は「旦過の湯」。鎌倉時代、慈雲寺を訪ねる修行の僧のために建てられた旦過寮のお湯のことを指すことから名がついた。その由来の為か新しく建て直された旦過の湯の壁のこて絵は修行僧の姿が画かれている。 湯が熱いのが売りになっていて、湯口は52度もあるという。下諏訪3湯(綿の湯、児湯、旦過湯)の中で最も高温で、傷、吹き出物に効能があると言われている。 写真2枚目、少し上に見える寺の屋根は来迎寺。2021-04-24
1537鎌倉街道鎌倉街道小湯の上に残る鎌倉街道。現在「鎌倉街道」(鎌倉道)は諏訪市大和から高木集落の下を通り富部・武居・下の原・慈雲寺裏を経て砥川を渡り、東山田など、町周辺の山付きの村の標高の高いところを通り、ところどころに道筋を残している。2020-03-06
1268郵便局郵便局下諏訪郵便局は、明治5(1872)年岩波家(本陣)に郵便取扱所が置かれ、明治25(1892)年には友之町上(旧下諏訪警察分署の右手前)の増沢市郎兵衛氏宅へ、明治39(1906)年には立町(旧派出所左前)へ移り、その後大正5(1916)年に大社通りに移転、昭和25(1950)年には広瀬町の下諏訪駅前に、そして現在は栄町に移転した。 友之町今昔の地図を見ると、奈良屋小路(鎌倉街道)奈良屋の隣に郵便局があったことがわかる。2020-03-06
1104鷹匠の家 岡村家鷹匠の家 岡村家岡村家住宅。鷹匠の家、諏訪では珍しい曲がり屋づくりである。数年前に、茅葺から瓦屋根に変えたが、他は江戸時代のつくりを守っている。鎌倉時代、一時期、幕府が諏訪神社以外の鷹狩りを禁じた。そんな伝統を継ぐ諏訪藩のお鷹匠の家である。画人天竜道人はこの家の離れに住んで、鷹の四季の姿を写生したと伝えられている。2021-04-15
1085旧御射山旧御射山奥霧ケ峰、八島ヶ原湿原近くにある旧御射山社、鎌倉時代には高原で御射山神事のニエを得るための御狩が行われ、社前で小笠懸け、草鹿とよぶ弓術の技が競われた。祭りに参加した武士たちが、穂屋を建てて籠もった土壇が三方の丘に残っている。平成元年現在の旧(もと)御射山の土壇の様子。2020-03-06
1044奉射会の矢渡し奉射会の矢渡し8月26日からの御射山社祭を前に町弓道場で行われた御射山奉射会の矢渡し。63歳の弓士(5段)が小笠原流の礼法を見せた。御射山社祭は諏訪大社の最も大事な祭りの一つ。鎌倉時代には奥霧ケ峰で行われたこの祭りに集まってきた諸国の武家が、祭りの余興に小笠懸、草鹿(くさじし)などの弓術を演じ、優れた射手にはすすきの穂を添えた征矢が与えられたという故実から、この奉射会がはじめられた。奉納会はこの年67回目を数えた。2020-03-06
852大鳥居のある街角大鳥居のある街角春宮大門大鳥居と参道。正面は諏訪大社春宮の870mに及ぶ参道。鎌倉時代には流鏑馬が行われていたらしい。かつては見事なさわら並木で、昼なお暗い道だったという。鳥居の後方左の大きな建物は製糸時代の繭倉で平成元年は倉庫会社の倉庫になっていた。 現在は西友下諏訪店になっている。2020-03-06
736犬射馬場、上馬場の標石。犬射馬場、上馬場の標石。鎌倉時代、武士は日頃の鍛錬に騎射の武技を重視し、それが遊戯化したり神事化したりしたものが多い。この場所は犬追物などをした所で、このことは「諏訪大明神絵詞」にも記されている。江戸時代に入りこの行事が廃れると、周囲から境界を侵され、神社では享保18(1733)年に検地をして一般人の侵入を防いだ。その後も土地の使用のことで何回か争いがあって明治維新後のころ民間に移ったという。なお、下馬場の町名もあったというが、現在は上馬場(かみばっぱ)のみが残っている。2020-03-06
680和田義盛の刀石和田義盛の刀石明治37(1904)年古峠(旧中山道)の石小屋下にあった和田義盛の刀石が、水月会員の出払で慈雲寺中庭に移された。この石は砥川石(安山岩)の側面に刀を突き通したという穴が三つあいている、(樹形と推定される)鉱物学的に貴重なもの。和田義盛は鎌倉時代初め(1147-1213)の人。侍所別当だったが北条氏と対立し挙兵したが、一族とともに滅ぼされた。2020-03-06
595鎌倉街道(若宮下)鎌倉街道(若宮下)若宮墓地下の鎌倉街道。鎌倉街道は小田野から慈雲寺・来迎寺を経由して富部若宮下を通り高木へ抜けている。比較的原形を止めている小田野も社が丘団地の開墾でなくなり、富部若宮下のこれが町内唯一の鎌倉街道になった。2020-03-06
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