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125大相撲荒汐部屋夏合宿大相撲荒汐部屋夏合宿大相撲荒汐部屋の下諏訪町での合宿が、コロナ禍を経て4年ぶりに下諏訪南小学校校庭で復活した。荒汐部屋後援会長夫人の藤井明日香さんが下諏訪町出身だった縁で、平成30年(2018年)と平成31年(2019年)に合宿が行われ、翌年には諏訪湖後援会が発足していた。当時は所属力士の蒼国来関(現荒汐親方)と町内の小学校児童との交流が行われた。今回の合宿には関脇の若元春ら力士13人をはじめ、新大関の霧島関も出稽古で訪れた。朝稽古は連日100~200人以上の相撲ファンでにぎわい、多い日には400人に達した日もあった。2023-07-20
90春宮大門南の大灯篭春宮大門南の大灯篭高遠系の石工(横川村の山田金右ヱ門の子、平蔵)の作と刻まれている。文政12(1829)年に作られ、6mの高さがある。当時、灯籠に火が入ると諏訪湖からも見え、人々はこの灯火を目印にしたと伝えられている。2022-03-24
70社中学校社中学校昭和57年(1982年)4月に下諏訪中学校から分かれて開校した下諏訪社中学校。眼下に諏訪湖を望み、遥かに南アルプスと霊峰富士を望める望湖台に建つ。 「絆」を建学の精神とし、学校教育目標「強く、賢く、頼もしく」(平成23年度改定) を掲げている。2022-03-19
54東山田行屋東山田行屋東山田の熊野神社参道の西側にあり、信仰を同じくする人が集まる修験の場であった。この項では、駒ケ岳、御岳、富士山、浅間山、大山など霊山が信仰されている。行屋の東に滝があって水垢離ができるようになっている。しばらく途絶えていた荒神様のお守りが復活し、正月には講の詩損に配られるようになった。 また行屋の前からは諏訪湖の眺望がすばらしく、さらに目をやると富士山、北岳、間ノ岳の日本の山・標高ベスト3を一度に眺めることができる。2022-03-19
26下諏訪港下諏訪港利用が減少した下諏訪港。平成元年の諏訪湖開きの時の下諏訪港の華やかさ(№943)と比較してほしい。近年はワカサギ釣りの穴場として釣り人に人気の場所でもあったが、令和に入ってからは立ち入り禁止になっている。2021-06-23
22諏訪湖公魚発祥の地碑諏訪湖公魚発祥の地碑諏訪藩時代の諏訪湖の漁業は一部の者に限られていたが、明治維新後広く開放され、製糸業の発展に伴い人口が増加し、漁業資源の減少が問題になった。そこで漁業組合は大正4(1915)年から霞ケ浦の公魚を移入し諏訪湖に放流、さらに昭和6(1931)年には人工採卵にも取り組み、全国に出荷するまでになった。写真は承知川河口近くに建てられた記念碑である。近くには「長野県水産試験場」もある。近年はアオコの発生や鳥類の食害、水質の変化など様々な環境の変化の為か、公魚の遡上が激減し、公魚の採卵が大きな曲がり角に立たされている。「ワカサギ」「ワカサギ漁」などで検索し、漁の様子を見ていただきたい。2021-06-23
13石投場・石碑石投場・石碑明治13(1880)年、明治天皇は甲信地方の民情視察を行った。6月24日、石投げ場に車を止められ、諏訪湖の風景をめでられ、漁撈をご覧になられた。この日は小雨であったが、漁師たちは目のした3尺の大鯉を献上したと伝えられている。「石投げ場」の名前は、名前の通り石を投げれば諏訪湖に届くくらいだったところからつけられた名称である。この「明治天皇駐輦(ちゅうれん)の碑」と並んで「南信八名所石投場」の碑も建てられている。2021-06-10
12橋本政屋橋本政屋甲州道中の下諏訪宿と上諏訪宿の間の茶屋として栄えた。表は千本格子で、二階は出梁作りとなっている。諏訪湖を一望でき江戸時代の面影が残る建物。こて絵の力蔵(りきぐら)、高島城より拝領のおひねりの松・石燈など見どころも多い。2021-06-10
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